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二、バツ一狼の噂


 寂しがり屋のカラスがねぐらに急ぐ、そんな時間帯。買い物を済ませた佐藤は、家路を歩いていた。といっても、佐藤が手に持っているのはハンドバッグだけである。荷物は全て鈴木に持たせていた。膨大な紙袋を両手に提げ、とぼとぼと後ろを付いてきている。
「これは良好な友人関係と呼べるのかな……」
 そんなつぶやきが聞こえるが、佐藤はお構いなしである。
 佐藤の楽しみは、一ヶ月に一度、バイトで貯めた金で物を買いまくることである。最新型の服や靴、アクセサリー。あとは小物を買い込むのも趣味だ。それらを部屋で並べては悦に浸っている。小物集めを鈴木のコレクションに当てはめれば、彼の気持ちが少しだけ理解できた。
 しかし、それらを一気に入手しても、一人で家まで運ぶのは苦難である。そういうときに鈴木を連れて行くのだ。
「要するに、荷物持ちなんだね」
「要するに、荷物持ちなのよ」
 佐藤に悪びれる様子はない。鈴木は派遣会社に登録する派遣社員だ。仕事のあるとき以外はほとんど家を出ない。だから彼を人中に連れて行く自分の行為は良いことのはずだ。佐藤は究極のプラス思考人間なのである。
  鈴木のことを変人というが、佐藤は佐藤でかなり自分勝手なところがある。もっとも、佐藤がこういう態度を取るのは鈴木に対してだけなので、お互い様ともいえる。「わがままを言っても壊れない関係」として、二人の交流は成立していた。
「じゃあ」
 佐藤宅に着く。こぢんまりとした和洋折衷二階建てのごく普通な家だ。鈴木は荷物を玄関前に置くと、自分のアパートへ帰っていった。
 さて、ここからが問題だ。鈴木が帰った以上、部屋までは自分で運ばなければならない。佐藤は玄関のドアを開け放つと、荷物を順番に運び入れていった。
 部屋に入り、一息つく。荷物は足元に放置し、ベッドに倒れこむ。目を閉じ、少しだけ休息をとる。やがて瞼を開けると、体を持ち上げる。
「よっし、課題頑張ろう!」
 上着を脱ぎ、洋服箪笥のハンガーにかける。デニムのミニスカートからスウェットに着替え、戦闘体勢に入る。
 机に座り、スケッチブックを開いた。そこには、さまざまなコスチュームのイラストが描かれている。
 佐藤は、服飾系専門学校の一年生だ。学費を貯める為、一年浪人してから入ったので、今は二十歳になる。入学してから一月ほどしか経っていないが、毎週のように課題に追われる日々が早くも始まった。しかし、それを嫌いだと思うことはない。自分が好きでファッションデザイナーを目指しているのだから。彼女には、デザイナーにならなければならないという執念に近い思いがあった。
 机の前にも、自分を鼓舞する文句がたくさん貼り付けてある。「我が辞書に不可能の文字はない」「平常心を忘れるな」「向上心のない奴は馬鹿だ」「散りはしない、舞い上がる」「心こそ心惑わす心なれ心に心心許すな」「成せばなる」「今今と今という間に今ぞなく今という間に今ぞ過ぎ行く」――それこそびっしりと。自分の部屋を客観的に見ることができないのは、佐藤も鈴木と変わらない。
 言葉の多くがテレビで聞いたり本で見かけたものばかりなので、意味をわかりきっていないものもあるが、それはさして重要ではなかった。こういうのは気持ちの問題だ。
 右手の引き出しを開ける。生意気な顔の猫がプリントされた小瓶を取り出した。中にはキャンディが詰まっている。作業をするときは口に何か入っていないと落ち着かない性質なので、常備してあるのだ。
 今回の課題は、街で見かけたお洒落な人の服を十人以上描き留めてくるというものだ。しかし、どうしても描いている間に通り過ぎてしまうため、携帯のカメラ機能で撮っておいて後から描くことにしたのだ。
 携帯を開いて、写真を表示。レモンサワーを舐めながら、描きかけの服を完成させていく。


 電車の振動に身を任せながら、佐藤はあくびをかみ殺した。
 思ったよりもうまく進まず、結局課題が終わったのは深夜一時だった。それから入浴したり、買い物を整理したりしたので、ベッドに入ったのが二時半。加えて、寝付くまでは一時間近くかかる。提出まではもっと余裕があったはずだ。早いうちに取り組んでおけば、こんなに焦ることはなかったのに……。次に課題が出たときも、きっとぎりぎりまで手をつけないのだろうから、あまり意味のない反省だが。
 授業が午後からの日でよかった。朝の九時からだったりしたら、寝過ごしてしまうところだろう。佐藤は朝が苦手で、実際、午前の授業の日はよく遅刻する。
 うとうとと眠りかけた頃合、ちょうど下車駅のホームに入った。佐藤は心の中で舌打ちしてから、電車から降りた。
 東京とはいえ、佐藤の通う学校は、都心から離れた静かな地区にある。校舎の入り口に植えられた一本の桜が目印だ。もうすっかり花は散り落ちて、緑色になっていた。それを目指して佐藤は進む。男が履けば十歩と続かないようなヒールサンダルで器用に歩いている。
 ファッション系の専門学生な以上、服装には常に気を配らなければいけない。自分のお洒落に気を抜くような人間が、人をお洒落にできるものか。今日は半分袖のカッターの下にライトグリーンのチュニックを重ね着している。下はベージュのショートパンツとニーソックスだ。ただし、化粧はほどほどにしている。友達には肌が真っ白で睫ばかりが黒く、パンダのようになっている人もいる。それが悪いとは思わないが、鈴木を見ていると、肌が白過ぎても薄気味悪いだけに感じてしまう。だからあまりファンデーションは使わない。
 ――あいつの肌と来たら、まさに蝋人形だからね。
 桜木の前に着いた。「柳瀬ファッション専門学校」と看板が掲げられている。小奇麗で、学校というよりはオフィスビル的な形の校舎だ。
 佐藤以外の学生もちらほらと中に歩いている。それらを通り過ぎながら、二階に上がる。
「おはよーう」
「おはよー」
 教室に入ると、すでに十人近く来ていた。佐藤の挨拶に、何人かが顔を上げる。
「佐藤さん、おはようっす!」
「おはよう、あんたいつも早いね」
 席に着きながら吉村に返す。彼が鈴木のアパートに住んでいるということは、乗車駅は自分と同じことになる。しかし、一度も乗り合わせたことはない。かなり早い電車で着ているらしかった。
 授業が始まるまでの間、他愛ない会話をする。昨日の歌番組とか、おいしい店とか。吉村は話題が豊富なので話していて飽きない。特に音楽に関してはインディーなところまでよく知っていた。人懐っこい性格なのでけっこうモテると聞く。
「そういえば、今朝のニュース見ました? 出たらしいですね、この辺でも」
 ふいに、吉村が言った。どことなく楽しそうだった。
 佐藤は午前十時過ぎまで寝ていたので、無論、見ていない。
「見てないけど、何が出たの?」
 声を低め、わざとらしいくらいに真剣な顔を作る。
「バツ一狼っすよ」
「ばついちおおかみ? ……ああ、知ってる! 額にナイフでバッテン刻んで去っていく通り魔でしょ? 近くで被害出たんだ」
 佐藤はテレビ欄と四コマ以外、新聞を読まないので、世間の事情には疎いが、それでもこの変な犯罪者は知っていた。もう半年は前から出没している通り魔だ。その犯行があまりにも意味不明なので、マスコミでかなり取り上げられている。
 人気のない路地を歩いていると、すっと背後から現れ、首筋にナイフを突きつけられる。そして、「お前の名前は?」と問いかけられ、答えたら額に「×」をナイフで刻まれてしまう。そして、「愛しているぜ」と一言残し、去っていく。主に女性や、弱そうな男性が被害者だ。遭遇しても、バツを刻まれない場合もあり、いったいどういう基準なのか謎である。
 犯人は若い男で、ファーのフードを被り、なぜかそれに「獣耳」の装飾がある。猫耳や犬耳というよりは、本人の風貌と相まって猟奇的なので、狼耳と解釈された。そして、犯行と組み合わせて「バツ一狼」の名がつけられる。
 動機が何なのか、なぜバツなのか。なぜ帽子に狼耳をつけているのか。金銭が奪われるわけでもなく。史上まれにみる不条理事件だ。被害自体が命に関わる悪質なものではないので、人々としても怒りよりは好奇心のほうが強い。
「佐藤さんも気をつけてくださいよ、相手は自分より弱い相手しか狙わない卑怯者ですから」
 気をつけるといっても、相手は神出鬼没なので対処のしようがない。それに、人間の警戒心というのは自分が害をこうむるまでは湧くものではない。あくまで他人事である。
 佐藤は笑い飛ばしてみせた。
「私は大丈夫よ。吉村のほうがやばいんじゃないのー? めちゃくちゃひ弱じゃん」
「佐藤さん、それひどっ」
 いかにも喧嘩慣れしていなさそうな細い指を見る。本人も気にしているのか、泣きまねまでし始めた。
「はいはい静かにー」
 軽口を叩いているうちに、始業時間が来たらしい。先生が出席簿を叩きながら入ってくる。

「寒い……」
 昼間は暖かくとも、夜もそうとは限らない。こんなことならもっと厚着をしてくるべきだった。シャツの胸元を寄せながら佐藤は後悔した。
 駅から家までの距離が途方もなく感じられる。
 家の塀までたどり着くと、思わず走り出していた。玄関を思い切り開け、中に駆け込む。
「ただいまーっ」
 かかとが引っかかって靴がなかなか脱げない。ヒールと格闘しながら挨拶をするが、返事がない。父はまだ帰ってないだろうが、母は家にいるはずだが……。
 と、二階から何やら話し声が聞こえる。話しているというより、一人で喚いているかんじだが。母の声だ。何をしているのか察した佐藤の顔に、陰りが見える。
 黙って二階に上がる。手すりの陰から様子を見た。
 右側に並ぶ二つの部屋のうち、奥のほうが佐藤の部屋だ。その手前、一つ目の部屋の扉を、母が一心不乱に叩いている。必死の形相で、佐藤が帰ってきたことにも気付いていない様子だ。
「お姉ちゃん、お願い、ここ開けて? ねえ、外に出ようよ、お姉ちゃん!」
「お母さん」
 はっとして、こちらに顔を向けた。佐藤は笑顔を作る。
「ただいま」
 母も笑い返したが、無理をしているのがひしひしと伝わった。立ち上がり、ごまかすように髪を整えた。
「ああ、りっちゃん……お帰り。ごめんね、気付かなくて。これからご飯作るから」
「うん」
 一階に向かう母とすれ違う。部屋に入る前に、先ほどの扉をちらりと見た。どうしようもない想いが胸にこみ上げる。
 扉を閉めると、その場に座り込んだ。
 ――お姉ちゃんが部屋に引き篭もってから、十年が経とうとしていた。
 家人のいない時間帯を狙って、風呂とトイレには行っているようだが、後は一歩も部屋から出ていない。ゆえに、佐藤が姉の顔を見たのも十年前が最後となる。
 母が何度呼びかけても、反応すらしない。父はもう諦めているようで、姉のことはいないものとして扱っていた。佐藤自身は、心配はしているが、母のように声をかけることができない。佐藤は自覚している。自分が姉のことを避けているのを。それは姉妹としてはとても悲しいことであるのも。
 泥水の中に、自分が飲まれていくのがわかる。それはおいで沼のようで、沈みきったら二度と浮上できない気がした。
「……そうだ」
 そうだ。このまま沈んではいけない。気分転換しなければ。部屋に一人でいるから、孤独に当てられるのだ。立ち上がり、急いで下に行く。
 母は、台所にいた。これから野菜を切ろうとしているところだ。まだ切る前でよかった。佐藤はまな板上の大根を取り、ビニル袋に放り込んだ。母が呆気に取られている。
「お母さん、やっぱり私、ご飯いいや。ダチんとこで作って食べる。野菜とか分けて!」
「あら……」
 明確な返事も待たず、ありったけの野菜を抱えて佐藤は家を飛び出した。佐藤宅ではおそらく今夜は野菜料理が作れないだろう。

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