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名探偵はいない(二)


 ○事件前日

「やっぱり、ヒロインですよ。可愛くてキュートなヒロインが必要なんです。ぱっと目を引くような、光り輝くような――とまでは言いませんけどね」
 教室前の廊下を歩きながら、黒木が力説した。昨日の話し合い(と言えるかは各々の意思に任せるが)によって映画制作が決まったが、さすがに男ばかりの映画というのでは面白くない。烏丸が協力しないと言い張っているのだから、活動するのは八神と黒木の二人だけ……ここはなんとしてでも役者兼制作協力者が必要だ。
「僕、女友達っていないんですよね。男友達もいないけど。八神先輩、誰か知り合いに可愛い娘いませんか?」
「当てがない、こともない、が……」
 八神は言葉を詰まらせた。黒木が不思議そうな顔をして見ている。
 一人、いる。正直、自分が友達なんてやっていていいのか、と言うくらいに美人が。母譲りという砂金色の髪をしていて、瞳が赤みがかっていて……が、しかし。
 八神は天平にかけなければならない。
 映画研究部の存続を取るか、彼女の心の平安を取るか。
 答えは、存外あっさりと出た。考えるふりをしてみただけだった。自分は昔から卑怯な男だった。
 自分の隣にいる、おかっぱ頭の少年に目を向ける。
「美術室行くぞ」
 教室棟と、美術室のある特別教室棟は並んでいるが、渡り廊下が北側にしかない。八神の教室は二階の一番南側である。黒木の教室もまた、一階の一番南側だ。その上、美術室も特別棟の一階南端、映画研究部の部室は同じ位置の三階だ。つまり、端から端まで移動しなければならないのだ。移動による時間のロスが半端なものではない。
「しかし、毎度ながら移動が面倒ですよねー」
 八神が思っていても口に出さないことを、やすやすと黒木は声にした。
 渡り廊下のすのこを踏みしめて歩く。
「どんな人を誘うんですか? 美術部員なんですよね」
「ああ……。顔は綺麗だけどすごく気位が高いんだよな。部長の女バージョンと言ったらいいのか」
 黒木の顔が見る見るゆがんでいったので、慌てて付け加える。
「でも、けっこう可愛いところもあるんだよ。それに、部長は内弁慶だから内輪だと横暴になるタイプだけど、彼女が性格が悪くなるのは嫌いな相手の前だけなんだ。仲良くなると、本当にいい子なんだよ。ほら、夏樹恵って、金髪の女子。見たことないかな?」
 黒木の眉毛が持ち上がった。この後輩は分厚いレンズに阻まれて口ほどにものを言う目から感情を読み取ることができない。他の表情筋の動きからその腹を推し量る必要があった。
「夏樹恵って、あの夏樹恵ですか? 知ってますよ、ハーフの人ですよね。あの人ならたしかに見栄えがしますねー。でもちょっと気が強そうです」
 詳しいな……と思いつつ、フォローを入れる。
「いや、負けん気は強いけど、根は臆病だよ」
「先輩、あの人と親しかったんですか」
「ああ。中学の時、同じクラスだったんだ」
 八神は手短に答えた。「ほらついたぞ」、すぐに付け足す。
 特別教室棟は人気がなく、閑散としていた。
 八神は美術室の扉に手をかける。このままノブを回せば済むものを、少し躊躇した。ふと、第一ボタンを外していることを意識し、胸を正す。五月も終わりが近づけば、学ランでは少々汗ばむ。詰襟のホックすら絶対に外さない烏丸部長を思い出し、さすが、何だかんだでお里が違うなと思った。八神の家も土地持ちではあるが、四人姉弟の末にもなればそんな意識はつゆほどもない。旧財閥烏丸一門ご令息……烏丸家。気分が大きく沈んできた。
 もぞもぞしている八神を黒木がせかす。何をやっているんだと言わんばかりに肘でつついてきた。態度のでかい後輩である。運動部では絶対に生きていけないタイプだろう。
 仕方がなく、扉を押し開ける。甲高いきしみを上げながら空間に切れ目ができる。
 他の部員はまだ来ていないらしく、美術室には、一人しか生徒がいなかった。
 夏樹恵はこちらに背を向けて、油絵を描いていた。ソファに座る猫の背景に夕日に染まる宮殿がそびえる、摩訶不思議な絵だった。
「夏樹さん」
邪魔になるのだろう、長髪を結んで、髪留めで上にとめている。そのため、後ろからでも耳にはめられたイヤホンがわかった。
「夏樹さん」
 さっきより若干大きな声を出す。キャンバスの上を滑っていた絵筆が止まる。イヤホンを外しながら、振り返った。ビー玉のような瞳を転がしてこちらに向ける。
 イヤホンからかすかにメロディが漏れている。
「何、聴いてたの?」
「『失格』」
「また橘いずみ? やめろよ、欝になる」
「そこがいいんじゃない」
 さらりと答える。
「それにしても、八神、どうしたの? 珍しいよね。あんたがわざわざ美術室にまで出向いてくるなんて」
 ブレザーが汚れないように着ている白衣を脱ぎながら、笑いかける。大きな目をくりくりさせて、興味津々といった感じだ。八神もまた無理に目じりを下げてみせる。笑うのは苦手だし、人相が悪いので笑っても恐いだけだが、まあ、これが礼儀というものだろう。
「映画研究部で、今度、自主映画を撮ろうって話になったんだ。それで、夏樹さんにぜひともヒロインをお願いしたいんだけど」
「私がヒロイン? それってご指名?」
 夏樹の顔が華やいだ。八神の目の前まで行き、自分を指差す。
 八神は大きくうなずいた。
「ああ。俺の中のヒロインは夏樹さん以外にいないんだ」
 ちらりと黒木のほうを見ると、口を半開きにしていた。見なかったことにする。自分は一年生の頃からずっと映画が撮りたいと考えていた。今はそのまたとない機会なのだ。後輩に馬鹿にされることも、嘘をつくこともいとわない。
 正直、八神にとって人生のヒロインは一人しかいなかったが、それは夏樹ではなかった。
 そんなことは知らない彼女が、頬を赤らめて気分をよくしている。
「しょうがないなあ。コーヒーおごってくれたらいいよ」
「もちろん、そのくらいはするよ。映研の部室は台所つきだからね。食器棚にマンデリンの挽き豆があったはずだから、ごちそうするよ。アイスもあるし」
 部員が少なく、影の薄い部活に限ってやたらと設備がよかったりするものである。インディな映画(主に部長好みの)を観ながらお茶会としゃれ込むのが今までの映画研究部のあり方だった。だが、これからは違う。体育会系宜しくみなで団結し、機材を担いで外に繰り出し、声を張り上げて撮影をするのだ。
「夏樹さん、美術部のほうは大丈夫なんですか?」
 イーゼルに立てかけられた身の丈ほどありそうな油絵を見ながら、黒木が聞いた。たしかに、美術部の部活があるのに、こちらの制作を無理に手伝わせるわけにはいかない。
 夏樹は手を蝶のようにひらひらさせた。
「平気、平気。急いでないし。それに、油絵具って乾くまで何日もかかることもあるから、暇つぶしになるわ」
 八神としても、四六時中彼女を借り出そうと考えているわけではない。初めに、どんな系統の話を撮りたいかの、出演者としての意向を聞いて、後は台本ができたら出演シーンだけ出張してもらう予定だった。
 問題ないだろう。
「じゃあ、さっそく部室に来てもらいましょうよ」
 黒木も乗り気になったようだ。夏樹は手を洗い、パレットの絵具にラップをかけた。後で帰ってきてまた続きをやるつもりらしい。
 映画研究部は三階で、美術室と同じ南の一番奥だ。手際よく片づけをした夏樹を連れて、階段を登る。
「映画研究部のメンバーって、八神と黒木くんの二人だけってことはないよね? それじゃ廃部だし」
 八神の胃がずしりと重くなった。口を変にゆがめながら、言葉をつなぐ。
「うん、あと一人、三年生の部長がいるんだけど……」
「へえ、誰? 名前聞いたらわかるかな」
「たぶん……名前くらいは、知ってるかな」
 無邪気に顔を覗き込んでくる夏樹に、曖昧な言葉しか返せない。烏丸は放課になるとすぐさま部室に直行しているらしく、八神が訪れるころには椅子に座り悠々と紅茶をすすっている。今日もきっといるだろう。
 部室の前に来た。扉にはめられた曇りガラスでは中が見えない。ドアノブに手をかけたまま、八神は硬直する。
「どうしたの?」
 不思議そうな様子の夏樹。首筋を人知れず汗が伝う。のどに言葉がつっかかる。
「実は、ちょっと問題が……」
「あー、もう。今日の先輩、おかしいですよ?」
 黒木が八神の手を払う。ドアノブを引っつかむと、何のためらいもなく引き開けてしまった。
 扉のすぐ横にあるビデオ棚。中のものの物色をしていた烏丸が、顔を上げる。誰かと目が合ったのか、目つきが変わった。八神は、彼に怯えの色が浮かんだところを初めて見た。
 次の瞬間、場の空気が澱んだ。全身から針のような殺気を発する人間がいたのだ。
 彼女の目は、もはやビー玉の輝きを失っていた。光の届かない世界をその瞳に凝縮して、烏丸を射抜く。
「まさか、あんたが映画研究部の部長だったとはね――烏丸、洋介……っ」
 ぬかるみのように一度絡みつくとなかなか取れない、そんな声色。ぞっとした。黒木も異常な状況を察したのか、さっきから夏樹と烏丸の顔を交互に見ながら口をパクパクさせている。
 ミロのヴィーナスが爆発した。
「冗談じゃない!」
 静かな校舎内に、怒声がこだまする。
「私の父さんの会社は、この男の親に取りつぶされたんだから! 汚いやり口で中小企業を潰して自分の会社を大きくして。あんたのせいで、父さんは精神衰弱に陥って今でも病院に入院しているのよ! 母さんはショックで髪を下ろして尼さんになった!」
 やはりまずかった。夏樹を連れてきたら、こうなることはある程度予想はついていたはずだ。何とかなるだろうと高をくくった自分の甘さを再認識する。
 夏樹は烏丸家のことを殺しても殺したりないくらいに憎いと言っていた。それほど憎みたくなる理由が彼女にはたしかにあった。
 烏丸は、黙って彼女を見ていたが、やがて立ち上がる。いつもの不適な笑みを浮かべながら、椅子を回して背を向けて座る。後姿から嫌味な声が聞こえた。
「何かと思えば貧乏人の嫉妬か? うちの学校はお前のような小汚い娘が来る場所じゃないんだよ。八神の家だってこの土地の名士だし、黒木の親は大手水産業者の一族だ。来る学校間違えたんじゃないのか? いったいどうやって学費を払っているのやら。ああ、そうか。お前、たしか売春してるなんて噂もあったよな。まったく、汚らわしいことこの上ないわ。親の顔が見てみたい。あ、父親は精神病院だって? やっぱりなあ、そんな人間にまともな会社経営なんてできるわけがない。つぶれて当然、って感じだよなあ」
 身体の血液が足元から凍り付いていく。
 ――何、考えてんだ? 部長。
 明らかに、明らかに言いすぎだ。喧嘩の売り言葉や買い言葉にも、決して超えてはいけない一線がある。八神の知る烏丸は、瞬間湯沸かし器ではあるが、その辺のことはわきまえている人間だった。
「八神」
 夏樹の無機質な声に、身体が痙攣する。
「はいはい、何でしょうっ?」
「コーヒー、ちょうだい」
 八神は、数秒間、何を言われたのかわからなかった。すぐにはっとして、準備室に駆け込む。棚から挽き豆を取り出し、湯を注ぎ素早くろ紙でこして用意する。コーヒーメーカーもあるが、急ぐので簡易な方法でよろしいだろう。なぜ自分がこんなことを、とは思わない。部室の最悪な雰囲気を離れることができるので、よほど気分が落ち着いた。
「はい、どうぞ」
 夏樹が好きなのはブラックコーヒー、特にマンデリンのストレートだ。彼女の好みは掌握している。カップに注いで――間違っても部長のカップに入れてはいけない――三十秒もせぬうちに差し出す。夏樹は軽くうなずきながらそれを受け取り、立ち上る湯気の香りを味わう。
 夏樹が一飲みすると、それに合わせて喉元が動く。これで少しは落ち着いてくれたら……八神はそう思った。
 が、カップから口を離した瞬間、夏樹はそれを投げ飛ばした。
 黒いしずくを振りまきながらコーヒーカップが滑空する。刹那を過ぎて、烏丸の頭にぶつかり粉砕した。黒木が叫び声を上げたのはそれとほぼ同時だった。
 そんな状況とは裏腹に、冷徹に相手を見据えるときの夏樹というのは、普段より数段、怖気がするほど美しい。彼女の生き様のようなものが凝縮されている。自分の思考に八神は呆然とした。こんなときに、何を考えているんだ自分は。
気分を落ち着け、烏丸のほうに視線を移す。
 艶髪を黒くて熱い液体が滴り、学ランに一つ二つと染みを作っていた。割れた破片が机の上に散乱して――と、乱暴な音が鼓膜に刺さる。
 椅子を蹴り、烏丸が振り向いた。破片の上に手を付き、恐ろしい形相で夏樹を睨み付ける。かなり興奮していた。今にも飛び掛らん勢いの烏丸に、夏樹は肩をピクリとさせただけで、動じる様子はない。それどころか、小首をかしげ、侮蔑の笑みを浮かべて見せた。コーヒーまみれの烏丸の顔が見る見る紅潮する。
「烏丸部長っ!」
 すかさず八神が二人の間に割り込んだ。自分の背中で夏樹を隠す。突然、目の前に現れた八神に烏丸はひどく驚いたようだった。顔から毒気が抜けている。鼻がくっつきそうなくらい顔を近づける。
「ほら、何て言うか、夏樹さんって情緒不安定って言うか、すぐにカッとなる癖があって、べつに悪気があったわけじゃあないんです。ちょっと手が滑っちゃっただけで、やだなあ、もうドジっ子なんだから! まあまあ、部長のほうが上級生ですし大人ですし、年下のやることと思って許してやって、……あ、夏樹さん!」
 おおげさなジェスチャーとともに、口を高速で動かす八神。その普段にはない迫力あるいは圧力のようなものに、烏丸は待ったをする隙も見出せないようだ。しかし、八神が必死で部下の失態を謝る上司を演じる中、夏樹は部室を出て行ってしまった。後には乱暴に閉められた扉の音だけが響いた。
 このままではまずい。
 八神もすぐさま後を追った。
 静まりかえる映画研究部部室。烏丸は、肩で何度も息をした。全身の筋肉を硬くさせる。そうしなければ、震えが止まらないからだった。
 ふと、息を呑む声が聞こえて、自分が一人ではないことを思い出す。後輩はさび付いたブリキ人形のように、ぎこちなく手を持ち上げた。
「あの……」
「もういい。お前帰れ」
「でも」
「帰れ」
 終始まごついた動きで、黒木は荷物をまとめた。何を動揺しているのか、ビデオデッキの接続コードに足を引っ掛けて転んだ。立ち上がると脱兎のごとく逃げていった。
 立ち上がった姿勢のままだったことに気がつき、無造作に座る。
 片手で前髪を掻きあげる。まさか熱せられたコーヒーをワックス代わりにすることになるとは思わなかった。学ランはおろか、中のカッターまでぐっしょりと湿って気持ちが悪い。……母に何と説明しようか。
「馬鹿らしい」
 イジメと説明しようが何となくコーヒーで頭を洗いたい衝動に駆られたと説明しようが、「あら、そう」の一言だ。わかりきっていることではないか。
 突然、胸の中に憎悪が湧き上がってきた。夏樹恵。あんな目でにらまれるくらいなら、死んだほうがまだマシだ。畜生め。
 左手の親指。巻かれた絆創膏をはぐ。先日、噛み割った爪がまだ治っていない。いっそ今度は剥いでしまえばいい。痛ければ痛いほどいい。指が痛ければ他の痛みがわからなくなる。
 平和大国日本。またの名を自殺大国日本。自殺というのは、自分を殺すと書く。「自死」ではなく、「自殺」。自殺は唯一法的に認められた殺人だ。これを統計に含めていれば、日本の平和神話などというものは二十年も前に崩壊していたのではなかろうか。
 机に転がる大きな破片に左手が伸びる。握り締めると、手の下に血溜まりができた。血とコーヒーの混じった液体に濡れる破片を右手に持ち替える。それで左手首を引っかいた。何度も。何度も。何度も。何度も。
 いっそのこと、自分を殺してしまいたい。
 中庭の噴水前で夏樹に追いついた。息も絶え絶えに彼女の肩をつかむ。振り返った顔の眉はこれ以上ないほどつりあがっていた。興奮に顔を赤くして、まるで癇癪を起こした幼稚園児のようだった。
「八神の馬鹿。どうしてあいつの味方するのよ」
「べつに俺、部長の味方は、してない……よ?」
「してるじゃない!」
 八神の小さな声の弁明を、夏樹はさえぎった。
「……ごめん」
 うつむき、顔を手で覆う。声色に感情をにじませる。
「俺、自分のことしか考えてなくて……夏樹さんが部長のこと嫌っているの知ってたのに……最低だよ」
 夏樹は黙っていた。八神は顔を上げると、真摯な瞳を彼女に向ける。今までとはうって変わった、強い口調で言う。
「でも、俺……どうしても、『夏樹さん』をヒロインにした映画が撮りたいんだ」
 風が木々を揺らす。バッグでは夏樹のイヤホンから漏れる音楽が流れている。ちょうど、サビの部分だ。中庭の噴水が、入り日を受けて赤く輝いていた。首のないマリアも、このときばかりは美しく幻想的に感じられる。
 目に痛いほどの金髪が風に流れる。流れる前髪の合間から、赤みを帯びた瞳が見え隠れする。
「嘘つき」
 八神の心臓が三センチほど跳ねた。彼女の「嘘つき」にはそれだけの威力があった。
 そう、自分は嘘つきだ。他に当てがないから、何としてでも夏樹さんを役者に引き込もうとしている。
「でもいいか。悪い気しないし」
 内心で狼狽しきっていた八神に、夏樹は言った。目をそらし、とても悲しそうな顔をしていた。それを見たとき、八神は胸が苦しくなった。二年ほど前まで、彼女はよくこのような顔をしていた。
 八神は確信する。夏樹の行為はやりすぎていたと思う。だが、悪いのは烏丸部長だ。夏樹さんにこんな顔をさせた時点で、審判は下ったのだ。たとえそこにいたるまでにどのような過程があったとしても、部長が悪い。自分も最低だが、意図して彼女を傷つけた、烏丸部長の罪は重い。
 八神は夏樹の両肩をしっかりとつかんだ。
「大丈夫。部長のことは、俺が何とかするから。絶対に、夏樹さんをこれ以上傷つけないから。俺が、何とかするから」
 絶対に。こんにちこの日の夕日に誓って。
 しばらく、夏樹は動かなかった。やがて、うなずくと美術室に戻っていった。
 八神は噴水前のベンチに座ってため息を吐く。しばらくして、またため息を吐く。また吐く。幸せの妖精の大量虐殺だ。
「八神先輩」
 脆弱な声がして、顔を上げる。ひどくしょぼくれた様子の黒木がいた。
「黒木、どうした」
「部長に追い出されたんですよ。先輩も、今日は部室に戻らないほうがいいですよ」
 八神の学生鞄をベンチの上に置き、自分もその隣に座る。わざわざ持ってきてくれたらしい。
 口を尖らせながら、八神を見上げる。
「何やってるんですか。その前に、あの後どう話がついたんですか」
 八神は、先ほどの出来事を手短に話した。黒木はおおげさに顔をゆがませた。
「まだ夏樹さんを使って撮影する気なんですかあ? あれはまずいでしょう。部長と彼女を同じ空間に置いておくことは危険です。だいたい、顔合わせて三分で、なんたってああいう展開になるんですか」
「相手の神経逆撫でしたがるタイプだからな、二人とも」
「これだから嫌なんですよ。プライドの高い人間と高い人間が衝突するとろくなことが起きやしない」
 黒木は伸びた髪をくしゃくしゃにする。八神もそれは同感だった。
「僕、気になったんですけど。部長って、夏樹さんの顔見た瞬間に固まりましたよね。あの二人、前にも会ったことがあるんですか?」
 黒木の洞察力に、いささか驚いた。夏樹が烏丸の顔を知っているのはともかく、烏丸が夏樹を知っているというのはたしかに不自然だ。
 八神は目を伏せてかぶりを振った。
「二人が顔を合わせるのは、これで二度目だよ」
 ベンチの正面には、つつじが植えられている。八神は、群れて咲く淡紅色の花を見ていた。
「烏丸部長ってさ、以前はけっこうモテていたんだよね。……一年くらい前まではファンクラブとか親衛隊とかもいたんだよ、漫画みたいだけど」
「まあ、部長は家良し顔良し頭良しですからねー。性格はちょっと問題ありますけど」
 いかにも興味なさげな口調だ。まあ、それはそうだろう。
「去年の春、二年生になった烏丸部長は、生徒会選挙で会長に立候補したんだ。部長は絵に描いたような優等生だからさ、誰もが当選確実だと思っていた。だが、この時、思いもよらぬ事態が発生した」
 八神は当時のことを思い出す。
 選挙当日。颯爽と壇上に上がった烏丸洋介。癖のある猫毛をきっちりセットし、背筋を伸ばして微笑する。あの時の彼は自信に満ち満ち、銀幕のスターよろしく輝いていた。おそらく、黒木には想像できないと思う。当時の生徒は口をそろえて言う。あの輝きは決して七光りではなかった、と。
 烏丸が演説を開始するべくマイクを取った。ちょっと待った、とそれを制する声が講堂に響く。生徒たちは困惑にざわめいた。反面、何か面白いことになりそうだとも思った。
 マイクを持ったまま硬直する烏丸。その前に、一人の女生徒が進み出た。エキゾチックな容姿から密かに話題になっていた新入生――夏樹恵である。彼女は、選挙活動をする姿を見て、烏丸家の息子が同じ高校にいると気がついた。そして、憎い男に最大の屈辱を与えるべく、舞台に乱入したのだ。
 夏樹は烏丸からマイクを奪い、烏丸家の悪行を熱烈に語り始めた。どんな会社でも、大きくなれば黒い話の一つ二つは必ず出てくる。夏樹の言ったことには、事実もあれば嘘や曲解もあっただろう。だが、真実否かは問題ではない。傍観者の受ける印象が重要なのだ。
 彼女の演説の間、八神はひたすら石になり動かなかった。
 結論を言えば、烏丸は生徒会長になれなかった。また、その日から周囲の見る目が何となく変わった。知る限りイジメや嫌がらせはなかった。ただ、何となく孤立していき、何となく、気がついたら彼を取り巻いていた人間はいなくなった。今まで黄色い声を上げていた女子も雲散霧消した。
「女なんて現金なものさ」
 まだ部員になって日の浅い八神に、そう言って虚無的に笑いかけた。たしか、あの日鑑賞した映画は『ローマの休日』だった気がする。烏丸の傷心は、母の日のカーネーションのごとく、少しずつ花びらを散らしながら干からびていった。
 以来、当時からの学生で烏丸と夏樹の名を知らないものはいなくなった。今年入学した黒木にとっては初めて聞く話で、信じがたいかもしれない。
「そんなことがあったからさ。今日も、二人とも少し熱くなりすぎてしまったんじゃないか」
「とんでもない女性ですね、夏樹さんって……。その徹底ぶりはある意味尊敬しますが。先輩も苦労人ですね」
 まったくだよ……。
 夏樹には、心の水風船が膨らみきると何をするかわからない、そんな危うさがあった。
「だからさ。今回を機に、和解してもらえればベストなんだよな」
「八神先輩。世の中には、分かり合えない人種っているんです」
 いつになく悟りきった口調で言う黒木。
 八神は苦笑した。
「わかってる」
 もしもどうにもならないようなら。そのときは、そのときだ。

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