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四谷怪談 第七章


 その顔には、先ほどまでの優しさはなかった。全身に鳥肌が立つ。血液が足元に抜けていく。
「とにかく、俺、行きます。早く神社に行かないと」
 八神は背を向けると、全力で森に突っ込んだ。
「神社……? あそこは夜に行かないほうがいいよ」
 後ろから声が追いかけてくる。だが八神は止まらなかった。懐中電灯の明かりを頼りに、暗闇を走る。虫の声と土を踏む音だけが緑の中を反響する。走っても走っても暗闇だ。このまま二度と森を抜け出せないのではないか。
 そんなことを思い始めたころ、やっと開けた場所に出る。空にそびえるミサイルを見て、八神は心底安堵した。
 さっと辺りを見る。どこにも人の影はない。予想はしていた。誰も帰ってきてはいない。
 八神は迷わず石段へ向かった。行かないほうがいいと言った女の忠告は捨ててしまう。
 足元など見ない。ただひたすらに山頂へ直線を引き、登り続ける。
 自分はどうかしていた。相手は人ではないのだ。心など遠に置き去りにした死人なのだ。残っているのは朽ち果てたような情念ばかりだ。あと少しで、自分は魂を持っていかれるところだった。
 それに、自分には八神の血が流れている。もしかしたら……あの女は気づいていたのかもしれない。初めから、取り殺すつもりで姿を現したのだ。そう考えるのが一番自然だ。
 あのときの自分は――状況に酔わされていたのだ。あの女の作り出した幻惑の世界に。
 暗闇が脇を通り過ぎていく。
 まだか。まだなのか。もう半分は来たか。それとも三分の一か。焦りと疲れでペースが乱れる。石段から足を踏み外してしまった。あっと短く叫んだ時には、視線が急降下していた。身をよじり、かろうじて中央の手すりをつかむ。
 荒く息をしながら、身を持ち直す。顎から汗が一滴垂れた。
 どこまでも続く暗黒の道。ふっと湧き上がった考えが、じわりじわりと確信に変わる。
 城戸も消えた。烏丸も消えた。夏樹も消えた。黒木も消えた。自分以外の人間は、皆消えてしまった。これは、考えてみればいたく不自然な話だ。
 なぜ、自分だけがここに残されたのか。圧倒的多数が姿を消し、たった一人だけ自分は消えなかったのか。普通、神隠しにしても、消えるのは一人か二人のものだ。
 ――逆だったんだ。
 消されたのは、みんなではなく、自分なのではないか? 
 それなら、理解できる。自分は、八百比丘尼に恨まれている。だから、消されたのだ。一人だけ、違う世界に、誰もいない世界に引きずり込まれたのだ。だから、この世界には、誰もいない。山の上にも、誰もいない。きっと、いない。
 八神の足が針金のように硬くなる。怖い。頂上まで登って、そこに誰もいないことが。そのときこそ本当の、絶望だ。
「……大丈夫だ」
 社にいるのは、怨霊でも地縛霊でもない。神様だ。そこにあるのは絶望ではない。最後の希望だ。昔の人は、鬱蒼とした山や林に、自らの手で道を作った。それには想像を絶する努力が必要だっただろう。だが、それでも道を作った。
 迷いの森に堕ちたのだとしても、道は切り開ける。自分の世界に帰って見せる。できないはずはない。八神はたしかに聞いたのだから。自分を呼ぶ夏樹の声を。
 地を蹴り疾走する。葉陰の合間から夜空が見えた。もはや漆黒の世界は抜けた。
 そして、天神の待つ楼門が現れる。
 八神は深呼吸を二度繰り返し、叫びながら楼門を突っ切った。
「神様、いるなら姿を見せろっ!」
 その時、八神の目に入ったものは、予想を裏切るものだった。
 ぽつんと一つだけ立つ外灯の下に、人影が浮かぶ。
「どこいたのよ八神!」
「え? 夏樹さん?」
 現れたのは、神ではなく、いなくなった夏樹恵だった。柔らかな金髪は乱れ落ち、般若のような顔になっていた。
「ずっと来るのを待ってたんだから」
 そう言うと、きゅっと手を握る。ずいぶんと心細かったと見える。
「で、神様がいったいどうしたんだ?」
 声のほうに懐中電灯を向けると、狛犬の脇に烏丸が座っていた。こちらもひどくつかれきった顔をしている。
 自分が消されたというのは、間違いのようだった。
 急に気恥ずかしくなり、あっれぇと笑ってごまかす。
「それより、ここにいたなら、何で下りてこなかったの? 何か不吉なことでもあったのかと思ったよ」
 これは言っておかなければならない。消されたわけではないのなら、なぜ帰ってこないのか。もっとも、自分が先ほどまで味わった大変な恐怖を加味すれば、どう説明されても納得できそうもない。
 夏樹は烏丸を指差した。烏丸がびくっとする。
「それが、あいつがさ! 階段が怖くて下りられないって言うのよ。聞いてあきれるわ」
 それはたしかに聞いてあきれる。
 烏丸が猛烈に反論した。
「黙れ、こんなに暗いのに、下りられるわけがないだろう! 足を踏み外したらどうするんだ! だいたい、お前だって怖くて下りられないからそこにいるんだろうが!」
 少し意外なことを聞いた。夏樹までもが闇を恐れて下りるに下りられずとどまっていたとは。
 ライトを今度は夏樹のほうに振る。夏樹の表情が急に弱々しくなった。
「うん、まあ、散々、社長息子を笑い飛ばしてやったんだけど……気味悪くってさ、あれが」
 夏樹は八神の後ろを指差した。ゆっくりと背後を見る。あるのはいかめしい楼門だけだ。
「夏樹さん、あそこには楼門しかないよ」
「だから、人形」
 八神の頭に、夕暮れ見た、白い人形と赤い人形が浮かんだ。穏やかな笑みと、恐ろしい形相。たしかに、あの人形は不気味だ。だが、通り過ぎることができないほどではないだろう。八神が岩屋の前でした体験を思えば、笑ってしまう理由だった。そんなものを怖がる子供じみた夏樹が、少し可愛く感じる。
 しかし、そんな感情は一陣の風ほどの長さもなかった。
「この山にはほとんど明かりがないの」
 背筋も凍る声がする。夏樹も顔が硬直していた。
 神社の裏手、闇の中から、白い影が姿を見せる。衣擦れの音が、だんだんと近づいてきた。そして外灯の下で、死装束の女が笑う。
「だから、夜に上まで来てしまうと、足元が見えなくて階段が下りられないわ」
 そんな解説はどうでもよかった。肝心なのは、なぜ、さっきまで間違いなくふもとにいた女が、ここにいるかということだ。階段を使わなければ、それこそ上には来られないのに……この女は、反対側から出てきた。
 頭を振る。相手は幽霊だ。世間の常識など通用しない。
 夏樹は軽く悲鳴を上げ、八神の後ろに隠れた。女はただ凶悪に微笑んでいる。
 八神は、夏樹をかばいながら幽霊を睨む。
「八百比丘尼、もう勘弁してくれ! 謝って欲しいなら俺が謝るから、他の人たちは助けてくれ!」
 女は何も言わずに目を細める。右半分は、ちょうど光が届かず影に覆われている。「八百比丘尼? あれが?」夏樹の呟きが聞こえる。とたん、八百姫の顔から笑みが消える。相手を指先から凍らせていきそうな瞳で八神の背後――夏樹を貫く。
 まずい。直感が走る。
「おい、何だ、どういうことだ」
 気が付けば烏丸が立ち上がっていた。八神たちと幽霊の間で視線を右往左往させている。その表情は恐怖よりは困惑だった。
 その様子にハッとする。
「部長には、彼女が見えないんですか?」
「何わけのわからないことを言っている、そいつは俺の同級生だぞ」
 ――爆弾発言。
 八神は、幽霊の顔をまじまじと見る。女も見つめ返してくる。そして、
「バレちゃった」
 ニコッと笑った。
 怨恨に満ちた女の顔が、コインを弾くようにお茶目な笑顔に変わる。
 わけがわからない。頭の中がかき混ぜられてクリーム状になっていく。
「……一つ一つ整理したいと思います。あなたのその格好は何ですか?」
「舞台衣装」
「衣装?」
「彼女は演劇部だ。今はもう引退しているようだが」
 烏丸が憮然とした顔で説明を入れる。そうか、と思い出す。夏休み前、烏丸が言っていた。演劇部が今度ホラー系の舞台をやると。それの衣装ということか。引退した三年生も加わるとも聞いた。……だったら、さっきまでのはすべて演技だったと? いくら演劇部でも、あれほどの臨場感を演技で出すなど、並大抵とは思えない。
 ――まさか。
 八神は、酸素に飢える魚よろしく口をパクつかせた。
「あなたは、まさか」
「三枝朱里。輝くばかりの美貌と才智と演技力に恵まれた、演劇部のオードリー。まさに神に愛された娘」
 そう答えたのもまた、烏丸だった。三枝朱里は両頬に手を当てる。
「歯の浮くようなことを言わないでよ。恥ずかしいじゃない」
「……一般評価をまとめただけだ」
 烏丸が低い声で吐き捨てる。
 八神は朱里の顔から目が離せない。それを意識してか、朱里は一歩前に出て、すっぽりと外灯の光に入った。明かりの下でよくよく見てみると、その格好は粗が目立つものだった。髪の毛は不自然に艶がなく、明らかにカツラだ。あんなに恐ろしかった顔の爛れも、どっと緻密さが落ちる。かなり大雑把にメイクされたもので、全然怖くない。
 彼女はそのことまで計算に入れて、あえて暗い場所に立っていたのか。
 それを、自分は本物の幽霊だと思い込んで……恥ずかしいやら腹立たしいやらで顔が赤くなる。
「では、次の質問です。なぜそんな格好でこんな夜更けにあんな場所にいたのですか?」
 八神の不機嫌とは裏腹に、朱里は無邪気だった。
「近くの広場で舞台の練習をしていたの。普段は練習で衣装やメイクは固めないよ。でも、今日は衣装がやっと完成したから、調子に乗って決めてみたわけ。そしたら大ウケ。ちなみに、やるのは『四谷怪談』のアレンジよ」
 四谷怪談……なるほど、言われてみれば彼女は完璧すぎるほどにお岩さんだ。
「せっかくだから、誰か驚かしてやろうと思って、練習が終わってからこの神社に来たの。ほら、ここって『出る』って噂でしょ? だから岩屋の近くで人が来るのを待っていたわけ」
「誰も来なかったらどうする気だったんですか……」
 常識で考えて、その確率のほうがよっぽど高いと思う。
「十時くらいまでは待って、引き上げたと思う」
「十時ってあなた、そんな時間に女性が一人でうろつくなんてどうかしてます」
「この格好ならどんな痴漢も逃げ出すって」
 あまりにも正論で反論できなかった。背後で笑い声がする。夏樹が八神の背中を離れた。
「三枝さんって、思っていたより面白い人ですね。噂だけしか知らないから、深窓の令嬢みたいなのかと思っていました」
 朱里はおばさんみたいに手をパタパタさせた。
「令嬢も何も、うちは一介のサラリーマンの娘よ。住んでいるのは庭なんてほとんどない借家だし。あと、朱里って名前で呼んで」
 なぜだか知らないが夏樹と朱里はすでに打ち解けてしまっていた。
「でもびっくりしましたよ。神社の裏から出てくるんだから。どうやって山頂に登ったんですか?」
 それは八神も気になるところだった。神社に行くには階段以外に道がないのだ。それが、反対方向から現れたとなると、ワープか瞬間移動でもしたとしか思えない。
 朱里は自分が歩いてきたほうへ首を向けた。
「この山には、階段を使わなくても裏手に獣道があるの。整備はされていないけど、慣れれば階段より早く登れるくらいだよ」 
 裏手にそんな道があるとは知らなかった。あったとしても、夜中に獣道を着物姿で登ってくるなんて、なかなかできるものではない。しかも疲れている様子は見えない。舞台役者は演技力だけではなく体力と運動神経も問われるらしい。
「それにしても、この格好で私の正体がわかるなんて、びっくりした。絶対、誰にもバレないと思ったのに」
 烏丸のほうを見ながら、朱里が言う。烏丸は人を不愉快にさせる笑みを浮かべてこちらに歩み寄る。
「あんたが校内でお岩をやっていたのを見たからな。……それにしても八神、お前、三文芝居に騙されて叫んだりして……幽霊がいると本当に思ったのか?」
「あの状況で騙されない人間なんていませんよ!」
 つい叫ぶ。自分でも烏丸の言うことがよくわかっているため、なおのこと腹が立った。
「ごめんねー、あなたがあまりにも怖がってくれるから、面白くってついからかっちゃった。でも、あなたがヤガミさんだったのは知らなかったの。悪いことを言ったわ」
 朱里は手を合わせて、ぺろりと舌を出す。幼稚な言動をしているわりに、どこか大人びていた。
 とにかく、これで幽霊の正体はわかった。超常現象など、所詮は人間が作り出した幻惑でしかないというわけだ。やれやれとため息をつく。
 朱里は顔半分が潰れたまま、楽しそうに体を揺らす。
「私、烏丸くんが授業で当てられたとき以外に話しているの初めて見たー。なんか得した気分」
「社長息子、あんたってどんな学校生活を送っているの?」
「うるさい。そんなことより、一つばかり気になっていることがある。言ってもいいか?」
 女どもをいなし、こちらをまっすぐと見る烏丸。八神は、どうぞ、と言うしかなかった。
「黒木がいない」
 その場の全員がメデューサの魔法にかかったごとく石化する。
 何と言うか、一連の出来事で存在自体を忘れていた。
 夏樹がヒステリックに叫ぶ。
「どうしてよ、祟りに遭うのなら参拝しなかった社長息子でしょ? 何で黒木くんが消えちゃうのよ!」
「おのれ、今の言葉聞き捨てならんぞ!」
「とにかく、黒木を探さなければっ」
「探すってどこをだ、神社まで一本道なんだぞ」
 烏丸に言われて言葉が詰まる。ふもとから山頂まで、階段はまっすぐと続いている。その脇は木々ばかりで、普通に進んでいれば迷うなんてあり得ない。黒木は山の中にでも足を踏み入れたのだろうか? そんなバカな真似をするとは思えないが……。
「いや、黒木ならやるかも……」
 どこだ、黒木はどこへ行ったんだ。
 八神の焦りは、山の咆哮にかき消された。
「ちょっ、何これ?」
 夏樹が耳を押さえる。
 暗い空に、気味の悪い雄叫びが響いた。断続的に、何度も聞こえる。山が叫んでいる? そんなことがあるはずもない。だが、その声は地の底を揺らすような、すさまじい威圧感を持っていた。山全体から叫びが聞こえているのだ。
 この山は危険だ。八百比丘尼か神様か魑魅魍魎かわからないが、絶対に何かがいる。早く黒木を見つけて帰らなければならない。その黒木がどこにいるのかわからない。山の中にでも入ったのか? だったら、この暗がりで発見するのは困難だ。どうしたらいい。
「この山にはよく遊びに来るけど……こんなことは初めてよ」
 気がつけば朱里も真剣な顔になっている。先ほどまでの茶目っ気は微塵もない。
 いつまでもここにいても進まない。動かなければ。八神は階段へと走った。はずだった。が、足は自然と楼門の中で止まった。
 二つの像が見下ろしている。
 足が動かない。恐ろしい圧迫感だった。見えないゼリーで体が押しつぶされそうだ。先に進みたいのに、夢の中でもがくように、体が先に進まない。その間、絶えず強い視線を感じていた。笑える話だが、上から左右二つの視線を、だ。
 夏樹が人形を不気味と言った意味が、今やっとわかった。
 人形のことを考えないように、まっすぐと前を見る。
 そこには、底知れぬ闇の海が広がっていた。
 脆弱な外灯はほとんど意味をなしていない。
 足がすくむ。登ってくるときは無我夢中だったが、この暗さでは、足元どころか目の前も見えない。一歩間違えれば、標高五十メートルを奈落まで転げ落ちることになる。そして自分の周りでは今もあの薄ら寒い雄叫びがする。
 両頬をたたく。何を自分は怯えているか。地縛霊だと思っていた相手は生身の女性ではなかったか。人形が睨み付けてくるというのはたちの悪い妄想だ。このおかしな叫び声も……叫び声も……何か、たぶん、獣が吼えているのだ。
 八神は後ろを振り返る。
「みんな、下りるぞ。すべてはそれからだ」
 夏樹がうなずき、恐る恐る足を踏み出す。八神の横にぴったりと付いた。
 ところが烏丸は、しゃがみこんで首を小刻みに左右に振った。彼が高所恐怖症か何かだとすれば、この階段を下りるのはあまりに酷な話だろう。といって、朝まで座らせておくわけにもいかない。
 さてどうするかという時に、朱里が手を差し伸べた。
「大丈夫だよ、烏丸くん。ほら、手をつなげば一緒に下りられるよ。危ないときは私が手を引いてあげるから」
 格好はお岩さんそのもの、しかし、物腰と口調は慈しみに満ちており、誰もが安心して身を任せてしまいそうだった。とても烏丸と同い年、自分と一つしか違わない女性とは思えない。これを演技と言うのなら、まさしく彼女は神に愛されたといっていい役者だ。
 しかし烏丸の心の壁は厚かった。全く、動こうともしない。朱里さんは右手を更に伸ばす。そっと、子猫を手に載せるように柔らかに、彼の左腕をつかむ。
「触るなっ!」
 弓を弾く勢いで、手を振り払う。普通の反応とは言いがたかった。朱里は拒絶された自分の手を見てしばし固まっていた。
 言い知れぬ山の恐怖を抜くほどの、気まずい空気が流れる。
「…………」
 黙したまま、烏丸は右手を差し出した。朱里は微笑んでその手をとる。その光景を、八神と夏樹は魂でも抜かれたようにポカンと眺めていた。
「行きましょう」
 その一言で、八神は慌ててうなずく。
 恐怖はだいぶ薄れていた。思い切って、階段に足を下ろす。ゆっくりと歩き出す。後ろから、夏樹たちの続く足音が聞こえる。
 この山には幽霊なんていない。怪奇現象だと思ったもののほとんどはきちんと原因があった。だから、黒木が消えたことにも、必ずわけがあるはずなのだ。烏丸と夏樹が下りてこなかったのは足がすくんだから。静の岩屋で見た幽霊は奇特な女優だった。
 ハッと、首筋に違和感が走る。
 幽霊が朱里だとしたら、どうしても説明できないことがある。
 一番初めに幽霊を見たとき――それは、洞窟の中にいた。そして、次の瞬間には後ろに立っていた。だからこそ、朱里を幽霊と錯覚したのだ。
 岩屋の中にいたのは、誰だ?
 黒木だったんだ。静の岩屋で見たあの影は、黒木だったんだ。
 八神の捻じ曲げられていたイメージが、再形成されていく。光る眼鏡に黒い髪、細いからだと白いシャツ。あれは間違いなく黒木だった。比丘尼伝説と直後に現れた朱里の強烈な印象が、実像を曇らせていた。
 しかし、なんたってあいつはそんな場所にいるんだ。
「三枝さん、静の岩屋にはふもとの入り口以外に入る場所はないんですか?」
 後ろまで聞こえるように声を張り上げる。朱里からも返事が返った。
「名字はやめて。……あるよ、この階段の途中で、脇にそれたら……もしかして、岩屋にいるの? 黒木って子」
「たぶん。三枝……朱里さん、岩屋に行ける場所を教えてください」
「わかった。その辺りになったら教えるわ」
 さすが年上と言いたくなる精悍な声だ。
 一寸先も見えない道をひた走りに走る。「あ、そこっ、左見て」朱里の叫びに急停止する。危うく階段から転げ落ちそうになる。八神は左側にライトを振る。
 何本も木が密生して生えている。そこに、微妙に他より間隔が広く開いている箇所がある、が、それを道と呼んでいいのかは疑問が残る。
「そこよ、それ」
 隣まで追いついた朱里が指差す。付属品として後ろにいる烏丸は、なんと目を閉じている。あんた、それ余計に怖いだろう。
朱里が差しているのは、さっき八神が判断に窮していた木と木の隙間だ。やはりこれは道なのか。こんな場所に黒木は入っていったのか。
「ここを道なりに行ったら、ちょっとした傾斜があって、そこを下りるともう岩屋の中だよ」
「道なりにと言われましても……」
「待って。何か来る」
 ぎょっとして目を凝らす。たしかに、白いぼんやりとした影がこちらに近づいていた。身をこわばらせる。
「八神先輩……」
 黒木だった。
「あー、よかった、助かった。もう死ぬかと思いましたよ。あんなに叫んだのにどうしてすぐに来てくれないんですかあ」
「叫んだ? ……あの気味の悪い雄叫びはお前のものだったのか」
 黒木は眼鏡の中を渦巻きにしながら、わけのわからないことばかりわめいている。黒木の助けを求める叫びが、洞窟の壁などに反響してあの咆哮に変わっていたのだ。
「黒木、なんでお前はあんなところにいたんだよ」
 泣き声になりながら怒涛の説明を開始した。
「それが聞いてくださいよ。僕は懐中電灯で脇を照らしながら登ってたんです。そしたら、木の向こうに白い影が」
「……え?」心臓が止まるかと思った。
「――が、見えた気がしたんです。で、ちょうど進めそうな脇道があって。かるーい気持ちで入って行ったんです。進んでいくうちに急に足場がなくなって、あっと思ったときには洞窟にいました。気絶していたみたいです」
 黒木が言いつくろった部分は、あえて考えないようにする。
 だから、外からライトを向けたときも無反応だったのか。
「で、気が付いた後、辺りはまっくらだし懐中電灯壊れるし、これはやばいと思って、『おおーい、おおーい』って助けを呼んでいました」
「お前の『おおーい、おおーい』で俺たちがどれほど神経を磨耗させたと思っている」
「は?」
「何でもない……」
 黒木は額の汗をぬぐい、大きくため息を吐いた。そして顔を上げ、固まった。
「先輩、何です、このお岩さん!」
「一見でお岩とわかってもらえて嬉しいわ」
 朱里が微笑む。八神は、朱里のことを手短に説明しておいた。黒木はいまいちピンと来ていないような顔をしていた。
「はあ、酔狂な方ですね」
 黒木の気持ちはよくわかった。朱里は微笑んだまま、先を促した。黒木も拾ったことだし、降りなければならない。
「この階段、足元見えないですね」
 黒木が怖気づいたように言う。
 今更ながら、日が落ちてからこの階段を登ろうとは、あまりにも無茶な行為だったと意識する。やはり今日の我々は、何かに憑かれていた気がしてならない。それは幽霊とかそんな安直なものではなく、この山の持つ雰囲気が狂気に酔わしていく、そんなイメージだ。
「ね、あれ」
 夏樹が肩越しに下方を指差した。ふもとの外灯。その下に、人影が見えた。八神は視力には自信があった。目を凝らしてよく見てみる。髪は茶髪、眼鏡をかけている。それに青っぽい服。
「城戸先生だ」「えっ、本当」
 夏樹が前に乗り出そうとするので、肩を押さえる。彼女は久々に生き生きした顔をしていた。
「先生、ちゃんと迎えに来てくれたよ。早く下りよう」
「まあ、ほんの少しばかり遅すぎる感があるがな」
 烏丸のつぶやきはひどくもっともだったが、夏樹の一睨みにすべてはうやむやとなった。
「おいおい、みんな今まで何をやっていたんだい?」
 城戸の第一声がこれだった。
 八神は、言葉が出なかった。それはこちらの台詞だろう。今はもう夜の十時が差し迫るような時間だ。先生が来ないから、自分たちは暇つぶしに肝試しをして、予想だにしない事態に巻き込まれたのだろう。監督不行き届きだ。何でそんなにこっちが一方的に悪いと言いたげな目をしているのだ。
 ふつふつと怒りが湧いてくる。
「先生のほうこそ、迎えに来るといいながら、なぜ今まで来なかったのですか? 俺たち、八時くらいまで下でずっと待っていたんですよ」
「え?」
 城戸の顔色にかげりが見える。それから作ったような苦笑いを浮かべる。
「僕は七時にはここに着いていたよ。でもみんないなかったんじゃないか」
 八神の顔から血が抜ける。夏樹や烏丸、黒木も同じだった。
 城戸は、額に手を当てて首を捻る。
「まだ撮影が終わっていないのかと思って、しばらく車で待っていたんだけど……さすがに遅いから見に来たんだ。でも山の周りには誰もいなかった。もう少ししたら神社のほうも見に行くつもりだったよ。おっかしいなあ、どっかで行き違ったのかな」
 おかしい。何かが絶対におかしい。
 自分たちは、どこか時空の狭間に迷い込んでいたとでもいうのか。
「狐に化かされたってことにしておきましょうよ」
 後ろから、朱里がささやく。
 いろいろと腑に落ちない点はあるが、この人にこう言われると納得してしまう。実際、自分は芸達者な女性に化かされていたわけだから。
「なんだか個性的な容姿のお嬢さんが加わっているね。山でお友達になったのかい」 
 城戸が、今気づいたようにまじまじと朱里を見る。朱里は、貴婦人を気取った口調で答える。
「やだわ先生、演劇部のオードリーを知らなくて?」
「ああ、君は朱里くんか。そのメイクで気づく人間はいないよ。元が美人だから特にね」
 城戸先生は口がうまい、と思った。
「朱里くんは帰り、どうするつもりだったんだい?」
「家に電話しようかと」
「よかったら、君も送ってあげよう」
 話がまとまると、順々に城戸先生のワゴンに乗り込んだ。六人なので、わりとぎりぎりの人数だ。助手席に八神、後部座席一列目に夏樹と朱里、最後尾に烏丸と黒木が座った。
 座席に座ると同時に、体が軟体動物になる。体から一生分の生命力を抜き取られた気分だ。もう何も考えたくない。等間隔に過ぎていく道路脇の外灯を数えながら、いつのまにか眠りに落ちていた。

 真っ白だ。辺りは霧に包まれている。隆起物の影は何も見えない。どこからか、水の流れる音が聞こえる。ふらふらと足が引き寄せられる。かかとに加わる硬い感触。自分が裸足で砂利の上に立っていることに気がつく。しばらく進むと、小川が広がっていた。無色透明の、この世のものとは思えない澄んだ水だ。
 ふと、川の向こうに人影が見える。
 ――ああ。いつもの夢か。
 冷たく背を向けて立っている彼女を見て、思い出す。
 自分はすでに高校二年になった。だが、彼女は今でも中学生のままだ。中学校の制服を着て、背も伸びないまま、そこに立ちすくむ。
 いつもの夢。だが、いつもと違うことが起こった。
 徐々に、霧が晴れていく。その先にいた長い髪の少女が、手を伸ばしても霞とともに消えていく少女が、振り返った。
 こんなことは、二度とないかもしれない。
 爽夏の、ふっくらとした唇が開いた。
「恨んでないよ」
 白い肌が光に包まれ、――そして消えた。
「あぁ……」
 ――俺は、この一言が、欲しかったのかもしれない。
 夢から覚めた時、目元を手で覆いながら笑っていた。
「八神くん、どうした? 何で泣いてるんだい?」
「あ、いや、なんでもないです。俺、泣いてました?」
 城戸に聞かれて、慌てて返す。
「悲しい夢でも見た?」
 後ろから乗り出しながら、朱里が冗談っぽく笑う。八神は黙って首を振った。朱里はうなずく。
「そう、なら安心だね。私はここで降りるから。城戸先生、ありがとうございました」
「いやいや」
 もう境江市に着いていたらしい。思ったより長い時間船を漕いでいたようだ。後ろを見ると、すでに夏樹と烏丸はいなかった。彼らの住む町は白子市寄りなので、とっくに下車したのだろう。窓の外に目をやると、駐輪場と小池、奥に駅舎が見える。どうやら足子駅の辺りに住んでいるらしい。
「じゃあね。今度また映画を作るときは私も混ぜてね」
 そう言って朱里は車を降りた。
 嘘みたいな台詞だ。学園一の演技派女優が、混ぜてくれと言っている。今度がいつくるかはわからないが、強力な助っ人が手に入った。彼女なら演劇関係の人脈もあるかもしれない。栗嶋神社でのことは一苦労だったが、三枝朱里と知り合いになれたことは幸運だ。
 
 八神が家に着いたとき、当然のごとく門は堅く閉じられていた。
 
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