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男の純情(ある意味病的)

三、君しかいない


「お前、大丈夫か?」
 トイレットペーパーより白い顔をした八神に、烏丸は紅茶から口を離した。大丈夫か、なんて、部長が口に出して心配するくらいだ、今の自分は末期的にひどい顔をしているのだろう。
 八神は頭を振り、机のない場所を選び地面に丸まった。そのままじいっとすること五分、黒木の叫び声がした。
「週明け早々、奇行に出ないでくださいよ!」
 自分をよける黒木の足が見えた。八神は団子虫になったままだ。
 昨日のことが頭を何往復もしている。夏樹の父の見舞いに行った。父に退院の意志はないらしかった。食堂で昼を済ませた。夏樹はブラックコーヒーしか飲まなかった。自分の食べたラーメンは(あまり言いたくないが)烏丸系列の店のモノだった。夏樹は先に出て行った。老人に定期券を渡された。その中に写真が入っていた。
「……マグリットじゃないじゃん、城戸先生じゃん……」
 そんなつぶやきが口から洩れる。
「ん、何だって?」
 烏丸の呼びかけを無視していたら、足で蹴り飛ばされた(実際はつつくくらいのものだったが、八神の感覚としては蹴りと言ってさしつかえなかった)。八神の体がごろりと転がる。大の字に寝そべる形になった。 
 天井の染みと睨み合う。これを突き破ったところにある空も今日は生憎ねずみ色だった。
 烏丸と黒木が目と目でコンタクトを取り同時に肩をすくめる姿が端に映る。
「よくわからんが邪魔だから座れ」
 また無視して足蹴にされるのは不本意なので、よろよろと体を持ち上げる。その場で足を抱えて三角座りした。椅子に座ってほしかったんだがな……とか何とかつぶやく声が耳を通り抜けた。
「ったく、せっかく映画のシーンを順番どおりに直し終わってきたのに」
 黒木がパソコンを机に置く音が聞こえる。しかし八神の目は自分の膝小僧ばかり捉えていた。
 なぜ自分がこんなにショックを受けているのか、よくわからなかった。夏樹の定期入れに何の写真が入っていたって、それは、八神の関知すべきことではなかったはずだ。
 だが、実際問題として、八神の心は、城戸先生にどんな些細なことでもよいから難癖を付けたい気分であふれかえっていた。……女々しい、我ながら。
「……夏樹さんって、城戸先生が好きみたいですよ」
 自分の受けた衝撃を部員たちにも分け与え、少しでも緩和しようと思った。もしかしたら、こんなことを言いふらすのは最低で浅はかな行為かもしれないけれど。
 視線をちらりと持ち上げる。烏丸と黒木はやはり目と目でコンタクトを取り、今度は半笑いが二つ並んだ。
「いや、まあ何と言うか」「あれほどあからさまなのに、お前、気づいてなかったの?」
 人を食ったようなその口調。八神は首を跳ね上げた。
 たしかに、八神の中でも、何となく夏樹が城戸に向けている瞳に違和感を覚えていたような気はする。だが、目の前に突きつけられるまで、あえて目隠しをしていた。
 自分の驚きに共感してくれる人間がいない。そのことに大いに不満を感じた。八神は、鞄のポケットから例のブツを取り出した。黙って二人のほうに差し出す。烏丸がそれを手に取った。軽く目を細めた。
「なるほど、マグリットじゃなくて残念だったな。あっちも男前なんだがな」
「いまどき、けっこう古風ですねー、定期入れに好きな人の写真」
 黒木が横から覗く。定期入れを返しながら烏丸が冗談っぽく笑う。
「この写真、カメラ目線だし、背景が車内だ。ただならぬ仲に違いない。あいつ、教師に取り入って学校に置いてもらっているんだろう。やることがいやらしいぜ。不純、異性交遊、だな」
 烏丸の趣味悪い冗談に、黒木が首を振る。
「部長、定期入れに入れる写真は片思いの相手だって決まってるんですよ! 恋人の写真は財布に入れるものです」
「いや、前半は合っているが後半はおかしいだろう」
「前半も後半もおかしいですよ」
 オチのつかないまま二人のショートコントは終わった。
 八神は神に祈るような形で、烏丸と黒木に向き合った。
「この状況をどう思います? 教師と生徒の恋愛はご法度でしょ? ねえ! それなのに何で夏樹さんと城戸先生が……」
「いや、だから。さっきも言いましたけど、十中八九、夏樹さんの片思いだと思いますよ」
「それならなおのこと、この恋に未来はない!」
 アドルフ・ヒトラーの演説のごとく、ただならぬ迫力で言い放つ。烏丸が両掌を前に出しながら今度は真面目に返した。
「恋と断定することもないだろう。憧れの先生の写真をこっそり持ち歩いているとか、愚かな女学生にはありそうなことだ」
 八神は唇を噛む。二人の言うことはもっともらしかったが、胸の不安定は直らない。目のやりどころがないので、やたらと絆創膏の巻かれた部長の左手ばかり見ていた。視線に気づいたのか、手をポケットに引っ込めながら口を開く。
「いまさら聞くのもアレだが、お前、あの娘のこと好きなのか?」
 ボウガンで打ち抜かれた。頭の中でカラオケボックスにある色とりどりのボールが回っている。鼠が迷宮をひたすらに走っている。やあ、アルジャーノン。出口はこっちだよ……あれ? おかしいな。こっちも袋小路だ。
「俺は」
 黒木のほうを心持ち睨む。
「――俺は、今でも、――さあちゃんが好きです」
 分厚く阻まれたレンズの向こう、黒木が何を感じたのかは八神のあずかり知らぬことだった。
「――でも、夏樹さんのことも、――たぶん好きです」
 烏丸が小さくため息を吐いた。
 自分の中で考えがまとまらないまま、思考と同時進行で吐露していく。
「俺はただ、夏樹さんのことが心配なんです。彼女はほら、ちょっと危なっかしい部分があって。俺が近くで見ていないとダメなんですよ。そりゃ、相手によっては夏樹さんが好きになっても許すと思いますよ。でも、城戸先生はなあ……彼女のためになるとはとても思えないなあ。彼女ってファザコンっぽいところがありましてね、だから年上に憧れるんでしょうけど、それじゃあダメだと思うわけです。いつ、痛い目を見るかもわからないし、ここは俺がちゃんと見極めないと」
 自分で言いながらとてつもない理屈だと思った。
「先輩のは恋と言うよりただの過保護ですね」
「何ていうか、お前、あれだろ。恋人をわざと病気にして一生懸命看護して悦に浸るタイプ」
 ズバズバッと、左右から袈裟斬りにされた気分だった。「ああっ、当たってるかも!」と思わず叫んでしまう。
「俺、四人姉弟の末っ子で、上からはいつも見下されていびられて、劣等感に劣等感を重ねて生きてきて……もしかしたら、夏樹さんへの感情は、自分より下の保護すべき対象への優越感なのかもしれない……なんて、なんて嫌な人間なんだ、俺は」
 自分の心中が一枚一枚皮剥かれていく。
 八神の中には、夏樹は自分に惚れているという絶対的な自信があった。根拠もなく妄信的にそう信じていた。だから驚いているのだ、夏樹の意中に自分がいないことに。今受けているショックは恋破れたものではない、面子を傷つけられたショックに違いなかった。
 爽夏に関してもそうだ。自分と彼女は両思いだと信じて疑わなかった。こちらが何もしなくても、いつかはあちらから告白してくると思っていた。自分が行動を起こさなくても、彼女が離れていくことはないと思っていた。だが現実は、爽夏は黒木と付き合っていた。
 うなだれる八神の内心が伝わったのか、黒木が嘆息しながら首を振る。
「どーっしても納得がいかないようなので、教えてあげますよ。僕がどうやって爽夏ちゃんのハートを射止めたのか」
 爽夏の名を耳にし、黒木に目を向ける。それは大いに気になる話だった。はっきり言って、自分が人間的に黒木より劣る部分があったとは思えないのだ。
 黒木の顔はいささか勝ち誇っていた。
「単純な話です。押して押して押しまくったんですよ。毎朝毎晩ラブコール。似顔絵描いたり写真撮ったり、それをポストに入れておいたり。手紙だって書きました」
「それはただのストーカーだろ!」
「まあ、さっきのはちょっと誇張ですけど。とにかく、僕はアタックしまくったんです。あなたの妄想どおり、爽夏ちゃんはあなたのこと好きだったんだと思いますよ。そんな感じのこと言ってましたから。でもね、女はいつまでも待ってはくれません」
 眼鏡を指で持ち上げると、キラリと光った。
「八神先輩、あなたは勝てる勝負で逃げたんです」
「もうやめろ、八神のライフポイントはとっくにゼロだ!」
 烏丸が叫ぶが、本気で心配しているようには見えなかった。
 体が沙漠の砂に飲み込まれていく。
「……城戸先生って、三十二歳ですね」
「そうなのか?」
「そうです」
 八神は砂の中から太腿を持ち上げる。両足でしっかりと立った。
「十五歳も年が違うなんて、ジェネレーションギャップがありすぎですよ」
「はあ……」
 要領を得ない返事をする黒木を見据える。黒木の頬がピッと痙攣する。
 彼の言いたいことはわかる。男は、自分の力で勝ちをもぎ取らなければならない。結婚式場で主人公の腕から花嫁をかっさらっていくマフィアの親分にならなければならない。
「城戸先生、眉毛太いし。少し垂れ目だし。下睫毛長いし。鼻も口も大振りだし。教師の癖に茶髪だし。背は高すぎて教室のドアをくぐるときに前かがみにならないといけないし。ストライプの入った青シャツが似合いすぎてイヤミだし」
「そんなこと言い出したら、お前は目つきが悪すぎて時代劇の浪人みたいだぞ」
 いわく、悪すぎる目つきで烏丸部長にガンを飛ばす。烏丸は口をつぐんだ。
「それに……何と言っても俺は豪商八神の息子。市内、いや、全国に幅を広めても指折りの名家だ。長男じゃないからうるさいしがらみもない。一方、城戸先生はしがない美術教師」
「八神先輩、ダークサイドに堕ちてますよ」
「堕ちるさ。姫君を守るためならば。人を殺めて頬を涙に濡らしてやる」
 八神は大きく手を広げた。
「この俺が城戸悠久に劣る部分がどこか一つでもおありでしょうか!」
「城戸先生の実家はこの辺じゃ類を見ない名医だぞ」
「そうそう。医者のいない片田舎に、少しでも役に立つため開業し、生涯を医療に捧げた夫婦がいた――というのが先生の祖父母のふれこみですよ。城戸家は今もけっこうな土地を所有してるって話です」
「一方、八神家は昔から絶大なる権力をふるい、領地の人間を震え上がらせた。企業に土地を貸してはみかじめ料を取るヤクザまがいの御家だ」
 次々と返されてくる異論に、八神というタイヤから空気が抜けていく。が、それも最初のうちだけだった。ひしゃげ落ちないうちに、紅蓮の炎が巻き上がる。
「金も名誉も血筋もあるが、八神は土地一番の嫌われ者だ」
 小笑いしながらのたまう烏丸、おそらく、言葉ほどの悪意は彼にないのだろう。口で言うだけだ。そんなことはわかっている。よくわかっていた。だが、今の八神は普段より著しく許容量が少なくなっていた。
 深い吟味もなく口を開く。
「それをいうなら――」
 ――あなたの家はよそから来て金目のものをあさる下品な鴉なんて言われてますよ。
 寸でのところで、喉が詰まった。
「あ?」
 烏丸が不穏な顔をする。八神が何を言う気だったのか、察知していたのかもしれない。
 八神は顔を背けた。自分自身が信じられなかった。
 今、自分は言ってはいけないことを言おうとした。絶対に言ってはいけないことを言おうとした。
 黒木の言うとおりだ。
 心がすさんでいる。
 胸を落ち着けるために、深呼吸を何度もした。一、二、一、二……よし、大丈夫。
 二人を見る八神の目は、もう鋭さを失っていた。
「……俺、どうしたらいいんでしょう?」
 烏丸は呆れ顔で席に戻った。
「とりあえず、あの女に定期券返してやれ。困ってるだろ」
 右側から飛んでくるボールにばかり気をとられていて、左側から思い切りバッドを振り下ろされた感じだった。
 至極当然の発言ながら、八神の脳内フォルダから抜け落ちていたのだ。
 昨日、返すつもりでいたものの、予想外の中身に、思わず持ち帰ってしまった。家に着いた後は、返すとか返さないとかよりも、夏樹の真意についてばかりがちらついていた。
 八神は叫んだ。
「どうやって! 気まずいじゃないですか!」
「逆切れすんな! こっそり鞄にでも戻しとけばいいだろ」
「無理ですよ。クラスも違うし」
「しょうがないですね」
 反対側から響く声に首を捻る。黒木の眼鏡の奥で、あの身震いしたくなる据わった目が笑っていた。
「手渡しする以外にないでしょう」

 夏樹は今日も美術室にいるはずだった。
 黒木に促されここまで来たはいいが、扉を捻ることができずにいた。
 ――ほかの部員とかち合ったら嫌だし……。
 などと自分に言い訳していると、ふいに肩を叩かれる。たっぷり十センチは地を跳ねた。首を後ろに傾けた時、いたのは今、最も会いたくない人間だった。
「なーにやってるんだい、八神くん」
 八神の心境などつゆ知らず、屈託なく笑う城戸先生。今の状況をどう説明するかとか、あの写真は何なのかと言う疑問とか、先ほど悪口を言いまくった罪悪感だとか、さまざまな感情がミキサーに放り込まれる。
「いや……夏樹さんに用があって……」
 回らない舌で返事する八神に、城戸は声を上げて笑った。
「外野の教室って入りにくいよね。わかるわかる」
 八神の細い目が普段の二倍になった。快活そうな城戸先生に、こういう人見知りの気持ちが理解してもらえるとは思わなかった。もっとも、八神が美術室に入れないでいるのは、少し違う理由なのではあるが。
「ちょっと待ってて」城戸はそう残し、美術室に入っていく。扉の隙間からちらと中が見えた。夏樹はキャンバスの横で、ほかの部員と談笑していた。
 廊下に一人残される。辺りは静寂に包まれ、どこか違う階から反響する小さな足音しかしない。ポケットの中の定期入れを握りしめ、所在無くたたずむほかになかった。
 しばらくして、再び扉の開く音がする。八神の背筋がピンと張る。
「どしたの、八神」
 夏樹は普段と変わりない様子で、首を傾けている。これも普段と変わりなく、絵具の付いた白衣姿だ。首からはイヤホンを垂らしている。
 なかなか口を開かない(いや、口は開いていたが言葉の出ない)八神を促すように言葉を足す。
「映画の話? 何か進展あったの」
「ああ、黒木が言ってただろ。順番どおりにしてくるって。有言実行だった」
「マジ? じゃあ見に行こうか」
「い、いーやそうじゃなくて、それもなんだけど。そうじゃなくて……」
 歩き出そうとする夏樹の袖を引っ張る。しどろもどろの八神を夏樹は奇異の目で見ていた。一呼吸置いて、薄茶色の目を見返す。
「ちょっと、中庭にでも行こうか」
 首なしマリア像前のベンチに腰掛ける。二つの棟の合間を涼しすぎる風が通り抜けた。噴水の発するマイナスイオンが背中を包む。
「さっきは、何を聴いていたの?」
 夏樹の使い込まれたイヤホンを見ながら尋ねる。まこと普通の会話ながら、八神の心臓は肋骨を突き破る勢いだった。
「秘密」
 そこで途切れる。黄色く葉を染めたイチョウが音を立てる。八神はその様子をじっと見ていた。ポケットに手を入れたり出したり、詰襟を閉じたり開いたりと落ち着かない。
「それで、どうしたの?」
 眉を寄せた夏樹の顔がまっすぐこちらを見ている。せわしなく動いていた八神の手が止まる。真摯な顔を見返しながら、三度ほどの瞬きをする。
 逃げられない。
 ポケットから手を出す。握られた革のケースをできる限り平生のまま差し出す。夏樹の眉や目が真ん中に寄り、そしていつもの幅に戻った。
「……昨日、落としていって」
 夏樹はふうっと息を吐きながら、それを受け取る。なくしたのかと思った、とささやくように言う。定期入れから目を持ち上げ、
「中身、見た?」
 抑揚のない声。そこからは何の感情も読み取ることはできなかった。
 嘘をついても仕方がないので、うなずく。まあ、そうだよねーと、どこか無機質な、人形みたいな顔で言う。
 八神が頭の中の小人を総動員し、素晴らしい言い訳を練り上げているうちに話は進んだ。
「好きなんだ、城戸先生のこと」
 砂の城が崩れ落ちていくような、空虚なものが心を支配した。裁判で死刑判決。牢屋で悶々と過ごす。処刑台の下に連れてこられる。「最後の言葉は?」――そんな、感じ。
「何で?」
「優しいから」
 俺だって優しいよ。自分はコーヒーなんて絶対に飲まないのに豆の挽き方を完璧にマスターしているんだよ、君のために。
 子供じみた反論が脳裏をよぎる。とあるアニメで主人公がヒロインに言った台詞を思い出した。うろ覚えだがヒロインが木につるしてあるブランコをほめた。主人公はパパと一緒に作ったと答えた。「君のために」。なんつーキザな。そう思った。そして今しがた自分が脳内に並べた御託を反芻して沈んだ。
 八神は受け入れがたい真実を何とか路線変更させようとした。
「で、でもさ、城戸先生ってもう三十二歳じゃん? ちょっと歳が離れすぎてると思うな。これで結婚とかしたらさ、年取ってから大変だと思うよ。寝たきりになったりしたら世話しないといけないし、老々介護になっちゃうし」
「ごめん、八神が何を言っているのかさっぱりわからない」
 紙を裁断するように小気味よくいちゃもんは遮られた。
 ――うん。自分でもそう思った。
 八神は首を垂れた。
「どうする? 黒木くんの編集した分、観に行く?」
 沈黙が飛び去った後、夏樹があっけらかんとした調子で言う。とてもそんな気にはなれなかった。夏樹の美術部活動もあるので、このまま別れることにする。
 三日ほど後、八神たちは部室にいた。夏樹や城戸の都合が合ったので、全員集合だ。
 あれから、夏樹は特に変わった様子はなかった。だから、八神も――内心はどうあれ――普通に接することにした。その普通に、という行為が、存外に難しいのだが。
 皆で黒木の小さなパソコン画面に群がる。八神、黒木、烏丸がパソコンの正面・左右に座り、夏樹と城戸が後列から身を乗り出す形に落ち着いた。八神としてはこの配置にはいささかの不満があったが、正部員と助っ人で分ければ妥当な配置だった。
「やだ、ちょい恥ずかしいんだけど」
 画面に映し出される自分の姿を見て叫ぶ夏樹。気持ちはよくわかった。自分の姿を客観的に見るのは面映いものだ。ベテラン俳優でも自分が出演する映画は絶対に観ない人もいる。違う人間になりきろうと真剣に、普段言わないような台詞を吐く自分の姿は滑稽だ。
 ヒロインが何か言うたびに夏樹が叫ぶので、台詞が聞き取りにくい。かく言う八神も自分が出現したときは机を思い切り叩いてしまった。
「うーん、やっぱり雑音とかで屋外のは声が聞き取りにくいですね」
「音だけ取り直すか?」
「あ、私は時間大丈夫だよ」
「じゃあそうしよう」
「ここのリテイク、最初と後の、どっち使ったほうがいいと思います?」
「今観ると、撮り直す前のやつのほうが感じ出てるよな」
 そんなことを言い合ううちに映像が次々と流れていく。全てを観終わった時には、五時前になっていた。長さにして一時間弱といったところか。ここからまたいらないシーンを削ってブラッシュアップしていかなければならない。
 後は編集ならではの特殊効果も必要だ。音が汚い部分はアフレコしなければならないし、オープニング・エンディングのテロップもある。
「黒木、どのくらいで終わる?」
「クリスマスまでには、本編も予告編も作って見せますよ」
 黒木はニッと笑った。
 映画制作自体はごくごく順調に進んでいた。しかし、八神の心は少しずつ沈殿する粘土に埋め立てられていた。

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