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八、リンゴのひとりごと


 金属質の階段を上りながら、佐藤は学校での会話を思い出していた。

「吉村、あれ以来全然学校に出てきてへんね」
「そういえば、そうだね」
「このまま欠席が続くと留年って先生が言うてたよ」

「…………」
 佐藤は扉の前で立ち止まる。無理やり明るさを演出しながら、中に入った。
「こんにちはー。吉村、調子はどう?」
 昼間だというのに部屋は薄暗い。カーテンが締め切られているからだ。
 鈴木の部屋と同じ間取りとはとても思えないほど、広々とした空間だ。圧迫感を与える怪獣たちがいないからだと納得する。鈴木の部屋で機関銃が立てかけられていた場所には、ギターが置いてある。ほかにあるのはラジカセやファッション雑誌などで、どれも整然と並べられている。同じ男でもこうも違うのかと、佐藤は感心した。
 しかし……。
 変わらない部屋の中で、部屋の主はすっかりと面影を失ってしまった。
 六畳間の真ん中に敷かれた布団。そこに横たわる吉村知生は、あまりにも悲惨だった。以前の彼を知っている佐藤は、涙すら溢れてきそうな有様だ。
 いつも手入れされていた茶色い髪は、一切のつやを失っていた。眼球は萎縮し、濁った瞳が虚空を仰ぐ。頬はこけ、唇は乾き、肌もがさがさだ。無精ひげがまばらに生えている。額にバツを描くという行為は、吉村に耐え難い精神的ショックを与えたらしい。無理もない。吉村は誰が見たってイケメンの部類に入る好青年だった。きっと容姿には自信があったに違いない。
 佐藤が入ってきたことに気がつくと、少しだけ顔を動かした。やはり目は精気がない。
「佐藤さん……」
「おかゆのもと買ってきたの」
 片手に下げたビニル袋を見せる。それにも吉村は大した関心を見せなかった。
 吉村は、顔を手で覆い、絶望的な声を出した。
「……僕、もうどうしたらいいのかわからないんです。こんなものを顔に彫られて、外に出ることも出来なくなった。学校にも行けない、デザイン職なんてもってのほかだ。僕の未来は、なくなってしまった……終わりだ、何もかも……」
 か細い、しかし感情的に震えた声。こんな弱気な吉村は見たことがない。佐藤の心がやるせなさに包まれる。

 ○

「せめて、せめて、リンゴが食べられたら……佐藤さんの剥いたリンゴが食べたい……リンゴ……」
 吉村は、最後の希望を託してそう言った。
「はい」
 目の前に、リンゴが差し出される。死体状態だった吉村の目が輝きを取り戻す。しかしそれは一瞬のことだった。たしかに、楊枝に刺したリンゴがそこにはある。だが、それを持っている手は佐藤のものではない。
 薄気味悪い笑みを浮かべた男に、吉村は半分切れた。
「何ですかあなたは! 人の部屋に勝手に上がりこまないでくれるかな!」
「佐藤さんは梅干買い忘れたって出て行ったよ。はい、リンゴ」
 平然として、なおもリンゴを取るよう促す隣人。吉村はその手をはたいた。リンゴが畳の上に落ちる。鈴木は笑いながら、ちょっと怒っていた。そんなことは無視して、布団にもぐりこむ。
「佐藤さんの、佐藤さんの剥いたじゃないとダメなんだああ……うわああああ……佐藤さんのリンゴおおおお……」
「君、実は変態でしょ」
 僕は変態じゃない! と抗議しようと布団をめくる吉村。そこでまた腹の立つ光景が繰り広げられていた。鈴木は皿に載せられたリンゴを次々口に放り込んでいるのだ。こめかみに血管が浮き出てくる。
「何、自分で食べているですか! それ僕に剥いたんでしょ!」
「え、食べないんじゃないの?」
「食べますよ、剥いたんなら食べます。あんた病人をなんだと思ってるんですか」
 白々しく返事する鈴木から、リンゴを奪い取る。口に放り込みながら思った。
 ――こいつ、性格悪う……。
 神経衰弱を気取って佐藤の世話を求める行為も相当なものだが、それはとりあえず置いておく。
 吉村が皿ごとかかえているため、鈴木はリンゴを食べることが出来ない。無論、要求されても分けてやるつもりはなかった。こんな変人、部屋にいるだけで不愉快だ。
 鈴木はよほどリンゴが食べたいのか、もう一つある、切られていない分を取り、自分で皮を剥き始めた。しばらく、沈黙が続く。吉村は、するすると落ちていく皮を眺めていた。
「……皮むき、うまいんですね」
「昔、剥いた皮を日干しにして集めることにはまっていた時期があってさ」
「君、実は変人でしょ」
 お互いにリンゴをつまみながら、ぽつぽつと会話をし始める。吉村としても、親しくないもの同士の沈黙というのは、なかなか耐え難いものがあった。
「佐藤さんって、学校ではどんな感じ?」
「そりゃあ、明るくて友達が多くて夢に向かってキラキラしている人ですよ。誰にでも好かれるタイプですね」
「実際、かなりヒステリックなんだけどね」
「何であなたが僕の知らない佐藤さん情報を持っているんですか!」
 身を乗り出し、鈴木を睨みつける。
「……とりあえず謝るよ」
「だいたい、あなたと佐藤さんが知り合いだって言うのが信じられません。あなたは必要以外は家に引き篭もって、変なフィギュアばかり集めているような人です。佐藤さんとは違うんです。若い人って、普通はもっと輝いているものですよね。あなたにはそれがないんです」
「君さあ」
 吉村の不平を、静かに遮る。特に表情に変化はなかった。顔を見ようともせず、リンゴを咀嚼している。
「はい?」
「佐藤さんのこと好きだったりするんだ」
 少し黙ったあと、吉村は答えた。
「好きです。夢に向かってひたむきな彼女が」
「潔いね」
「は?」
 わけがわからなかった。この男とは馬が合わない。はっきりとそう思う。

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