小説へ 

前へ 次へ

男の純情(ある意味病的)

七、おしみなく


 部室を飛び出してから、城戸は足早に三階を降りた。階段前で振り返ったが、追ってくる様子はない。ほかの生徒や教師に怪しまれても困るので、歩いて移動することにした。
 城戸は平然と歩いていたが、内心では笑いをかみ殺すのに必死だった。
 ――ずいぶん頑張って隠したようだが、甘い甘い。
 城戸は、人のいないときに黒木の荷物を漁り、一度テープを確認したのだ。中身はただの風景集で、映画とはまったく無関係のものだった。あのメガネがそこまで用心深いとは思わなかった。
 城戸はすぐに部室内を探した。部室でいつも編集を行っているのだから、どこかに必ずテープがあるはずなのだ。そして妙なものを見つけた。ビデオデッキの中に、ビデオが入れっぱなしになっていたのだ。しかも壊れたデッキに、だ。あれほど頑固にビデオを保存しているというのに、外に出しっぱなしになっているという状況からしても不自然すぎる。すると、自然、思い至る。
 ビデオケースの中には、代わりに何が入っているのか。
 間違いない、テープはビデオ棚だ。あそこはいつも鍵がかかっているから、大事なものを保管するにはちょうどよいだろう。しかし、あれは映画研究部の金庫だ。封を破るのは容易ではない。八神にそれとなく、ビデオが観たいから棚を開けてくれないか、と頼んだことがあるが、「すみません、部長の許可がないと……」と、やんわり断られてしまった。烏丸に掛け合ったが、やはりダメだった。ちっ、どんだけ用心深いんだ。棚の中にエロビデオでも隠してんじゃないのか。そんなことを思いながら、棚を開ける方法を考え抜いた。
 烏丸からマスターキーをくすめることは不可能に近い。合鍵を探し当てることが現実的だ。しかし、部室内をあまり物色していたら怪しまれてしまう。やつらに裏切られる痛みを与えるために、城戸悠久は信頼に足る教師であり続ける必要があった。
 そこで、夏樹を使うことを考えた。彼女が自分を慕っているのはよくわかっていた。多少おかしなことでも頼めば聞いてくれるだろう。冷静さを削ぐために抱き寄せてみたりもしたが……冗談、ちょっとからかってみただけさ。
 ともかくも夏樹はミッションを成功させた。所詮はビデオ棚、至ってシンプルな鍵だった。城戸は型を紙に写し取り、合鍵を複製したのだ。そして、隙を見ては棚を開けてビデオを漁った。デッキに放置されていたビデオのケースを真っ先に開けたが、そこには違うビデオが入っていた。巧妙なことだ。何度も探し回り、ようやくどのビデオケースに、編集テープが隠されているかを確認したのだ。
「城戸先生さようならー」
「さようなら」
 生徒に条件反射で挨拶し、靴を履きかえる。颯爽と駐車場へ向かった。車を使えば二時間くらいは軽く逃げられるだろう。そして、最後の最後に奴らを呼び寄せ、目の前でテープを叩き割ってやる。
 垣根を曲がる。自分の車を見つけ、駆け寄る。と、車の陰から、すっと人が現れた。城戸は一瞬、蜃気楼を見た感覚になった。先ほど部室で見たはずの人間がいる。
「朱里くん、こんなところで何をやってるんだい」
 世の美人の顔を合成し、平均を取ったら一番美しくなったという実験があるが、目の前の少女はまさにそんな顔をしていた。
 三枝朱里は微笑した。体を斜めにし、車に背を預ける。城戸の不快指数が上昇した。城戸は、他人が自分の物に触れたりすることに、非常に神経質なのだ。傍若無人が許される美少女はフィクションの世界だけと心得ろよ、アイドルちゃん。
 朱里が手でそれをくるくると回転させたのを見て、初めて存在に気づいた。斜陽を反射する銀色のレンチが、およそ不釣合いな女学生の手にある。
 もう一度、朱里の微笑を見る。合わせて、ちょっとだけ笑ってみせた。
「車のタイヤ、ボルト緩めちゃいました。運転したら、タイヤが取れて――」
 レンチが円を描くのをやめる。桜貝の爪が唇にあてがわれた。ニイと大きくつりあがる。
「事故っちゃいますよ」
 ――なんてことをしやがる。
 だが、本当なのだろうか。自分がここまで移動するのに、そう時間はかかっていないはずだ。彼女がどれほどの手際を発揮したのか知らないが、少し難しいのではないか。
 朱里の目を見る。十年も教師をやっていれば学生のつたない嘘くらいわかるものだ。……わからない。何を考えているのかわからない。嘘か本当かわからない。得たいが知れない女だ。それともこういうキャラを演じているのか?
 もしも本当だとしたら、彼女の言うとおりタイヤが外れて死なないまでも車がおじゃんになるかもしれない。確認をすれば済むが、今は時間がない。こうしている間にも部員たちが追いついてくる。
 城戸は内心で舌打ちした。
「僕はね、粟島神社で会ったときから思っていたんだ」
 朱里が軽く首をかしげる。
「八百比丘尼よりも、理由なく夜中に一人で山にいる女のほうがよっぽど怖いって」
 顔が崩れた。演技ではないであろう笑いを目に収め、城戸は身を翻した。
 校門を出る。海を目指した。


 十二月とは思えないほど、空は晴れ渡っていた。冷え冷えとした空気も、今の八神に有効ではなかった。
 額に滲んだ汗が、頬まで垂れてくる。だからといって足を休めてはいけない。八神は、ひたすらに自転車を漕ぎ続けた。
 城戸を捕まえなければならない。その使命感だけが脚を動かす。木刀を握っているため操作がしにくいのが歯がゆい。夏樹たちは自転車がない。八神だけが望みだった。
 城戸は道路を左に曲がったという。左の道は直線で、しばらく角がない。だから、まっすぐ走っていれば城戸に追いつけるはずだ。
 横には、田舎に似つかわしくない四車線の産業道路が倒れており、その向こうに松林、もっと向こうには海が広がっている。
 前方に豆のように小さな、白衣の男を発見する。間違いない、城戸だった。八神はさらにターボをかけた。これほど息を切らしてペダルを漕いだのは、去年の十月二十七日、うっかり寝坊して遅刻しかけた時以来だ。
 突如、城戸が産業道路に飛び出した。ぎょっとしたが、車は止まっている。信号が青だったらしい。八神も急ぐ。信号がチカチカし、渡る寸前で赤に変わった。ここが交通量の少ない道路だったならば、無理して飛び出しただろう。城戸が振り返り、笑った気がした。イライラとペダルを蹴る。
 車道の信号が赤に変わる。ここから歩道が青に変わるまでの時間も惜しい。青信号が点灯すると同時に、発進した。自転車通学生の本気を出した漕ぎは競輪選手並みのスピードを誇る。一秒が過ぎるより速く横断しきった。勢いよく浜に飛び出したはいいが、砂にタイヤを取られて転倒する。受身を取った八神は、学ランを砂まみれにしながら立ち上がる。木刀をつかみ、自転車を放置したまま走り出す。
 しかし城戸先生、とんでもない速さで移動している。すでに浜のずっと先にいた。それより向こうに堤防が見える。そこからは浜ではなく、建物だ。
 白砂に足をうずめながら進む。空ではとんびが気持ちよさそうに滑空していた。こちらの気分も知らないで。堤防を過ぎると船の形をした巨大な建物が現れる。捨てヶ浜一帯の海を管理するヨットハーバーだ。ざらつく砂を靴から落とし、再び走る。だんだん城戸との距離は縮んでいる。城戸は境江の数少ない観光名所、高さ四十メートルのタワーへ向かっていた。それを中心に、魚の即売所や、回転寿司、大型スーパーが展開されている。さらに、広々とした公園がある。店先にはけっこうな人がいるが、公園近くまで来ると、まばらだ。日も落ちてきた冬の公園では、人も訪れないだろう。もともと立派な割には盛況ではない場所だ。タワー自体に大した目玉がないせいもある。観光名所というよりは近所の年寄りの暇つぶしスポットと言う感じだ。
 八神は携帯電話で皆に所在地を伝えておいた。
 だだっ広いスペースの前で城戸が立ち止まる。腕時計を確認する。
「ここまでよく来たね。今、だいだい四時半だ。思ったよりも早く追いつかれたな。朱里くんにやられたよ。まったく、君たちときたら、やることなすこと学生離れしているなあ。どこの秘密結社だね」
 八神は木刀を構えた。
「一つ、確認しておきたいことがあるんです」
「何かな」
 せせら笑う城戸の顔をじっと睨む。
「あなたは教師ですね」
「見てのとおり」
「夏樹さんに――何か変なことしてないでしょうね」
 城戸が瞬きをしなくなった。
 海から風が吹く。潮の匂いが運ばれてくる。城戸の白衣の裾がパタパタ煽られる。
 噴き出すように笑った。
「何かって、何をするんだよ」
「だから、普通、教師と生徒がしないようないかがわしい行為ですよ!」
 城戸が笑ってばかりなので八神の顔がほてってくる。
「面白いなあ、君は。言ってて恥ずかしいだろ」
 ――わかってんなら早く答えろよ。
「夏樹くんが言ってたのか?」
「いや、はっきりとは……でもそんな雰囲気のこと」
「そりゃ八神くん、何か夏樹くんの気に障ることでも言ったんだろ」
「では、何もしていないんですね」
「生徒に手を出すなんて下手を打つほど僕は教師として愚かではない」
「……だったらいいんです」
 自分の誤解が解けたことはよかった。夏樹もひどい嘘をついたものだ。よくよく考えてみれば、自分が勝手に勘違いして暴走しただけな気も、する、が。
 相変わらず木刀は構えておく。
 城戸が口を開いた。
「まあ時間もあるし、もう少し話をしようじゃないか」
 それは八神も本意だった。夏樹や烏丸たちが辿り着くまで、時間を稼いでおきたい。
「そうだな、まず――粟島神社の時、不思議に思わなかったか? なぜ僕が来るのが遅かったのか」
 お盆の恐怖体験を思い出す。人魚姫ばかり頭に張り付いていたが、たしかに、一番不可解なのは城戸だった。時空がゆがんだとしか思えない事態だった。
 次の城戸の告白に衝撃を受ける。
「あれはな、わざと遅れて行ったんだよ」
 地の底からの戦慄が八神の体を突き抜ける。――いや、城戸が答える前に、ある程度の予想はついていたのだ。あの頃はまだ城戸を信頼していたので、彼の証言を鵜呑みにしたが、今は違う。不可解なことが起こったなら、怪しむべきは幽霊よりもこの男。
「深夜に山の中をうろついているだなんて、不良生徒だ。苦情の一つでも入ればよいと思っていた。ま、ちょっとした嫌がらせだよ」
「あんたって人は……それでも教師ですか!」
「何、言ってるんだ。先生はずうっとよい教師であろうとし続けてきた。だが映画研究部の件は別だ。今の俺は城戸先生ではなく、映画研究部に恨みを持つ十五年前に学園の生徒だった城戸悠久としてここにいる!」
 岩を砕くような気迫だった。八神は黙った。城戸の言っていることは理解できた。実際、先生はよい先生だった。その聖職者城戸と、目の前にいる、憎しみに身を包んだ男は別人としか思えない。彼はもはや、城戸先生ではなくなっていたのだ。
「あと、旧校舎に油絵があっただろう。あれも僕が描いたものだ」
 真っ青な世界にいる少女の絵――美術教師の肩書きは伊達ではないらしい。だが、なぜ城戸の描いた絵が開かずの間にあるのか。八神はもはや聞くのも嫌になってきていた。
 城戸は海のほうへ顔を向けた。
「初恋の人に振られた僕は失意に沈んでいた。彼女を忘れることができなかったから、ならばせめてと絵の中に美しい姿を納めたのさ。そして、卒業式の日、高校最後の思い出にと開かずの間に忍び込んだ。正直、死ぬつもりだったんだ。刃物で喉を切り裂いて」
 城戸のでっち上げた、喉を裂いて笑いながら自殺した生徒を思い出す。それは城戸にとっての「If」の姿だったのだろう。
「しかし思い直した。なーんで俺があの空気読めない部長やら、万年玉拾いのダサい女のために死ななけりゃならんのだと。だから持ってきた彫刻刀を喉の代わりに黒板裏へ立てた。それで思いつくまま毛髪頭皮大脳小脳前頭葉その他もろもろ書き連ねた。黒板を下げて見えないようにして、絵も机に隠してきた。いつか開かずの間で、これらを発見する生徒の姿を思い浮かべながらな」
「先生が開かずの間に俺たちを入れてくれたのは……」
「ああ。誰かに見て欲しかったのかもな。つまらないだろ、せっかく描いたんだから」
 自分の生きた痕跡を残したい――そういう気持ちはわかる。いかんせん、趣味が悪すぎるのが問題だ。
 撮影中にあった怪奇現象の大半が人為的なものだったのだ。いや、もしかしたら、そのすべてが城戸の仕込んだものかもしれない。幽霊などより、人間のほうがよほど怖い。
 城戸が正面を向く。
「さあ、話はそろそろ終わりだ。どうやら役者もそろったようだしな」
 ハッと振り向く。夏樹たちが走ってきていた。烏丸と黒木と、朱里もいる。
 八神は木刀を構えなおした。腹に力を込めて叫ぶ。「テープを返せ! それは、みんなが協力してくれて、みんなの力で撮った大切な作品なんだ! さもないと、殴る」
「おやおや物騒だね。そんなもので殴られたら僕は死んでしまうよ。十七歳の少年、担任を木刀で殴り殺す。動機は素行の悪さで物を没収されたから。田舎町でずいぶんセンセーショナルな事件が起きそうだ」
 城戸はわざとらしく笑った。
 八神は横目で後ろを見ながら、再びはっきりと言った。
「殴ります」
 相変わらず城戸の口元は笑っていたが、目は笑うのをやめていた。
「いいだろう。だが、武器を持って戦いを挑んだ以上、こちらが何をしても文句はないな?」
「城戸先生、世の中は平等ではありません」
「何?」
 見計らっていたかのように、黒木が前に進み出る。手には、八神が部室に放置していたデジカメが握られている。八神は城戸に視線を戻した。
「俺は先生に殴られようが蹴られようが、何度でも立ち向かいます。テープを取り戻すか、この体が動かなくなるまで。そして、その一部始終を黒木がカメラに収めます。俺が先生にボコボコにされた場合、その映像を校長に届けます。俺が瀕死になるまであなたが暴力を振るい続ければ、体罰教師確定。職員会議では済まないでしょうね。田舎町でずいぶんセンセーショナルな事件です」
「……頭のよい非行は手に負えないな」
 首を捻る真似をしている城戸を内心ドキドキしながら見る。美術系とはいえ、身長一九〇センチ近い巨漢だ。それに余裕ありげな態度……実はものすごい力を隠しているかもしれない。
 城戸が首捻りをやめた。
「教師人生十年、一度とて生徒をはたかなかったのが僕の誇りだ。暴力に訴えるまでもない。君の攻撃、すべて受け流してやるよ」
 剣には密かに自信があるゆえ、少々ムッとする。木刀をキュッと握り、「面っ!」と大声で叫びながら踏み込む。
 瞬時に、城戸が鞄を掲げる。振り下ろす手が止まった。鞄の下から城戸が笑う。
「殴らないのかな? もっとも、そんなことをしたら自らの手で大切なテープを粉々にすることになるがね」
 ――なんと卑怯な。
 あの鞄にはテープが入っているのだ。八神は後退するしかなかった。
「小手、胴、面、小手!」
 ダメだ。どこを狙っても鞄でガードされてしまう。これでは手が出せない。
「八神、いちいち叫ぶな!」
「あ、そうか」
 烏丸の指摘を受けて気がつく。剣道の試合の癖でつい叫んでしまう。間合いを取り直し、攻撃箇所の代わりに「キエエッ」などと叫びながら切りかかる。だが、それでもことごとく城戸はガードした。「面抜き小手」と連続技でかかるも、綺麗によける。素早い。鞄をたてにすることもないほどのフットワークだ。
「くっ……オオーッ!」
 面、面、胴、小手、小手、胴、面。間髪も入れずに繰り出す攻撃をものの見事にかわしていく。
 間合いを取る。首筋を汗が伝う。疲労ではなく冷や汗だった。
 八神は剣道に関して対兄用にかなり腕を磨いてきた。それは習うのをやめた今でも変わらない。腕には自信がある。それなのにかすりもしない。あまりにも納得のいかない話だった。八神の心に苛立ちが粉雪をふりかける。
「だから、叫ぶなって! 攻撃のタイミングを読まれるだろうが」
「るっせー、外野がごちゃごちゃと。おんしの頭先にかち割んぞ!」 
 夏樹、黒木、朱里を抜いて一番後ろの影まで下がる烏丸。悪いことをしたが気にかけている心の余裕がない。烏丸の言っていることはわかる。わかるが、どうにもならない。攻撃するときは叫ばないと気合が入らないのだ。元気百分の一倍だ。
 八神は考える。これは試合ではない。実践だ。
 あれは中学二年の時だった。兄が夜叉丸の毛をバリカンで剃りあげた。無残な姿になった飼い猫に、八神は生まれてから感じたことのないほどの怒りを覚えた。殺してやらん勢いで木刀を振り上げる。だが、兄が同じく振るった剣に、気がつけば八神の手からねじり飛んでいた。回転しながら遠くへ着地する姿に目を奪われる。何が起きたかもわからないうちに、兄が至近距離に迫っていた。足に激痛が走る。向こう脛を思い切り蹴り上げられたのだ。兄の特製ブーツはスチール仕込だった。悶絶する弟に高笑いが落ちてくる。次の日は足を引きずりながら学校に行った。
 足だ。足を突け。
 木刀の柄に力を込める。奇声を上げながら踏み込む。まずは小手、それから面。かわされながら横を過ぎ、振り返って思い切り下段を突いた。後ろからだ、簡単にはよけられまい。が、命中しなかった。狙いが甘かったのかよけられたのかはわからない。ちいっと舌打ちする。かすったらしく、城戸はバランスをわずかに崩した。今だ。
「メーンッ!」
 城戸の手は頭に向かって動いた。鞄でしっかりと防御の姿勢をとる。八神は、振り下ろす寸前に、切っ先を変えた。
 ――と言いつつ実は胴!
 がら空きの胴体へ木刀が弧を描く。異常に気づいた城戸が身をよじる。だがよけ切れるわけがない。試合ではとても通用しないが、素人にはこんな小手先の手段でも効いたらしい。
 木刀が横腹をえぐる――本気で殴ると――骨が折れる。つかの間の理性が、八神の刃を鈍らせた。
 失速した胴打ちは、命中するはずだった場所に命中せず、先がかすっただけだった。
 それでも城戸は身を持ち崩し、ついに鞄を手放した。ドサッとピンクの石畳に落ちる。
 八神は爆発的なスタートダッシュを切った。鞄の取っ手に右手が霞む。が、瞬きをする暇もないうちに消失した。顔を上げる。鞄をさらった城戸がすでに五歩も遠くにいる。仁王立ちし、勝ち誇った顔でこちらを見下ろしている。八神は奥歯がなくなりそうなほど歯軋りした。
 城戸が鞄を開ける。中から謎の瓶を取り出した。さすがにあり得ないだろうが、彼が持っていると硫酸だとか危ない薬品だとかにしか見えない。八神は腰を持ち上げた。と、瓶が飛んでくる。とっさに木刀ではらう。
 ビシャ。瓶が割れる。液体が刀身を伝う。「うっ」と洩らした。液体の正体は絵具溶きの油だった。手がぬるぬると滑る。木刀が握れない。うなぎになった剣はあえなく掌を離れていった。
「卑怯だ、卑怯すぎる!」「戦いとは卑怯なものだ」
 虫唾の走る薄ら笑い……なんというか、城戸先生が天空の城のムスカにしか見えなくなってきた。
 城戸は腕時計を確認する。
「さて、まだ五時過ぎだ。時間はあるよ。あと一時間、がんばってごらん」
 城戸は鞄をポンとたたいた。
「君がこの鞄を手に握った時点で、君の勝ちだ。簡単だろう」
 余裕しゃくしゃくの態度に、はらわたが煮えくり返り千切れ落ちそうだ。だが、武器がなくなったら取り押さえるのも難しい。八神は正直、肉弾戦には自信がないのだ。ただでさえ体力を消耗している。とても奪い返せる気分にはなれない。
 だが、やらずにあきらめるのは絶対にダメだ。今まで自分はことごとく打算的に生きてきた。それではいけないのだ。変わる。変われる。ここで城戸に勝つことができれば。
「うわああっ」
 殴りかかる。城戸ははらりと身をかわす。「よけるなあっ」勢い余る体を方向転換し、関節が外れるくらい手を伸ばす。白衣の裾をつかんだ。思い切り引き寄せる。突如、目の前が白くなった。それが脱ぎ捨てられた白衣だと気づくのに数秒かかる。何と言う早業だ。
 邪魔くさい布を剥ぎ取ったとき、目前に広がった光景は、いささか予想を外れていた。
 先ほどまで傍観者に徹していた黒木が朱里が烏丸が、城戸を包囲し、取り押さえようとしていた。カメラはちゃっかり三脚に立てられている。
「おいおい、多勢に無勢か。五人戦隊並みに卑怯だな」
「戦いとは卑怯なものなのでしょう?」
 朱里がキャンディボイスで笑った。
 三人に囲まれ、城戸は身動きが取れないでいた。烏丸たちも、飛び掛ったところで振り払われ、逃げる隙を作るだけなのを承知なのだろう、動こうとしない。見事で、そして危うい均衡が保たれていた。
 状況を動かせるのは、自分しかいない。
 八神はトライアングルゾーンに突進した。城戸が鞄を前に出す。かまわない。木刀で殴るわけではないのだ、自分がタックルしたくらいで壊れたりしない。体当たりしながら鞄をつかむ。ラグビー選手にでもなった気分だ。さすがの城戸もバランスを崩して背中から倒れた。しかし手は離さない。八神は鞄をもぎ取ろうとするが、真実の口に挟まれたように、びくともしなかった。
 鞄から目を離した一瞬、八神は見た。城戸の後ろに人影を。それがカメラ付の三脚を振り上げているところを。なけなしの金で買った二十万のデジタルビデオカメラ付の三脚を。
「く、黒木、やめっ――」
 遅かった。派手な音とともに、城戸が横倒れになる。カメラもクラッシュした。この犠牲は無駄にできない。八神は涙を呑んで城戸の腕から鞄をもぎ取った。
 ――勝った。
 鞄を胸に抱え、城戸から離れる。頭を押さえもんどりうっていた城戸だが、ハッと顔を上げる。今度は八神が勝ち誇った顔で見下ろす立場となった。
「……負けたよ」
 その一言で、張り詰めていた緊張が解けた。八神はそっと腕の中を覗き、勝利を噛みしめた。
 だから、自分の体が吹っ飛んだ時は、何が起こったのか思考回路が追いつかなかった。
 引ったくった鞄を持ち、堤防に走っていく城戸がぼんやりと見えた。それが何を意味しているか気づいたとき、心臓に五寸釘が打たれた。すぐに追いかけようとするが、腰に力が入らない。
 ――なんてやつだ、約束を破るとは!
 堤防を乗り越えようとする城戸。もう間に合わない……。
「やめてーっ」
 叫び声に、城戸の動作が止まる。まるで映画のワンシーンのように、飛び出してきた夏樹が城戸の体にしがみついた。
「こんなことして、いったい何になるんですか!」
「何になる? あの馬鹿男のせいでベタぼれしてた女にきしょいって言われた僕の気を収めるにはこれしかないんだよ。離したまえ、夏樹くん」
「もう十年以上前の話じゃない! どうしてそんなにこだわるんですか。先生のこと好きな女性なんていくらでもいますよ」
「そりゃ俺だってもう三十二だ。ずっと独り身だったわけじゃない。大人の付き合いだってしてきたさ。だが、これはそういう問題じゃないんだよ! この俺の、傷つけられた尊厳の問題なんだ!」
 城戸の目は怪しく光っており、普通ではなかった。八神は寒気を覚えた。
 かなり乱暴に体を捻っているが、それでも夏樹は離れようとしなかった。
「だったら、もう笑い話にすればいいでしょ。そんなの笑い話ですよ!」
「では夏樹くんに聞くが、君は中学時代に受けたイジメを笑い話にできるのか?」
「できますよ。あんなのもう笑い話ですよ! 制服どぶに捨てられたのも根性焼きも怪しいサイトに写真と個人情報流されたのも笑い話ですよ! ね、八神、笑い話だよね!」
 これには、八神のほうが驚いた。振り向いた夏樹の迫力に、考える間もなく口が動く。
「う、うん」
「烏丸家の息子を公衆の前で断罪したのも、コーヒーかけたのも笑い話! そうだよね、烏丸部長、そうだよね!」
「え……」
 八神の目が烏丸に移る。烏丸は口を半開きにし、目が泳いでいた。何を言われたのかわからないといった表情だ。
「烏丸部長、そうだよね」
 夏樹はもう一度叫んだ。
 烏丸は少しうつむいたのち、凛と顔を上げた。夏樹に通る声で返した。
「夏樹恵、俺の親がお前の親の会社を潰したことも笑い話にするのだな?」
「するよ、笑い話だよ!」
 八神は二人の間で視線を右往左往させていた。
 まさか、この二人の間でこんなやりとりがされる日がくるとは夢にも見なかったのだ。
「だったらそうだ。笑い話だ。部室で首くくったのも全部笑い話だ」
 えーっと思ったのは、八神だけではないはずだ。発言内容には、それは笑い事で済まされないだろ、ということが多分に含まれていた。烏丸がこんなパチンコ屋の新装開店出血大サービスみたいなことを言うのは、生涯に二度ないだろうとまで思われた。
 城戸は一呼吸置いた。
「では噂の爽夏ちゃんはどうなんだ? 自殺したんだろ? それも笑い話かね」
 それはあまりにも残酷な問いかけだった。
 今度は、先ほどのようにスムーズに返事が出なかった。
 代わりに答えたのは、黒木だった。眼鏡を外し、気力に満ち満ちた目で城戸を見る。
「自殺は笑い話にはできません。でも、爽夏ちゃんと生きた毎日は笑い話ですよ。爽夏ちゃんは今も僕の心に生きていますから!」
 目が覚める気分だった。すべてを笑って話せるように……それができたとき、本当に前に進むことができるのだ。年月は過ぎ去っても、止まっていた時は動かない。それを突き動かせるのは、人の心だけだ。
 城戸は堤防に寄りかかったまま、動きを止めた。
「先生……笑おう」夏樹がささやく。
 カッと、城戸が首を持ち上げる。
堤防に乗り、鞄を海へ放り投げた。あっと八神が駆け出しだ時にはもう遅い。八神は鞄が黄金色の海に吸い込まれていくさまをコマ落としで見た。
 ――が、いつまで待っても、水のはねる音がしない。堤防に立つ城戸は、よく見ると小刻みに震えていた。口が半開きで、何か言いたげだが、何も言えない、そんな状態だった。夏樹も、堤防にかじりつくようにしながら海を見ていた。八神はとにかく走った。堤防に飛び乗る。
 鞄が浮いている。波の上を漂っているのではない。水面から三十センチは上で空中停止していた。
 ――どう、なっているんだ。
 あんぐり口を開ける八神の前で、水面が盛り上がっていく。潜水艦のように、人の頭が姿を見せた。
 水に濡れた長い髪に覆われた、それが誰なのかわかると同時に、八神は金縛りにあった。
 八神の代わりに城戸がつぶやいた。
「じ、仁先生……」

前へ 次へ


ホームへ戻る ホームへ

 小説へ