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男の純情(ある意味病的)

八、愛は奪う


 仁先生は、鞄を片手に持ち上げたまま、堤防まで泳いできた。テトラポッドに鞄を載せ、自分も水からあがる。
 テトラポッドを登りきらんとする仁に、城戸はそそと後ずさった。そして、学校で普段見せる柔和な笑みを作る(かなり引きつっていたが)。
「平坂先生ではないですか。寒中水泳でも?」
 仁先生は、赤い衣から水を垂らしながら、城戸に近づく。城戸はついに堤防から降りた。仁もそれに続く。
 なぜ、仁先生が海に潜水していたのか。まったくわけがわからなかった。うちの学校の教師はやることが無茶苦茶すぎる。
 仁の首が八神のほうを向く。体がこわばる。鞄を投げられて、危うく取り落とすところだった。それから城戸を見据えた。
「話は、すべて聞かせてもらった」
 鞄が重力を増した気がした。夏樹たちにも動揺が走る。城戸のゆがんだ笑顔が磔になった。
「すべてって、平坂先生、それはいったい」
「部室での会話から、すべてだ」
 城戸先生の顔が着ているシャツよりも青くなった。
「わしはな、その時、屋上のちょうど部室の上にあたる場所にぶら下がって懸垂していたのだ。部室の窓が開いていたようだな、声が聞こえたから、耳をすましていたのだ。そして、お前の足取りを追い、海の中で張り込んでいた」
 校舎の壁で懸垂……空手部の顧問はやることが違う。しかし、その空手部顧問が、おまけで面倒見ている映画研究部の危機に現れるとは、誰が予想しえただろうか。冬の冷たい海に潜んでまで。
 仁の前では、城戸がまるで子供に見える。足を震わせ、顔をこわばらせる姿は滑稽を通り越してどこかシュールだった。
「城戸。お前は八神たちがテープを取り返したら、諦めると言った。しかしその約束を破った。男に二言は許されん。ならば、この勝負はすでに勝負ではない。よって」
 仁先生の鉢巻から、髪から、胴着から、地下足袋から、体から、よくわからない紫色の瘴気が溢れ出していた。この圧倒的存在感には、ローマ法王でもかなうまい。時空が大きくゆがんでいる。
「わしが成敗する」
 サラシの巻かれた指が、城戸の額を突き刺す。
「な」城戸の目にはもはや仁以外見えていないようだった。「舐めるんじゃねえぞ、老いぼれがぁ! 俺はこう見えて強いんだよ!」
 ズボンのポケットから、何かを取り出しザッと振る。それを夕日が反射した。
「うっわ、ナイフですよ!」
「べつに銃刀法違反じゃないぞ。ちょっとしたお守りみたいなもんだ」
 黒木が叫んだその通り、城戸が出したのは折りたたみナイフだった。刃渡りはごくごく短いが、危険であることに変わりはない。
 あんなにも余裕を失った城戸を見たのは初めてだった。動揺の微塵も感じさせない仁先生の態度が、より城戸の萎縮を引き立てている。
 生きながらの伝説、平坂仁の戦いをこの目で見ることができる。自分は今、とんでもない場面に立ち会っているのだ。自然、鳥肌が立った。
 噂は一人歩きしているものの、仁の真剣勝負を見たことのある人間は少ない。生徒が知っているのは、せいぜい「地獄のデコピン」だけである。仁はたちの悪い生徒を叱るとき、制裁としてデコピンをするのだ。一発食らえば血が流れ、二発食らえば意識を失い、三発食らえばあの世行き……それが地獄のデコピンだった。実際に死んだ人間はいないが、生徒たちは恐れおののいている。
 海には潮風が流れ、風雲急を告げている。
「刻んでやるよ!」
 恐怖を断ち切るように、城戸が突進した。三倍速の勢いでナイフを動かす。
 首、胸、肩、手足、腹、振るわれるナイフ、そのすべてを紙一重の部分で柳になってかわしていく。驚くべきことに、立ち位置は一歩も動いていない。
「額、こめかみ、眼球、頚動脈、頭骨脈、肺、心臓、肝臓、頸椎、腎臓……さすが医者の息子だ。見事に人体の急所ばかり狙っている」
「医者の息子は普通あんなことしないと思うな」
 妙なところに感服する烏丸に、きわめて冷静に朱里が返す。
 ――すごい。
 あれだけの連撃を受けながら、一つの技も食らわない。仁先生の強さはメッキ張りではなく正真純金製だった。
 一向に当たらない攻撃に、城戸の動きが鈍った。手を休め、肩で息をする。
 仁は直立不動で口を開いた。
「……あの聖母子像は、うちの学園の創立記念に、とある児童施設が寄贈したものだ」
 仁の口から、意外なことが語られる。口ぶりから、八神は深い思い入れを感じとった。
「わしはその児童施設で育った。あそこはわしの家であり、あの聖母子像は園長の分身だ。だから、マリア像を壊した映研部の生徒たちを恨んだこともある。……まさか、お前がマリア像を壊した犯人だったとはな。クラスの中でも優等生だったお前が」
 知ろうとも思わなかった事実がゴロゴロと出てきた。仁先生が施設育ちだったこと(たしかに、この人の親は想像がつかないが)、映画研究部に恨みを抱いたこともあったこと、何より、城戸先生はかつて仁先生の教え子だったこと。
 城戸はにらみ殺さん勢いだった。
「そりゃあ身体鍛えることにしか興味のないあんたに、わかるわけないだろうな。仁先生、あんた、一度だってまともに俺の顔見たことあったかよ! 俺が教師になって学園に来たとき、俺の顔わからなかったじゃねえか」
 城戸が再び切りかかる。先ほどよりも俊敏さに磨きがかかっている。相変わらずかわし続ける仁だが、ついに足を動かした。それでも城戸の追撃は止まない。仁の上着の袖がわずかに裂かれる。
 せわしなく手を動かしながら、城戸は叫んでいた。
「だから俺は決めたんだ、あんたとは違うやり方で生徒たちの信頼を勝ち取ってみせると! どうだ、八神くん、僕はよき担任だっただろう?」
 八神は息を呑む。そう、城戸先生は過ぎるくらいによい担任だった。こうして彼は今牙を剥いているが、彼が見せた教師としての誠実さには偽りはなかった。
 ただ、憎さゆえ。彼は自己の理想とする教師を目指した。だが、その憎しみをたたえてにらむ相手の男は、自愛と憐憫に満ちた瞳でおのれを見ている。それこそが許しきれない怒りの根源かもしれなかった。
 城戸の一撃が、仁の左目を狙った。仁の手が魔法のような動きで、城戸の右手を跳ね飛ばした。本日初めて見せた攻撃だった。ナイフははるか彼方にはじけ飛ぶ。あの右手はしばらく使えない。八神の経験が告げていた。案の定、ぶら下げられた城戸の腕は、小刻みに震えていた。
「ダメ、城戸先生は左利き!」
 夏樹が叫んだ時には、城戸の反対の手が動いていた。八神は見た。袖口から何か細い棒状のものが飛び出すのを。次に目が追いついたときには、仁のこめかみから血が噴き出していた。目をひん剥く。城戸の左手には、血の付いた鉛筆が握られていた。
 鉛筆で仁の肌を切り裂く。これは夢なんじゃないかという光景。
「残念。目ぇ狙ったんだけどな」
 ――キレてる。完璧に。
 城戸はさらに手を動かした。今度は首だ。仁がよけなければ頚動脈に穴が開いていただろう。間髪を入れずに鉛筆が突き出される。仁のかわし方には、初めのような余裕がなくなっていた。
「いったいいつから教員免許資格に殺人術の欄ができたんですか」
 黒木がほとんど独り言のように言った。
 仁が上段蹴りを放った。下から見事な弧を描き、城戸の顔面すれすれを掠める。狙っていたのだろう、黒縁の眼鏡が飛んだ。八神たちはオオーッと歓声をあげる。
 顔を押さえる城戸。仁がそばに歩み寄る。と、城戸が手をどける。八神は何が起こったのか、事後までわからなかった。ただ、気がつけば、鉛筆を持った城戸の手が、仁の口を貫いていた。
 足に根が生えたように動けない。
 眼鏡を失ったというのに、恐ろしいほど正確な狙いだった。
「あ……ああ……」
 口元を押さえながら、夏樹がペタンと座った。それが仁先生を心配してのものか、城戸先生を心配してのものなのか、八神には判断つかなかった。
 城戸がゆっくりと手を引き抜く。八神は目を疑った。ほかの者も同じ気分だったに違いない。
 鉛筆の三分の一ほどが、ごっそりとなくなっていた。
 注目は鉛筆から、一向に倒れない仁に移る。仁が口を開けた。出された舌の上には、鉛筆の先端が乗っていた。噛み千切ったのだ。
 城戸の胸倉をつかんで引き寄せる。
「いいか、素人のお前に教えてやろう。喧嘩のときは、後で周囲にばれないように、ボディだけを狙え!」
 仁の拳が弾丸のごとく腹をえぐる。城戸は大口を開けて数メートル吹っ飛んだ。
 ――いったい何の玄人ですか。
 八神は心底恐怖した。
 腹を押さえ身を丸くする城戸を、仁は見下ろした。もう、勝負は完璧についていた。
「お前をこんなひねた人間にしてしまったのはわしの責任だ。しかし信じてもらいたい。わしは今まで受け持った生徒の誰としてないがしろにしたことはないと」
 城戸は苦しそうに呻きながらも、その顔を上げた。
「油絵の市展に一般の部で参加したお前は、高校一年にして市長賞を獲ったな。学校では話題にならなかったが、先生はちゃんと展覧会に行ったんだぞ。お前の描いた港の風景は美しかった。先生は今でも、海を訪れるとあの油絵の風景が浮かび上がってくるんだ」
 城戸は黙っていた。腹を押さえたまま、よろよろと立ち上がる。
 仁と向かい合い、頭を下げた。
「先生、ごめんなさい。先生が大切に思っていた、マリア様の首をもいでしまって」
 仁先生の前では、城戸はまだ若い学生のままだった。
「デコピン、いっとくか」
「いえ、さっきのでもう勘弁してください」
 そそくさと離れる城戸を見て、仁先生は豪快に笑った。
 城戸は八神のほうに歩いてきた。茶髪の髪はラフっぽく乱れ、眼鏡もかけていないなりはホストかヤクザのチンピラ風で、少々怖かった。
「鞄を返してくれないか」
「はい?」
「テープはもらってくれていいが、ほかにも大事なものが入っているのでね」
 大事なものの入っている鞄を、海に投げ捨てようとまでした執念には感服する。八神が戸惑っているうちに、城戸は鞄を取っていた。まさかこのまま逃げるんじゃ……と思ったが、鞄の蓋を開けると、テープを取り出し、八神に渡した。
 八神の手に握らせる時、低い声で言った。
「今回は見逃す。でも、僕の恨みは消えない」
 背筋がすうっと寒くなった。
 白衣と破損した眼鏡を回収し、城戸は去っていった。
 ふと見ると、烏丸が仁に礼を言っていたので、八神も慌てて向かった。
「仁先生、本当にありがとうございます。しかし、何で助けてくれたんですか? いつも空手部のほうばかりで、俺たちなんて歯牙にもかけていなかったのに……」
 純粋な疑問だったが、ちょっと嫌味っぽかったかなと後で後悔した。
 仁はしわがれた声で一言、
「逆だ」
「え?」
「お前らが自分たちで好きに活動しているようだったから、わしも好きにさせておいたんだ。何か悩むことがあったら、相談してくれれば力になった」
 八神は、今まで映研部は仁先生に疎まれていたと思っていたが、本当は自分たちのほうが壁を作っていたのだと気がついた。
 映研部のために文化祭の時間を作ってくれたことを思い出す。
 不器用なのだろう、この人は。
「さて、聞くところによればお前ら、不法侵入やら何やらずいぶんなことをやらかしているようではないか」
 仁先生の目が鋭く光る。八神たちは雛のように身をよせた。一部始終聞いていたということは、その辺の話もまるっとお見通しなわけだ。
「全員デコピンとしっぺの刑だ。男は額、女は手首を出せ」
 アイコンタクトを取ると、皆はそれぞれバラバラに駆け出した。八神は必死で走った。別方向で黒木の叫び声が聞こえた。立ち止まるわけにはいかない。心を捨てよ、八神。次々に響く叫び声を振り切り、走り続けた。
 浜の捨てられた船の陰に隠れ、息をつく。閉じた目を開けると、つるべ落とし、いや、逆さになった仁の顔があった。船の上から自分を見ていた。
 八神は逃げた五人の誰よりも大きな声で叫んだ。
 仁が去った後、五人は浜辺に集合した。男は額、女は手首を赤くしていた。手心を加えたのだろう、血は流れなかったが、ヒリヒリと痛んで仕方がない。砂山にどっさり座り、学校に帰る気力もなかった。
 だが、腕の中のテープを見ると、知らずに頬が緩む。
 隣の黒木に、勿体つけた口調で話しかける。
「……終わったな」
「ええ」
 黒木も神妙な顔でうなずく。
「でも、本当の戦いは、これからだよ」
 まとめていた髪を下ろしながら、朱里が言う。長く豊かな栗毛が風を泳ぐ。放心状態でそれを見ていた八神に、にこりと笑う。
海に沈む夕日を見ながらのやりとり――まさに映画の世界に入り込み、痺れがくる。自分はこの物語の主役なのだ。隣には艶やかな美女が座っている。だが、主人公は彼女を残し、ずっと見つめてきたヒロインのところへ行く……。
…………。ヒロインの姿がない。
辺りを見回すと、波打ち際で戯れている男女がいる。と思ったら、女が男を海に突き飛ばした。
女が狂ったような笑い声を上げた。
「許すなんて、ただの嘘に決まってんでしょ。嘘よ、嘘! 許さないんだから。せいぜい卒業まで遊んでやんよ、バーカ、バーカ!」
 夏樹と烏丸に間違いなかった。
 まだ飽き足らないのか、しりもちをついている烏丸に砂までかけ始めた。
 うわーと思ったが、ほうっておくわけにいかないので重い腰を上げる。
「人に脚で砂をかけるとは、貴様それでも人間か! そんなのは犬のすることだ。この犬め。牝犬め!」
「まあまあ、部長、血圧上りますよ」
「年寄りみたいに言うなっ」
 烏丸の必殺やつ当たりで八神は海に引きずりこまれた。水しぶきを上げて浅瀬に倒れる。制服が濡れる。冷たい。重たい。洒落にならない。テープを砂山に置いてきてよかった。
 何がおかしいのか大笑いしながら、黒木と朱里が砂をかけてきた。
 おのれ。朱里はともかく、黒木は腹に据えかねる。八神は今しがた烏丸にやられたことを黒木にそっくりやり返した。それから報復として砂を浴びせた。
「何すんですか! この海、波が荒いのに。後輩イジメですよ!」
「生意気な後輩は一度締めておかないとな」
 八神は不敵に笑った。
 烏丸は女二人を海に追い込まんと鬼みたいな顔で追い掛け回していた。どう見ても変質者だ。
 しまいには全員で海に浸かって、子供のように遊んでいた。
 空はうっすらと赤から青へグラデーションかかり、幻想的な色の千切れ雲が流れていた。それらを映しこんだ海が、コバルトブルーよりもっと深い色で身を揺らし続けていた。


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