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四谷怪談 第二章


 心地よく流れる風を浴び、熱に浮かれた若者が机の上で曲芸をする、そんな夏の日。

 普段なら騒がしい教室にうんざりとする八神も、今日ばかりは心が広かった。何と言っても終業式なのだ。夏休みが始まるのだ。「夏休み」――なんと甘美な響きだろうか。日常生活のしがらみから開放されるひと夏の思い出。海、潮風、クーラーの効いた図書館、夏祭り、スイカ、トマト丸かじり、線香花火……学生が浮き足立つのも仕方がない。
 中には夏期講習を受けなければならず、うなだれている生徒もいる。夏期講習には、成績の悪かったものの受ける補講と、難関大を目指すものの受ける特別講座があるが、どちらも八神には無縁だった。そこそこ成績がよいので、三社面談で特別講座を進められたが、夏休みを潰してまで講座を受けて勉強するなどと、八神にはできようはずもなかった。
 先生が教室に入ってくると、さすがに席に戻り始める。
「さて、みんな早く帰りたいだろうから、できるだけ短くまとめるからね。真面目に聞かないと話が長くなるから、静かにするように」
 城戸がそういうと、たちまちのうちに教室は静まり返った。城戸は軽くうなずくと、プリントを配り始める。夏休みの注意事項など、生徒の半分が読み飛ばすお決まりの内容だ。八神は律儀に項目の一つ一つを見ていった。何となく、配られた文書は目を通さなければ落ち着かない。
「――ではよい夏休みを」
 教室内は、再びざわめきに包まれた。教室を出る寸前、城戸先生が目配せしてきた。八神もアイコンタクトを返す。この後、映画研究部の部室に来てもらう予定なのだ。
 脚本の評判は上々だった。時間の許す限りできるだけのサポートをすると約束してくれた。無論、優先順位としては美術部のほうが高いのだが、顧問なのだから仕方がない。八神としても、自分の部活よりもほかの部活を優先する教師なんて尊敬できない。
 部室には、まだ誰も来ていなかった。うちのクラスは先生の話が短かったのだろう。
 カーテンを開ける。夏の日差しが部屋を黄色くした。椅子に腰掛けると、大きく伸びをする。特別教室棟は冷房が完備されていて快適だ。
 十分ほど過ぎたころ、烏丸が姿を現した。
「こんにちは部長。今日からさっそく撮影ですよ」
 姿勢を正す八神に、仏頂面を向ける。挨拶も返さずに、一列前の席に革の鞄を下ろした。
「今回の映画、ホラーだったな」
「ええ、そうですけど」
 口元に手を当てて目線を外す。弱気になったときの烏丸の癖だ。
「被ったな」
「は?」
「今度、演劇部がやる舞台もホラー系らしい」
 八神は胃がねじれ切れそうな感覚に陥る。
 ――演劇部が、同じジャンルの舞台を。
「しかも、引退した三年も混じっての公演だ。市民会館を借りてやるとか」
 追い討ちをかけるかのように付け足す烏丸。八神の胃は完璧にちぎれて酸が腹に穴を開けた。心にもぽっかりと穴を開けた。
 白鷺高校演劇部……毎年中国大会に上がり、国体での優勝経験もある。部員の八割は女で、舞台上では可憐な役から精悍な役まであますところなくカバーする。残る二割の男が色を添える。
 輝かしい歴史を誇る演劇部の中でも、三枝朱里は異色を放った。
 演劇部のオードリーと密かに呼ばれ、卓越した演技力を誇る女性だ。八神も、去年の文化祭でその姿を見たことがある。その時は終始顔を隠した役だったので、残念ながら素顔にお目にかかったことはない。知るのは絶世の美女という噂だけだ。
 今年、最終学年を迎えて舞台を降りたはずだが、また公演をやるとは……。
 そんな恐ろしい部活と被ってしまっては、とてもではないが勝てる気がしない。来年の新入生歓迎レクリエーションで映画を放映しても、きっとパクリだと在校生に騒がれるだろう。それでなくとも、優劣を比べられるに決まっている。
「しかし、いまさら内容を変更するわけにも……」
「演劇部が何だって言うんです!」
 机の横に湧いたおかっぱの少年に、八神と烏丸は椅子から転げ落ちた。
「く、黒木、どこから現れた!」
「普通に扉を開けて入ってきましたよ。お二人が気づかなかっただけでしょう」
 八神の叫びに、当然のごとく答える。どこまでも油断も隙もないやつだ。さすが、手の込んだ方法で自殺未遂に見せかけた殺人事件を起こした犯人を捏造するという微妙な復讐劇を考えただけのことはある。
 黒木は机に手を付いた。
「僕たちは僕たちです。だいたい、演劇と映画はまったく違うものなんだから、同列で考えることがおかしいんですよ。他者のことなんて考えずに、自分たちの限界を尽くしてこそクリエイターってもんでしょう」
 黒木には珍しく、青春っぽいことを言っている。そして、この男が熱く語ると、なぜだか妙な説得力がある。やる前からあきらめていた自分が馬鹿らしくなってきた。
「そうだな、俺たちは教師が味方についているんだ」
「普通はどんな部活にも顧問として教師が付いているんだがな」
 何でこの人は場を白けさせるようなことばかり言うのだろう。烏丸部長を心持ち睨む。
 これからの予定について確認をしているうちに、城戸と夏樹が連れ立って現れた。「いやあ、待たせたね」と笑う城戸。美術室の掃除をしていたらしい。
「休みに入るし、ガラクタの整頓とか大変でさ」
 肩をすくめながら夏樹が言った。普通の部活は、長期休暇に入る前に部室の掃除をするらしい。映画研究部は、烏丸部長の潔癖症のために毎週綺麗に整理整頓ゴミの分別をしているので、大掃除とは無縁だ。……どちらのほうが楽なのかわからない。
「そうそう、八神くん、ほら」
 城戸は、ポケットから古びた鍵を出して、八神に手渡した。錆さえ窺えるそれを見て、口元がつり上がる。
「どこの鍵だ?」
 烏丸が覗き込みながら言った。八神の代わりに、城戸が答える。
「開かずの間だよ」
 烏丸の顔がこわばった。目を見開いて、何か言いたげに口を開けるが、声は出ない。黒木は爛々と眼鏡を輝かせた。
「開かずの間って、七不思議の一つのですよね。あそこ、鍵なんてあるんですか?」
 白鷺高校には、現在は使われていない校舎がある。かつて、少子化が進む前に、本校舎に入りきらない生徒用の教室を増設した、二階建ての小ぶりの校舎だ。そこの二階の突き当たりは、真平らの壁で塗り固められている。だが、外から見ると不可解なことに、壁しかないはずの場所に窓があるのだ。カーテンは閉め切られ、中の様子はわからない。しかし、確実に窓はある。それは間違いない。噂の類ではなく、現実にそこにあるのだから。
 つまり、何らかの理由で教室が封鎖され、それにとどまらず、壁で綺麗に塗り固められてしまったのだ。
 旧校舎が使われなくなったのは、八年ほど前で、現在は立ち入り禁止だ。すべての扉と窓に鍵がかけられ、中に入ることはできないし、入ったらすぐにばれてしまう。よって、入り口が壁になっているという噂は、八年前の生徒から脈々と受け継がれているのだ。
 八神が一年生の時分、窓を破り侵入した猛者がいたが、たしかに突き当たりに教室はなく、不自然にコンクリで固められているということだった。その生徒は後に停学処分を受ける。以来、旧校舎侵入をもくろむ者は出ていない。
「先生が学生のころはまだあの校舎も使われていてね。上級生で開かずの間に忍び込もうとしたやんちゃな生徒がいたんだ」
「城戸先生もうちの学校の生徒だったんですね」
 黒木が席に着きながら言う。夏樹も八神を挟んで座り、本格的に拝聴体勢に入った。
 城戸は身をかがめると、ぐるりと一同の顔を舐めるように見た。
「開かずの間はあの通り、塗り固められていて簡単には入れない。でも、実は一つだけ方法があった。あの校舎、各部屋の天井板が外せるようになっていたんだ。男子便所の天井板を外して女子便所に移動したりとか、よくいたずらでやっていたらしい。天井裏で各部屋がすべてつながっていたというわけさ。掃除のためだとか、何か理由はあったんだろうけど」
「つまり、天井裏のルートを使えば、開かずの間にも移動できた、と」
 独り言のように、烏丸がつぶやく。城戸はうなずいた。
「先生は本校舎の教室だったから、詳しくは知らないんだけど。そのチャレンジャーは、放課後、開かずの間に一番近い教室に仲間と集まった。で、一人で天井裏に入っていった。残った仲間が報告を待っていると、二分もしないうちに彼は戻ってきたんだ。仲間たちはせがんだ。開かずの間は出入りできたのか? 中はどうなっていたのか? 彼は答えた。ちゃんと中は覗いてきたと」
「それで、中は、どうなっていたんですか?」
 黒木が、大きく前に乗り出した。静寂という名の拡声器が音を増幅させる。
 角眼鏡の光が城戸の目を隠す。少しの間のあと、
「ごく普通の教室だったって」
 ガクッと、机から手を滑らせる黒木。烏丸も姿勢を崩し、部室内に蔓延していた緊張感が解けた。まあ、八神と夏樹は事前に聞かされた話であるのだが。
「ここまで勿体付けておいてそれはないでしょう」
「ごめん、ごめん。でもね、この話にはまだ続きがあるんだよ」
 城戸は、眉間に当たるフレームを指で持ち上げる。意味深な言葉と合わさって、怪しげな科学者か何かに見える。
「チャレンジャーと仲間たちは、翌日には開かずの間の真相を吹聴して回った。そりゃもう得意げな様子だったよ。違う学年の僕たちにまで言いふらしに来たんだから。それから一週間くらい後かな、あれが起きたのは」
「……あれって?」
 そう言ったのは烏丸だった。
「自殺したんだよ。侵入した生徒。開かずの間でさ」
 一度は弛緩した緊張の糸が、再び張り詰められる。今にも切れてはじけ飛んでしまいそうな、危うい均衡を保ちながら。ヴヴ……とエアコンが低いうなりをあげる。黒板の上で秒針が刻々と時を刻む。意識が遠のくくらいに広い空の下で、映画研究部の部室のみがセピア色の世界に漂流していた。
「原因は不明。この辺は尾ひれだと思うけど、頚動脈を彫刻刀で突き破って、教室中をどす黒い血に染めて死んでいたとかいないとか。顔は笑っていたって。……その後、天井板は取り外せないようにされて、いよいよ開かずの間には入れなくなったというわけさ。だから、教室が血染めになっていたかどうかは、誰も知らない」
「……冷房、消しましょうか」
 あまりにも青白くなっている烏丸と黒木を見かねて、八神が立ち上がる。無理もない。八神もこの話を聞いた当初は、背中を流れる汗が一気に凍り付いてしまったのだから。
 夏樹は愉悦の笑みを浮かべて、平生を保とうと必死の烏丸を眺めていた。……本当に、好き嫌いのハッキリした人だ。せっかくの神秘的な緋色の目と金髪も、今はただ不気味な魔女の構成要素でしかない。
 エアコンのスイッチを切って、席に戻る。しばらくは重たい沈黙が続いた。
「ククク」
 城戸が突如笑い出した。徐々にその声はエスカレートしていき、しまいには転げまわらん限りになっていた。
「信じるなよ。ただの嘘だから」
 フィルムのコマ落としのように、みなの動きが止まる。
 黒木が眉をつり上げた。
「いい加減にしてくださいよ、もう!」
「いや、でも、上級生が部屋を覗いたところまでは本当なんだよ。自殺は嘘だけど」
 噛みつかんばかりの狂犬と化した黒木に、後ずさりしながら答える。
 まったく、と、ぶつくされながら、黒木は身を引いた。
「しかし、この嘘話、使えるとは思いませんか?」
 すっと立ち上がる。皆の視線が八神に集まった。おもむろに鞄からタオルに包んだペットボトルを取り出す。タオルをはがし取ると、その異様な姿に八神以外の全員が息を呑んだ。
 ボトルの中は、毒々しいほどに鮮やかな紅色に染まっていた。ねっとりとした赤い液体で満たされているのだ。誰が見ても、トマトジュースには見えない。まるで搾りたての血液だ。
 そんなものを持ってにやつく八神は凶悪犯罪者だった。
「食紅とガムシロップで作った血糊です。いい出来でしょう」
 作り方は簡単。容器にたっぷりと入れたシロップに、食紅を混ぜるだけ。値段も材料も手ごろな優れものだ。自室でこっそりと作業しているのを、兄に見られたときはさすがに焦ったが。あの時の兄のビビリ顔を、八神は忘れない。弟が部屋に篭って真っ赤なよくわからない液体をかき混ぜていたら、さぞかし衝撃的だろう。兄は傲慢な男だったので、八神はほんの少し気分がよかった。
「先生の話どおりなら、旧校舎にさえ入ることができたら、天井板を外して開かずの間へと侵入できる。そこにこの血糊をぶちまけて、カメラを回す。かなり良い画が撮れると思うのですが、どうでしょう?」
 部員の顔を一人ひとり見ながら、熱を込めて話す。
 当初の予定では、「開かずの間」の撮影は、別の空き教室を使う予定だった。それが、城戸先生の証言を受けて、実際の場所で撮影をすることに決めた。そのほうが、よりリアルだし、異様な雰囲気も伝わるだろう。使われていない教室なので、多少汚しても問題にはならない。だから先ほどの創作話も加筆して、部屋をべっとりと血で染めてしまおうというわけだ。
「……お前、映画のことになると意外なほど過激なことを考えるよな」
 烏丸が、呆れとも戸惑いとも取れる目つきで八神を見る。
 八神はいつになく不敵な笑みを浮かべた。「計画通り」とほくそ笑む、違うヤガミさんにそっくりな顔になった。
「俺は映画のクオリティを上げるためならば悪魔に魂も売りますよ。幼少時代に見たマタンゴに心底恐怖して以来、いくら姉兄に馬鹿にされようと映画への情熱が途絶えたことはありませんでした」
「でも、大丈夫なんですかね? 旧校舎は立ち入り禁止じゃありませんでした?」
「そこは僕が話をつけてあるから」
 黒木の懸念に城戸が答えた。
 やはり、教師が味方にいるのといないのとでは大違いである。これだけでも城戸先生の協力を得られた価値があるというものだ。

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