小説へ 

前へ

名探偵はいない(完)


○事件後日

 黒木と八神たちは話し合った結果、警察に真実の告白に行くのも大事だが、とりあえずは烏丸に謝りに行くのが先決という話になった。自殺未遂事件のあった翌日、八神と黒木とそれから夏樹、三人は学校を休んで隣市の総合病院に行くことにした。そこに烏丸は運ばれたはずである。
 新築されたトイレだけがアンバランスに立派な無人駅。狭い待合所の中で、汽車の到着を待つ。田舎の鉄道は、一時間に一本ほどしか通っていないため、ホイホイ移動できないのが不便だ。
二両だけのしょぼい列車が到着する。平日の昼間ということもあり、席はかなり空いていた。乗り込んできた八神たちに、老婦人がいぶかしそうな目を向けた。まあ、学校のある時間帯なのだから、無理もない。
 八神を挟むようにして夏樹と黒木が座る。黒木は夏樹のことを避けているようだった。彼のしたことを考えれば、当然と言えば当然である。たとえ黒木が謝り、夏樹が許したとしても、それだけで丸くなるほど人の心は単純ではないのだ。
 黒木はおもむろに鞄から単行本を取り出した。例の、右手に大鎌、左手に人間の足を下げた美少女『足狩りサヤっち』の話だ。誰とも視線を合わせないまま、文字群にひたすら浸りこむ。
しばらくの間、無言で列車に揺られていた。この空気を何とかしなければ――八神の心は暗雲に包まれていた。
「それ、何の漫画?」
 夏樹だった。顔を上げた黒木をまじまじと見ている。黒木は本を閉じた。
「これはですね、ライトノベルと言って、漫画ではないんです。れっきとした小説です。活字離れの進んだ若者にも読みやすいようにイラストを付けた画期的な本なんですよ」
 オタクの性なのか何なのか、実に饒舌に解説した。夏樹も身を乗り出して話を進める。膝の上に手を付かれて、八神の体がびくついた。
「先月映画化された『たんこぶゾンビの復讐』も、原作はライトノベルなんです」
「え、初めて知った! あれは面白かったよね。人間の業が見られるって言うか」
「たんこぶゾンビを殺さざるを得なかったエヴァの苦悩を思うと、僕は涙さえ出てきますよ」
「今、黒木くんが読んでいるのは、どんな話?」
「これはですね、主人公の家にヒロインである死神の足狩りサヤっちこと柳葉さやかが居候に来て、いじめっ子たちの足を切り落としていくバイオレンスコメディなんです」
「さやか、か」
 ツッコミどころの多いあらすじの中で、耳に引っかかった。八神はしまったと思った。せっかくなごやかに会話が進んでいたというのに、この名前を意識させたら台無しだ。
「そうです、さやかなんですよー、ヒロインの名前」
 黒木は周囲の迷惑を考えない声で意気込んだ。すかさず、夏樹が茶化す。
「それってやっぱり、爽夏と同じ名前だからぁ?」
「もちろん。僕は今でも爽夏ちゃんが大好きですから」
「ちょっと変態っぽいよ」
「何を言いますか」
 二人のやりとりを聞きながら、八神は笑いをこらえていた。
 ――なんだ。全然心配することないじゃないか。
 斜め前の席でこちらを睨んでいる老婆に、察してくれと頭を下げる。老婆の顔のしわが二倍に増えた。
「もう一人のヒロインの名前が、『エリカ』っていうのも惹かれるポイントですね」
「エリカか……爽夏の好きな花だよね」
 八神の脳裏に、雨の中いつも眺める墓石が浮かんだ。反射的に黒木を見る。
「黒木、もしかしてお前、今でもよくさあちゃんの墓参りに行ってたりするか?」
 返事はあっさりとしていた。
「ええ、行きますよ。ほぼ毎日。季節がちょうどよければ、エリカの花を持って」
「……そっか。ずっと知り合いだったんだな」
「はあ?」
「なんでもない」
 窓の外に広がる風景に、青い空のすばらしさを知った。今度は晴れの日に墓参りしよう。一人ではなく三人で行こう。いっそ部長も連れて行こう。笑いをかみ殺しながらそう誓う。
その後は、目的地に付くまで、三人は終始なごやかだった。三人の共有する亡き人、爽夏のことについて、楽しかった思い出だけを集めて笑いあった。
 こうやって許しあうことができるのは、それぞれがお互いに負い目を感じているからだろうか、と思った。
 烏丸のいた部屋は二人部屋だが、一床は空いており、いるのは烏丸一人だった。八神から順に病室へ入っていく。
「部長、お見舞いに来ましたよー」
「わざわざ学校サボって足を運んでやったんだから、感謝しなさいよ。どうせあんたには見舞いに来る友達なんでいないだろうし」
 夏樹がわざとらしく付け足す。
 急に騒がしくなったからか、窓を向いて寝ていた烏丸が、こちらに顔を向ける。八神は少し妙に思った。烏丸の目は開いている。起きているのなら声の一つくらいかけてきてもいいはずだ。
 八神は行きがけに買ってきた花を花瓶に入れながら、烏丸を見る。
「部長って彼岸花が好きでしたよね。でも見舞い花にすると、さすがに嫌がらせなので違うのにしました」
 淡い紫をした、小さな花びらが輪のように広がった清楚な花だ。名をミヤコワスレといい、八神の好きな花である。
「……部長?」
 反応がないので、もう一度声をかける。間近で彼の顔を見て、様子がおかしいことに気が付いた。
 目が空ろで、口をだらしなく半開きにしている。顔かたちはまさに烏丸のものだが、中身は別人といった雰囲気だった。
「……うぅ、あーぁ……ぇぇ」
 まるで赤ちゃん返りしたかのようなしゃべり。
 黒木や夏樹も異変に気づき、顔を青ざめさせる。
 ――まさか、気管圧迫による後遺症が。
 馬鹿な。医者は命に別状はなく、後遺症も残らないと言っていたのに。
 顔面蒼白の黒木が、だんだんと呼吸を乱し始める。
「……あ、いや。すまん。冗談だ」 
 夏樹が椅子を振り上げたのを八神が間一髪で制止する。
 ベッドの上で烏丸が体を縮めていた。本気で殴られると思ったらしい。正直、八神も殴りたい気分だった。だが、そんな悪ふざけができるくらいなのだから、心配するほど弱っていないのがわかり、ほっとする。
 気を取り直して、椅子に座る。烏丸のベッド前には椅子が二つしかなかったので、空床の横にあるものを拝借する。
 しばらく、どうでもよい雑談をした。烏丸は明日にはもう退院するということだった。身体に異常ははないが、昨日今日は大事を取って休んでいるのだということだった。
「やっぱり社長息子は扱いが違うってわけねえ。うらやましいこと。家に帰ったら今度はママが慰めてくれるのかしら」
「黙れ、貴様。何でお前がここにいるんだよ」
 いちいちに憎まれ口を叩く夏樹に、烏丸が逆上する。まだ喉が悪いのか、怒鳴り終わると咳き込んだ。夏樹はすまし顔で答えた。
「私は八神が来るって言うから来ただけよ。べつにあんたの見舞いに来たんじゃないっての」
 八神は苦笑するしかなかった。
 どうせ来ないだろうが一応、というつもりで今日、夏樹に声をかけたわけだが、意外にも付いてくると言ったのだ。どうやら、コーヒーをぶちまけたことを謝りたいらしい。その場の激情で暴れやすい夏樹は、後で冷静になると後悔してしまう、不器用な人間だった。
 せっかく連れて来たは良いが、本当に謝罪するかどうかは怪しいところだ。自分の非を認めるというのはかなり勇気がいる。
 無理強いはしないつもりだ。明確に示さなくても、こうやって足を運んだだけでも気持ちは伝わるだろう。
 そのうち、話の種も尽きてくる。そろそろ本題に入らなければならない。八神は、軽く黒木に目配せした。黒木は、メガネを拭いたりと、しばらくもぞもぞしていたが、やがてとつとつと語り始めた。
 烏丸の自殺未遂の真相だ。
 早朝、部室を訪れ、くすねた睡眠薬をすりつぶしたこと。ティーポットの注ぎ口にペースト状にしたその粉を塗っておいたこと。放課後、部長が眠る頃合いに訪れ、犯行準備を行ったこと。このとき、もしもま部長が眠っていなかったなら、犯行はあきらめようと思っていたこと。部長の首をAVケーブルにかけたこと。すべて八神に看破されたこと。爽夏のこと。部長には何の恨みもなかったということ。
 烏丸は、時折首の痣をさすりながら、黙って話を聞いていた。膝で握られた黒木の手が、後になると小刻みに揺れていた。
「要するにだ」
 すべてを聴き終え、一拍おくと、烏丸が口を開いた。激怒している様子ではなかった。ため息混じりに言葉を続ける。
「一番悪いのは俺の親ということか」
「そういうわけじゃ!」
 黒木が慌てて否定する。
「そんな言い方したら黒木くん、困っちゃうでしょ」
 夏樹が呆れ顔で諭す。烏丸は神妙な顔で誰からも目線を外していた。
 黒木が、勢いよく頭を下げる。長い横髪で顔が隠れるが、その声は真剣だった。
「部長、本当に申し訳ありませんでした。部長は無関係だったのに。謝って許されるとは思っていません。けれど、せめて頭を下げさせてください」
烏丸は何も言わなかった。布団から手を出し、指を遊ばせている。八神はその時初めて、彼の左手に包帯が巻かれていることに気が付いた。そういえば、事件当日も見た気がするが、動転していて記憶に残らなかったらしい。
 黒木は頭を下げたまま言った。
「僕は、この後警察に事情を話しに行こうと思います。それがけじめだと思うから」
 指を弄んでいた烏丸が、動きを止める。顔を上げ、八神たちを一瞥する。そして冷め切った声を出した。
「お前ら馬鹿か」
 八神はカッとした。烏丸が許すつもりがないのだと感じたからだ。普通に考えればそれは至極当然なことではある。だが、こうして自分の過ちと向き合おうとしている黒木に対して、あまりにひどいと思った。つい、勇み腰になる。
「部長、黒木は本当に反省していて」
 烏丸はそれを制した。そして意外なことを言った。
「今回の件は俺の自殺未遂ってことで片が付いてるんだろう? それをどうしていまさら蒸し返すような真似をする」
「え、部長――」
 黒木が顔を上げた。それ以上の言葉をさえぎり、面倒くさそうに烏丸が続ける。
「それに、昨日訪れた警察関係者に、もう自殺だって言ってしまったんだ」
「どうして……」
「紅茶に睡眠薬が入っていたのは飲んですぐ気づいた。味もおかしかったしな。まあ部員の仕業だとは思ったよ。だがそれで騒いでも、いろいろ面倒になるだけだろうが。騒ぎを大きくするのはごめんなんだ」
 ガタリと音がする。立ち上がった黒木はむせび泣き、病室から走り出た。
 仏頂面で顔を背けている烏丸。窓からの風で、ミヤコワスレの花が揺れた。八神はこの先輩のことを尊敬してもいいかとほんの少し感じた。
 ふと、意を決したように夏樹が口を開く。
「……あの、烏丸……くん。このあいだ、その……私……」
 そこまで言って口ごもる。烏丸が目をしばたかせた。刹那的な動揺が過ぎ、いつもの不敵で傲慢な笑みを浮かべる。
「そうそう、おとついのコーヒー。お前のあれ、利用させてもらったからな」
 夏樹がきょとんとする。それは八神も同じだった。烏丸はニヤニヤしながら語る。
「自殺の動機は受験ストレスと学校でのイジメってことにしたんだ。前日に学ランにコーヒーの染みを作って帰っていたから、裏づけになったぞ。ついでにカップの破片で手を切ってしまっていたから、自傷行為ってことにしてしまった。安心しろ、お前の名前は出してない。警察の若い衆とか本気で同情していやがった。金持ちの子供も大変だって。まったく、馬鹿で困る」
 楽しそうに烏丸は笑っている。「私、帰る」出鼻をくじかれて不機嫌になったのだろう、結局謝らないまま夏樹は去っていった。
「何でああいうことを言うんですか? あなたは」
 二人になってからとがめた。しかしその言葉は左から右に抜けるといった感じで、空しく風に流されていった。
 烏丸がくすくす笑い出した。口に手を当て、本当に、「くすくす」といった感じの笑い方だ。この人がこんな無邪気な笑い方をするのかと、不気味に思えた。
「烏丸、くん、だってよ。何なんだあいつ。宇宙人に皮袋の中身乗っ取られたんじゃないの」
 素直じゃない夏樹があれだけ頑張ってお詫びしようとしたのに、それを察知してか身をよじって回避してしまうとは。とことん性格のゆがんだ御仁だ。
 それでも、烏丸は夏樹を怒ってはいない。それがわかっただけでもよかった。
「……うちの会社を、成金と呼ぶ輩がいるだろう」
 突然話が飛んで、少し混乱する。烏丸の顔を見ると、もう笑ってはいなかった。あ、そうなんですか? と、当たり障りなく返す。
 たしかに、烏丸家は金持ちだが、影で軽蔑している人間もいる。だいたいは、昔からいる地下の人間だ。……八神家はそういう「輩」の最たるものでもある。何百年もの歴史を誇る商家であり、この辺りいったいの土地を所有する地主でもあるので、妙に気位が高いのだ。烏丸家は都会から会社を建てるために田舎の土地を買って引っ越してきた。その元の土地も八神の私有地だった。その辺のこともあってか、「よそ者がでかい面して」とずいぶん嫌っている。
八神も烏丸もそういう話をしたことは一度もなかったし、気にすることもなかった。少なくとも、八神はそうだ。
「うちの家は、戦後の財閥解体と恐慌にやられて、一度は没落、一族離散にまでなったらしい。が、それを俺の父親が手腕を発揮し、新しく会社を設立、再び勢いを取り戻した。なみなみならぬ努力の結果だと」
 烏丸は皮肉げに笑った。
「でもその親父は俺が小学校に上がる前に死んでいる。過労死だとさ。それから会社は母が引き継いで社長になって――まだ二十二だったかな? ――更に会社を発展させ、資産を見事に増やしていった。……その生き様は日本刀だよ。折れず、曲がらず、よく斬れる。母親としてどうかは知らないが、すごいよ、あの人。人間としては。女なのにな。こんなことも言ってたぞ。『将たる器に必要なのは、品位や知性、人格よりも人に嫌われる覚悟だ』と。……俺には、無理かな」
 一息にしゃべる烏丸に、八神は呆気に取られていた。烏丸がこれほど自分のことについて詳しく語るところを初めて見たからだ。
 しばらくの静寂が流れる。「なあ」と独り言のように烏丸が言う。
「あの女、俺や俺の家のことを許してくれるかな」
 烏丸は窓の外を眺めていた。表情に崩れは見られないが、切実なものが内面から滲んでいた。八神は軽く息を吸った。それから笑った。
「大丈夫ですよ。夏樹さんだって、わかってるんです。べつに、部長や部長のお母さんが悪いわけではないってこと。誰のせいでもないってことをね」
 鳶色の瞳をこちらに転がす。その目を見ながらうなずいてみせる。
「でも、だからって夏樹さんの悲しみが癒えるわけじゃあない。結局は黒木と同じですよ。やり場のない拳を向ける柱が欲しかっただけです」
 やり場のない拳をもて、お前は誰を打つか。友をか、おのれをか、それとも又罪のない傍らの柱をか――石川啄木のそのような言葉を思い出し、たとえてみせる。
「やり場のない拳を向ける柱、な。誰にだってあるよな、そういうのは」
 彼女の自分勝手とも言える行動に、烏丸は別段怒る様子もなかった。
 何を見ているのだろう……と、烏丸の視線をたどっていくと、どうやら、包帯に巻かれた左手を見ているようだった。
 八神は元気よく続けた。
「だから、部長。撮りましょう。映画を。拳を殴るために振り上げるんじゃなくて、これからは創作のために使うんです」
 烏丸が豆鉄砲でも食らったような顔をする。
「なんだお前、まだ映画撮るつもりだったのか」
「当たり前じゃないですか。これで解散では、あまりにも報われないでしょう。どうせなら、今回の事件をそのままモチーフに使ったっていい。部長が自殺未遂した部活の自主映画。けっこう客寄せになるんじゃないですかね?」
「お前な、俺のことをなんだと思ってるんだ……」
 もうどうでもいいとでも言いたげに、起こしていた身体を寝かせてしまう。
「じゃ、退院したら脚本の話でも進めていきましょう」
 陽気に言うと、八神は立ち上がった。長居しすぎてしまった。黒木や夏樹がそのままにしていった椅子を、元の場所に返す。花瓶に向かい、もう一度花束の角度を調節してから、出口に歩く。
「なあ」
 外に出る前、烏丸に呼び止められる。枕に頭を埋めながら、口だけ動かす。
「お前や黒木の惚れた爽夏さんってのは、どんな女性だったんだ?」
 八神の目が泳いだ。しばし考えた後、手で球体を作ってみせる。
「さあ……一言で説明はできませんね。さあちゃんは――水風船みたいで、こう、少し力を入れると、すぐにつぶれてしまうような、そんな子でした」
 目に見えない球を、上下から挟み潰してしまう。
「ま、少なくとも部長が好きになるタイプではなかったと思いますよ」
 八神は薄く笑う。
 爽夏は、無垢な少女だった。また、自分の感情に素直だった。たとえるなら、道端で泣いている子犬がいれば、家が団地だとしても、我慢できずに連れて帰ってしまう、そういう子だった。後々、また子犬を捨てなおさなければならないというのに。
 爽夏は、清純で、心の優しい女の子だった。
 ただ、八神は今でも時々思う。
 あの時、爽夏が夏樹をかばわなければ、未来は変わっていたのだろうかと。
 夏樹は、あの後、中学を卒業するまでイジメが続いていたとしても、決して自殺はしなかっただろう。彼女は強い。鋼のようなその心。烏丸の言葉を借りれば日本刀だ。寄らば斬る。鉈の重さに剃刀の切れ味。
 自分のことを最低だと思った。さあちゃんのとった行動は善意以外の何物でもなかった。結果、さあちゃんは命を絶ってしまったけれど、そのことで彼女の行動が貶められるなんてありえない。
「俺が一番、悪いんです」
 八神は自嘲的になった。
「打算的で何もしなかった、俺が一番、悪いんです」
 黒木が夏樹に言った言葉は、むしろ八神の受けるべきそしりだった。夏樹は爽夏をかばって何度もクラスメイトに立ちはだかったが、八神はただ石になっていた。そのくせ、幼馴染の顔を下げて彼女を慰めていた。
 そう、自分は敵討ちすら考えなかった。
 エリカの花言葉。それは八神自身を指すものだ。八方美人で、上っ面で、人の心を踏みにじって。
 烏丸は天井を見つめていた。こちらに顔を向けようともしない。
「自ら行動する者は善人といえるが、何もしない者は悪人ではなく普通の人間だ。だが、そのことでお前が後悔しているのなら、これから償っていけばいい」
「ですよね」
 次こそは……次なんてないのが最良だが、絶対、死んでも、いや、生きて、守って見せたい。「なっちゃんを守ってね」。そんな遺言は関係なく、自分の意志で、尊厳に懸けても、守ってみせる。
 八神は、古びた記憶のネガを、胸底の金庫に再びしまいこんだ。もう二度と開けることのないように、鍵は深海に捨ててしまった。
 さよなら、さあちゃん。

 翌日、夏樹のことを「なっちゃん」と呼んでみた。すさまじく奇異なものを見る目で見られたので、結局、「夏樹さん」で通すことにした。
 この距離感が埋まるまで、あと何年か。

前へ

ホームへ戻るホームへ

 小説へ