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名探偵はいない(三)


 ○事件当日
 けだるい午後が過ぎ、放課後が訪れる。といっても、すぐに部室へ行けるわけではない。今日の八神は掃除当番なのだ。クラスメイトが「牙突零式!」と叫びながら箒を構えるのを横目で見ながら、机を運ぶ。
 窓辺の、列の一番後ろに机を下ろす。開け放たれた窓から風が流れてくる。外は今日も快晴だ。水で薄めた青絵具が空いっぱいに塗りたくられていた。
 ようやく、すべての机を元の位置に戻すことができた。クラス全員のものを運ぶのはさすがに骨が折れる。教室掃除の生徒は男子五人だ。しかし、他の生徒は無数の斉藤一になっており掃除どころではなかった。仕方がないから空きスペースに集められたごみを、八神は一人でちりとりに集めた。
 道具入れに箒とちりとりを投げ込む八神に、ようやく一人が気づいた。
「あ、悪い、八神くん。何か全部やらせちゃって」
「いいよべつに」
 一人のほうがはかどるし。それに、謝るなら初めから手伝うべきだ。
 寄ってきたべつの男子が首に腕を回してきた。
「つか、お前、まじめ過ぎだって。一緒にサボればいいじゃん」
「みんながサボったら、教室が汚いままで掃除してないのがわかるだろ」
「じゃ、来週から一人ずつ交代にしね? 何か悪いからさ」
「いや、俺、掃除好きだからさ。左片手平突きとかできないし」
 そうか、と屈託なく笑って男子の輪に戻っていった。悪気はないのだろうが、こういう馴れ馴れしさが、八神は苦手だった。
 荷物をまとめ、教室を出る。と、階段前に見覚えのある眼鏡とおかっぱの少年がいた。学ランの上の変わりにセーターを着ている。
「お前、先に行っていてよかったのに」
 黒木は、とんでもないという風に肩をすくませた。
「嫌ですよ、一人で部室に行くだなんて。昨日、あんな気まずいことがあったのに。烏丸部長と二人きりになったら僕どうしたらいいか」
 それはその通りだと思った。待たせてしまったことを詫びながら、並んで階段を降りる。
 特別教室等までの気の遠くなる道のりは、与太話にはもってこいだ。
 夏樹の採用について、黒木はまだうだうだ言っていた。
「先パーイ、やっぱり無理ですよ。夏樹さんを役者に使うのは。どうせなら楽しく撮影したいし」
 八神は、ゆっくりと息を吐く。
「なあ、黒木」
「はい?」
「お前、誰か他に可愛い女の子連れてこれるのか?」
 渡り廊下に重い空気が流れる。野球部のホームランを打つ音が聞こえた後、一言、
「美術室、行きましょうか」
 美術室では、夏樹が油絵の続きを描いていた。
「あ、八神。ごめん、これから片付けるから」
「いや、無理に手伝わせてるのはこっちのほうだからさ。謝らなくていいよ」
 八神が答えると、絵の具の付いた手を上げておどけてみせる。
 昨日とは違い、穏やかな笑顔に安堵する。
 と、そのすぐ後、
「あ、何か着信入った」
 言うなり、黒木は携帯電話を片手に姿を消した。夏樹といる時間を減らしたくてわざと席をはずしたんじゃないかと勘ぐってしまう。まあ、絵具の片付けをする時間がいるので、ちょうど良いタイミングだ。
「それで、どんな映画を撮る予定なの?」
 水道で手を洗いながら、夏樹が話しかけてくる。
「うん、まだはっきり決まってなくて、これから話し合おうと思ってる。俺としてはアクションとかいいな」
「私は恋愛モノにしてほしいな。主人公と恋に落ちる悪の女科学者。どう、素敵じゃない?」
「なるほど。ちょっとイメージが湧いてきたよ。黒木は特撮が好きだから、いっそ悪の秘密結社や宇宙人と戦うベタベタなやつにしても面白いかも」
「いいんじゃない?」
「烏丸部長は真面目なのが好きだから、社会風刺とかも盛り込んで……」
「社長息子の話はしないで」
「あ、ごめん」
 急激に下がった声のトーンに、しまったと思う。すぐに謝って違う話題を考える。
「そういえば、不眠症のほうは治ったの?」
「ううん、それが全然で、睡眠薬が手放せないの」
 そんな話をしていると、黒木が帰ってきた。不服そうな顔で携帯の青いボディを見つめている。
「何か間違い電話でしたよ。最悪です。しかもなかなか相手が切ってくれなくて」
 延々と愚痴を垂れだす黒木。放っておくと日が暮れてしまいそうな勢いなので、適当なところでさえぎる。
「わかったから部室行こうな」
 階段を登るあいだも、まだ黒木はぶつぶつと言っていた。
 部室前に着く。今日の八神は普段以上に緊張していた。烏丸に対しどう反応を取るかを脳内でシミュレーションしているうちに、黒木がさっさとドアノブに手をかけていた。
 あっと思う隙もなく、扉が引かれる。と同時に、「うわあああっ!」
映画でしか聞いたことのないような絶叫が響いた。
「どうした黒木?」
 心底驚いて肩をつかんでこちらを向かせる。黒木は青ざめ、歯を鳴らしながらドアの隙間を指差していた。
 生臭い予感が広がった。考える前に、ノブを思い切り引っ張る。何かがつっかえているようで、思うように開けない。
 ふと思い立ち、黒木の見ていた所に視線を移す。壁と、扉の隙間。
 鳥肌が立った。
内側のノブに、人間の頭が吊り下がっている。
ノブには電気コードがぐるぐる巻きにされていた。それによって首が厳重に固定されている。胴体はぐったりとし、動く気配がなかった。
「部長――」
 ドアノブで首吊り。間違いない。
「やだ何これ!」
 気付いた夏樹が短く叫ぶ。
 このまま固まっている場合ではないことに気がつく。首に手を当てると、動脈がわずかに波打っていた。
「まだ生きてる、救急車呼べ!」
「わかりました」
 黒木が大慌てで部室を飛び出す。
 コードを解こうとするが、あせりのせいかうまくできない。烏丸の頭よりも輪の幅のほうが太いことがわかり、顎を上げて輪を外す。支えを失った烏丸の体は、力なく崩れ落ちた。その肌には血の気がなく、蝋人形のようだった。呼吸はしていない。
 少しでも早く救急車に乗せてもらえるように、彼を背負って部室から連れ出す。
 烏丸は八神より長身だ。痩せ型ではあるが重たいことに変わりはない。ゆっくりしか動けない自分に苛立ちながら階段を下る。
 一階の廊下の途中で、吹奏楽部と思しき楽譜立てを持った女生徒とすれ違う。どうしたの? と言われたので、貧血で倒れたのだと答えておいた。
「男子の先輩呼んでこようか?」
「いや、大丈夫。あんまり騒ぎにしたくないんだ」
 一番玄関に近い空き教室まで運んで待つ。五分ほどで担架を持った救急隊員が現れた。
 けたたましいサイレンが遠のくまで、八神の意識は灰と化していた。
 烏丸はすぐに病院へ搬送された。
 幸い、発見が早く、命に別状はなかった。救急隊員の話では、すぐに意識を取り戻すだろうということだった。
 学校に救急車が来たのだから、当然、ちょっとした騒ぎになった。特別棟にいた他の部の生徒、外にいた運動部も野次馬に現れた。八神たちは質問攻めに遭うが、事情が事情なので、はぐらかすのに苦労した。 
普段は不在の顧問も険しい顔を下げてきた。今日は部活はなし、早く帰るようにと言いつけると、早々と部室を出て行った。
が、三人は帰らなかった。
部長があんなことになって、帰れと言われてすぐに帰れはしないだろう。
また、今外に出て、他の生徒から根堀葉堀と質問されるのは嫌だから、ほとぼりが冷めるまで部室に閉じこもっておくという魂胆もあった。
「部長……」
 まだショック状態が抜けきっていない。部室内は慣れ親しんだそれとさして違いはない。長机の上にはティーカップが置かれ、紅茶の残り香が漂っている。その横に積まれたビデオも、驚くほどいつもと変わらない。今しがたここでこの場所の長が首をくくっていたなどと、考えれば考えるほどに非現実的だった。
 窓枠に寄りかかる八神の隣に、黒木が寄ってくる。顔も声もひどく沈んでいる。
「びっくりですね。まあ、吊ってから五分ほどしか経っていなかったから、大事にはいたらないって話ですけど。まったく、運がいいですよ」
「あの社長息子が自殺なんてさ――」
 一人席に着き、自分の手を見つめている夏樹。
 声にこそ出ていないが、私のせい? と続いていた。
 そんなことはない。夏樹さんは関係ない。八神はそう強く思った。
「自殺とも限らないぞ」
 八神の言葉に、二人が顔を上げる。手を持ち上げ、慎重に机を指差す。
 飲み干され、そのまま放置された紅茶のカップ。また、今日観る予定だったのであろうビデオがいくつか積まれている。一番上には『ごんぎつね』のタイトルが踊っていた。おととい三島で今日ごんぎつね……烏丸部長の求める芸術とはいったいどこへ向かっているのだろう。
「これから死のうとする人間がこんなことをするか?」
「えと、つまり……」
 夏樹の目に困惑の色が浮かぶ。オーバーアクションで黒木が叫んだ。
「誰かが自殺に見せかけて部長を殺そうとしたってことですね!」
「まあ、部長の意識が戻ればはっきりするだろうが」
 そうだ。烏丸は死んだわけではない。後遺症も残らないだろう。大騒ぎするほどの事態は起きていない。彼が起きるまで、待てば済む話だ。
「それじゃあ駄目ですよ!」
 黒木が鼻先に顔を近づけてきた。予想しない迫力に、身じろぎする。黒木は顔を離し、両手を広げた。
「部長が黙って犯人に首を吊らせるはずがありません。きっと意識を奪われていたんでしょう。だったら、犯人の顔は見ていないはずです。僕たちで犯人を暴きましょう!」
「……お前、何か楽しそうだな。キラキラしてる」
「面白いじゃないですか、こういうの」
 平然と答える黒木に、呆気に取られた。
「不謹慎な」
「べつに部長は死んだわけじゃないんです。不謹慎というほどのことでもありません。ゲーム感覚で推理でもして見ませんか」
「うーん……」
 八神としては、正直、首を突っ込みたくなかった。というより、深く考えたくなかった。同じ学校内に、人殺しを考える人間がいるだなんて。そんなことは、意識の外に追いやってしまいたかった。烏丸が目覚めた後、これは俺の自殺未遂だ、と言ってくれたほうが、よほど気分が楽に思えた。――八神の直感と部室の状況は、その願いをあっさりと否定しているが。
「馬鹿らしい。あんなやつ、自殺でも殺人でもどうだっていいわよ」
 さもうんざりしたように夏樹が言う。眉根を寄せ、不機嫌な顔をしているが、それが強がりであり、動揺を隠すためだということが八神にはわかった。
 黒木が夏樹の横に立ち位置を変える。
「夏樹さんは部長のこと嫌いなんですよね」
「殺す価値もないほどに嫌いよ」
 ぶっきらぼうに言い放つ夏樹。席を立って黒木から離れる。しかし、しつこく黒木は後を追いかけた。
「それにしても、昨日のやつ、ちょいとやりすぎなんじゃあありませんか? それに、一年前のことも八神先輩から聞きましたよ。あそこまでやったら、いくらなんでも正当化しきれないでしょ。中立的な立場から見れば、烏丸部長が被害者に思えます」
 夏樹が般若の形相でこちらを睨みつける。八神は身を縮こまらせた。
「あんたに何がわかるのよ!」
 黒木が吹き飛びそうな勢いでどなる。外に出て行ってしまった。部室内にはとがった空気だけが置き土産にされた。
「とことん怪しいですね――っイタッ」
 意にも介さず顎をさする黒木を殴った。八神の顔を見て、黒木は開きかけた口をつぐむ。八神に眼を飛ばされると、よほど気の強い上級生でも道を開けてしまうほどなのだ。
「黒木、無知は罪だと自覚しろ。人の心に土足で入るな」
「だって! そりゃあ夏樹さんの家は大変だったかもしれませんよ? それにしても普通じゃないでしょ。全校生徒の前で罵るとか、熱いコーヒーの入ったカップを頭にぶつけるとか!」
 部長とビデオについて激論しているときとは違う、真剣な怒りが滲んでいた。今度は八神が黙る番だった。
 黒木は、ふぅーっと長く息を吐きながら、出入り口のほうを見た。
「言っときますけどね、僕は部長の味方ですよ。そりゃまあ、高飛車でわがままで時々すっげームカつく時もありますけど、態度ほど悪い人でないのは知ってますから。だから、もし、部長をこんな目に遭わせた犯人が彼女だったとしたら、僕は絶対に許さない」
 面白半分なんかじゃない。黒木は、本気で犯人を捜そうとしている。
他人である部長のために、ここまで彼が怒りを見せることに驚きを隠せなかった。自分の世界以外には何の興味もなさそうに思っていたのに。八神ですら、犯人に嫌悪感は持つものの、追い詰めようとは考えなかった。「すら」、というのは間違っている。八神は、自分が冷たい人間なのだと悟った。
「……夏樹さんの受けてきた仕打ちを考えれば、そんな無責任なことはいえなくなる」
「仕打ち?」
「ああ。家が貧乏したことでさ、中学時代かなりえぐいイジメを受けてね」
 黒木が顔を傾ける。丸眼鏡が光を反射した。
「えぐいって、どのくらい」
 何でそんなこと聞くんだよ……。黒木の無神経さに少々ムッとしながら、言葉を選ぶ。
「そりゃまあ、いろいろ――クラスのほぼ全員がイジメに参加していたし。事実無根な噂を流されたり、教科書を破られたり、靴に画鋲や悪口の手紙が入ってたり、机に落書きされてたり、そんな感じのだよ。他にも口ではとても言えないようなひどいことがたくさんあった。男子は男子なりの、女子は女子なりの方法で」
 夏樹の父の会社が倒産したのは、中学二年に上がりたての頃だった。夏樹家には払いきれない借金が残り、自己破産の道を歩んだ。そういった事情が漏れたのは、父兄からだった。親の又聞きした情報を、さらに誇張された内容で子供が聞かされる。そこから偏見が生まれるのに、たいした時間はかからなかった。
 ただ会社が倒産したというだけなら、イジメには発展しなかったかも知れない。しかし、夏樹の場合は、両親が特殊な状態でいなくなってしまった。精神を病んで鉄格子の付いた病棟に入院……子供を捨てて宗教の道に傾倒……たしかに、聞こえはよくないだろう。
 八神は、夏樹と一緒に父親の見舞いに行ったことがある。普通の病院と大して変わらない場所だった。病室まで入ることもできたし、部屋は明るくて清潔に保たれていた。窓枠や蛍光灯には網がはめられていたが、それは万が一の自傷や自殺防止のためだ。父親は身の回りのことはほぼ自分で行っているようで、どこを病んでいるのかわからないほどだ。精神疾患だから入院しているというよりは、働きたくない、働く自信がないから、入院しているという印象を受けた。入院費のほうは、夏樹の後見人が出しているそうだ。
 母親にしても、娘のことは心配なようで、頻繁に連絡を入れている様子だった。
だが、はたから見ていると、そういったことがわからないのだ。
 それらのマイナスイメージと合わさって、夏樹の外見的特徴、性格的特徴がすべて悪いほうに解釈されることになった。そして、いつから、誰からということもなく、気がつけばイジメになっていた。
 まず、彼女の最も目を引くところといえば、波打つブロンドだろう。あの長い髪を、ライターであぶられているところを見たことがある。そんなことがあったのに、夏樹は髪を短くしなかった。己のプライドを守った。また彼女は、授業中にノートを取ることをしなかった。翌日には破ってゴミ箱に捨てられているから、無意味と割り切っていた(仕方がないので、後で八神がこっそり写させていた)。現金は、最低でも五箇所に分けて保存していた。奪われたりしたときの被害を最小限に防ぐためだ。スカートの中から万札を出してきたときには口から泡が出そうだった。
 何をされても泣きもせず怒りもせず。ただただ冷淡な無表情を通した、そんな態度が余計に加害者の反感をあおったのではないかと八神は見ている。
 事実無根の、悪質な噂もかなり流された。烏丸と夏樹が壇上で衝突した後、高校でも微弱ながらそれらがぶり返した。烏丸の言った「売春」の話もその時に聞いたものと思われる。無論、それはまったくのでまかせである。夏樹は文化特待生として、授業料を免除されているから、私立の学校でも通えるのだ。
「そりゃあ恨みますね」
 黒木の一言が八神を記憶の宮殿から連れ戻した。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。閑散と並ぶ長机を見て、ここが映画研究部の部室であったことを思い出す。
「当時、クラス内でイジメに参加していなかった人って俺だけだったんだよ。だから担任に頼まれたんだ。彼女と仲良くしてやってほしいってな。それが彼女と親しくなったきっかけだ」
「ロマンの欠片もない出会いですね。まあ、八神先輩だもんな……てか、先輩は何をしていたんですか? 彼女を守らなかったんですか」
 率直で非難を隠さないその言い方が、八神の胸に矢を立てる。「大正なら男前」と評される細面の顔が、すっと白くなる。
「守るとか守らないとか、そういう状況じゃなかったんだよ。お前の学校ではイジメとかなかったのか? あればわかるだろ、そういうの」
「さあ、僕は中学行ってなかったんでよくわかんないですね」
「行ってなかった、って」
 黒木の顔を見る。
「不登校だったんですよ。何で学校に行くのか、いまいち理由が見いだせなくて。家では勉強してましたけどね。三年でやっと、将来が不安になって高校には行くことに決めたんです。結局、中学校には一度も顔を見せなかったなあ」
 特に後ろめたさはない様子だった。誰にでも意外な過去があるものだと、八神はつくづく感じた。
「……とにかくさ。いろいろあって三年の二学期過ぎればイジメも収まったんだけど。その後は、嫌なこと忘れるために二人で勉強に打ち込んで、進学校に入ったんだよ」
 八神は言葉を切った。わずかな時間、沈黙する。やがて黒木がぽつり、と言った。 
「そこまでひどいイジメが、自然消滅するとは思えないなあ」
 戦慄が走る。何気ない物言い。実際、深い意味はない発言なのだろう。だがそれは、八神のタブーをかすっていた。金庫の奥に厳重に隠した記憶のネガが、いつの間にかポケットの中に入っている。
「いろいろ、あったんだよ」
 唾を飲み込む。
 三年のクラス替えで、八神や夏樹を取り巻く環境は変わった。だが、夏樹へのイジメは変わらなかった。クラスの中には、八神の他にも加害者に回らない人間がいた。新しく同じクラスになった生徒であり、偶然にも、八神の幼馴染にして夏樹の親友だった。
さあちゃん――爽夏――擦り切れたネガの中に、彼女の白肌がぼんやりと浮かぶ。爽夏は、いつも夏樹をかばった。八神と違い、身体を張って、夏樹を守った。やがて夏樹はいじめられなくなった。その代償が、親友の喪失だった。
 夏樹と入れ替わるように、今度は爽夏が標的になった。
 その後も「いろいろ」あって、八神と夏樹は現在に至る。
「しかし、それだけひどい目に遭って、よく自殺とかしませんでしたね」
 黒木が話題を変えた。八神は、さあちゃんの面影をかき消した。
「夏樹さんは、イジメで自殺するほど弱くなかったから」
「イジメで自殺する人って、弱い人なんですか」
 明らかに黒木の口調が変わった。
 思わず返事を忘れて、後輩の顔に見入る。それは黒木の顔というより、黒木の顔を切り抜いて作ったデスマスクだった。
 そのマスクが急に息を吹き返し、背筋が冷たくなる。
「ん〜、夏樹さんにもいろいろとバイオレンスな過去があったってわけですね。同情しちゃいました。烏丸グループって最低ですね。今度からスーパーで烏丸系列の商品見つけても買わないようにしよっと」
 さっきまでは部長の味方だとかなんだとかと言っておきながら……あまりの調子のよさにあきれがくる。
 それでも、動機としては夏樹が一番怪しい立場にいる。八神としては、夏樹が真犯人かどうかは問題ではなかった。ただ、夏樹を守りたい。それだけだ。
 夏樹を助けるために、烏丸グループに泥を被ってもらうことにした。
「烏丸グループは利益のためにけっこう汚いまねもしている。家絡みなら恨んでる人間はそこら中にいるだろうな」
「部長自体、傲慢で人好きする性格ではありませんでしたしね。では容疑者はとりあえず置いといて」
「お前のやるべきことは夏樹さんに謝って、連れ戻してくるんだ。彼女はけっこう繊細なんだから」
 しゃあしゃあと次の捜査段階に移ろうとする黒木に釘を打つ。黒木は舌を出してみせた。
「わかりましたよ。じゃ、八神先輩は現場検証でもしておいてください」
 部室の扉を閉めながら、隙間から顔を出す。いいからさっさと行け。
 急に、耳が痛いほどの沈黙が流れる。一人になると気分が落ち着かなくなる。黒木の言うとおり現場検証でもしよう。収穫はなくても気を紛らわせることくらいはできるはずだ。
 といっても、何からはじめるか判断が付かない。ざっと見て、まずは凶器の確認でもしようと決める。烏丸の首を絞めていたのはAVケーブルだ。黄白赤の入力端子の付いた、ビデオとテレビなどをつなぐためのものだった。
 ビデオデッキのほうを調べてみる。部室にはデッキが二つあった。うち一つは壊れて使い物にならず、凶器に使われたのはそれについていたケーブルだとわかった。
 もっとコードをよく見ている。黒い筋をするすると辿っていき、ある箇所で手が止まる。声を出しかけて、つばと一緒に飲み込んだ。人知れず手が汗っぽくなる。目を閉じてから、もう一度ケーブルを見てみる。
 絵具が付いていた。パッと見にはわかりにくい、群青色の絵具が、二センチほどに渡って付いていた。
 そっと、絵具を指でこすってみる。黒い滑らかな線とは違う、カサカサとした違和感があった。
 耳に全神経を集中させる。
 時計と心臓の音しかしない。
八神は、指につばをつけて絵具をこすった。群青色は剥げ落ち、漆黒の線がつながった。慎重に手を離し、元あった場所にコードを戻した。
デッキを離れたところで、廊下を歩く足音が響く。口から心臓が出そうになりながら、体勢を整える。
 

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