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四谷怪談 第三章


 現在、使われている二つの校舎からそう遠くない場所に、旧校舎はある。しかし、樹木により塀が作られていて、何となく近寄りづらい雰囲気だ。
 映画の内容は部外秘にしたいので、旧校舎に入るところを他の生徒や教師に見られないよう注意する。終業式の日ということもあってか、さすがに生徒の影は少なかった。熱心な部活は残っているが、わざわざ使われていない校舎に目を払うものは見当たらない。
 五人は、垣根を過ぎて、校舎の入り口に向かう。
 白鷺高校は、明治時代に起源のある歴史深い学校だ。設立当初から残る二つの校舎は、木造でもコンクリートでもなく、漆喰で覆われて実に赴き深い。階段の手すりは木彫りで飾りや模様が付いている。天井もかなり高い。
 それと比べると、「旧」の付く目前の校舎のほうがむしろ新しく見える。まあ、実際に建築されたのが後ではあるのだが。少なくとも、学生が一度は憧れる「木造旧校舎」と言うやつではなかった。戦後に立てられたこともあり、立派な鉄筋コンクリート建てである。怪談物を撮る側としては、少し残念なところではある。また、階数もなく、幅も狭いため、校舎というよりは図書館や会館のようだ。
「入りますよ」
 一同に確認を取る。夏空の下、つばを飲み込む音が大きく聞こえる。鍵を回すと、何の抵抗もなく、錠の外れる気配がした。重たい扉を、引っ張る。ゆっくりと、八年の時差が埋められていく。
 まず感じたのは、強い熱気だった。暑い季節、換気もされずに密封されていた空間は蒸し風呂と化していた。ほかのメンバーも暑い暑いと顔をゆがませる。このまま入り口でうろうろしていても仕方がない。八神は先陣を切りファイアウォールの中に飛び込んだ。
 中は思ったほど荒れておらず、生徒たちに使われていたころのままだった。唯一にして決定的に違うことは、人の気配がまったくしない、音という音がまったくない、――つまり、生活感が一切ないという点か。
 下駄箱には、入れっぱなしになった上靴がいくらか残されていた。傘も何本かそのままだ。八神たちは、土足で上がらせてもらうことにした。
「先輩、もうカメラを回しておいたらどうです? 開かずの間までカットなしの長回しにしたら、本当に旧校舎で撮影した証明になるでしょう。それだけでも話題になりますよ」
「そうだな」
 八神は鞄からビデオカメラを取り出した。液晶画面を通して板張りの長い廊下が見える。歩くと、床が甲高い悲鳴を上げる。さすがに手振れするが、それがまたホラーの臨場感を出している……はずだ。
 階段をゆっくりと踏みしめていく。踊り場の窓から差し込む光が幻想的だった。
「怖い、というより神秘的ね」
 夢見心地の顔で、夏樹がつぶやく。
 二階に出る。廊下側を見る。下と同じ、長い廊下が続いていた。突き当りには……扉がある。そして、顔を反対側に向ける。その瞬間、奇妙な感覚が全身を駆け抜けた。テレビの電源を切ったときを思わせる、微量の変化。
 目の前には、たしかに壁があった。八神はカメラ越しに凝視する。白塗りの、普通と言えば普通の壁。しかし、床や、左右の壁との継ぎ目は明らかに不自然だった。壁も床も、途中でぷつりと切れている。新しい壁は何もかもを飲み込んでしまう、妖怪ヌリカベを髣髴とさせた。
「懐かしいなあ、ここだよ、ここ」
 城戸が笑いながら壁を撫でた。彼にとっては、この不気味な壁とその向こう側のものも、青春の一部なのだろう。
「たしかにこの壁は不自然ですね」
「なんか気持ち悪い……」
 黒木と夏樹が次々に言う。烏丸も口元を手で隠しながら黙って壁を見上げている。
「こっちの教室から、天井裏に出よう」
 階段横にある小ぶりの教室を指差す。城戸の指示に従い、中に入った。
 座る者のいない机が十ほど並んでいる。列が乱れていたり、机の向きが斜めになっていたりと、学生生活の跡が残っていた。蛍光灯が割れているのを見て、とっくに風化してしまった空間だと改めて感じる。黒板には、大きく「今までありがとう」と書かれている。閉鎖される学び舎への労いだろうか。後ろの壁には木製ロッカーがずらりと並んでいる。入り口側には掃除道具入れがあり、雑巾が扉に挟まっている。
 バッテリーがもったいないので、いったんカメラを切ることにする。天井へ、直に視線を走らせる。碁盤の目のように、正方形をはめ込んだ仕様だった。根拠はないが、これなら正方形の一つが外れても納得してしまいそうだ。
 城戸先生は、後ろに並ぶロッカーに手をかける。立派なガタイに似合わず、軽々と登ってしまう。木を組んで作った頑丈な代物なので、大人が乗っても壊れそうな様子はない。
 彼の背では、ロッカー上で背筋を伸ばすことはできない様子だった。中腰になりながら、一つ一つ碁盤の切れ目を確かめる。
「この列のどこかなんだけど――おっ」
 物を動かす、くぐもった音が響く。城戸先生の両腕が天井に飲み込まれる。とうとう隠し通路を発見したのだ。すっと城戸が背筋を正すと、肩まで見えなくなってしまった。天井と足場との間は一五〇センチほどか。上がるのが困難なほどの高さではない。これなら、威勢の良い男子学生なら揚々と通路を利用できただろう。お手軽に非日常を味わえて、さぞ楽しかったに違いない。
 城戸は一度顔を出し、にやりと笑うと、天井裏に消えていった。
 白い天井の一画に、ぽっかりと浮かぶ黒い穴。八神は胸が高鳴るのを感じた。学生生活十年以上、一度も問題行動を起こしたことのない模範的生徒。イジメの対象にすらならないほどに影の薄かった八神にとって、今の状況はスリルと快感に満ち溢れていた。同級生が誰一人足を踏み入れたことのない開かずの間。そこへ突入するという優越感がじわじわとにじみ出てくる。……いけない、自分がすごく嫌なやつになっている。
「じゃあ順番に上がろう」
 八神はカメラを鞄にしまい、ロッカーに乗る。振り返ると夏樹たちが雁首をそろえて見上げている。俯瞰で見る教室は、新鮮な感じがした。
 秘密の出入り口に手をかける。と、その時に気づいた。想像していた以上に高さがある。目測は誤っていなかったが、一五〇センチの高さを登るのは思うよりきつい。八神は割と運動ができるので、苦がないが、他の三人はどうだろうか。足場の幅も狭いし、もしかしたら転げ落ちるかもしれない。
「どうした」
 ロッカーから降りた八神を見て、烏丸がいぶかしむ。
「俺は最後でいいです。みんなが無事上がるのを見届けてから行きますから」
「じゃあ、お先に行こうかな」
 夏樹がロッカーに足をかける。城戸と違い、よじ登るのに手間取っている。やはり女子には少し厳しいらしい。それとも、城戸先生がすごいのだろうか。
「あ、これちょっときついかも」
 暗い闇に頭を沈めながら、夏樹が言った。天井裏に声が反響する。たしかに、足を引っ掛けるには高すぎるので、腕の力だけで体を持ち上げなければならない。文化部で、運動能力は平均レベルの彼女が登れなくても不思議ではなかった。
 一瞬、手を貸そうかと思った。が、丈の短いスカートで地団太を踏む夏樹を見ながら、やっぱりやめよう、と思い直す。下から持ち上げたら普通にセクハラだ。
「先生、助けてー」
 両手を上に向けてひらひらと振る。城戸の手がにゅっと垂れ下がる。それらが夏樹の両腕をしっかりとつかみ、引っ張りあげた。天井から生えた手が女の子を異空間に引きずりこんでいるようで、非常に怖い。カメラを回しておけばよかった、と少し後悔する。
 思考をめぐらせているうちに、夏樹の姿が見えなくなった。
 おもむろに動いた黒木は、椅子を抱えてロッカー前に来る。踏み台を利用し要領よくロッカー上に登ってしまう。そしてまた、垂れ下がる手につかまり、闇の中に引きずられていく。八神は、今度はばっちりとカメラを回しておいた。もしかしたら、どこかで使える構図かもしれない。
 黒木が姿を消した後も、烏丸はしばらく動かなかった。八神が促そうとした時、一言、
「……高いな」
 うっすらと口を開け、空ろな目で仰ぎ見ている。
 烏丸部長が躊躇しているのは八神にもわかった。もしかすると、高いところに登れないクチだろうか。八神の場合、狭い場所にトラウマがあるので、種類は違えど、気持ちは理解できた。まあ、単なる上品育ちで玄関マットより高いところに乗ったことがないのかもしれないが。
 と、女の顔がさかさまに天井から現れる。金髪が重力により雨だれのごとく垂れている。
「社長息子ぉ、あんた、このくらいの高さも登れないわけ? どれほど運動音痴なのよ。まさか高所恐怖症? ダッサあ」
 恐怖症はダサいとかナウいとかそういう代物ではないと思うのだが、この言葉が、烏丸部長のプライドに火をともした。
 烏丸は、黙って椅子に足をかける。長身に似合わないほど慎重な動作で、ロッカーの上に乗った。しかし、しゃがみこんでなかなか動こうとしない。
「あの、部長」
 無理しなくてもいいですよ、後半の言葉は、烏丸の一睨みによって黙殺された。
 ――自尊心は限界の壁を越える。
「愛」「友情」「信念」「善意」「希望」……人によって、何を原動力にするかはそれぞれだが、部長にとっては、それが「自尊心」なのだろう。それも、硝子細工よりも傷つきやすい自尊心だ。
 烏丸が立ち上がると、頭から肩まですっぽりと消えてしまった。彼が手を伸ばして踏ん張ろうとしたとき、城戸先生が二の腕をつかんで助けあげた。空気を読んで気を利かせたのだろう。烏丸は無事プライドを守り通すことができた。
 教室内には八神一人。静けさの波を全身に浴びる。仲間がいたときは意識しなかったが、自分だけになってみると、妙に不安になる。壊れた砂時計の中に閉じ込められた気分だ。
 空気が体にへばりつく。夏特有の湿度と熱気に侵された空気。気が付けば全身が汗に濡れている。八神は頭をブンブン振ると、脇に鞄を抱えロッカーに飛び乗る。
 中腰から体勢を整えようとした時だった。
 密閉された校舎は、それ自体が蒸し風呂になっている。息をするだけで肺が焼けそうな暑さだ。これほど暑いのに、なぜ自分は鳥肌が立っているのだろう。
 背筋が、寒い。
 かび臭い教室。ヒビ割れの壁。砕けた蛍光灯。教室内には自分ひとり。廊下にも、その先にも誰も人はいない。それなのに、なぜ自分は気配を感じているのだろう。掃除道具入れの中から。
 八神は気配には敏感だ。だから気づかないほうがよいことにまで気づいてしまう。
 道具入れのわずかな隙間から、覗かれている。視線を感じる。気のせいだろうか。気のせいだ。あり得ない。
 しかし、どうしても振り向けない。
 八神は、壁をじっと見ながら――他を見ないようにしながら――立ち上がる。上昇する視線の先に、目玉があった。思わず、床に落ちそうになる。かろうじて踏みとどまり、目をこすってもう一度見る。目玉ではなく木目だった。急に、怯えていた自分が馬鹿らしくなった。深呼吸の後、首を急回転させる。
 掃除道具入れには、隙間なんてなかった。きっちりと扉は閉じられていた。
 ほっと胸を撫で下ろし、天井を見上げる。……四つの首が、自分を見下ろしていた。先ほどの何倍もの驚愕を胸に、いざ五つ目の首になる。天井裏に乗り込んだ。
 天井裏の高さは、三角座りをして頭を打つか打たないかといったところだった。思ったよりは身動きがとりやすい。床を覆う埃と、点々とする蜘蛛の巣は曲者だが、放置された場所なのだから、仕方がないだろう。夏樹はしきりに顔の前で手を動かし、烏丸は口をハンカチで押さえている。八神も閉塞感のある場所は好きではない。
「先生、開かずの間のほうへ行きましょう」
 一刻も早くねずみの寝床から出るために、城戸を促す。暗がりの中で城戸が笑ったのが見えた。
「ほら、あそこ。光が漏れている」
 暗いせいで距離感がつかめないが、たしかに離れたところで、光の切れ目が上へと伸びていた。そこを目指して、一列に並んでハイハイで移動する。客観的に見ると異様な光景だろう。
 光が目の前に現れたときは、すでに行き止まりだった。隣の教室と同様、壁に沿うようにして穴が用意されているらしい。差し込む光の中を埃が舞い、白く反射する様は美しかった。 
 五人で顔を見合わせる。みんな、緊張と期待と不安が入り混じった表情だ。
 この下に開かずの間がある。誰も封鎖された理由を知らない、忌避されてきた場所。謎と神秘に彩られた未曾有の地。その禁忌に、今自分たちは足を踏み入れようとしている。先に待っているのが変哲のない教室とわかっていても、興奮は収まらない。
 城戸が板の桟をつまんで持ち上げる。闇に白く光が広がる。
「見てごらんよ」
 城戸の目配せを受けて、八神は意を決し、正方形に顔を沈める。
 拍子抜けするほど中は普通だった。
 正面にスライド式の二段黒板があり、その右手に扉がある。引き戸ではなく、押し戸だが、ガムテープで綺麗に目張りされていた。黒板の前に教壇がある。その上に置かれた花瓶に少しゾクリとした。差された花は、枯れて変色しているのが見て取れた。おかしなものはそのくらいで、あとは一般的な教室と同じく、机が並んでいるだけだ。隠し通路の下には、やはりロッカーがあった。
 八神は、慎重に降り立つ。足場が狭い分、登るときよりも難しかった。
 教室の両側面は窓になっている。無事床まで着地すると、八神はふらりと窓辺を目指した。左手に向かい、日に焼けたカーテンの前に立つ。黄色いカーテンを引き開けると、薄暗かった教室が照明に当てられたかのごとく明彩度を上げた。
 グラウンドでは、野球部が精を出していた。第二グラウンドのほうにはサッカー部がいる。見慣れたいつもの光景でも、角度が変われば、なにやら新鮮な感じがする。
「ほらほら、そんなことしてたら、外の人に見つかっちゃうよ」
 慌てて振り返る。城戸先生がすでに降りてきて笑っていた。夏樹もロッカーの上にいる。
「すみません、ぼうっとしてて」
 カーテンを閉めると、再び部屋は暗くなった。
 天井から、黒木の胴体から下が生えている。降りる踏ん切りがつかないのか、空中で自転車をこぐように足をせわしなく回している。
「足をばたつかせずに垂直に降りるといいよ。倒れそうになったら支えてあげるから」
 そう言って、城戸先生がロッカーの下でスタンバイする。
 黒木の足が止まる。すとんとロッカーの上に降りた……まではいいが、右足を思い切りひねった。黒木は大口を開けながら前のめりに倒れていく。すかさず、城戸が胴体を押さえつける。間一髪で黒木は落下せずに済んだ。
「なんか、普通すぎてがっかりですね」
 ロッカーを降りながら黒木が言う。
「だから血糊を持ってきたんだろ」
 答えながら、鞄に手を入れる。タオルに包んだ例のボトルを取り出す。適当に部屋を乱して、これを撒き散らせば雰囲気が出るだろう。
 と、その前に、烏丸部長が降りてくるのを待たなければならない。八神は天井を見た。
 烏丸は天井の穴から、青い顔を出している。
「早くしなさいよ、社長息子」
「しかし、これ、地上まで三メートルはあるぞ。足を滑らせたらどうするんだ」
 毒づく夏樹に、烏丸が不安げに返した。
 八神はため息をついた。
「じゃあ、これはどうですか? ロッカーの横に机を引っ付けましょう。それなら着地に失敗しても机があるので大丈夫です」
 机を二段重ねて、ちょうどロッカーと同じくらいの高さになる。八神は最後尾にある机を抱え、ロッカーに沿うように配置した。その上に、もう一つ乗せる。
「ほら、俺がしっかり脚を押さえておきますんで」
 烏丸は無言だ。難しい顔で下を覗いている。やがて、ゆっくりと後ろ向きに降り始めた。
 ロッカーの上には、着地し切れなかった。手を離した瞬間、机の上にしりもちを付く。……本当に運動神経がない。撮影ではあちこちのロケ地に行くが、これでは先が思いやられる。
「ドン臭いわねえ、あんた、それでも男?」
 腕組みをした夏樹が、遠慮の欠片もなく言い放つ。垂れていた烏丸の頭が持ち上がり、ぐるりと半回転し憎い女を睨み付けた。そして、ほとんど飛ぶように机から降りる――が、強く机を蹴りすぎた。八神があっと思うまもなく、上の机が崩れる。脚を押さえていた八神を巻き込んで落ちた。全身に強い衝撃が走る。背骨が痛い。
「大丈夫、八神っ!」
 夏樹の声が聞こえる。目線を泳がせると、慌てた様子の夏樹、黒木、城戸が視界に入る。烏丸も、膝を付いた状態でこちらを見ている。顔面蒼白だが、自身に怪我はないらしい。
「いや、俺は大丈夫……」
 体は鍛えられているので、この程度では大事ではない。とりあえず、のしかかる机から這い出なければならない。机を持ち上げたところ、中から何かが出てきた。大きくて平べったく、適度の重量をもって八神の胸に落ちる。
 机を投げるようにどかす。と同時に、中から出て来た物は支えをなくしてパタリと倒れる。上半身を起こして、それを見る。
 油絵だった。
 青と灰色で統一された、女性の見事な肖像だ。見た瞬間、息を失ったほどだった。教室内の全視線が、この絵画に注がれたことがわかる。空気の変化を肌で感じる。
 顎で揃えられた髪が頬を隠している。眉は垂れ、覗く瞳はどこか憂いげだった。白鷺学園の制服を着ている。一皺の乱れもなく着こなされたブラウスといい、清潔な印象を受けるが、反面、どことなく影を感じる。この少女の内に秘められた悲しみとは、いったい何なのだろうか。背景に茂る銀杏の木は何を意味しているのだろうか。寂しい色に閉じ込められた世界に、彼女の全存在が描かれているような気がした。平面であるはずなのに、窓の外のように奥行きがある。
 八神は、絵を払い飛ばす。動悸が止まらない。見ていると、魂を抜き取られそうだった。
 沈黙が時を支配する。
「……何でしょ、これ」
 口火を切ったのは黒木だった。しゃがみこみ、絵を凝視する。
「昔の生徒が、置き忘れたんじゃないのかな」
 城戸がもっともらしく答える。しかしその目は、怖いくらい真剣に肖像を見つめていた。美術教師の本分だろうか。
「こういう部屋で見つけると、何でも不気味に思えちゃうね。――でも私、この絵、好きかも」
 夏樹の顔はとろけていて、まるで恋に落ちた乙女だった。
「こんなに素敵に描いてもらえて、絵の中の彼女がうらやましい」
「くだらん」
 一言吐き捨てると、烏丸は立ち上がった。カッターシャツについた埃を払い歩き出す。絵を拾い上げると、近くの机へ無造作に置いた。
「そんなことより、早く撮影を終わらせてしまえ。こんな不気味な場所、一分一秒といたくない」
「怖いの?」
「違う」
 夏樹に視線の刃物を向ける。ここで険悪になられてもかなわない。烏丸の言うとおり、早く撮影を終わらせてしまいたい。
「さ、とにかく、机を倒したりして部屋を荒らしましょう」
 手をたたきながら指示を出す。各々が机を動かし始める。夏樹などは乱暴に蹴飛ばしたり、椅子を床にたたきつけたりしていた。
「もう少し上品にできんのか」
「我が家から幸せを奪った誰かさん宅への恨みを込めて」
 烏丸と夏樹の冷え冷えとしたやりとりがする。頼むから二人にはもう少し仲良くしてほしい。これからかなりの期間、行動を共にするのだから。
 ふと、先ほどの油絵が目に入る。これも、せっかくだから撮影に使わせていただこう。室内を見渡し、ちょうど良い配置場所を探す。
 いろいろと悩んだが、黒板に立てかけることにした。手前の教壇にある枯れた花の後ろに控える形で様になるだろう。
 チョークを置く溝だけでは、絵が倒れるかもしれない。黒板を上にスライドさせれば、その分、溝の幅が広がる。八神は、上下綺麗に並ぶ黒板を、真ん中で重なるように動かそうとした。指を黒板の下に挟み、持ち上げる。
 ――と、短い叫びが聞こえた。
 何事かと振り返ると、夏樹が怯え顔で口を両手で覆っている。どうやら、他のメンバーも様子がおかしい。皆一様の表情でこちらを見ていた。
「どうかしました?」
「八神、それ」
 え、と思い、黒板に向き直る。同時に、内臓にまで鳥肌が立った。  ――愛してる。

 毛髪頭皮大脳小脳前頭葉耳たぶ鼓膜頭蓋骨浅頭筋額睫毛眼球鼻唇歯舌唾液咀嚼筋頬顎首筋喉笛頚動脈喉頭乳房肋骨肺心臓鎖骨横隔膜上腕二頭筋手首掌親指小指爪腹大腸小腸胃肝臓腎臓膀胱子宮卵巣骨盤大腿筋足首かかとつま先皮膚血液静脈動脈毛細血管皮下脂肪骨髄脳神経視神経肌質体臭甲状腺産毛へそ粘液回虫リンパ管皺尻核遺伝子涙痣

 ――貴女の全存在を愛してる。

 黒板裏の狭いスペースの、壁一面に刻まれた文字の羅列。思考の糸がこんがらがる。
 何だ、これは。
 書かれている内容が異常だ。さらに、こんな場所に書かれていることも異常だ。釘か何かで引っかくように、一字一字に深い念を込めるように、しっかりぎっしり刻み付けられた愛の言葉。
「これはまた、ずいぶんとクレイジーな恋文だね」
 これを見て微笑みながら恋文とのたまう城戸もだいぶんクレイジーだと思う。八神の冷や汗は止まらない。
 八神は、床に置いていた油絵に目をやる。この少女と、刻まれた恋文には何か関係があるのだろうか。
「先生、この教室、やっぱり何かがあったんじゃないですか?」
 黒木は気味悪げにしている。城戸は頭を捻った。
「さあ……封鎖になった理由についてはいろいろな憶測が流れたけどね。もっぱら、イジメに耐えかねた生徒が教室で首を吊ったから、っていうのが通説だったけど。実際のところはよくわからないよ」
 文字や絵を見る限り、そんなありがちな話ではない気がする。
 ふいに烏丸へ向き直り、城戸が笑った。
「一歩間違えれば君たちの部室も開かずの間になっていたね」
 烏丸の顔が赤くなる。そうなのだ。二ヶ月ほど前に烏丸が部室で首を吊った事件があったのだ。理由は「受験ストレスとイジメ」ということになっている。烏丸はいじめられていないし、首も吊っていない。複雑怪奇な理由があるのだ。四人という少人数チームでありながら、一枚岩にならない原因もそこにある。
 あまり楽しい思い出でもないので、部員と夏樹の間では、あの事件を話題に上げることは少ない。
「先生、そーいうブラックジョークはやめたほうがいいですよ。その男、化石より脳みそが硬いから」
 城戸の腕に引っ付きながら、夏樹が笑う。城戸はバツが悪そうに苦笑した。
 それにしても、この先生、想像よりも精神的にタフだ。この状況で笑っていられる教師は少ないだろう。胸中のイメージを徐々に崩され、城戸悠久という存在のつかみどころがなくなってしまった。
「で、どうするんだ」
 烏丸が不快げに黒板を顎で指す。
 八神は、油絵を予定通り立てかける。蟻の子状態だった文字の一部が隠れる。烏丸のほうへ顔を向ける。
「このまま撮りましょう。怖くてむしろ好都合です」
 烏丸、夏樹はあからさまに顔をゆがませた。
「なんか、呪われそうじゃない?」
「大丈夫ですよ、この世に呪いなんてありません。それより時間が押してるので、早く撮っちゃいましょ」
 眉をひそめる夏樹に、黒木が断言する。八神は、黒木が超常現象否定派なのだと初めて知った。何となく、怖がりそうなイメージがあったので、意外だ。
 腕時計を見ると、すでに二時を回っていた。こんなことではすぐに夕方が来てしまう。カーテンを締め切られた室内では、日が落ちると暗くて撮影ができない。早く終わらせるに限る。
 ペットボトルの蓋を開けると、甘ったるい匂いが広がった。乱雑にかき回された教室に、血糊を振りまく。面白いくらい鮮明に赤く染まっていった。
 三脚の脚を伸ばし、カメラを取り付ける。手際よく台本を見ながらカメラや人物の配置をあわせていく。小道具のお札を女優に持たせ、その他は画面上から掃ける。
 スタンバイ完了、撮影開始。
 映画撮影は、たった五分のシーンでも多大な時間を費やす。失敗による撮り直し、カット数が多ければ何度もカメラを止めて回してを繰り返さなければならない。カメラのバッテリーが切れようものなら、一度出直す場合もあるのだ。
 旧校舎を後にした時には四時が迫っていた。
 血糊は一応拭き取ったが、完璧に落とすことはできなかった。まあ、永久封鎖域なのだから、大して問題はないだろう。机の並びは前よりも綺麗なくらいだ。例の油絵も、机の中に戻しておいた。黒板も元通りにした。
 部室でひとときのインターバルを取る。クーラーの効いた部屋で、全員で死体になっていた。特に、役者として動いていた夏樹の消耗は激しかった。部員でもなくこんなに協力してもらって、本当に頭が下がる思いだ。
 しかし、今日はもう一つ撮らなければならないものがある。
 中庭の「首なしマリア像」だ。なんでも、マリアの抱いているイエスが、夜な夜な母の首を探して甲高い声で泣きじゃくるのだそうだ。
「さて、そろそろ次に行きますか」
 四時半を目処に、八神が立ち上がる。とたん、黒木が髪を振り乱し抗議し始める。
「もう外に行くんですか? まだ明るいじゃないですか。赤ん坊の夜鳴きが撮りたいなら、暗くなってからでしょ」
「明るい画像でも編集効果で夜っぽくできるって言ったのはお前じゃないか。それに、だらだら時間をかけるよりも効率よくこなして早く帰りたいだろう」
 首振り人形になっていた黒木の頭が静止する。
 夏樹がコーヒーを飲み干し、立ち上がる。慌しくなった周りを見て、烏丸も空のカップの中でスプーンを回すのをやめた。それにしても、暑い暑いと言いながら湯気の立つコーヒーと紅茶を飲む二人は何なのだろう。
 中庭は、あまり人の立ち寄る場所ではないが、外での撮影はやはり恥ずかしいもので、極力短いシーンにしてある。八神たちは、人がいないのを見計らって中庭に出た。
 黒ずんだ聖母子像を見上げながら、黒木が胡散臭そうな顔をする。
「しかしこのマリア像、十五年前にうちの部員がイタズラで吹き飛ばしたんでしょう? 夜鳴きするわけないですよね」
「おおかた、猫の鳴き声を勘違いしたとかだろう。うちの学校、野良猫がたくさん住み着いているし」
 八神は非常な猫好きなので、この点においては白鷺学園に入学できたことに感謝している。キナコ、ワラビ、アンコなどと、名前を付けて密かに餌をやったりしている。
「それにしても迷惑な話ね。昔の生徒のやったことで、今の部員たちが苦労しているんだから」
 夏樹もまた、聖母子像を見る。マリアは、肩上あたりから、跡形も残っていない。粗く削られた断面が覗いて痛々しいくらいだ。上半身までは、純白だったはずの大理石に黒いしみが残っている。赤子の顔も真っ黒になっている。これはたしかに、怨念が篭っていそうな雰囲気だ。おかしな噂が漂うのもわかる。
「当時の部長とは、同級生だったけど、なぜ彼がこんなことをしたのか、今でも不思議だよ。竹を割ったような好漢で、いいやつだったんだ。悪ガキではあったが、本当に悪いことは絶対にしなかった。十五年前のあの日、彼の中で何が弾けたんだろうな……」
 城戸先生は感慨深げだった。知人の思いもよらぬ行動――それがどれほど衝撃的かは、八神もよくわかった。過去に、幾度か遭遇したことがある。一番最近では、黒木の復讐劇だ。人には、上辺だけでは測れない心の闇があるものだ。
 あまり立ち話する余裕はない。
 中庭への入り口は、前後二つある。黒木と烏丸をそれぞれ見張りにつけてからカメラを回す。
 レンズを通して見ると、肉眼よりはおどろおどろしさが欠けてしまう。これは仕方のないことだ。黒木ご自慢のプロご用達ソフトとやらで加工してもらうとする。
 こうして、初の映画撮影であり、前期最後の撮影は終わった。

 

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