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男の純情(ある意味病的)

二、振り向かずとも


 本日の映画は『アンダルシアの犬』だった。
 冒頭から目玉を剃刀で切りつけるという衝撃的な内容に、烏丸は耳を押さえて突っ伏していた。
「ちょっと部長、あなたが見たいって言うから、ビデオを付けてるんですよ」
 黒木は上等そうなヘッドフォンを外し、パソコンから顔を上げる。暗い室内で液晶画面が浮き上がっていた。烏丸は無言で首を左右に動かしたようだ(なにぶん、突っ伏しているためよくわからない)。城戸が笑いながら黒木の肩を叩く。
「ハハ、まあまあ。でもセンスいいよ、烏丸くん。この作品を選ぶなんて。アート系の中じゃ有名作だ」
 美術教師ゆえか、それともただの趣味か、城戸は烏丸の持ってくる「芸術映画」のほとんどを知っていた。
「ったく」
 黒木はパソコンに顔を戻す。撮影終了から五日後の金曜日。黒木いわく、すでに七割がストーリー順に並べられており、来週には確実に終わるという。といっても、これからが正念場だ。彫刻で言うならまだ荒削りに形をとっただけで、これから細かくヤスリを欠けていかなければならない。場面転換のつなぎは重要な箇所だ。ここで失敗すると、全体的にテンポが悪く、観客がイライラすることになる。編集作業が作品の出来を大きく左右する。黒木はそう熱く語った。
 夏樹は黒木の後ろの列に座り、コーヒーをすすりながらパソコンの画面を凝視していた。八神もまた液晶画面の映りこんだ夏樹の瞳を凝視していた。
 突如として、室内が照らされた。急な変化に目がついていかず、思わず細める。
 八神ははっとする。烏丸、黒木も思い至ったらしい。ゆっくりと首を入り口のほうへ回転させていく。
 ゆらりと赤い人影が立つ。
「おはようございますっっ、仁先生っ!」
 同時に椅子を蹴り、直立不動で挨拶をする三人。夏樹と城戸だけが時空に取り残されていた。
 いつもと同じ深紅の胴着の仁先生は、ふむと軽くうなずいた。
 映画研究部は「顧問の前だけ」体育会系、午前午後問わず「おはようございます」の業界挨拶である。
 仁の視線が、城戸の前で止まる。一瞬の間のあと、城戸は会釈した。
「どうも平坂先生。ちょっとお邪魔してました。ささ、本物の顧問の先生が現れたことだし、僕は自分の巣に帰るとします」
 実に素早い動きで仁の脇をすり抜けていく。逃げた、と思った。
 仁は無言のまま、部室の電気をつけた。烏丸はすでにビデオの停止ボタンを押していた。黒木もパソコンの蓋を閉めている。
 それにしてもどういうつもりだろう。空手部にかかりっきりで、こちらの様子などほとんど見に来ない顧問が自ら出向いてくるとは。八神の頭には疑念しか浮かばなかった。
「聞くところによると、お前らは映画を撮っているそうだな」
 一応顧問として視察は義務ということか。しかし、この聞き方はほとんど嫌味だ。何も期待していないに違いない。
「はい、すでに撮影は終わり、残すところ編集だけとなりました」
 八神が答える。
 仁は、あごひげをさすっていた。表情からは特に読み取れることがない。
「来年のレクリエーションまで放映しないのか」
 えっと思う。この質問は想定の範囲外だった。そんなことを聞いて、いったいどうするつもりだろうか。
「まあ」
 白鷺高校では、部活のレクリエーションに、かなり時間を割いてくれている。一つの部活につき、一時限――つまり五十分だ。これに四月は一週間の時間が費やされる。中には十分もせずに終わる部活紹介もあるので、そういった部は同じ時間内にまとめられるが。映画研究部は、去年までその十分も満たない一まとめにされる部活のグループだった。しかし、せっかく時間がもらえるのだ。来年は口頭説明と映画作品で、まるまる一時限使わせてもらう。
「そうか」
 仁は表情を変えることなく一言発した。
 どんな沈黙よりもこの沈黙は辛い。いっそ殺してくれ! と叫びたい衝動に駆られる。が、その前に口ひげをしきりになでながら仁が二の句を継いだ。
「文化祭に、お前らの枠を取ってやった」
 八神は今、自分が噴飯モノの間抜け面になっていることがわかった。ほかの三人も、きっと同じだ。
 言葉の通りに受け取れば、映画研究部の作成した映画が、クリスマス・イブに行われる文化祭で、放映することが可能だということだ。全校生徒の前で、学園最大のイベントで、自分たちの作品が放映される。注目を集める。夢にも思わない話だった。
 仁先生の、彫りの深い、しかし端正な顔を見る。
 平坂仁は、生徒指導の「鬼」はおろか、校長ですら頭の上がらない白鷺高校の「主」である。彼の一睨みがあれば、数十分の枠くらいは、文化祭にねじ込まれてもおかしくはない。
 この先生は、思ったほど悪い人間ではないのかもしれない――八神の胸に、そんな思いが湧きあがった時。
「五分だけどな」
 ――無理じゃん。
 ぬか喜びだけを残し、仁は部室を出て行った。
 仁の圧倒的存在感から解放され、部員たちは空気の抜けた風船になった。へなへなと椅子に座り込む。夏樹だけが人間として存在していた。それゆえに孤立していた。
「何、さっきの。旧日本軍かと思った」
 冗談とは思えないほど真面目な顔だ。八神は疲れきっていた。仁先生の前に立つと一生分の気力を吸い取られたも等しくなる。
「仁先生と向き合ったら誰だってああなるよ」
「そうそう、何せ神殺しなんて異名を持つ境江市最強の闘う教師なんですから」
 黒木が同調する。机にあごを乗せ、両手はだらりと垂らしていた。
 警察署の前を爆走する無法者も、仁の影を見るとバイクを乗り捨てて逃げていく。境江市にとって平坂仁の力は絶大だ。今や絶滅危惧種に指定される雷親父を一人でやってのけている。市の治安は彼によって守られていると言っても過言ではなかった。
「三年ほど前にサーカスからライオンが逃げ出したときは、一人で取り押さえたそうだ。前足を払った後に胸へ回し蹴りで完了。人間への被害が出る前に捕まったことで、殺処分されずに済んだらしいぞ」
 烏丸さえも脱力しきっていた。
「何でもずいぶん昔、試合中に相手を地面に叩き伏せて再起不能にしたことが何度もあるらしいですよ。挙句の果てに死なせてしまったとも聞きます」
 黒木があごを上げて更に補足する。夏樹はおおげさに顔をしかめて見せた。
「どこまで本当なのかしらね、先生の噂」
「どこまでも本当に思えるのが怖いところだよ」
 答えると、八神は舌を出した。
「しかし、五分の枠とは……それでいったいどうしろと言うんだ」
 烏丸が前髪をかき上げる。八神も苦笑いしかでなかった。今回の作品は全体で三十分前後のはずだ。それなのに五分。起承転結の「起」が終わるかも怪しいところだ。
「予告編、とかどうですかね」
 黒木に視線が集まる。黒木は丸眼鏡をくいっと指で持ち上げ、不敵に笑った。
「面白いカットだけを取り集めて、ぐっと密度の高い五分間を作るんです。背景に音楽でも流して、映像と合わせたら最高じゃあないですか。で、すべての映像が終わった後に、バーンッとタイトルを出す。話題性ばっちりですよ」
「できるのか?」
「僕の作るマッドアニメはネット世界じゃあ定評があるんですよ。任してください、こういうのは得意だし大好きなんです」
 マッドアニメと言うのは、関連のない音楽やアニメの映像を引っ付けておふざけな映像を作るパロディの一種、だと記憶している。八神の詳しい分野ではないが、黒木がネット界で言われる「職人」の一人だったとは。この後輩には驚かされてばかりな気がする。
 ともあれ、できるというのなら任せてみる価値はある。たった五分でもチャンスをくれた仁先生には、多少の感謝をしておくべきか。
 セーターの袖をまくりながら黒木はパソコンに向かった。口元がニヤリと持ち上がっている。
 さて、と八神は一段落置いた。
「どうします、部長。ビデオの続きをご覧になるのなら、電気を消しますが」
 烏丸は目をそらし、三回ほど瞬きをしたが、うなずいた。
「一度観ると決めた映画は最後まで観なければならない」
「あんた、うつむいて始めっから観てないでしょ」
 夏樹の毒舌が矢を放つ。烏丸が何か言い返す前に、さらに畳み掛けた。
「だいたい、ビデオを片っ端から集めて毎日観るって、世間じゃそういうのオタクって言うのよ」
「オタクと呼ぶな、愛好者と言え。美術部め、貴様こそ歴代の芸術家の名前暗記していたりするんじゃないのか。定期券入れにマグリットの写真とか入ってんだろ!」
 お前だってオタクだろうと言いたいらしい。マグリットをチョイスするところがマニアックだ。
 夏樹はわざとらしく髪をかきあげた。
「あいにく私はダリ派なのよ」
「どちらも同じシュルレアリスムだろ!」
 そんないつもどおりの呆れたやりとりが続く中、黙々と黒木は作業していた。
 映画作りは順調に進んでいるというのに、八神の中にはアンダルシアの犬の満月と重なる剃刀のイメージが、不吉の象徴としてくすぶっていた。センスがいいと笑った城戸の顔もくすぶっていた。

 ――神経科。
 白い札のかかった階でエレベータを降りる。烏丸部長の見舞いに来たときは呼吸器科だったか。医大にはかなりの数の病棟がある。
 ナースステーションと病棟は、実際の厚みよりずっと分厚く感じる扉に隔たれている。
「夏樹賢治の面会に来ました」
 眉の凛々しい受付の看護士に、夏樹が言う。八神はその横で土産の菓子折りを持ってぼうっと立っていた。
 八神は病院が苦手だった。それは、幼少期に連れて行かれた寂れた耳鼻科医院の、昭和に取り残されたような灰色の空気が原因かもしれない。人のいない待合室で、わずかに破れの見える黒い革張りの長椅子に座り、自分の番を待つ。テレビは置いてあるが、電源は入っていない。音は時計の秒針、時どき聞こえる受付と患者のささやき声。幼い八神は正体のわからない不安に絶えず怯えていた。
 看護士はナースステーションを出て、扉の鍵を開けてくれた。夏樹とともに頭を下げて中に入る。
 前回自分が見舞いに来たのはいつだっただろうか……ホールを横切りながら考える。ホールの畳では患者たちがウノをやっていた。
 半年は前だった。夏樹はよく見舞いにくるようだが、八神は、当然と言えば当然なのだが、あまり来たことがない。病室が近づくに連れて足音と同じだった鼓動が、一人歩きしていく。痩せこけて胸からチューブを生やした女性とすれ違ってすぐ、夏樹賢治のいる部屋についた。四人部屋の右側奥、カーテンの閉め切られた場所が彼のプライベート空間だ。
 夏樹の父は半年前と変わりなかった。ほっそりとした顔に、白髪交じりの頭だ。夏樹と八神を見ると、注意しないとわからないくらい、薄く笑った。
「ありがとう」
 八神の手土産を受け取りながら言う。椅子が一つしかなく、どうするか逡巡するうちに、夏樹親子はベッドに並んで座ってしまった。
 特に話すことがあったわけではなかった。夏樹は学校で日々繰り返される、取るに足らない出来事をエンドレスメロディのごとく語り続けた。父は時にうなずきながらその話を聞いていた。瞳はじっと夏樹の笑顔を捉えていた。
「――で、やっと映画が撮り終わって、黒木くん……そう、いまどき牛乳瓶眼鏡の……が、編集作業をやっているの。編集って言うのは、バラバラになっているシーンを順番どおりにして、自然につなぎ合わせて、効果音とか合成とか、そういうのを加えていく作業だって。黒木くんは将来、編集の仕事がしたいんだって」
 夏樹の父は終始うんうんとうなずいていた。八神は、しばしば向けられる夏樹の視線に「そうそう」と微笑むことしかできなかった。
 夏樹の父は、見た目は普通すぎるほど普通だった。文章も過不足なく書けるし、洗濯も自分でできる。会話も成立する。ただ、ここ三年はまともに社会と接していなかった。あちらこちらの病院で、入退院を繰り返している。医大に入院し、現在二ヶ月目。その期間、ただの一度も病棟を出たことがないということは、普通とは言いがたかった。この病棟に入院しているのは、比較的軽度の患者である。付き添いがあれば、大多数が外出を許可されていた。夏樹の父も例外ではなかった。……彼の場合自殺の危険があるので、単独外出は認められていないようではあったが。
「……お父さん」
 ふと夏樹のトーンが下がった。彼女には珍しい遠慮がちなしゃべりだ。娘の変化に、父の顔からわずかな笑みさえ失われた。
「どう? そろそろ、働けない?」
「……いや……まだ……ごめん……」
 問題は彼自身が、一切、病院から出たがらないということにあった。どんなに見た目や言動が健全でも、それだけで充分病気だと八神は思った。
 入院費は、現在夏樹の後見人をしている人が払い続けているという。血のつながりのない、いわば赤の他人が。
「そっか、うん、そうだね」
 柳の眉を垂れて、小さな口で笑う。夏樹には似つかわしくない表情だと思った。
 ベッドからひょいっと立ち上がる。ベージュのふわっとしたジャケットを手に提げて、そろそろ行こっかと八神を見る。八神も慌てて立ち上がった。
「八神くん」
 カーテンを半分ほど閉めた時、呼び止められる。
「恵をよろしく」
 八神は曖昧に笑うことしかできなかった。よろしくと言われても、どうしたらよいやらわからない。
 病院の食堂で昼食を食べた。ここのラーメンはなかなか美味だ。八神が頼んだのは塩ラーメンだが、スープが薄すぎず辛すぎず喉通りがよい。添えられている海苔と麺を一緒に食べると、スープの染みた海苔の味が舌先で溶けて、麺にからみつく。チャーシューは少々柔らか味に欠けるが、まあ許容範囲だ。
 夏樹はコーヒーをすすっていた。あまりおいしそうではなかった。
「ご飯はいらないの?」
「いらない」
「……俺がおごるよ」
「いらない」
「……ラーメン、おいしいんだけどな」
 八神の言葉は尻すぼみになって消えていった。ラーメンの味も、空気と同じく鉛に変わっていく。
 黙々と箸を運んでいたら、おもむろに夏樹が身を乗り出した。八神の放置した割り箸の袋をつまみ上げる。そこに書かれている店の名前を読み上げた。八神を見つめニヒルに笑う。
「――これ、烏丸系列の子会社」
 八神は真珠球の瞳を見ながら、しばし言葉をもぎ取られていた。
 夏樹は立ち上がると、乱暴にバッグを引っつかんだ。財布からコーヒー代を叩き付けるように出すと、大股で歩き去った。周囲の人間がちらちらと視線を投げかけている。
 迷ったが、とりあえずテーブルに残された硬貨を拾い上げた。夏樹のコーヒーカップも返却口に持っていかなければならない。自分のトレイに一緒に載せて立ち上がった。テーブルに背を向けようとした時だった。
「もし」
 しわがれた声が聞こえて、振り返る。近くで食事していたのであろう老翁が、何かを差し出していた。
「これ、さっきのお嬢ちゃんが落としていったよ」
 定期券入れだった。あんまり鞄をダキに振り回すから、中から滑り落ちてしまったらしい。すみませんと言って受け取っておく。夏樹の姿はもう院内にはなかった。
 院内を出てからスマホを取り出す。画面内で電話帳を開きながら、何の気なしに忘れ物を観察する。折りたたみ式の茶色い定期入れだ。皮には小さな傷がいくつも付いており、使い込まれていることを示していた。軽い躊躇の後、問題なかろうと中を開く。財布や手帳ならともかく、定期入れだ。挟まっているのは定期券。べつに見たところでとがめられる代物では――。
 ――――。
「ナツキ メグミ」の表示を押そうとした親指が、止まる。
 竹中駅‐外浜駅と書かれた薄ぺらい紙切れの反対側のポケット、小さな長方形に合わせて切り取られた写真の中で、教員城戸悠久が笑っていた。

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