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腐った愛

 はじめに背中を包丁で刺しました。男の人だからでしょうか、意外と簡単に刺さりません。刺すのではなくえぐる要領でぐいぐい押していくと、ようやく半分くらいめり込みました。彼は今まで聞いたことのない声を上げました。それから苦しそうにカーペットの上にひざをつきます。
 次にテーブルの灰皿を手に取りました。それを彼の頭の上で逆さまにします。すると中に入っていた吸殻が彼の黒髪を白くしました。私は煙草を吸いません。全部、自分で作ったものです。それなのに彼は、頭を左右に振りながら何かをわめきました。ろれつが回っていないので、何を言っているのかわかりません。意味のわからない言葉は、聞いていて不快です。
 私は腹が立って、灰皿で彼の頭を殴りました。力いっぱい腕を振り下ろしました。頭蓋骨が砕けるのではないかと思いましたが、少し血が出ただけで、頭の形は変わりません。彼は不明瞭な声を上げました。やがて、カーペットに顔を押し付けながら、泣き始めました。声がまるで踏みつけられた蛙のようでした。私は彼に黙ってほしかったのに、彼は泣くことをやめません。
 私は部屋を見回しました。ふと、ガラス戸の前に洗濯物がつるしてあるのを見つけました。その中から、彼の靴下とネクタイをむしりました。今朝、干したばかりだったので、まだ湿り気が残っていました。外に干していれば、今頃もう乾いているはずです。雨さえ降っていなければ、と、濡れたベランダを見ながら思います。
 彼のほうに目をやると、上半身を持ち上げ、足を引きずりながらどこかへ行こうとしていました。私はネクタイと靴下をエプロンのポケットにしまい、両手で椅子を振り上げました。そして、のろのろ進む彼の背中を打ち付けました。木の枝が折れたような音がしました。彼はその場に倒れこみました。どうしてこんな目に遭わされているのか理解しようともせずに、私を裏切ったことを反省しようともせずに、逃げようとするなんてこれはどうしたことでしょう。私はもう一度背中を打ち付けました。刺さっている包丁がまた少しめり込みました。年甲斐もない彼の叫び声が響きます。そんな声を出して、隣近所に迷惑だとは思わないのでしょうか。そんなことも考えられない人だったのでしょうか。
 背中の包丁を引き抜きました。傷口から血が噴き出しました。壊れた蛇口みたいだなと思いました。肩を引っ張り仰向けにし、胴体に跨りました。彼はまた暴れだし、叫びました。私は大好きだった彼の胸をそっとなでてあげました。それから手のひらごと包丁を床に刺しました。静かに血の溢れる手は、十字架にかけられたイエス・キリストのそれのようで、とても芸術的でした。
 いい加減、彼の声がうるさいので、口の中に丸めた靴下を押し込みました。ネクタイを頭に回して口周りを縛れば猿ぐつわの出来上がり。これで耳障りな叫び声は聞こえなくなります。自分ながらとてもよいアイデアだと思いました。
 次に私は、エプロンのポケットからはさみを取り出しました。工作用などではなく、布きりばさみです。それで彼ののど仏の辺りを切りました。途端、彼が体を上下にうねらせました。さばかれる前の魚みたいでした。その動作が面白くて、今度は少し上の部分を切りました。また彼が動きました。また切りました。また動きました。
 飽きてきたので、のどを切るのはやめました。代わりに右目を刺してみました。ソフトボールを握ったときを思わせる弾力の後、ピシャリ。目玉がつぶれました。彼がくぐもった声を上げました。どうやら、声帯を切ることには失敗したようです。はさみを抜くと、白い、固体とも液体とも取れないものがまとわり付いていたので、彼のシャツで綺麗に拭きとりました。
 同じように左目も刺しました。多少の差はあれ、結果は右目の時と同じでした。黒い空洞が二つ完成です。少し彼の反応が鈍くなりました。どうやら、そろそろ終わりのようです。
 私は彼につけた手作り猿ぐつわをはずしました。そして、彼にはわからないでしょうけど、精一杯の愛情を込めて微笑みました。
「最後に、何か一言私にちょうだい」
 彼は、口を動かしました。ひび割れたひどい声が出ます。つい一時間前は、とても素敵な甘い声をしていたのですけど。かすれた声で彼は言いました。
 ――流し台の下。
 確かに彼はそう言いました。これはどういう意味なのでしょう。私が流し台の下をまったく見向きもしなかったから、整頓しろという意味でしょうか。ちょっとわかりません。まあ、見て見れば済むことだと自分を納得させました。
「そ。じゃあ、後で見に行くわね」
 主婦のエプロンは魔法のポッケ。手を入れれば何でも入っています。私は薬瓶を取り出しました。よく効く代わりに副作用も強い種類の、精神安定剤が五十錠ほど入っています。お医者様でもらったものを大事に溜め込んだものでした。私の宝物です。それを彼にあげます。瓶を彼の口にねじ込み、無理やり中身を流し込みました。
 私は立ち上がると、キッチンへと向かいました。普段、扉を開きもしない流し台下の棚を開けます。いつのものかわからない小麦粉や調味料、なべやボウルが並んでいました。
 その景色になじまない小包がありました。綺麗な包装紙にくるまれたごくごく小さな包みです。一見すると、誰かへのプレゼントのようでした。彼が言いたかったのは、きっとこれのことだったのでしょう。私は小包を開けてみました。
「――あ」
 指輪でした。指輪の入った、小さな、けれど高価な箱でした。
 私はそのものに、心当たりがありました。一ヶ月ほど前、彼が宝石店に入ったところを見たんです。一緒になって以来十年、一度も贈り物などもらったことがないのに、どうしたのかと思いました。それから、私は待ったけれど、彼は何も私にくれませんでした。私の中に怒りと悲しみが湧き上がってきました。だってそうじゃないですか。私に何もくれないということは、私ではない誰かに何かあげるつもりに決まってるんです。宝石店で買った何かを、妻ではない誰かにあげる気なんです。私の彼に対する疑心は積もり積もって、ついに今日崩れてしまったのでした。楽しかった結婚生活、すべてとともに。
 けれど、指輪は誰かにあげられたわけでもなくて、流し台の下にずっとあったんです。小さな箱には、カードが挟んでありました。それにはたった一言、「愛している」と書かれていました。それから小さく、八月三日とありました。数秒間考えて、その日付の意味に気が付きました。私の頭に蘇ったのは、彼に寄り添いながらバージンロードを歩いた記憶です。
 隠していたんですね。記念日まで隠していたんですね、彼。隠していたんですね。私、気づかなかったんですね。
 パタ、パタと、フローリングに小さな水溜りが二つできました。私の目から水がこぼれたようでした。私の自慢だった、彼がいつも「澄んでいる」と褒めてくれた薄茶色の瞳が、滲んだ景色を映していました。どうして自分が泣いているのか、よくわかりませんでした。
 リビングで倒れている彼のところに行くと、薬瓶を口にくわえたまま、すでに息をするのをやめていました。しばらく、彼の横に座っていました。胸をなでてあげました。
 どのくらい経ったのかわかりません。私は玄関ベルが鳴っていることに気が付きました。今鳴り出したのかもしれませんし、少し前から鳴っていたのかもしれません。そう言えば、今日の日中、通販の荷物が届く予定だったのをすっかり忘れておりました。だからきっと配達の人が来たのだと思いました。
 私は少し困りました。私の服には彼の血が付いていて、配達の人に変に思われる危険がありました。それに、もしかしたら違うお客さんで、家の中にあがってくるかもしれません。ああ、平田さんの奥さんだったらどうしましょう。あの人は強引だから、断っても部屋に入るに決まっています。
 立ち上がると、何となく、ガラス戸のほうに近づきました。いつの間にか雨はやんで、空から光が落ちていました。引き戸を開けて、ベランダに出ます。屋根には相変わらず、燕の巣が張り付いていました。身を乗り出すと、そこには、高層マンションの二十階から見た灰色の街が広がっていました。
 遠くのほうを、鳩が飛んでいます。それを見て、鳥になりたいと思いました。鳥になって、ずっと遠くまで飛んでいきたいと思いました。玄関ベルの音が聞こえないくらい、彼の血のにおいがわからないくらい、現実が消えてなくなるくらい、遠くの空まで飛んでいきたいと思いました。


 私は、雨上がりの空に飛翔する燕の後を追いかけました。

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