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四谷怪談 第五章

 

 夜に見る霊山の、なんと不気味なことか。
 樹木に覆われた山肌は、影ばかりで何も見えはしない。ふもとや階段途中の灯火によりかろうじて幹の形が浮き上がっている。そんな暗黒の中、一直線に天へ伸びる階段は、そのままあの世にでも通じていそうだった。
 八神たちは、暗雲とした山で途方に暮れていた。
 あと五分で、午後八時を回る。……城戸が出かけてから、二時間が過ぎていた。
 撮影は七時には終了していた。時間も遅いので、多少クオリティを下げてでも早く終わらせることにしたのだ。後半はほとんど真っ暗で、懐中電灯をライト代わりにして撮った。おそらく非常に不自然な光源になっているだろうが、そこはそこ、「アマチュアの初作品」というのを免罪符にさせていただく。
 そうやって懸命に仕事を終わらせたにも関わらず、城戸先生が帰ってこない。
 携帯に電話をしようにも、ここは圏外だ。夏樹がアンテナが立つところまで移動してかけてみるも、呼び出し音ばかりで繋がらない。
 なぜ? 疑問は苛立ちになり、苛立ちは不安になり、不安は焦りになり、それは時を刻むごとに胸を埋め尽くす。
 黒木が頭をかく。
「まいりましたね、うちの門限、八時なんですけど」
 そんなことを言ったら、八神家の門限は午後七時だ。それを承知で夜まで撮影をするのだ。たぶん今日は夕飯がもらえないし姉と兄にイヤミを言われるし飼い猫の夜叉丸はすねて一緒に寝てくれないしことによったら敷居をまたぐことさえできないだろう。
 すべて関係ない。それだけ、八神の情熱は強かったのだ。
 だが、撮影が終わったら早く家に帰りたい。この場の全員が城戸の迎えを待ち望んでいるに違いなかった。四人は並んで石段に座り、うつむき、次第に無口へとなっていった。
 そして十分が過ぎただろうか、夏樹が立ち上がった。
「このままボーっと待っていても暇だし、何かやろうよ」
 ほとんど屍になっていたが、八神は顔を上げた。
「何かって、何を」
 夏樹の瞳が、月明かりを反射する。怪しく光るワインレッドの瞳と、金髪は、月夜の魔女に見えた。潤った唇が不気味な薄ら笑いを浮かべる。
「肝試し、とか」
 風が凪いだ。
 ――肝試し? 寄りによってこんな場所で? いや、こんな場所だからこそ最適なのかもしれないが……。「彼岸から帰ってきた八百姫が背中に引っ付かなければいいけどね」そんな城戸先生の言葉が脳裏をよぎる。
「何よー、大の男がビビッてるの?」
 内心を見透かされたのか、夏樹は意地悪に笑った。そんなことを言われては、幼稚園時代から一人で真夜中トイレに行っていた八神としては男が廃る。
「べつに、そんなことはないよ。ただ……」
「いいですね、座っているよりは退屈じゃないし」
 黒木が八神の言葉を打ち消した。四人中二人が賛成している。特に否定すべき理由もない。こうなると、趣味のことに関して以外、付和雷同イエスマンの八神には従うほかなかった。
「まあ、そうだね」
「くだらん、なぜそんな無意味なことをしなければならないんだ」
 烏丸が無表情で言う。夏樹がにんまりとした。
「そんなにお化けが怖いのー? これだからお金持ちのお坊ちゃんは。ママンが側にいないとダメなのねえ」
 この女人はなぜいちいちに烏丸部長を挑発する術に長けているのだろうか。烏丸は夏樹の前で指を突きつける。
「いいだろう、貧乏娘。いわれのない事実でお前に見下されるのは不本意だから、付き合ってやる」
「内容は、一人ずつ山頂の本殿まで参拝に行き、帰ってくること」
 一瞬の間。
「承知した」
 部長のプライドの高さはベジータ並みですよ。黒木の呟きが聞こえた。
 夏樹が満足げにうなずく。
「では順番はじゃんけんね」
 四人が拳を突き出す。夏樹のブレスレットをつけた左手、烏丸の高級そうな腕時計を巻いた右手、黒木の細くて青白い右手、八神の無骨な右手が円を描く。
「じゃんけんほい、あいこでしょい、あいこでしょい、あいこでしょい――」
 結果。烏丸洋介、夏樹恵、黒木晶、八神切人の順に登ることとなった。
 烏丸は鳥居の前で立ち尽くしている。懐中電灯で長く続く階段を照らす。しばらくうつむいた後、振り返る。
「では行ってくる」
 こわばった表情のまま、階段をゆっくりと登り始めた。左手は手すりを捕らえ、離さない。そういえば、部長の左手を久しぶりに見た気がする。今日はほぼ一日ポケットに入れたままだったのではないだろうか。良家の御曹司にしては行儀の悪い癖だ。
 やがて烏丸は宵闇の中に消えていった。

 それから二十分が過ぎた。はたして、烏丸は帰ってこなかった。
 山からは、うるさいくらいの虫の音と、少々の風の音しかしない。足音も、持っているはずの懐中電灯の光すら見えない。
 八神の中で、嫌な胸騒ぎがした。
 いくら烏丸の歩みが亀の歩みだったとしても、遅すぎるのだ。
「降りてきませんね、部長」
 黒木が幾分不安げに言う。夏樹はそれを一笑に付した。
「いつまでも待っていたって仕方ないし、そろそろ私も行こうかな」
「上で何かあったのかもしれない。単独では危険だ。肝試しは中止してみんなで一緒に登ろう」
 慌てて夏樹の前に出る。一人で行かせてはいけない、直感がそう告げていた。だが、夏樹はたやすく脇をすり抜けた。八神が伸ばした手をかわし、舞うように階段を登った。
「一人でいい。私がみんなと一緒に上がったら、社長息子に示しがつかないじゃない。きっとあいつ、ビビッて降りてこられないだけよ」
「夏樹さんっ!」
 焦燥に駆られる。叫び声は心細く、夏樹を止めるには力が足りなかった。
「それに、もしもあいつが祟りやら神隠しやらに遭ったのだとしても、私はちゃんとお参りに行ってる。だから、大丈夫」
 恐れの微塵もない笑顔だけを残し、夏樹恵は社へ駆けていった。
 八神が空を見上げると、赤紫の薄雲が星を隠していた。

「……遅い、遅すぎる」
 石段にうつむき座る八神。先ほどから心臓が激しく脈打っている。感覚がわからなくなるほど握られた両手が、汗で湿る。眉間に皺がより、意味もなく目つきが悪くなる。
 なぜだ。なぜ帰ってこない。こんな標高五十メートルほどの山、獣道を使ったとしてもたいして時間はかからない。何か事故があったとしても、叫び声の一つくらい聞こえるはずだ。携帯を開いては、ここが圏外であることを思い出して絶望する。一分ごとに時計を確認するが、十分、十五分と経っても夏樹は降りてこない。
「さてと」
 隣で空を見ていた黒木が伸びをする。八神がハッと顔を上げる。
「そろそろ僕も行ってきます」
「お前、行く気か? ダメだ。俺が上がって様子を見てくる。お前は下で待っているんだ」
 語気を強める八神に、黒木はあきれたように笑った。欧米人のように肩をすくめて見せる。
「僕は科学で解明できないものは信じない性質なんで。大丈夫ですよ、どうせ二人だけで上で何かやってるんでしょ」
「何かって何だよ、殺し合いかよ」
八神は食って掛かった。「あー、殺してそうですね。夏樹さんが部長を」などと、冗談とは思えないリアリティをもって黒木がのたまう。
「僕が下りてこようが下りてきまいが、先輩はどうせ上まで来るんです。それまで待っていればいいじゃないですか」
 黒木は、一度決めたことは執念的に実行することを、八神は知っている。これ以上止めても無駄だろう。それに、いささか腹が立ってきた。
「わかった。そんなに行きたいなら、一人で行って来い」
 ぶっきらぼうに言い放つ。黒木は二、三段上がって一度振り向き、そのまま小さくなっていった。
 八神は階段に背を向けた。もう、どうでもいい。……どうでもよいが、二十分過ぎて、誰も降りてこなかったら登るとしよう。
 気分が落ち着かない。絶叫マシーンが下りに差し掛かる前の恐ろしい緊張感、あれが持続しているようなものだ。どうにかなってしまいそうだった。
 ――しばらく歩こう。
 じっとしているよりはましのはずだ。荷物を置き、財布と携帯電話だけポケットに入れる。他に行くところもないので、「静の岩屋」のほうへ向かう。
 静の岩屋は、人魚伝説の娘が生涯を終えた場所である。山を右手に迂回していくと、姿を現す。
 右手に進む。臙脂色のミサイルが夜空にそびえている。戦没者を祀る慰霊碑だ。昼間も、古風な境内にミサイル型の墓は場違いだと思ったが、夜見ると不気味さまで加わっている。
それを過ぎると、雰囲気はがらりと変わる。道の上を覆うように木が生えており、前時代に迷い込んだかのような錯覚に襲われる。苔むした大きな岩に、巨大な木。山を見上げても何も見えないくらいに鬱蒼としている。トトロがいそうだった。ここでなら、妖怪に遭遇しても何の不思議もないだろう。
夜の闇は、すべてのものを恐怖で彩る。真っ黒な木の陰から、今にも白い手が伸びてきそうだ。虫の声が聴覚を麻痺させ、脳にまで振動する。
 木々のトンネルを抜けると、開けた場所に出る。辺りは相変わらず夜だが、それでも明るく感じた。
 右手には小さめの池がある。懐中電灯を向けると、湖面が反射し銀色に輝いた。
 左手にライトを振る。そこには赤い鳥居がそびえていた。鳥居の先には……漆黒の闇が、ぽっかりと口を開けていた。
 それが静の岩屋だ。
 今は暗くてよく見えないが、昼間の映像を思い出す。
大きな岩、というかもはや岩壁と呼ぶにふさわしいものが二つ、支えあうようになっていて、その間に裂け目があった。たしかに、人が入ることができそうなほどの奥行きはあるようだった。残念ながら、入り口は小さく、大人が出入りするのは難しそうだった。昔はもっと大きな穴だったのかもしれない。
 ここで、意図せずして人魚の異能を手にした娘は、決して幸せではなかった人生の終焉を迎えた。
 なぜ、人魚伝説は、日本でも西洋でも悲劇なのだろうか。中途半端に人間になった人魚と、人魚になった人間。人魚姫は何があっても幸せになれない。
 今なお、風穴から人魚姫の嘆きが聞こえてくるのを、八神は感じた。
 岩屋に近づく。懐中電灯で闇を払う。
 何かが光った。心音が加速度を増す。電灯を地面に取り落とす。鈍い音とともに的外れなほうに明かりが回る。
 八神の頭は混乱していた。先ほど見たものを思い出そうとする。一瞬だけ見えたもの。数秒しか経っていないのに、イメージはどんどんあやふやになっていく。
 明かりを受けて……何かが光った。あれは……目? それから黒い髪。着ていたのは、白かった。そう、白い着物だった。細い体……女。皿のような、光る目。長い黒髪。死装束。女。娘。穴の中。
 冷や汗が。冷や汗が止まらない。下が乾く。呼吸が苦しい。
 首筋に伸びる冷たい手。
 思考する前に足が動いた。かまいたちのごとく回転しながら後退する。左手が下、右手が上。見えない竹刀を握り締め、まっすぐと見る。いるはずのないその者を。

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