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七、愛の名は執着


 電車を降りると、足早にホームを出た。歩道を移動する時も周囲への警戒を怠らない。お尋ね者にでもなった気分だ。
 桜木の下までたどり着き、ようやく安心する。
「律子おはよー」
「あ、おはよう」
 背中を叩かれて跳ね上がった佐藤を見て、驚いている友人。佐藤は平生を装いながら何とか明るい声を出す。
「今日、洋裁実習の日よね。一緒に実習室行こ」
「そうだね」
「何か律子テンション低いんちゃう?」
「ううん、昨日は寝るのが遅かったからなあ」
「またかい。夜更かしして朝起きれないんは最悪で」
 他愛ない会話をしながら、学校へ意識を集中させる。しかしそれでも、佐藤は背後で狼が牙を剥いてはいないかと妄想を抱いてしまう。
 洋裁実習は神経を使う授業だ。いらないことを考えていては切る場所を間違えてしまう。佐藤はミルクキャンディを舌で転がしながら、はさみを動かす。周囲が静まり返る。視界には布とはさみ以外のものは映らない。いつしか狼の影も見えなくなっていた。
 学校の間は授業に集中できるからいい。しかし、校舎の外に広がるのは海底のごとき黒い闇である。駅までは関西訛りの友達と帰る。しかし、そのあとは一人だ。下車駅を出ると、家まで神経を尖らせて歩く。変に慌てたりするのも見苦しいので、平然とした態度をつくろいながら。
 駅に鈴木を呼びつけて家まで送ってもらうというのも考えたが、あの男に身辺警護を任せるというのは不安だった。あの奇天烈な格好で来られでもしたら、逆にこちらが警察の厄介になってしまう。もはや佐藤は鈴木に何の期待もしていなかった。
「ふうーっ。何とか無事帰ってこれたあ」
 居間の絨毯に寝転がり、大きく息を吐く。母親がおかしな目で自分を見下ろしていることに、佐藤は気付いていない。
「無事って? どうかしたの?」
「ああ、何でもない、何でもない」
 親に話すとまたいろいろと話がこじれそうなので、通り魔のことは言わないことにしている。佐藤は人に心配されるというのが好きではなかった。
 ――今日は遭わなかったけど、明日は襲われるかもしれない。これからも警戒が必要ね。
 昨夜から今日まで、神経を使いすぎたためか、非常に疲れた。近くの座布団を引っ張り枕代わりにし、佐藤は仮眠に入った。

 それから一週間が過ぎた。
 バツ一狼は、あれから姿を潜めている。
「もう諦めたのかな」
 佐藤は居間のテレビで漫才を見ながら、馬鹿笑いした。

 ○

 佐藤宅から、ゲラゲラと笑い声が聞こえる。若い女の声だ。それが佐藤律子の声であろうことは、安易に予測できた。まったく、無用心で頭の軽い女だ。
 鈴木太郎は、佐藤の家を見上げながら、ほくそ笑んだ。通り魔コスチュームではなく、普段着だ。サングラスは外しているし、無論獣耳のついたコートもない。落ち着いたデザインのジャケットに、無地のシャツを着ている。ズボンもどこにでもあるジーンズだ。おそらく、被害者ですらこの男と通り魔の接点を見出すことは困難だろう。遠巻きからなら、弟もわからない――鈴木太郎にはそのくらいの余裕があった。
 あれだけ特徴的な格好を定着させておけば、普段の人物像はつかみにくいだろう。
「佐藤律子……この俺に与えた屈辱、どう晴らしてくれよう」
 煙草をくゆらせながら、一週間前のことを思い出す。はらわたが煮えくり返る想いだ。絶対にこの女だけは、どんな手を使ってでも追い詰めてやる。追い詰めて額に人格否定としてのバツ印を描き込むのだ。
 佐藤の家を調べるのはそれほど難しくはなかった。まず、実家に電話して弟の住所を教えてもらう。両親は行方不明の自分のことを心底心配していて、なんて親不孝なことをしているのだろうと心情がぐらつきかけたが、ここで引き返すわけには行かない。適当に今の生活をでっち上げて、話を次郎のほうに持っていく。弟は一応実家に連絡は取っているらしかった。これで住所はつかめる。あとは弟のアパート付近で張っていればいい。案の定、張り込み一日目にして佐藤は現れた。かなり頻繁に訪れているらしかった。アパートを出た佐藤をストーキングすることで、芋づる式に彼女の住処も判明する。
 しかし、佐藤の所在がわかったからといって、いきなり襲撃するのは性急だ。外で襲撃するにも佐藤は当分人気のない場所には近づかないだろう。もう少し様子を見て、決定的な隙をつかなければならない。
 この前のことが警察に通報された可能性はないだろう。太郎は、弟の性格を把握している。弟は人に騒がれたり注目されたりすることを何よりも疎んじた。自分のことを警察に話せば、弟ということでマスコミに追い回されるだろう。そんなマネをあの弟がするはずがなかった。太郎が逮捕されればどの道、騒がれるだろうが、逮捕前と逮捕後では前者のほうが盛り上がる。事件が収束すればやがて忘れ去られていくだけだからだ。
 無論、兄を警察に逮捕してもらいたいとは思っているだろう。しかし、警察に垂れ込みたくはない。
 ――次郎のやつ、佐藤律子をおとりにする気だな。
 太郎が佐藤を襲うのを待ち、現行犯で警察に突き出す。やるならそれが一番だろう。あいつには次に通り魔が誰を狙うかがはっきりとわかっているのだから。
 ――いいだろう。受けて立とうじゃねえか。思い通りに捕まったりはしないがな。お前は兄貴を舐めすぎなんだよ。
 と、人の来る気配を感じる。太郎は佐藤宅から目を逸らした。中年女性が三人ほどで、世間話をしながら歩いてくる。
「……最近は通り魔が大人しいね」
「あの、額にバツ印を描いていくのでしょ。いやねえ」
「『愛しているから』って、わけがわかんない」
「ホントよねえ」
 おばさんたちは、太郎には目もくれずに通り過ぎた。彼女らが角を曲がったところで、太郎はフッと笑う。
「お前らには一生わからねえだろうな」
 煙草を地面に捨て、足でもみ消す。
「いつ警察に捕まるかもしれない、そんな危険を冒してまでも執拗に追いかける――これを『愛』と言わずして、いったい何と言うんだよ」

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