小説へ 

前へ 次へ

男の純情(ある意味病的)

四、思いはせ思いはせ決してその手に届かない


 灰色の世界に、ポツリと切り株がある。草木も、脇を走る道も、その向こうの家も、みんな、灰色。それはこの光景を見た時の、彼女の気持ちだった。
 幼いころ、母に連れられてよく自転車で出かけた。あのころの自分は、今よりもずっと活発で、体力が有り余っていた気がする。家から程遠くない場所に、緑のテントを建てて営む、ちょっと変わったお店があった。スーパーと市場の中間みたいな店だ。そこまでの道のりがサイクリングコースだ。母の後に続いて、その背中を見失わないように、細くて入り組んだ道を通った。その途中に、この木はあった。
 夏樹はその木のことを、「神様の木」と呼んでいた。
 手前には民家、先には踏み切りという平凡な場所にありながら、この木の周りだけが、夏でも涼しかった。空気は霞がかり、睫毛に水滴がたまったように景色がぼんやりとしていた。のしかかってきそうな大木で、枝が地面に付くほど広がっていた。背は低く、夏樹の頭に葉がかぶさった。だが、幹は非常に太かった。その立派な老樹を囲うように沼があった。彼岸花が咲き乱れ、黒い蝶が群がるその風景は、この世のものとは思えなかった。そしてそばにはごく小さな祠が立っていた。幼い彼女は、この木は只者ではないという漠然とした思いにとらわれていた。神様が宿っている、そう信じていた。
 夏樹にとっての神様の木は、幼少期に残る母との捨てがたい思い出だった。
 だから、最近、油絵に収めようと訪れたその木が、ただの切り株になっていた時の衝撃は、計り知れないものだったのだ。 
 今年の夏休みだ。映画撮影のない日、新しいモチーフを写真に収めるために、カメラを持って出かけた。次に描く絵は県の高校文化祭に出品する作品だ。何を描こうかと考えたとき、幼い日の思い出を絵画に残しておきたいと思った。だから、「神様の木」を描くために、久方ぶりにあの場所を訪れたのだ。
 そこに神様の木なんてなかった。
 夏樹の思考は停止した。再生が始まり思ったのは、場所を間違えたのではないか、ということだった。カメラをぶら下げたまま、夏樹は右に目を馳せた。緑のテントこそなかったが、新築した、でもやっぱり少ししょぼいコンクリの建物が見えた。馴染みのスーパーはある。ここに間違いなかった。
 じっと、小さな切り株に目を落とす。
 大人でも抱えられないと思っていた大木のはずが、小学生が腰掛にするのにちょうどよいほどの大きさしかなかった。辺りを見ても沼なんてない。代わりと言ってはなんだが申し訳程度の畑があった。たしかにあると思っていた祠もない。ちらほらと咲く彼岸花が唯一の救いだが、それでも夏樹の記憶とは程遠いものだった。
 母と一緒に見たあの大樹は、幻だったのかしら。
 夏樹は失った思い出をキャンバスに描く。一つ一つ、忘れていかなければならない。きっとそういうことなのだ。
 耳には派手なメロディと陰気な歌詞が止め処もなく流れてくる。
「――い、――」
 曲の間から、何か声が聞こえた気がした。
 ちょん、と肩を叩かれる。
 飛び上がりそうになりながら首を捻る。城戸先生がいた。いつもと同じ、安心感のある笑みを浮かべている。
 夏樹はナイフとパレットを投げ出し、イヤホンを引っこ抜いた。
「ひどいな、完璧にシカトするんだから」困ったように眉を垂れた。
「先生、私、集中してたんですよ」
 照れ隠しに口を尖らせて見せる。軽口をたたきながら、本当は嬉しかったし緊張していた。
 先生は笑いながら丸めていた背中を伸ばした。それから、視線をちらっと外に向ける。カーテンの向こうからはほとんど真っ黒の世界が覗いていた。
「頑張るねー。もう八時が来るよ。そろそろ帰ってもいいんじゃないかな」
 冬が近づき、日が落ちるのが早い。残っている部員は夏樹だけだった。
 ――そりゃ頑張りますよ。先生と二人きりになりたいんですからね。
 だだ広い教室に、テーブルが四つほど。窓辺には手洗い場。棚の石膏像とイーゼルの油絵以外には何もない空間。城戸先生が今、自分のすぐ後ろに立っている。
「もう少しだけ、やったら帰ります」
 夏樹は軽く息を吸い、再び油絵に向き合う。パレットから絵具をすくい、灰色の世界に乗せていく。城戸の視線を感じる。十分伸びているはずの背筋をもっと伸ばす。
 自分は――ほかのどの部員よりも、城戸先生のことを知っている。一緒にいる時間も長い。車に乗った回数も一番多い。先生がかけているのが伊達眼鏡だって知っているのもおそらく学校中で自分だけだ。芸術家になるか医者になるかで悩んで、医者への未練として白衣を着ているのも知っている。自分が白衣を着るのは、制服を汚さないためと言うのもあるけれど、一番の理由は城戸先生の真似っこだ。それに自分は左利き。これも先生との共通点。これらのことは夏樹の中で実質以上の意味を伴っていた。
「八神くんと喧嘩でもしたかな」
 絵具が見当違いにはみ出る。夏樹の脳裏に、城戸を好きだと宣告したときの、空っぽの皿の前で餌を入れてもらうのを黙ってひたすら待ち続ける猫のような八神の顔が浮かんだ。言いたいことがあるなら、こっちに期待せずに口に出せばいいんだ。わずらわしい。
 城戸は続けた。
「最近、様子がおかしく見えたから」
「……べっつに。どうってこともありませんけどー?」
 ベタベタと絵具を塗りたくりながら答える。もう、はみ出しも何も、どうでもよくなっていた。微細に描き込まれた線が潰れていく。
「夏樹くんは、八神くんのことが好きかい?」
 うっと軽く呻いてしまう。城戸の口からこんなことを言われるとは悪夢にも見たことがなかった。
「何で、そんなことを聞くんですか?」
「何となく」
 さて、どう答えたらよいものか。普通に、好きじゃない、と答えればよいのかもしれないが、なんだかそれは味気ない。城戸は心理学の教授並みに人の心を読むのがうまいから、下手な嘘は禁物だ(もしかしたら私の恋心にも気づいているかもしれない)。
 神様の切り株が、徐々に形を失っていく。
「……昔は、好きだったかもしれません」
 それはもう遥か昔、中学二年の冬だった。
 もうとっくに日の暮れた時間、夏樹は畑道をとぼとぼと歩いていた。クラスの女子どもに物置へ閉じ込められて、警備員に見つけられるまで出られなかったのだ。そのせいでずいぶんと遅くなってしまった。
 一面は荒野のような畑で、人影はまったくない。あるのは点々と立つ案山子だけだ。
 イヤホンから音楽を垂れ流し、何とはなしに案山子を数えながら歩く。一本、二本、……数える手が止まる。
 案山子が動いた。
 さしもの夏樹も動揺する。イヤホンを外し、立ち止まる。第六感が逃げるように告げていたが、足が動かなくなっていた。
 一つ、二つと、次々に案山子が動き出す。しまいには領域のはずの畑を離れ、道路まで跳ねてきた。取り囲まれた時点で、それが案山子のふりをした人間だと気づく。
 ――やばい、こいつら、やばすぎる。目つきがやばいし、案山子の真似してずっと突っ立ってたことがやばすぎる。
「夏樹恵ちゃんだよねぇ。会いに来たよ」
 案山子のうちの一人が言った。ひどくねとついた声に、夏樹は全身の毛が逆立った。
「わけわからんし。私、あんたのことなんて知らんけど」
「またまたぁ、サイトに写真までさらしてたじゃ〜ん。『淋しいの。慰めてね』ってぇ」
 やっと状況を把握する。ちっと舌打ちした。
 ――あいつら、ちゃちな嫌がらせしやがって。
 学校の連中が、出会い系サイトにでも個人情報をアップしたのだろう。だからこんなハエみたいな気持ち悪い案山子がたかってくるのだ。案山子は案山子らしく鴉の相手でもしてればいいのに。
 別の案山子が寄ってきた。周囲にさっと目を走らす。逃げられる隙間は――ない。
「君さあ、オスカルに似てるってよく言われない」
「んなこと初めて言われたわよ」
 夏樹は、ごく自然な動作でコートのポケットに手を入れた。そして口を吊り上げた。
「うぎゃああああ」
 野太い叫びが夜に響く。催涙スプレーを手に持ったまま、夏樹は目を押さえる案山子をすり抜けた。帰り道とは反対になるが、いたしかたがない。案山子どもはいかにも運動神経が鈍そうだった。逃げ切れるだろう。
 と、その時。道路わきの枯れ井戸から、人間が這い出てきた。
 ――さ、貞子かよっ。
 案の定その男も案山子の仲間で、道をふさがれる。
 貞子男に気をとられているうちに、後ろから迫っていたデブの案山子に羽交い絞めにされる。あっという間にほかの案山子は人の囲いを作っていた。こいつら、チームワークよすぎだ。
 これはさすがに恐ろしい。何が恐ろしいって、襲われることよりも、案山子の真似をしていたり井戸の中から出てきたりする奇行のほうが恐ろしかった。
 男たちはヒーローモノの雑魚敵のようだった。シャーっとかキィーっとか言っている、全身黒タイツの連中だ。だがここには、助けてくれるヒーローがいない。
「待てーっ」
 突如、響く声に、男たちが固まった。無論、夏樹も例外ではなかった。音源のほうを見る。何かがすさまじい勢いで走ってくる。
 ――仮面ライダー?
 ヒーローは夏樹たちの手前でブレーキ音とともに横付けに止まる。ライダーバイクではなくママチャリだし、乗っていたのはいささかテンションの低い学生だったけれど。
 誰かと思えば同じクラスの八神――名前なんだっけ――である。
 ――なあんだ、こいつか。
 自習時間、自分が一部の男子どもに破廉恥な真似をされているときに(あいつら、いつか殺してやる)、教室の隅っこで文庫本を読んでいた、とてもお行儀のよい生徒だ。
 なぜ八神がタイミングよく現れたのかわからないが、とりあえず何とかなりそうだ。しかしこの男、強いのか?
 夏樹は、八神に対してさほどよい印象は持っていなかった。攻撃してこないだけまし、というものである。
 八神は最初口を利いたとき、わざわざ「先生に頼まれて」と申し置きした。夏樹は笑ってしまった。それは正直すぎだろ。何か適当な理由もなく、親しくなかった相手に声をかけるのがためらわれたのだと思う(たしかに、夏樹は八神の顔を見ても誰だこいつ、と思った)。どれだけ消極的なんだ。
 八神は、背中に負っていた細長い袋から、竹刀を取り出した。そういえば、彼は剣道部所属だった気がする。
「彼女から離れろ。さもなくば地獄に片足を突っ込むぞ」
 学校では見せない脅迫的な態度に、夏樹は驚いた。こんなことを言うキャラだとは思っていなかった。
 案山子たちは一瞬ひるんだが、すぐに身構えた。
「ふざけるなぁ、急に現れて」
「そうだ、邪魔だ」
 案山子は見事なフォーメーションを組み、八神に全員で飛び掛った。
 八神が竹刀を振るうと、スパーンっという小気味よい音とともに、一人が倒れた。その後はぶっちぎり状態だった。貧弱な男たちを、ちぎっては投げちぎっては投げの大立ち回り。
 この日初めて、夏樹は八神の強さを知った。
 地面に伸されながら貞子男が言った。
「くっそう、お前、こんなことをしてただで済むと思うな。俺たちはここいらを仕切ってる足立連合の者なんだからな」
「嘘を言ったらいけないな。境江の港にはそんな柄の悪いゴロツキはいない。この町は八神家の膝元なんだよ。俺は八神家の次男坊だ」
 殺し屋顔負けの迫力で、八神はすごんでみせた。男たちに光速で動揺が走った。
「や、八神家? あの警察すら恐れおののく八神家だって?」
「庭の井戸の底に死体が沈められてるって言う、あの八神家?」
「逆らったら二度と町に足を踏み入れられなくなるって言う、鬼の住処?」
 ――どんな家だよ。
 案山子も貞子も土下座して脱兎の如く逃げていった。
「大丈夫?」
 先ほどの凄みはどこへやら、遠慮がちに夏樹を振り返った。
 家まで送ってくれるというので、お言葉に甘えることにする。
「あんた、どこから走ってきたの?」
「実は俺、夏樹さんに火の粉がかからないように、できる限り帰りは見張ってたんだ。数十メートル後ろからだから、わからなかっただろうけど」
 だったら物置に閉じ込められた時に助けてくれればよかったものを。なぜそれをしないかはわかっていた。先生に言われたから、護衛はするが、クラスメイトにそれを悟られたくないのだろう。夏樹恵をかばっていると知られては、自分までいじめられかねない。だから、よっぽど洒落にならない事態になるまで姿を見せないのだ。実に要領がいいことだ。
 だが、それでもいい。
 偽善だとしても、ここまでできる偽善は少ない。
 夏樹の中で八神切人の見方が少し動いた瞬間だった。
「俺もさ、家でいじめられてるんだよ。兄弟に」
 へえ、と答える。
「兄貴にはことあるごとに木刀でたたかれてね。だから対抗するために剣道やってるんだ。……勝てないけど。下の姉は毎日毎日グズだ死ねだ言ってくるし。で、一番ひどかったのが上の姉だったんだけど、今は家にいないから助かったよ。あのままずっといびられ続けたら、俺、二十歳まで生きれる自信ないもん。あれはもう本当に女王様だよ。いつ姉さんが帰ってくるかと思うと、体が震えて満足に寝ることもできない。だから、俺、絶対にあの家を出て行くんだ」
「地元、離れるの?」
「高校卒業したら、県外の大学に行く。二度とここには戻らない」
「ふうん……」
 初めて見る八神の顔だった。このクラスメイトが、どんなことを考えて生きてきたかなどと、今まで考えてみたこともなかった。
「そういえばお礼言ってなかったね。ありがとう」
「いいんだよ」
 八神は慌てたように首を振った。それから、肩の竹刀袋をちらと見る。
「なんで兄がいつも俺をこつくのかわかった。人叩くのって、けっこうスカッとするね」
 ――なんか今危ないこと言った。
「でも、叩かれるほうは痛いんだよな」
 八神は人を殴る痛快さを知りながら、人の痛みを理解できる人間だった。磨き上げた刃を滅多に光らせない強さを持っている。
 クラスメイトではなく友達になりたい。柄にもなく思った。
 これを境に、夏樹は八神に対しておのずから仲良くなろうとしてきた。八神と打ち解けて友達になれたと思った時には、三年の新学期が始まっていた。そしてクラスには、くだんの爽夏がいた。
「あの頃は、楽しかったですね。……いろいろと、自虐的な意味も含めて」
 気がつけば、キャンバスをナイフでがりがりと引っかいていた。灰色の世界に、極彩色の線がいくつも走る。
 爽夏とは親友だったが、八神と爽夏が幼馴染だということには驚いた。そして、八神の目の先には、いつだって爽夏がいた。三人が並んだとき、自分はただのお飾りになる。これはもう明白な事実だったし、仕方がないと思った。それはそれでいいと思った。
 八神が以前より積極的に(といっても人前では絶対他人のふりをするのだけれど)自分を助けてくれるようになったのは、爽夏によく見てもらいたかったからだろうということもわかった。
 夏樹は、パレットナイフを置き、新しく絵具をチューブから押し出した。それをまたすくいあげる前に、少し間を置く。   
 そう、彼が灰色の中学時代に色を添えてくれたことは間違いないし、高校に上がってからも何かと世話を焼いてくれた。それは偽善で片付けられるものではない。たとえ多少の打算があったとしても、だ。
 だからこそ。
 爽夏がいなくなったことで、自分と八神がどうにかなる。それだけは絶対に許せない。
 映画作りだって手伝うし、ほかにも頼みがあればできる限り聞いてやる。それは当然の仁義だろう。だが、それだけは、絶対に絶対に許せない。
 爽夏が死んだのに私は生きている。黒木くんが言ったとおり、それが私の罪なのだ。私がいくら校庭の隅の聖堂で祈りを捧げても、この罪が癒されることはない。キリストはユダを許さなかったではないか。
 そして、黒木くんが爽夏と付き合っていると聞いたとき、ざまあ見やがれと思ったのもまた事実であった。ざまあ見やがれ。私をダシに使おうとした罰だ。
 そんな私はやっぱり嫌なやつで、深い業を背負っているのだ。
「八神は、爽夏のことを、さあちゃんって呼ぶんです。あの八神があだ名で女の子を呼ぶんです」
「それは、ちょっと想像がつかないね」
「で、私のことは、夏樹さんって呼びます。一方は、さあちゃん。一方は夏樹さん、です」
 爽夏が身を土に返した後も、八神の想いは消えないだろう。それもそのはず、あんな残酷な形で好きだった女が死んだのだ。たかだか二年で未練が消えることのほうが驚きだ。だから今、仮に、本当に仮の話だ。八神が自分の城戸先生への恋心に嫉妬することがあったとしても、それは、ただの妥協なのだ。さあちゃんはいない。じゃあ仕方ない、夏樹さんでいっか。……八神くん? あなたはとっても残酷なことを考えているのよ。そこのところ、おわかりかしら?
 だから夏樹は早々に降りることにしたのだ。この永久に終わらない三角関係から(黒木も含めれば四角関係か。まさに泥沼)。
 相手は誰でもよかった。世話を見てもらっているお兄さんでもよかったし、いつも買い物に行くスーパーのレジ員でもよかった。ただ、誰でもいい中で城戸を選んだことは幸運だった。先生は好きになるに値する人間だった。何より優しかった。先生、好きです。大好き。だがこの想い届くことはないだろう。先生は自分のことをヘとも思っていないのだ。それでいい。恋は片思いの頃が一番幸せなのだ。恋に恋する自分に恋する、と。自己満足。
 ガリガリと絵具を引っかくように載せていく。灰色の部分は全体の半分ほどになっていた。
「夏樹くん、あんまり乱暴に塗るのはどうかな。せっかく、うまく描けているのに」
 夏樹はふっと笑った。左手は止めない。
「いいんです。また、上から塗り重ねればいいだけの話ですから。油絵は、失敗しても、何度でも塗り重ねて新しい絵が描ける。だから好き。上に絵を載せてしまえば、古い傷はわからない」
「――でもそれは、なくなったわけではないから、ちょっとしたことで絵具が剥げたら、すぐに傷が剥き出しになる」
 手が止まる。城戸の顔をまじまじと見た。幾分、悲しげな目で見つめ返してきた。意外だった。城戸がそんなことを言うのが。
 息が止まった。城戸先生が、両肩に手を載せた。すぐ耳元にまで顔が迫る。自分の背中に、ほとんど先生の体が被さっている。夏樹は身じろぎ一つできなくなっていた。
「僕は好きだよ。君の描く絵は、誰にも真似をすることができない」
 目が霞んでいた。視線は前を向いていたが、もはやキャンバスは見えていなかった。体の機能の半分くらいが麻痺していた。とにかく心音と呼吸だけがいたずらに速くなる。
「その鮮やかな瞳には、僕たち黒い目の人間とは違った世界が映っているのかな」
 八神がルビーと評する夏樹の瞳だが、実際に真っ赤な色をしているわけではない。鳶色よりも若干淡い色だった。夏樹自身は特に意識しなかったこの色を、ほかでもなく城戸先生に、ほかでもなく絵に関して褒めてもらえたことが嬉しかった。
「だから、映画作りもいいけど、もっと美術室にも顔を出してくれなきゃ寂しいかな」
「あ……」
 分厚い手が肩から動いた。夏樹の体がビクッとする。鎖骨の上をすす、と這っていき、そのまま、抱き寄せられる。――ほかにどう表現しろと? 柔道の締め技か?
 ナイフとパレットが手から落ちる。
 城戸のささやき声が耳元でする。
「このまま、少しお願いしてもいいかな」
 夏樹の思考は、まともな判断力を失っていた。

前へ 次へ

ホームへ戻る ホームへ

 小説へ