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愛と狂気の青春時代 その十


 十、

 理科総合は最後の時間だった。今のところ帰ってきたのは、現代文のテストだけだ。世界史や英語の授業もあったが、まだ採点は済んでいないらしい。
 俺は少し落胆していた。生まれて初めて、文系教科で満点が取れなかったのだ。
「九十五点……」
 最後に取っておいた長文問題のミスだ。やはり、時間のない中、疲れた身体では読解し切れなかったようだ。それでも教師は驚いていたな。まあ、ずっと休んでいたからな。テスト初日、俺が死にそうだったのは職員室でも噂になったようで、担任に心配された。
 チャイムが鳴る。俺は、休憩のたびに見直した現代文のテストをしまった。理科の教科書を出し、テスト返しに備える。
 茶髪で若い教師がドアをくぐる。見た目は軽いがこの先生、テストの採点は異常に早い。この時間に帰ってくることは間違いなかった。案の定、手には見覚えのあるザラ紙の束が持たれていた。
「じゃ、テスト返すぞ」
 号令の後、さっそく言う。教室内がざわめいた。大きな声で一番から名前を呼び出すと、ようやくざわめきは収まる。
「足利ー」
 足利さんはだぼだぼのカーデガンの袖からちょこっと出した手で用紙をむしりとり、いそいそと席に戻った。横の席の女子と恐る恐る覗き込みわあわあ叫ぶ。いつもの光景だ。
「小野ー……あ、そうそう。今回、平均点七十四な」
 心臓に針が刺さるようだ。平均七十四……これは、けっこう高いぞ。今までなら、いくら朱雀や烏丸といったニュータイプが高得点をはじき出しても、俺が零点を取るから平均が七十を超えることはなかった。では、少なくとも俺は零点じゃない。当たり前だ。あれほど勉強したのに、成果がなければ泣くに泣けない。
「烏丸ー、……お前いっつもすごいな」
「おそれいります」
 無愛想な声で用紙を受け取る。あのやりとりだと、また烏丸は高得点……今回に限れば満点だろう。席に戻るとき、俺と烏丸の視線は交差し、烏丸はニヤリと笑った。心臓に汗をかく。
 大丈夫だ。俺は天才なんだ。天才があれだけ勉強をして凡人に負けるはずがない。大丈夫だ。何度も自分に言い聞かせる。
「白鷺ー」
「はっ、はい」
 椅子を蹴り飛ばすと同時に大声で叫ぶ。教室内に飛び散っていた言葉が消える。まさしく水を打ったように。先生も口をポカンと開けていた。顔が熱くなる。うつむいたまま早足で教卓まで歩いた。
 手をさっと出したが、一向にテストが渡されない。依然、先ほどの沈黙は終わっていない。たまらなくなって顔を上げる。先生は零れ落ちそうな笑顔でテスト用紙を見ていた。
「白鷺。先生、感動したぞ」
 ――――?
「先生は信じていたんだ。お前はやればできる子だって。まさかお前が、こんな点数を取れるなんて……本当、教師やっててよかったと思った」
 先生は俺の肩を何度もゆする。そして、白衣の袖でそっと目元をぬぐった。
 ……と言うことは、アレか? ひょっとして、ひょっとしたのか?
 いつの間にか教室内は拍手に包まれていた。口笛までも聞こえてくる。俺は急に恥ずかしくなり、先生の手からテストを奪い取り、自分の席まで走った。
 まるめたテストを胸に、荒く呼吸する。すぐにテストを開けない。期待が高ければ高いほど、心臓が早く打つ。全身の血がものすごい勢いで駆け巡っている。身体が宙に浮いているような不安定さだ。
「白鷺くん、何点だったんだ?」
 右隣の坊主頭――名前が出てこない――が肩を叩く。俺は拒んだが、左によけたのがいけなかった。左に座っている女子に用紙を取られてしまった。俺が手を伸ばしたときには、すでに見られていた。人のテストを勝手に見るなんて、常識がないにもほどがあるぞ。
 女子は椅子から立ち上がり黄色い声を上げた。「すっごーい」女子お得意の「すっごーい」。
「白鷺くんが!」
「どれどれ」
「うわ、マジだ。すげえ」
「生き字引白鷺ドノが理科にまで手を広げやがったぞー」
「すげー、白鷺くん、っパねぇ」
 やんややんやとクラスの連中がテストを持った女子に群がる。あっという間に俺のテストは回し読みされていった。何が何だかわからない。俺のテストなんだから俺が見なくてどうする。この状況はおかしいだろう。
「俺、まだ見てないんだけど!」
 意を決して叫んだところ、ようやく返してもらえた。その頃にはもうザラ紙はぼろぼろのよれよれになっていた。俺はその紙を、ゆっくりと広げる。調子のいい男子が俺の背中を叩いている。先生も次の人の名前を呼ばずに注目している。俺は思い切って、見た。走り書きされた赤い文字を。
 時が止まった。
 口が半開きになる。指先が震えた。背景では女子ががんばったねとか信じられないとか騒いでいる。俺にはノイズでしかなかった。何度も何度も、穴が開くくらい点数を見る。目を閉じる。開ける。変わらない。
 変わらない。
 ――――。
 ――三十九点。
「う、そ、だろ?」
 コレ、三十九点。平均点七十四点。みんなスゴイスゴイ言ってる。
 ……え。え?
 何、コレ。
 あんなに、あんなに、勉強したのに。
 テストがはらりと机に落ちる。俺の身体は固まったまま動かなかった。クラスメイトは、俺の金縛りを感激のあまり来たものだと解釈しているようだった。
 やがて喧騒は静まり、テスト返しが再開された――。
 俺だけを、取り残して。

 その後、数学も帰ってきた。結局、似たような点数だった。一番よかったのは初日に帰ってきた理科総合の三十九点。数学Tに関しては二十三点だ。
 最後のテストが帰ってきた日、俺は放課後の教室で放心していた。目の前にはテスト三枚が並んでいる。全部三十点前後。最低だ。
 最低だ。
 クラスの者は、すでに帰宅し、教室には俺しかいなかった。鷹野が絡んできたが、反応のない俺に愛想を尽かして先に帰った。
 そうだよな、そうだよな。世の中そんな簡単じゃないよな。結局俺は天才じゃなかったんだな。天才ならどんな状況でも百点とれるはずだもんな。親父に襲われたからミスったなんて言いわけにしかならねーもんな。
 白鷺くん、やだあ。サイテー。死ねばいいのに。
 ザ・人間失格。
 カーテンの隙間から入日が差し込んでいた。目が染みる。
 と、扉を開ける音が響いた。俺は手をだらりと下げたまま動かなかった。入ってきたのは、朱雀と烏丸だった。今、最も会いたくない人物だった。二人はおそろいの白衣を着ている。
 俺は咄嗟に、机に並べていた解答用紙をまとめて裏返した。
 烏丸が先を歩き、俺の机の前で止まった。手には見覚えのある紙束を持っている。口元を緩ませて言った。
「テスト、全部返ってきたね。さあ、見せ合いっこしようか」
――悪魔め。
俺は用紙を強く握りしめた。
「……朱雀、烏丸の点数はもう見たのか?」
「いいえ」
「だったら、そっちからにしようぜ」
 提案は無言で却下され、腕から用紙をもぎ取られた。朱雀の顔は薄い紙に遮られて影になっていた。
「三十点、二十三点、三十九点」
 無機質な声だけが聞こえてくる。おいおい、羞恥プレイかよ。たまんねえな、お前。
「うっわー、やっちゃったねぇ、白鷺クン」烏丸はほがらかに笑う。……この状況は普通にイジメだよな?
 朱雀は解答用紙を押し付けるようにして返してきた。どんな中傷を受けるかと思ったが、何も言っては来なかった。顔を上げると、彼女の目は無表情のまま、烏丸の方に向けられる。
「烏丸くんのテストも見せて」
 もうツツジンはやめたの? とくだらないことが脳裏をよぎった。
 烏丸の笑みが一瞬消え、テストが差し出される。それを俺のときと同じように、朱雀は読み上げた。俺は耳をふさぎたかった。
「百点、百点、……九十八点」
 俺は耳を疑った。朱雀が間を置いたのもわかる。九十八点。的確に勉強すれば、確実に満点を取れる男が、九十八点。
 ああ、とつぶやきながら、烏丸は眼鏡のフレームを持ち上げた。
「白鷺クン相手だしさぁ、本気出すのも馬鹿らしいでしょ」
 舌が乾いてきたことで、自分が口を半開きにしていたことに気づく。閉じる気にもならなかった。
 烏丸が、ここまで性格が悪いとは思わなかった。思いたくなかった。心のどこかで、まだ彼のことを友達だと信じていたからだ。
 だが、今の俺に、烏丸を責める資格はない。俺は負けたのだ。烏丸の言うとおり、相手に本気を出させる必要もなく、負けたのだ。
 烏丸は朱雀に身体を向け、手を広げた。
「さあ、アヤちゃん。僕は勝ったよ」
 だが、朱雀は何も言わない。うつむき、頬を縁取る長い髪が顔を隠していた。そっと視線を下げると、両の拳がスカートの前でぐっと握られていた。
「烏丸くん、手を抜いたの?」
「はぁ」
「あたしを賭けた大切な勝負なのに、手を抜いたの!」
「え……」
 答える間もなく、烏丸のみぞおちに拳がめり込んだ。烏丸は机をなぎ倒しながら二メートルは吹っ飛んだ。俺は椅子に座ったままガタガタ震えた。恐ろしすぎる。まるで自身がパンチを食らったように胃が痛んだ。経験者だからこそ、ダメージの大きさがわかるのだ。
 派手に吹っ飛んだ割りには、嘔吐するにはいたらなかった。その辺の加減をしっかりしているところが逆に怖い。烏丸は咳き込みながら、床に座り込んだ。
「白鷺」
「はいぃっ」
 突如呼びかけられて、すくみあがった。朱雀は俺の顔をじっと見ながら、言い放った。
「あたしの男になりなさい」
 この状況で言われたら躊躇せざるを得ない。
 ――って、いや、……ん?
 俺は椅子から立ち上がった。
「おいおいおい、ちょっと待てよ。どうしてそういう結論になるんだ? だって、俺は……」
「その通りだよ」
 咳き込みながら、烏丸は机に手をついて立ち上がった。
「彼の点数は救いようがない。完全なる負け犬だ」
 もっともな言葉だが、こいつに言われると腹が立つ。
「それにいいのか? 初恋の人の僕と付き合いたかったんだろう」
 俺は朱雀の顔を見る。目じりと口端が魔女の笑みを思わせた。俺のすぐ横まで移動し、毅然とした口調で言った。
「偉大なる先人は過去に学ぶことはあっても過去に縛られることはない。あたしは、白鷺の未来を買う」
 実感がない。だが、俺は烏丸に勝ったのだ。点数では負けたが、朱雀は俺を選んだのだ。
 ――いったい、なぜ。
 烏丸が手を抜いた事実に失望したのか。それとも何か他の理由があるのか。今の俺は、とても朱雀の眼鏡に叶う男ではないはずなのに。
 俺の疑問に気づいたのか気づかないのか、朱雀は柔らかい声で言った。
「一を二にすることは簡単だけど、〇を一にすることは難しい。頑張ったんじゃン」
 ――朱雀に、褒められた。
 俺の身体に戦慄が走る。感激よりも疑心の方が強かった。
「イヤミか? それは。数字の女王様がよう」
「あたしはどんなにやっても、国語で零点しか取れない」
 どことなく寂しさのこもった言い方だった。
 思わず息を呑んだ。
「……お前、国語やる気あったの」
 批難げな目で俺を見る。
「あんたの薦める本読んだじゃん」
 俺は目を泳がせた。
 そう言えばそうだな。酷評はするけど毎回読んではいたな。
 しかし……こいつは、科学にしか興味がないものと思っていた。人の心の機微や不条理さを描く文学を理解する気があるとは思わなかった。
 夕暮れの教室で、俺と朱雀は見詰め合っていた。
朱雀の髪は光を通すと栗色になる。瞳の色はもっと薄くなって、西欧的な顔つきに変化する。そのくせ切れ長の二重と細面の顔は、日本の情緒を残していて、まあ、つまり、けっこうな美人なわけだ。西日がきつくて隈だってわからなくなるからな。
ああ、こいつは、俺の努力を認めてくれたのだ。何の成果も出なかったと思った努力を。
そう思うと涙が出てきそうだった。
「ふふ……やられた」
 ハッと烏丸の方を見る。笑っていた。そして、ふらつく足取りのまま教室を飛び出した。
 矢を打つように朱雀が後を追いかける。
 俺は、動く気にならなかった。朱雀が追いかける必要もないと思った。あの男が走ってどこに行こうが関係ないではないか。
 あの男となぜ親友なんてやっていたのか、今ではわからない。
 俺はそのまま椅子に座り込んだ。だが、直後に朱雀が帰ってきた。派手な身体の動きに合わせて髪も動く。入り口の柱に腕を預け、血相を変えていた。
「三階! 屋上のほう行った!」
「は……」
 目の前に閃光が走る。屋上って、あいつまさか――。
 反射的に走っていた。無人の廊下を、朱雀と二人で追いかけっこする形になる。
 階段を上りながら思う。屋上の鍵が使えるのは天体観測の部員だけだ。部活動の一環として唯一許されていたのだ。だったら、もし烏丸が鍵をかけてしまったら俺たちは屋上に上る術がない。
 フラれたくらいで飛び降りるような奴ではないはずだ。
 今、自分が必死で走っていることに驚愕する。放っておけばいいのに。俺って馬鹿だ。
 それは本能だったのかもしれない。退化した人間の第六感の名残だろうか。ふと、脈絡もなく踊り場で窓を見上げた。何か、黒い影が、硝子をよぎり、下方に消えていった。次の瞬間には、床に工具をぶちまけたような、鋭い音が鼓膜に刺さった。
 がむしゃらに窓の鍵を開ける。枠から首を出したとき、戻ってきたのだろう、朱雀も下を覗いた。のしかかるようにされて、重たかった。
 目の悪い俺にはそれが何だかわからなかった。とりあえず、人間ではないことに安堵した。
 背中に痛みが走る。朱雀が爪を立てたらしい。
「……望遠鏡……」
 その言葉で、状況を理解した。あいつ、マジで壊しやがった。

 鍵はかけられていなかった。屋上に出ると、沈みかけの夕日に照らされてコンクリートがオレンジ色になっていた。影は紫色で、亜空間に出たような気分になる。
烏丸はフェンスに手をかけて下を見ていた。俺が呼びかけるとこちらを向く。
「何やってんだよ、試験、負けたのは俺だろ」
「最終的に結果を出したのは君だ。過程を述べても意味がない」
 意外なことに烏丸は笑っていた。俺は苛立った。
「お前、それ、大切なもんなんだろ?」
「また買えば済む。烏丸家にはドブ川に捨てるほど金はある」
 共働きでヒィヒィ言ってる家の子によくそんなことを言うものだ。
「それに、本当に大切なものは、すでに失った」
 一陣の風が尾を引きながら去っていく。
 俺が烏丸に言うべき言葉は、もう残っていなかった。
 烏丸は俺たちの前まで歩み寄った。そして朱雀の方を見た。
「朱雀クン。君の判断はとても正しい」
 朱雀は、瞬きをやめた。人間の本能って素晴らしいね、と微笑んだ。
 意味がわからない言葉だったが、すぐに衝撃の発言が続く。
「君のかつて好きになった相手は僕じゃない」
 辺りが静まり返る。果たして、俺と朱雀、より混乱していたのはどちらだろうか。
「君は言ったね。小学五年生のとき、『アルジャーノンに花束を』について語らった相手がいたと。それ、どこで話したんだっけ?」
「……海。夜の海で、堤防の穴の中。相手は穴の外で、声だけで話して」
「僕の記憶では、図書館だったよ。隅の本棚の陰で、ちゃんと顔を見ながらだった」
 朱雀は言葉を詰まらせた。俺は頭の中でさまざまな憶測が飛び交っていた。
「あたしが、具体的な状況を話したのって、けっこう前だったよね」
「そうだね。二週間は前だったよね」
「嘘をついたのね」
「嘘をついたわけじゃない。本当のことを言わなかっただけだ」
 すごい理屈だ。と思ったが、割り込める雰囲気ではなかったので、黙っていた。
「まあ一つだけ嘘はついた」
 烏丸の一言で、考え事をやめる。烏丸は、俺のほうを向いていた。
「白鷺クンと友達を続けた理由だけは」
 嘘だよ。言い終わるか終わらないかのうちに、言葉は途切れる。烏丸は、うつむきながら脇をすり抜けた。
 いかんともしがたい思いが胸の中を去来した。
「いまさら、都合のよいこと言ってんじゃねえよ」
 俺は、たまらなくなって烏丸の背中に怒鳴った。
「お幸せに」
 足を止め、それだけ言うと烏丸は屋上から姿を消した。
 朱雀は心なしか寂しそうな顔をしていた。でもそれは黄昏時の魔術に当てられただけかもしれない。
 俺は、勝利の証とも言える腕時計を右手で握った。

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