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四谷怪談 第六章

 


 顔が見えない。
 はるか遠くの街の明かり、足元に転がる電灯の明かり、雲を縫った月の明かり。それらを浴びて、一人の女が形を作っていた。腰ほどにまである長い黒髪がゆらゆらと動く。その合間から覗く真っ赤な唇は無機質だった。顔における他の部位はほとんど髪に隠れている。着ている白装束は左前になっていた。普通、生きた人間はこのような和服の着こなしをしない。両手は前に突き出され、さっきまで八神の首があった位置を握っている。
 直感した。彼女はこの世の者ではない。何より八神は知っている。この女は、ついさっきまで、静の岩屋の中にいたのだ。
 恐怖のあまり気絶しそうだ。だが、意識を失ったとき、すべてが終わる。八神は自己の持ちえる全気力を絞りつくし、相手を睨み付けた。手は構えたままだ。
 どのくらい、この状況が続いただろうか。
 ザリ、と砂のこすれる音がする。八神の体が震える。女は一歩前に出た。……幽霊でも足音がすることを八神は知った。
 血色の唇が、上下に広げられる。
「こんな夜更けに、あなたは何をしているの?」
 静かで、澄んだ声だった。出たすぐそばから空気に溶けていくような声質にも関わらず、耳に強く残る。
 八神は、何度もためらった末にやっと言葉を搾る。
「……あなたこそ……」
 女の唇がつりあがった。わずかに首を傾けると、黒い垂れ幕の隙間で目が光った。八神は一歩後ずさる。
「怖いの?」
 笑いながら、女は一歩前に出た。無表情よりも怖気が走る。再び後ろに下がる。女が近づく。八神は下がる。近づく。下がる。……背中に岩壁の冷たさを感じた。
 闇の中にうっすらと浮かぶ不気味な笑みが、目の前に迫る。
「申し訳ございませんでした!」
 八神は叫んだ。崩れながら地面にひざまずく。
「自分たちは不謹慎にカメラを回し、あなたの安らかな眠りを妨げてしまった。悪気はなかったのです。どうしても必要だったのです。どうか許してください、仲間を帰してください。八百比丘尼さまお願いします!」
 目を瞑り、思いつくままに言葉を重ねる。地面に付きそうなくらい頭を下げる。土のにおいが鼻を突く。
 しばらくの静寂が生まれる。
「……八百比丘尼? 笑わせるわ」
 氷柱より冷たく尖った声が降ってくる。筋肉がこわばる。と、気配が遠のくのを感じた。恐る恐る顔を上げる。女は、懐中電灯を拾い上げるところだった。長髪が雨だれのように地面に落ちている。
「ここには、人魚を食べた哀れな娘なんていない」
 女が目の前にしゃがみこむ。恐怖に引きつる八神の手に、先ほどのライトを握らせる。八神は動くこともできない。眼球すら動かせない。髪に隠れた女の顔を、見たくもないのに見つめている。
 白い手は前髪を持ち上げた。
「いたのは、醜い顔の女だけ」
 地獄の深淵を見た。頬に走る蚯蚓腫れ。明らかに他とは違う肌の色。特にひどいのは右側の損傷だった。常人の倍近くに膨れ上がっている。その上を、何本もの太い線が浮き上がる。また、深く刻まれた溝もある。まぶたは爛れ、目に餅が覆いかぶさっているかのようだ。とても機能を果たしているとは思えない。左目に傷はないが、異様に見開かれていた。視線を落としていくと、首筋から胸元にかけても、いびつに肌が引きつっている。暗がりで細かく見えないことが唯一の救いだった。
 女が手を離すと、再び地獄は隠された。細い髪の毛の一本一本が、あの世とこの世を隔てている。
 女はすっと立ち上がった。
「知りたい? 人魚伝説の真実を」
 怪しい笑みを浮かべる。暗闇の中で真っ赤な紅だけがやけに鮮烈だ。
 人魚伝説の真実――あの顔を見る限り、ろくな話ではないのは予想が付く。聞くのも恐ろしい。
「……いえ、べつに……」
「そう言わないで。私も退屈しちゃってるのよ」
 拍子抜けするほどおどけた口調だ。緊張感が緩む。
 生い茂る草の上に曇り空が広がる。八神に背を向け、朧月を女は仰ぐ。鳥居の間から見える幻想的な光景に、目がくらんだ。ここはすでに現代日本ではない。何百年も昔の、海に囲まれた孤島、栗嶋だ。
 すでに身の朽ちた女は、昔語りを始めた。余裕ができたためか、気づいた。この女性は、とても耳に心地よい声をしていた。
「ずっと前、もういつのことかも思い出せないほどずっと前、私はこの島で死んだ。その岩穴の中で独りで死んだ」
 死んだ、この言葉により、彼女が死人であることが確定される。当然だ。こんな幻想的な人間がこの世にいるはずがない。
 彼女は振り向き、笑って見せた。その笑顔に恐怖を覚えることはもうなかった。
「私ね、これでも村では美人で通っていたのよ。村一番の美人だったの」
「よほど可哀想な顔の女性が多かったのでしょうね」
「冗談ばかり」
 すねたように口を尖らせる。いけない、緊張感の緩みからか、あり得ないボケをかましてしまった。黒木と会話しているようなノリになっていた。
「あれは初夏のころと思うけど、本土の地主が、島を訪れたことがあったの。その時、相手に見初められちゃって。妾にならないかと提案を受けたの。あ、この頃の地主の提案って、提案じゃなくて決定事項だから。私に決定権なんてなかった」
「本土の地主、ですか」
「ええ、ヤガミ、とか、そんな名前だったかしら。よく覚えてはいないけど」
 胃酸が腹の中を荒らす。こんな形で自分の名字など聞きたくはなかった。
 自分の顔が地主に似てはいないだろうか。先祖の霊でも憑いていないだろうか。この動揺が相手に伝わらないだろうか。そんなことばかりが頭を渦巻く。
 彼女の話す雰囲気から察して――明らかに地主は恨まれている。
 穏やかな語り口が、少しずつほつれを見せた。
「けれど、私は、そんなのごめんだった。恋人がいたの。誰よりも好きな相手がいたの。おっとさんやおっかさんや、村の人だってそれは知ってたはずなのに。地主に逆らえる人間なんていなかった。恋人ですら、あきらめていた。地主が憎い。憎い。許せない。私は考えたわ。自分の全存在をかけて考えた。どうしたら妾なんかにならずにすむか。それで私は、私は――」
 震えた早口になり、最後には言葉すら詰まっていた。肩で荒く息をする。やがて動きが止まる。画面が一時停止された。
 ゆっくりと、音もなく、手が前髪を上げていく。
「焼け火鉢で、自分の顔を、体を」
「もういいですっ」
 操り糸が切れたように、手が下ろされる。見えかけていた古傷が隠れる。
 彼女は、何事もなかったかのごとく話を続ける。
「醜い顔になった私から、地主は興味を失った。これで自由の身になれる。後悔は微塵もなかった。たとえどんな姿になっても、愛しいあの人は傍にいてくれる。そう信じていたから。でも、彼は姿を消した。本当言うとね、変わり果てた私を見て、あの人は私であることに気づかなかったの。私は話したよ。あなたの恋人なんだと。そして、翌日、何も言わずに彼は村を出て行った。捨てられたなんて思わなかった。いつか戻ってくると信じていたから。だから私は待った。いつまでも待った。醜くなって、村の人からも避けられて、村を離れた洞窟で生活するようになっても、待ち続けた。そうしているうちに、いつのまにか死んじゃってたの」
 前かがみになって八神に顔を近づける。
「それが、栗嶋人魚伝説の真実。さ、いつまで腰を抜かしているの?」
 言われて、自分が座り込んだままであることに気がつく。膝を払いながら、女を窺い見る。
「しかし、どこから人魚が出てきたのでしょう」
「さあ。後ろめたい村人たちが、哀れな娘の末路を人魚に責任転嫁したんじゃないかしら。娘を供養してやりたい。されど真実は隠したい。だからもっともらしい伝説に仕立て上げたんでしょう」
 心なしか投げやり口調だ。本人としては不本意であることは理解できる。
 このように、実際あった悲劇を別物の伝説に変えてしまうことは、よくあったのではないかと思った。「鬼」は、異邦人を迫害するために生み出された免罪符だと聞いたことがある。あいつらは人間ではない、妖怪だ、鬼だ、だから殺してもかまわない。むしろ殺さないと殺される。そんな風に自己を正当化し罪悪感から逃れていたのではないだろうか。
 かつて洞窟に篭り死んだ女がいた。それは人ならざる体になったために世を儚んだのだ。誰のせいでもない、あれは悲劇だった。要は、そういうことだろう。
 ――この人には、絶対に八神家の人間であることを知られてはならない。
 彼女から美貌も恋人も何もかも奪ったのは大地主だ。その恨みは筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。知られれば、間違いなく取り殺される。
 恋人は間違いなく彼女を捨てた。責めることはできないだろう。見る影もなく醜くなった相手を、それでも受け入れられる人間は少ない。彼女を愛していればいるほど、その落差は大きい。おそらく、男が描いていた二人の未来は粉々に砕け散っただろう。男にも新しい形で幸せを見つける権利はあるはずだ。中途半端な同情で一緒にいてもお互い不幸なだけだ。だからこそ姿を消したのだろう。
「……あなたは、今でも待っているんですか?」
 にっこりと微笑む。
「ええ。待っています。今でも好き。あの人の帰りを、ずっとここで待っています。唄にもあるでしょ? ワ・タ・シ・マ・ツ・ワ〜……」
「ジャスラックにお金取られるからやめてください! その前に、なぜそんな昭和歌謡を知っているんですか!」
「私は何百年もの間、この岩屋に留まっていたの。時の流れをずっと見てきた」
 なるほど、どうやらいわくある洞窟前で待つわを熱唱した人がいるらしい。
 八神は、昼間の撮影のことを思い出す。自分たちがヘラヘラとカメラを回しているときも、彼女はここにいたのだろうか。ずうっと、ここで、その様子を眺めていたのだろうか。気恥ずかしさとともに悪寒が走る。
「昼間も、俺たちのことずっと見ていたんですか?」
 一拍置いて、ニイと女の口が三日月を描く。
「ええ。でも意思の疎通ができるのは迎え火の焚かれる夜だけだから。こんな時間にあなたがやって来たのには驚いたけど、わくわくしちゃった」
「お盆に霊が現れるのは本当なんですね」
「ええ。三途の川を渡った人も」
 迎え火に誘われた黄泉人が、朧月夜に舞い踊る。蝶のように、ひらひらと。その動きがふっと止まる。まっすぐとこちらを見る微笑は、凄惨でおぞましく……優美だった。
「みんな帰ってくるのよ。地上に残してきた人に会いたくて」
 水鏡に、石が投じられた。落下にあわせて水中で生まれる小さな泡が、津波へと変化していった。身を引き裂くほどの悲しみが心の堤防を決壊させる。
思い出は色褪せない。思い出はいつまでも美しい。
 だったら教えて欲しい。どうすれば、事実は思い出に変わるのか。
「……じゃあ、さあちゃんも……」
 そんなつもりもなかったのに、口から出たのはあの名前。自分はどこまでも往生際が悪い。彼女とは……彼女の死とは決別しようと、あの日、青空に誓ったのに。さよならって言ったのに。
 ――さよなら? そんな簡単に、できるわけがないじゃないか。
 頭ではできたと思っていても、精神はそれに追いつかない。そこまで単純になりきれない。
「誰?」
「幼馴染です。二年前に亡くしました。イジメで……自殺で……」
 女の声には、胸をこじ開ける力があった。
 女は尋ねる。流水のような、穏やかで澄んだ口調だ。
「会いたいの?」
「会いたいです。会えることなら、話がしたい」
 ほとんど叫んでいた。
 女の左目が伏す。
「どうかしら。この世に姿を現すのは、未練のある人だけだから……あなたは、成仏していてほしいでしょ?」
「はい……」
 歯切れの悪い返事になる。会いたい。成仏を願う気持ちより、自分のエゴが勝っていた。
「会えたら、どうしたい?」
 言葉は包み込むようで、幽霊とは思えぬ温もりがあった。
 胸がしんみりと濡れていく。
 八神はうつむいた顔を上げる。
「謝りたいです。彼女が死んだのは、俺のせいだから。俺が助けてあげたら、彼女は死ななかったから」
 月に雲がかかり、お互いの顔がわからなくなる。
 八神の瞼にはただ爽夏の顔だけが張り付いていた。あの時、もっと彼女の支えになってあげていれば……口先ばかりで自分は味方だと主張して……自分は、いい人間に見られたかっただけなのだ。さあちゃんは恨んでいたに違いない。時おり夢に出てくる彼女は、冷たく背を向け一度も振り返ったことがないのだ。
「でも、会えるかもしれないわね。だって、お盆だもの」
 雲が晴れた。月光に照らされた幽霊の顔は、慈しみに満ちていた。
 八神は頬が火照るのを感じた。頭が、くらくらする。
 女の薄紅に濡れた唇が動く。
「私も、会いたいわ。あの人に。……でも本当はわかっているの。私と同じように、あの人が私を好きでいてはくれないと。あの人は、もう私のことを愛していないと。どうして、生きているうちに気がつかなかったのかしら。こんなに醜い女、愛してもらえるはずがないって」
「そん――そんなことは、ありませんっ」
 喉から言葉が飛び出していた。我を忘れていたと表現しても、過言ではなかったかもしれない。
「あなたは、とても美しいです」
 女は片目を大きく見開いた。口元に手を当てて固まっている。幽霊でもこのような表情をするのか、と胸が騒ぐ。
「俺はわかる、理解できる。それは顔の造作の問題じゃないんです、そんなものを超越したところにあなたの美しさはあるんです。俺なら、あなたを捨てたりしなかった、絶対に、永久にそばにいてあげた!」
 月を浴びて、女の瞳が、頬が、キラキラと輝く。……女は、泣いていた。
 数秒して、彼女の顔が薄く微笑む。
「だったら、あなた、あの人の代わりになってくれる?」
 その言葉が何を意味しているか、どこかではわかっていた気がする。それでも――。
「あなたが望むなら」
>盂蘭盆。彼岸と此岸、過去と今とが重なる日。
 時が止まった。
「本当に」「はい」「未練はないのね」「はい」
 女の口が、裂けるほどつり上がる。闇より深い黒髪を風が流し続ける。頬には涙が流れ続ける。遺灰のようなくすんだ手が広げられる。だんだんと目の前に迫ってくる。吐息が顔にかかる。
 脳内がホワイトアウトしていく。
 女の両手が、自分を包み込んでいく。
 ――八神っ。
 誰かの声が。
 霞が取れた。
 自分はなぜ、ここにいるのか。
 烏丸部長。黒木。そして……夏樹さん。
 八神の目に力が宿る。女の腕を振りほどき、岩屋を離れる。女の顔はひどくこわばっていた。
「ごめんなさい、俺、やっぱりダメです。俺にはやらなきゃいけないことがあるんです。生きて守らなきゃいけない人がいたんです。だから――ごめんなさい!」
 ちぇっと、舌打ちするのが聞こえた。
「せっかく、連れて行けるとおもったのになあ」

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