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フクロウさん

 フクロウさんは優しい人だ。フクロウさんは全部知っていて、何も知らないふりをしてくれる。だがその優しさがどれほど残酷なものなのか、彼は考えたことがあるのだろうか。


 フクロウさんに出会ったのは、市立図書館でのことだった。というより、市立図書館でしか会ったことがない。彼はいつも窓際の日当たりのよい席で本を読んでいて、私もまた反対側の窓際で本を読んでいた。ふとしたきっかけから口を利くようになり、私たちは親しくなっていった。
 フクロウさん。本名は知らない。梟というのは学問の象徴と聞いたことがある。フクロウさんは何でも知っているから、私が勝手にそう呼んでいるだけ。彼は私のことを「君」と二人称で呼ぶ。図書館の外で会う約束は今のところありそうもないから、これでも困らないんだけどね。名前、教えてもいいけれど、何というか、この寂寞とした本のとりでの中で、不思議な感覚に浸っていたかったから。「名前」という日常的なものを忘れていたかった。
 私はフクロウさんのことが好きだ。今更、かまととぶるようなつもりもないが、まるで優しい先輩に憧憬を抱く女子中学生のような、何とも純真な気持ちでフクロウさんに惹かれていた。だから、短大の面倒くさい夏休みの宿題が済んだ中秋の今でも、意味もなく図書館に入り浸っているのだ。いや、意味はある。フクロウさんに会うためだ。だが、これは本来の図書館の使い方とは著しく離れているため、無意味に、といってよいだろう。
 フクロウさんは、きっと私の気持ちに気づいている。そして私も彼の答えに気づいている。彼は私を好きじゃない。人間としては嫌われていないのだと思う。しかし、女としては見ていない。これは、彼の様子を見ていればわかる。
 フクロウさんは私より十歳は年上のように見えた。彼が私を相手にしないのも当然といえば当然だ。ともすれば私のこの想いも、恋ではなかったのかも知れない。女子中学生の時期をとうに過ぎてしまった私は知っていた。恋愛と憧れは別なのだ。
 フクロウさんは優しい人だ。フクロウさんは全部知っていて、何も知らないふりをしてくれる。だがその優しさがどれほど残酷なものなのか、彼は考えたことがあるのだろうか。
 彼は私を必死で傷つけまいとして、私の想いを拒絶することなく優しくしてくれるのだ。しかし彼のその目は、私を見ながら私ではない誰かを見ていた。
 彼の読んでいる本の題名を、私はいつもチェックしている。その題名は時折違うものに変化したが、大抵は同じ本を読んでいた。女性のように細くて白い指先が、壊れ物を扱うかのごとく頁をめくっていく。前髪の隙から見える瞳は、言いようのない郷愁に彩られていた。はたから見ている私にすらセンチメンタルな感情が生まれるほどだった。
 私は古本屋でその本を見つけ、買って帰った。学生寮に帰るとスタンドの電気をつけ、ベッドに横たわり表紙を開く。
 家で本を読むだなんて、いったい何年ぶりだろうか。
 私は元来、活字とは縁の遠い女だった。フクロウさんに出会ってからは、図書館にいる口実のために読書をし、随分と文学にも詳しくなったが。もっとも、さらに自分のレベルを上げなければ、フクロウさんとは対等になれない。対等になれないから恋人になれない……そうかも知れない。だから私は、この本を手にとったのだろうか。
 その本は、恋愛小説だった。何となくフクロウさんのイメージと違ったので、少し意外に思う。
 主人公の姉の視点で語られる話だった。


 妹は、昔から愚図で、姉に迷惑をかけてばかりであったという。しかし顔だけは可愛くて、よくもてた。引っ込み思案の彼女は、言い寄ってくる男すべてを退けていた。そんな彼女にも恋人ができた。二人は本気で愛し合っていた。しかし、男の家庭には問題があった。厳格な両親は、二人の恋に反対した。それまで親に口答えをしたことのない妹が本気で反抗した。男と二人で恋の逃避行に出る。家出するとき、妹は姉の愛読していた安部公房の本を持っていってしまった。
 ほどなくして、妹は両親に連れ戻された。取るものもとりあえず妹だけ引っ張ってきたので、安部公房の本は戻ってこなかった。妹と男はその後二度と会うことはなかったが、代償として妹は廃人のようになってしまった。
 数ヵ月後、相手の男が自殺したとの話が入った。薬に溺れ、海に飛び込んだそうだ。それを聞いても、妹の表情はこ揺るぎもしなかった。そして二十年後、姉の隣にはかつての面影を失い、八十歳を迎える老婆のようになった妹が座っている。


 まあ、よくある悲恋だ。ただ、鬱屈とした文体が気持ち悪いほど脳裏にへばりついてくる。そして、男が死んだ時、妹が語り部である姉に言った台詞が強烈に胸へと焼きついた。


 ――どうせ会えないのなら、生きていても死んでいてもおんなじだ。


 作り話なのに愕然とした。妹はこの言葉を残し、四十前にして白髪の老婆にまで豹変するのだ。「もしかしたら、愚図と思っていた妹は自分よりずっと大人だったのかも知れない……」。最後は姉の言葉で締められていた。
 この話の主人公は女だけれど、フクロウさんにも似たような体験があったのではないだろうか。彼の浮世離れした様子を見ていると、そんな風に感じられた。
 ……かなうわけないじゃないか。かなうわけないじゃないか!
 彼の過去に何があったとしても、私の想像が間違っていたとしても、彼のあの瞳の奥に映る私ではない誰かに、かなうわけがないではないか。そんなことはずっと前からわかっていたはずではないか。だがしかし、ここに来て初めて、自分の失恋をはっきりと思い知らされた。
 黒ずんだ本を閉じ、私はわけもなく泣いた。
 次の日、学校が昼で終わったので、いつものように図書館に行った。フクロウさんは、いつものとおり窓際の席に座っていた。そしてあの本を読んでいた。私を見ると、とても綺麗な顔ですっと微笑む。
 私はやっぱり、明日も明後日も、冬が訪れてもこの図書館に来ると思う。春になれば、窓辺に植えられた桜の木が、愚直なまでに美しい淡紅色の花を広げるのが見られるだろう。

 

 ああ、早く新しい恋を見つけたい。



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