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愛と狂気の青春時代


 一、
 磨かれたテーブルに身をかがめ、朱雀アヤメは黙々とプレパラートに挟まれたヒヤシンスの根を観察していた。
 少し前に生物室に入ってきてから棒立ちになっている俺の存在を無視し続けて、ただただ顕微鏡を覗いていた。
 俺は、と言えば、一秒ごとに心拍数が上昇し、握った拳が小刻みに震えていた。
「おい」
 声がうわずる。
 数十秒待つが何の反応もない。この室内だけ時間が止まっているのではないかというくらい、動きがない。
 朱雀の目はミクロの世界にしか興味がないようだった。可愛げのない女だ。人が話しかけているのだから顔ぐらい上げろというのだ。
「おい」
 …………。む、無反応。
「おいっ、無視すんじゃねえよ! 実験ブス!」
 腰近くまである髪が乱暴に揺れる。不機嫌な顔が向けられる。俺の体が大きく跳ねる。何を言ったらよいのかわからなくなる。
 朱雀が目つきの悪い顔でこちらを見ている。というより睨んでいる。怖えぇ。
俺は放課後に突入してからここに歩いてくるまでの間に考えていた原稿を脳内で読み上げた。 「すっ朱雀、お前、中間テストで零点とったそうじゃねえか」
 伝聞系を使った。実際は誰かに聞いたわけではない。だがこれはいわゆる「お約束」だった。朱雀は馬鹿だ。馬鹿女なのだ。
「何と言うざまだ。そんなんで二年になれんのか? このまま留年するんじゃね? 俺なんて現国も英語も世界史も百点だったんだからな。やっぱり脳みその出来が違うんだよなあ。一生懸命草の根っこばかり見てるような暗い女とは」
 朱雀はテーブルについていた手を離す。セーラー服の上の着古した白衣、櫛通りの悪そうな髪、隈の濃い顔。俺にはこいつがマッドサイエンティストにしか見えない。本当は女子高生らしい。一生痴漢に狙われることもないようで、よかったよかった。
「てめえだって理科総合と数学Aと数学Tが零点だったんだろがボケ」
 冷淡に吐き捨てる。朱雀の言葉は胸に刺さる。弓を引いたように胸に刺さる。
 視界が真っ赤に染まり落ちた。
「貴様ッ。俺はなあ、英語の全国共通模試で偏差値九〇超えの天才だぞ! 中学の時、読書感想文コンクールで金賞に輝き地元の新聞にも載ったのが俺様の顔だということを忘れたか! 日本の歴代総理大臣の名前を順番に全部言ってやろうか!」
「あたしは理科と数学の話してんだよ。耳に海草でも詰まってんじゃないのかい」
「理科? 数学? ハン、そんなものは小学校までの知識があれば十分なんだよ。高校で教える実験やら公式やらは阿呆どもの趣味・道楽だ。世の中を生きていくうえでは何の役にも立たん」
「消費税だってろくにわからない野郎が偉そうに」
「黙れっ!」
 寂然とした教室に怒鳴り声が響く。並べ立てられたフラスコたちが音を吸収し何倍もにして放出しているように感じられた。
 肩で息をする。心臓が壊れそうだ。朱雀は何とも言えない、人を小ばかにした眼差しをしていた。見ていると出火場所不明の怒りが燃えてくる。
 ダメだ。この程度のことで怒っていては。これから先付き合っていけない。落ち着く。落ち着く。落ち着く。図書館で窓際の席に座り古書を読んでいるときのように落ち着く。俺は見目好い文学青年。
「いいか、人間社会に適応するために最も必要なものは、コミュニケーション能力だ」
「あんたに一番欠けている能力だね」
「すなわち、相手の言わんとする事柄を察する読解力だ。また、自分の気持ちを簡潔に伝えられる表現力だ。それから、グローバル化に適応するための英語力。自国と他国を理解し尊重し合えるように必要なの が歴史・政経の知識。どうだ、これだけでも俺がいかに優れた人間かがよくわかるだろう」
「だらだらと長く要点がつかめない。もっと日本語を勉強しましょう」
 俺は、脇に抱えた鞄の止め具を外しながら、ちらちらと朱雀を見た。俺の動きなんてまったく眼中にないらしかった。
 鞄の中で数冊のノートをつかむ。
 俺は口を開いた。今度はフラスコが音を小さくしているように思えた。
「右脳の崩壊したお前のために、俺様が文系教科の要点をまとめたノートを貸してやろうと思ってだな……」
 言った。言えた。朱雀の顔を見ないまま、ノートを投げた。ノートは朱雀にぶつかり、床に落ちた、らしい。俺はもう膝小僧がなくなったように脚が震え、今にも崩れ落ちそうだった。朱雀は何も言わない。恐る恐る視線を向ける。
 ――!?
 視界が隠れると共に、顔面に衝撃が走る。ノートが散らばり落ちていく。胸倉を抗いがたい力で引っ張られる。
「てめ、何しやがる」
「いきなり人にモノを叩きつけておいて何だその態度は」
「何だと、せっかく俺が」
 朱雀は胸倉をつかんだまま歩き始めた。やめさせようと足を踏ん張ったがすごい力だ。俺は壁際まで引きずられていった。
「ああーっ、やめて、誰か、この人痴漢です。ちか……殺人じゃねえか!」
 俺は窓から放り出されていた。
 通常の何倍にも引き伸ばされた時間の中を落ちていく。ゆっくりとゆっくりと視界は下降し、低い植え込みがクローズアップされていった。体が無意識のうちに捻られ、景色が変わった。空が、青かった。
 ドシャ。
 一瞬、五感が壊滅する。その後、じわじわと痛みが広がっていった。いくら下が植え込みだからと言って、二階から本気で同級生を投げ落とす人間がいるだろうか? 
 背中の痛みに耐えながら、枝葉の上から地面へ転がった。
「ミズキーッ」
 どこか遠くのほうから呼ぶ声がする。エコーがかかり気味が悪い。金だらい越しに頭を殴られたたらこんな感じになるのだろう。
 上半身を持ち上げる。学ランに付いた葉を払い落とす。襟の中にまで入り込んでいて非常に不愉快だ。それも取り除いていると、サッカー部のユニフォームを着た男が走りよってきた。視力が弱いためぼやけているが、鷹野マサキだろう。
 鷹野は目も口も大きな男だ。俺の横にしゃがみこむと、目を丸くした。漫画的表現をとれば輪郭からはみ出そうなほど口を開く。
「どした、急に降ってきて」
「あの狂犬女が……」
「狂犬?」
 言った後に、軽く手をついた。目線を二階に向ける。
「朱雀かよ。お前、生物室なんかに何しに行ったんだ。自殺か」
「ちょっといろいろな」
 俺は額に手を当てて悩める青春時代を演出した。
 立ち上がろうとしたら、思いがけず関節が軋みふらついた。
「おいおい大丈夫かよ。今にも死にそうだぜ?」
「死にそうだよ、二階から突き落とされたんだからな」
「まあドンマイ。千鳥先輩にでも慰めてもらえ」
 肉体的な欠損とは別に、生皮を剥がされるような苦痛を感じる。鷹野の短く切りそろえられた髪をむしりとりたい衝動に駆られた。
 おめでたい顔をしやがって。きっと悩みなどないのだろう。
「別れたよ」
「は?」
「カスミとはおととい別れたんだ」
 俺の声は苛立っていた。
 鷹野は素っ頓狂な声を出した。やめろ、目立つから。
「わっ別れたってお前、まだ一ヶ月じゃねえの」
「ああ、今回は長かったな」
 たぶん最長記録だ。
 柔らかい緑の黒髪、マッチ棒の載る睫毛、水っぽい唇、凹凸のはっきりした体――脳に千鳥
カスミの像を結ぶ。極上だったな。一番よかったのは性格だったな。
「もったいねーっ! 何で捕まえておかないんだよ、あんな素敵なお方を」
 言われなくともわかっている。俺は怒りを抑え込みながら答えた。
「部活終わったら風月に来い。俺は烏丸と先に行ってるから」
「おう」
 鷹野は俺の肩を叩くと、グラウンドのほうへ走り戻った。
 急に試合を放り出した鷹野のために、ほかの部員たちはぼうっと突っ立ってこちらを見ていた。


「風月」は通学路の途中にあるラーメン屋だ。小さな店ながら安いうえ味には定評があり、子どもから年寄りまで幅広い客層を開拓している。深夜になると地元の漁師やヤクザも訪れて、血の気の多い男同士、酒が入れば喧嘩になることもあるらしい。通学路ということもあり、学生にも親しまれていた。
 というわけで俺たちはラーメン屋風月のボックス席を陣取っていた。
「遅いね、鷹野クン」
 向かいに座る烏丸ツツジが水を飲み干す。俺は黙ってうなずいた。烏丸もそれ以上話さなかった。すでに皿の餃子はあと一切れになっていた。四時半から二時間、餃子七ケ一皿で居座っている。これを食べてしまったら、店から遠まわしに追い出されるだろう。その懸念から最後の一つに手を付けられずにいた。
 鷹野と烏丸は四月からずっとつるんでいる連中だ。いわば右大臣と左大臣である。
 烏丸ツツジは、鷹野とは正反対のタイプで、天体観測部なんかに所属する、まあ、根暗な野郎だった。天体観測部は週に一度しか部活がなく、幸い今日はその日ではない。ちなみに俺は帰宅部である。
 三十分ほど前から、店長の親父の視線が殺気を帯びてきているが、そこはあえて無視をする。
 もっとも、ウェイトレス(親父の娘だが)の対応は少し違った。
「お水入れましょうか?」
「お願いします」
 スッとコップを差し出し、微笑みかける。娘は慌てたように目をそらすと、水を表面張力まで入れて、いや多少こぼれるまで入れて、調理場のほうへ小走りで消えた。
「相変わらずモテますねぇ白鷺クン」
 イヤミも含んでだろう、烏丸がぼそっと言った。真四角のダサ眼鏡を挟んで、生気のない目がこちらを見ている。
 俺は声のトーンを上げた。
「そうだ、俺はモテる。何といってもこの美貌。まったく、女ってのは男の表面しか見ない生き物ってのがよぉくわかるぜ」
「……で、付き合ったらすぐに別れると」
 過去の女どもに対する憎悪が再燃し、思い切り机を叩く。入れてもらったばかりの水が二割近くこぼれる。
「そうだ! あいつら自分から言い寄っておきながら何がサヨウナラだふざけるな! 俺の何が気に入らない! 悪いのは全部そっちだろうがっ! そっちだろうがっ!」
「騒ぐなら出ていけっ!」
 店長の一喝で我に返る。店中の視線が自分に集まっていた。俺はできうる限りにこやかな顔を作り、握りこぶしを開いた。だが、固まった空気は溶けそうもない。
 折りよく、店の戸の開く音がした。
「わりー、わりー、練習が長引いちまってよ」
 暖簾をくぐって現れたのは鷹野マサキだった。
 再び固く拳を握る俺や、そ知らぬ顔で水を飲む烏丸や、うんざりした顔の店長や涙目の娘に気づくこともなく、鷹野は威勢よく続けた。
「ちわーっす、おっちゃん、ラーメン三丁! 塩と味噌と醤油一個ずつね!」
 店の親父は呆然としていた。
 静まり返った店の雰囲気など気に留めず、ドカッと鷹野は俺の隣に座った。
 ――餃子一皿で二時間居座り、大声で騒ぎ、さらに連れを呼びラーメン食べながら駄弁る、か。
 我ながら最低最悪な連中だな。
 親父は、帽子を取ったら頭が火山になっているのではないかというくらいに顔を赤くしていたが、やがて、あからさまに肩をすくめると、調理にかかった。
 いつものことだから諦めたのだろう。よくもまあ出入り禁止にされないものだ。これが風月の寛大なところか。
 などと他人事に考えているうちに、鷹野は遠慮の塊だった最後の餃子を口に放り込んだ。
「――で、なーんで千鳥先輩と別れちまったの」
 テーブルにこぼれた水を拭きながら、おとといのことを思い出す。
 学校の帰り道、俺は徒歩のカスミに合わせてわざわざ自転車を押しながら歩いていた。
 横に広がるアンバランスに立派な四車線道路を挟んで松林が広がり、さらに向こうには海がある。
 秋も深くなり、冷たい潮風が海から吹きつけてくる。俺はカスミの風除けになるために、わざわざ道路側を歩いていた。
 静かに歩くカスミの横顔を見る。彼女の瞳はどこか愁いを帯びていた。肌は真っ白で、触れば指が突き抜けそうだ。背筋をすっと伸ばし、手は膝の前で結ばれている。演劇部の花形というだけあって物腰が美しい。大和撫子とはこういう女をいうのだろう。
 白鷺くん。
 カスミがおもむろに口を開く。俺の心臓が熱くなる。
 どうかしたか。
 別れましょう。
 自転車を引く体が止まる。後ろを歩いていた生徒が通り過ぎていく。
 なぜだ。
 疲れちゃった。
 気がつくと俺の視界はぼやけていた。せっかく綺麗に拭いたテーブルにまた雫が落ちる。
「泣くな、気持ちわりい」
「黙れっ! 彼女いない歴イコール年齢の貴様に何がわかる」
「違わいっ、小学校五年のとき隣の席の理恵ちゃんと両思いだった!」
 鷹野の小学時代の甘く切ない思い出なんぞどうでもよかった。テーブルを思い切り叩く。コップの水が少しこぼれる。
「疲れたってなんだ、疲れたって! そっちから告白してきたくせに! あいつ、絶対浮気してたんだぜ。二股かけてたんだ。それに疲れて俺を切り捨てたんだ」
「白鷺クン、それは飛躍しすぎだよ」
「そうだ、そうに違いない。カスミのやつ、五日前、一人で先に帰りやがったんだぜ? 俺はあいつの部活が終わるまで図書室で律儀に待っていたというのに! いつまでも待ち人の来ない孤独と不安を少しは理解しろ! 理由を問い詰めたら、『ごめんなさい、演劇部の後輩と買い物に行く約束をしてしまって』……後輩ってのは何だ、男か? 男だな! おのれ許せん……」
「それだな、フラれた原因は」
「うん。これは疲れる」
 鷹野と烏丸が同時にうなずく。なんだなんだ、その呆れた顔は。俺が悪いとでも言いたいのか。
 息を吸い込み怒鳴ろうとした時、目の前に湯気を立てるラーメンが現れた。碗を持つ手はごつごつしている。――店長がじきじきに運んできたらしい。
「騒ぐなら、出ていけ」
 怖いぐらいの微笑みを浮かべて、柔らかい口調で言った。背中からは、何か紫色の瘴気が立ちのぼっていた。
 すみません……と小さな声で謝る。
「まあ、千鳥先輩のことはわかったよ。次いってみよう、次。生物室に何しにいったんだ。あそこは朱雀の伏魔殿だぜ? 人間が行ったら殺されちまうぞ」
 声のトーンをかなり下げて、鷹野が言った。俺は塩ラーメンを箸につまんだ。口の前で止め、息を吹きかけると、白い湯気が空気の流れに合わせて形を変えた。口に含む。ほどよい弾力のある麺が噛み千切られ、喉を通って胃に落ちていく。うまい。
「……朱雀アヤメと付き合いたい」
 鷹野はラーメンの中に水を噴いた。烏丸の分けられた前髪が額にパラパラと落ちる。
 鷹野がつばを飛ばしながらまくし立てる。
「はあ? はああ? お前、フラれて二日で何言ってんだ?」
「フラれたからだよ。一刻も早く新しい女を作らなければ隣が寂しい」
「それで、何でよりによりまくって朱雀なんだよ。どうすりゃあんな凶暴な女を好きになるんだよ。お前、実はマゾか? マゾなのか?」
 馬鹿かこいつは。
 朱雀アヤメ。自然観察部に所属する高校一年生。ちなみに部員は一人しかいない。俺の同級生。性格はいたって凶暴、男子はまず近寄らない。女子とは世間話程度はしている模様。幼稚園からの知り合い。幼馴染と呼べるほどは親しくなく、といって単なる同級生と言うには少し寂しい、その程度の仲だ。俺は小学校高学年は県外にいたから、やはり幼馴染とは呼べないだろう。仲良く遊んだ記憶もない。
 俺だって出来ればあんな女とは付き合いたくなかった。どの女より知り合って長いが、いやだからこそ、あいつとだけは付き合うまいと心に誓っていたのに。
 だがもう、仕方がないのだ。
 白鷺ミズキ。その美貌によって数々の女を惹き付けながら、性格の不一致により一週間以内にはほとんどの場合、破局を迎える悲劇の男。
 ふふ、何度告白されたかわからねえ。
「もう身の回りに付き合ってない女はあいつしかいねえんだよおぉ」
 俺は情けなくなって、顔を手で覆った。
 少し前から予兆らしきものはあったのだ。俺と別れた女が勝手なことを吹聴するから、どんどん女が遠ざかっていった。これで演劇部のマドンナである千鳥カスミとすら別れたというんだから、もう誰も近づかない。
 学校外の知らない生徒とは、胡散臭いから付き合わないようにしているし……。
「だったら、無理して恋人作らなくてもいいんじゃないの?」
 烏丸が汁のしたたるナルトを食べながら言った。
「俺は寂しがりやなんだ。いつもそばに誰かいてくれなきゃダメなんだよぉ。一人じゃ生きていけないんだよぉ」
「そんな性格だからフラれるんだ……」
「うっせえよ! 愛を求めて何が悪い!」
「にしても朱雀は論外だろ。身長が一六〇以上ある女はちょっとなあ」
「お前、身長一六三しかないもんな」
「ほっとけよ」
 鷹野が箸で俺を指差してくる。やめろ。
「あの鬼より怖い女を千鳥先輩の代わりにしようってのか。ちっと役不足じゃねえの」
「役不足の遣い方が間違っているぞ。こういう場合は力不足って言うんだ。役不足って言うのは、相手の実力に対して役が軽すぎるって意味で」
「出たよ、いちいちうるさい解説」
「それに、俺は朱雀をカスミの代わりにしようとは思っていない。カスミはカスミだし朱雀は朱雀だろ」
「まあな」
 俺は周囲から見れば軽い男に見えるだろう。確かに中学から別れて付き合ってを繰り返しているのは事実だ。だが、俺は付き合った相手は全力で愛する。至って誠実で真面目な男なのだ。
 にもかかわらずなぜ最後にはフラれるのか。まったくわけがわからない。
「俺はあいつを惚れさせてみせる。そのためにこうして会合しているわけだ」
 俺は一人、大きくうなずいた。
 鷹野は早くもラーメンを食べほし、汁をすすり切って息を吐いた。
「俺は無理。絶対無理。あんな女と付き合うくらいなら一生ドーテイのほうがマシ」
 今はそんなこと言っていても、あと十年もすればなりふり構わなくなるんだぜ。
 俺は自分の胸を押さえた。
「それにな、俺、昔からあの女と話すときだけはなぜか緊張して慣れないんだよ」
「怖えぇもんな」
「ふと思った。これは、もしかしたら無自覚の恋だったんじゃないかって。そしたら、なんだか胸のドキドキが止まらなくなって……」
「お前、それ、病気じゃね?」
 鷹野の頭をしばいた。勢いよく汁を碗に逆流させ、俺のほうが驚いた。とりあえずスルーする。
「で、だ。突然告白したところで殉職するのは目に見えている。だからまずは距離を縮めたいと思うんだ。しかし俺は告白されたことはあってもしたことはない。どうしたらいいのかわからない。好感度アップのためにノート貸してやろうとしたら窓から投げられるし」
 朱雀は理数系に関しては天才といっていい。何せ毎回満点で、教師からも生徒からもその点だけは一目置かれている。だが、文系は零点しか取ったことがないという極端な脳みそなのだ。うちの学校は良心的だから、こんなやつでも補講さえ受ければ単位をもらえてしまう。
 そんなあいつのために、俺は文系教科の要点をわかりやすくまとめたノートをやろうと思った。わざわざ三日三晩、いやそれ以上徹夜して作ったノートだ。
「それなのに、なのに……ちくしょうぅぅ」
 俺はラーメンを口に掻きこんだ。やけ食い、というやつである。
 しばらく顎に手を当てて考え込んでいた鷹野だが、手を離して言った。
「花でも贈ったらどうだ」
「花?」
 女は花が好きだと聞く。ド派手な百合とか薔薇とか、そんな自分が見劣るような花をもらってなぜ嬉しいのだろうか。俺は薔薇なんか持ったらかなり男前が上がりそうな顔をしているが、どちらかといえば自生するタンポポのような花が好きだ。固いアスファルトを破り、雑踏に踏みにじられながら、それでもけなげに天に背を伸ばすタンポポ。たった一人で。いかん泣けてきた。
 あいつの名前はアヤメだったな。しかしアヤメの季節でもないだろう。
 朱雀はどんな花をもらえば喜ぶのだ?
 最後に見た朱雀の姿を思い出す。
「あー、ダメだダメだ。花なんてあげても切り刻まれてプレパラートに挟まれて観察対象にされるのがオチだ。片目は顕微鏡、片目はスケッチブック? そんなことに使われたらお兄ちゃん悲しくて泣いちゃいます」
 俺は考えるのをやめた。
「だったら、花以外で何か朱雀の喜びそうなもん。付き合い長いんだし知ってるだろ?」
「……知らねえ」
「そんなんでよくもまあ……」
 何か言いかけた烏丸だが、俺の顔を見て口を閉じた。
 表面では睨み付けた俺だが、烏丸があきれ果てる理由もわからなくはなかった。朱雀のことに関して俺は、やつが理数系大好き実験大好きの左脳人間だということしか知らない。女の子らしい趣味とか……そういうものがあるかすら知らない。
「というか、あるのか? あいつにそんなもの。自己紹介シートに『趣味、カエルの解剖』なんて書く女だぞ」
「何かあンだろ、一つくらい。よく思い出せ。日ごろの小さなシグナルも忘れるな」
 鷹野に言われて、朱雀の言動を事細かに思い出していった。国語と世界史と英語の時間は基本的に寝ている。先生も諦めてか注意しない。休憩時間はよくわからん科学雑誌を読んでいる。理科総合と数学の時間は黙々と教科書を読んでいる。授業の内容だけでは満足できないのだろう。放課後は生物室で自然観察部の活動。最近はもっぱらヒヤシンスの根の観察。帰路でしばしば薬局に寄る。図書室で鉢合わせたこともあったな、あいつは人体解剖図を見ていた。
「お前、やたらあいつのこと観察してるのな。やっぱり無意識に意識してたのか」
 鷹野に言われて初めて、自分が朱雀をよく見ていたことに気づく。俺の趣味が人間観察であることも起因しているのだろうが。
「そういえば、あいつ、鼠欲しがってた」
「鼠?」
 ラーメンをすすりながら烏丸が言う。相変わらずテンションが低い。
 先日、家族でスーパーに買い物に行った時のことだ。年子の妹は動物が好きだ。必ずペットコーナーを覗きに行く。俺は母親の買い物が終わるのを見届けて妹を拾いに行った。するとどうだろう、妹の目の前に朱雀がおり、二人は楽しげに談笑していた。小学校の時分、登校班が同じだったことで、二人は仲がよいのだ。妹は俺に気づき手を振った。朱雀は苦虫を噛み潰したような顔をして立ち去った。以下が合流した俺と妹の会話である。
 買い物終わったから帰るぞ。
 さっき朱雀さんに会ったよ。
 そうか。何であいつがペットコーナーなんかにいたんだ?
 ハツカネズミが飼いたいんだって。餌もゲージも用意したけどどこのペットショップにもハツカネズミはいないんだって。ところで今日の晩御飯なに?
 から揚げらしい。じゃあ帰るぞ。
 ハイよ。
「それだよ、それ!」鷹野が膝をうつ。「買ってやれよ。動物を愛でる心があるだなんて、可愛いじゃないの」
「あのさ」
「よし、ではハツカネズミを手に入れるとしよう」
「いや、その」
「何だ、文句あるのか? 天才の俺様が導き出した答えに文句でもあるのか?」
 いちいち口を挟もうとする烏丸の襟元をぐいっと引っ張る。烏丸は目をそらすと両手を軽く挙げた。
「……べつに」
「よろしい」
 俺は満足してうなずいた。

 このとき、烏丸ツツジは、
 ――何の脈絡もなく鼠のプレゼントなんて、どう考えても嫌がらせじゃん。
 と思っていたが、どうでもよかったので口にはしなかった。

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