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九、働いたら負けかなと思っている


「鈴木には悪いけどさ、あんたの兄貴って本当に最悪よ!」
 ベッドの上でくつろぎながら、佐藤は言う。ここ最近は毎日吉村の見舞いに来ている。そのついでに鈴木の部屋にあがるのが日課となっていた。
 鈴木は椅子に胡坐をかき、机のノートパソコンで何事かしている。
 佐藤は、手に抱えたポテトチップスを食べながら続ける。
「あのままじゃ、吉村、死んじゃうよ……」
「また吉村さんとこに行ってたの」
「うん。誰かが世話しないと衰弱死しそう」
 鈴木が振り向いた。相変わらず無表情だが、微妙にいつもと違う印象を受けた。
「佐藤さんってさ、けっこう無防備に男の部屋に上がるよね」
 一瞬、ほうける。こいつは何を急に言い出すんだ? 今までだって部屋には上がっていただろうに。
 袋を口につけて、ポテトの残りを流し込んでしまう。
「だって、あんたは奇人だし、吉村は廃人だし」
「そりゃ、そうか」
 鈴木はすぐにパソコンに向き直った。
 指摘されて、初めてここが異性の部屋だと意識する。不思議とそんなことは今まで考えたことがなかった。
 ――中学以降に男の部屋に上がったのって、鈴木と吉村を除けば彼氏んとこだけなんだよね。
 佐藤は高校時代、部活の先輩と付き合っていた。とても好きで、実際、二年も交際していたが、彼の独占欲の強さに疲れて卒業式の日に別れた。だが、その後もしつこく迫られて困った過去がある。それ以降、恋愛する気になれず、告白されてもずっと断り続けて今に至る。正直、男の下心というものにはうんざりしていた。
 しかし、鈴木にはそれがない。この男は怪獣とベイダーにしか興味がないのだ。普通の人間が持つ三大欲求をすべて特撮映画に注ぎ込んでいる。この部屋を見れば一目瞭然だ。佐藤は鈴木の部屋の掃除をすることもあるので知っているが、エロ本・エロビデオの類は一つも出てはこなかった。代わりに大量の見たことも聞いたこともないB級映画のビデオがあったが。あとは、「天弓たん名場面集」とラベルの貼られたものもあった(これには正直引いた)。高峰天弓……自分とはタイプの違う、大人っぽい女性だ。
 鈴木が夜中に高峰天弓のビデオを見ながらハアハアしている姿を想像する。
 ――ありそうでなさそうでありそうで怖い。
 とにかく、鈴木の部屋を男の部屋と認識すること自体がナンセンスだ。だからこそ、彼の部屋は居心地がよいのだろうと思った。
 佐藤は、空になった菓子袋をゴミ箱に捨てる。ずいぶん長い間入れ替えられていないらしく、中身が溢れていた。佐藤はため息をつく。
 玄関棚から新たなゴミ袋を出す。
「それにしても、あんたの部屋って何でこんなに汚いのかしら」
「掃除してしないからね」
 平然とした態度が、佐藤の神経に触れた。思わず大きな声を出す。
「あんたね、このままでいいの?」
 何がと言いたげな鈴木の顔。佐藤のフラストレーションが溜まっていく。
「定職にも就かず、変な人形ばかり集めて妄想に耽って。将来の夢とか、やりたい仕事とか、現実的な目標を持ちなさいよ! いつかダメになるわよ」
 鈴木がうつむく。言い過ぎたか……と佐藤は少し後悔した。
「……俺にだって、なりたいものくらいあるよ」
「え?」
 佐藤が意外そうな顔をする。
「ニート」
「職業じゃねえええっ」
 まったく、この男はふざけたことばかり言って……。どこまで本気で、どこまで嘘なのか、佐藤には想像もつかない。
「佐藤さんはどうなの?」
「は?」
 急に言われて、何のことかわからない。
「何でファッションデザイナーになりたいの?」
 口調はいつもと変わらないはずだった。しかし、鈴木には似つかわしくない高圧的な雰囲気をまとっていた。
 今度は佐藤が答える番だ。
「私のお姉ちゃん、引き篭もりなの」
 鈴木は目を見開き、驚いて見せた。同時に、それが何の関係があるとも言いたげだ。
 佐藤は、姉のことを思い出す。

 幼い頃の佐藤は、姉にべったりだった。年が離れていたこともあり、大人っぽくて憧れていたのを覚えている。姉は佐藤にとって自慢であり憧れであった。
 実際、姉はよく出来ていた。顔は綺麗だし、勉強が出来るし、いつもそつがない。礼儀正しく、大人たちにも誉められていた。やんちゃでよく叱られた自分とは大違いだ。
 しかし、姉には姉の悩みがあったらしい。
 姉は周囲に異常なほど気を配っていた。そのせいで一人でストレスを溜め込んでいたのだ。高校になると、それが肌荒れとして表面化した。ニキビのせいでせっかくの美人が台無しになる。彼女はそれがいやでいやで仕方がなかったが、我慢して気にしていないよう振舞った。学校でもいつも笑顔でいたという。
 しかし、それがあだとなった。
 佐藤が小学校から帰宅すると、玄関に姉の靴がある。普段、姉は佐藤よりも帰りが遅いので、軽い違和感を覚えた。
「あれ、お母さん、お姉ちゃんもう帰ってるの?」
 母も困っている様子だった。
「それが、お昼に早退してきたって……泣きながら部屋に入って、出てこないのよ」
 それは姉を妄信していた佐藤にとって衝撃的な出来事だった。
 二階に駆け上がり、姉の部屋のノブを回す。が、動かない。鍵を掛けられているようだった。仕方がなく、ドアを叩きながら叫んだ。
「お姉ちゃん、どうしたの? お姉ちゃん!」 
 姉からは何の反応もなかった。
 その後、家を訪ねてきた姉の同級生から、事のあらましを聞いた。
 昼休憩、お弁当を食べながら他愛ない会話をしていた。ある冗談を聞いて、姉が顔いっぱいで笑ったのだという。それがおかしくて、友達は茶化したくなった。
「ちょっと花ちゃん、笑顔キモいー」
「ホントだ、花ちゃんの顔のほうが受ける!」
 友達としては、ほんの冗談のつもりだった。しかし、姉にとっては冗談では済まされなかった。呆然とし、教室から飛び出したのだという。
 佐藤はそのことを姉に教えようと、もう一度姉の部屋へ向かった。今度は出来るだけ明るく話しかける。
「お姉ちゃん、話、聞いたよ。気にしすぎなんだって。友達も、さっき謝りに来ていたんだよ。みんな、悪気はなかったって、ほんの冗談のつもりだったんだって」
 暫時、沈黙が続く。そして開錠される音が響いたと思ったら、扉が開かれた。目を赤くし、泣き腫らした姉が出てくる。鬼のような形相に、佐藤はわずかに恐怖を覚えた。
 鼓膜が破れんばかりの叫びを上げる。佐藤の心拍数が一気に上昇した。
 ――こんなお姉ちゃん、見たことない。
「りっちゃんにわかるわけないよね! いつも、元気で、明るくて、誰からも好かれて! 可愛がられて! 何の努力だってしていないのに。私は、私は周囲に認めてもらうためにどれほどの努力をしたことか! わかるわけないよ! 名前だって、りっちゃんは立派な意味があってさ。私とは違うよ。りっちゃんはいいよね、いいよね! りっちゃんはいいよねっ!」
 佐藤の思考が真っ白になった。


「その時初めて気付いたんだ。お姉ちゃんを追い詰めてたのは、私だったんだって」
 佐藤は、いつになく思いつめた顔をしていた。そんな彼女に鈴木は一言、
「それは明らかに佐藤さんのせいだね」
「あんたには慰めるという選択肢はないの?」
 怒りを通り越して呆れが来る。
 佐藤は腰に手を当て、握り拳を作る。
「私は、お姉ちゃんに社会復帰して欲しい。もう一度、外に出る勇気と自信を持って欲しいの。だから、ファッションデザイナーになって、綺麗な服を作るの。お姉ちゃんに私のデザインした服を着て、外に出てもらいたい。お姉ちゃん、もともとの造作はすごくいいから、おしゃれしたら絶対に美人になると思うの。自分に自信が持てたら、昔のトラウマなんて忘れられる。だから、ファッションデザイナーになる。それが私の夢」
 言ってから、佐藤は、自分のけなげさを賞賛したくさえなった。なんて素晴らしい目標なのだろう。きっと鈴木も感動したに違いない。
 しかし、彼の反応は冷淡なものだった。
「それってさ、本当に佐藤さんの夢なの?」
 一瞬、言葉に詰まる。鈴木の言うことがわからない。
 鈴木は淡々と続けた。
「お姉さんのためなのか、自分のためなのか、はっきりさせといたほうがいいんじゃない? お姉さんを社会復帰させたいがためにデザイナーになるんだったら、自分のやりたいこととは言えないよね。やりたいことがわからないっていうのは、俺も佐藤さんも同じだよ」
 全身に稲妻が走った。腕がわなわなと震える。
 ――何が、何が、何が、何が!
 前触れもなく、鈴木を突き飛ばした。椅子から転げ落ち、床に倒れる。呆気に取られている彼の前で、佐藤はパソコンのコンセントを引き抜いた。ブツリという音を立てて画面が消えた。さらに、机上のフィギュアの数々を、手でなぎ倒した。乱暴に床へ投げ出される怪獣たち。
 鞄を手に取ると、鈴木には目もくれずに部屋を出て行こうとする。
「待てよ」
 あからさまな怒りを含んだ彼の声を、初めて聞いた。佐藤は振り返る。
 その目には、光るものがあった。
 鈴木はそれ以上何も言わなかった。

 

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