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愛と狂気の青春時代 その十一(完)


 十一、

 それから毎晩、朱雀からは電話がかかってくるようになった。俺には理解不能な理論を延々と展開し、ここ最近ずっと頭痛に悩まされている。  クリスマスは天体観測に出かけた。
 冬休みは朱雀が俺に理科数学を教え、俺が朱雀に国語英語を教えた。朱雀は時どきキれた。  休み明け、成績は少しだけ上がった。
 二月の一日、弁当を作ってきた。朱雀は料理だけはうまい。家庭科の時間に立証済みだ。分量も時間もレシピどおりに作る能力があるのだろう。
 いわく、この弁当を一年間食べ続けると血が小川のせせらぎのように美しくなるらしい。それを立証するために、毎日採血させて欲しいと言われた。嫌だから弁当を返した。朱雀はそれを平らげ、自分の腕に注射針を刺していた。その細い腕から毎日赤い血が吸い上げられていくのを見ながら食事しなければならないと思うとぞっとした。次の日から弁当は俺が食べることにした。代わりに説得して採血を初日と一年後だけにしてもらった。嫌だったが仕方がない。
「薬品は入れてないよな?」
「そういう実験はまた別の機会にするわ」
「……その時はちゃんと教えてくれな」
「あんたが嫌じゃなければね」
 嫌なら教えずにやる気だったの?
「俺はノーマルな人間だからそういうアブノーマルなことはしないでほしい」
「人間の環境適応能力ってすごいからね」
 だからなんだよ。
 この会話は怖かった。 よかったのか悪かったのかはわからない。何かが決定的に間違っている気もする。しかし、間違っているならいるでもいいかな、と最近思い出したのは、末期症状だろうか。
 一年生も終わりが近づいた。今日の朱雀はホルマリン漬けを見て悦に浸っている。俺は机に腰を預けて、その様子をじっと見ていた。

 いつからか、放課後、生物室で二人過ごすようになった。……こんなデートは本意じゃない。
「俺さ、小学五年と六年は四国にいたじゃん」
 返事はない。
「その時に不思議な体験をしたんだ。俺が科学を嫌いになるきっかけでもあるんだが――今は、べつに嫌いじゃないけどな。うちにカムパネルラって猫いただろ?」
「犬歯が片方折れていたね」
「そうだったかな。でさ、猫が家出したんだよ。真夜中だったが、俺は探しに出たんだ。辺りはほとんど何も見えなかったけど、足裏の感触から、自分が浜辺にいることがわかった。そこで俺は猫をやっと見つけたんだ。……それから、俺は、近くの壁に背もたれて……昼間の風景を思い出すと、たしか堤防があったんだ。俺はそこに背もたれたんだ。猫に言ったんだ『お前も辛いよな』って。そしたら、返事が返ってきたんだよ」
 朱雀は身じろぎ一つしない。それはかえって不自然だった。
「すました声で『べつに、辛くないけど』。それから『あんたのほうがよほど辛そうな感じじゃない』……俺びっくりしたよ。で、その後は夜が明けるまで話したんだ。そうだな、当時、読んだ本の話とか」
「本、何だったの」
「ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』」
 朱雀が、半分振り向いた。俺は、その捉えどころのない瞳を見つめ返す。
「朱雀は、四国に行ったことあるか?」
 長い沈黙の後、平坦な声で返された。
「……ただの家出だったの。とにかくどこか遠くに行きたかった。旅に出ようと思った。それで、あんたの転校した先、どんな場所だろうと思って、汽車乗り継いで」
「行ったのか」
 こくりとうなずく。信じられない行動力だ。
「着いたはいいけど、行くとこないじゃない。海辺を歩いてたら防波堤に穴が開いているのを見つけて、入ってみた。蟹とか人手とかいろいろいて、夢中になって見ていたら、日が暮れて。仕方がないからそこで寝ようと思っていたら、声が聞こえた」
 俺たちは、どちらからともなく笑い出していた。
 何が運命だよ。馬鹿みたいだよな、本当に。
「なあ、俺の名字が変わったらどうする?」
 ひとしきり背中を丸めて笑った後、俺は聞いた。
 朱雀ははっきりとこちらを振り向いた。少しの間をおいて、
「名前ってのは識別記号に過ぎないんだよ。だからそれが変わったからってどうということもないわ」
 さすが、合理主義者だ。
 朱雀と付き合っていると自分と違う価値観に新鮮な思いをする。俺が膿の溜まった傷口のごとく陰鬱な気分で受け止める悩みを、思いも寄らない切り口で綺麗に片付けていく。自分が大げさに悩むことが本当はきわめてどうでもいいものなのだと思えてくる。釈迦の説法より効果があった。  科学と言うのは無知の人間には魔法と同じだ。
 砂利だって米粒にできるような気分になれる。
 再び背中を丸めて、苦笑いした。
「俺、呼ばれてもしばらく反応できないかもな」
 言いたいことは朱雀だってわかっているはずだ。
 ホルマリン漬けに視線を戻して答えた。
「じゃあ下の名前で呼ぶわ」
 笑いが止まる。
「お、おう」
 こんな答えしかできなかった。
 向上心のないやつはアホンダラという言葉がある。変化を諦めた人間は淘汰されるだけだ。
「俺も、お前のこと、名前で呼んでいいか?」
「ダメ」
 即答ですか。
「あたし、アヤメって名前嫌いなの」
「……可愛いじゃないか」
「可愛いから嫌いなの」
 俺のイメージにない、朱雀アヤメの鱗片が見えた。
 何百冊本を読んだって、人の気持ちは書かれていない。 うまくいかないもんだな。
「人生八十年は短すぎるよ」
 左腕にはめられた傷だらけの時計を見る。名字なんてどうでもいいじゃないか。俺が忘れない限り、父親との絆は残り続ける。ごめんなカエデ。でもやっぱり俺、好きなんだよ。

 風月のボックス席。一人欠けただけでも間の抜けたものだ。何となく寂しい気持ちを抱きながら、店の娘は水を運んだ。
 二人の会話が聞こえてくる。
「お前もよくやるよ」
 配ったばかりの水を飲みながら鷹野は言った。
「勝てないことはわかってた。どうせ負けるなら、二人を確実に付き合わせたいだろう」
  烏丸は覇気のない顔で笑う。
「彼女が僕の心を疑っていたことはわかったけど、あれ以上、どうしたらよいのか僕にはわからなかった。強引にでも、身を引くしかないじゃないか。それに、僕は朱雀サンがいなくても生きていけるけど、朱雀サンは白鷺クンがいないと生きていけないような気がしてさ」
 何だかしおらしい会話だ。
 鷹野は手を伸ばし烏丸の腕を叩く。
「ツツジ。お前は偉い。誰かが言わなくちゃならねえのに、誰もあいつに言ってやらなかったことを、お前は言った」
「払った代償も大きいけどね」
「俺は嫌われるのが恐いんだ。だから、ミズキにあいつの欠点を教えてやれなかった」
「憎まれてでも、一度英雄になりたかった」
 そう言って、烏丸は正面から視線を外す。娘は、自分を見られた気がして、急いで給仕の作業に戻った。
 おかげで、彼の続けた言葉は曖昧で、聞き取れた自信がない。ただ、やっぱり、烏より鷺だよな、というような内容だった気がする。
 娘は盆に水を載せ、表に戻る。
 鷹野は首の骨を鳴らしていた。あまり真剣に考えていないのではなかろうか。
「君のほうはどうなんだ?」
 眼鏡の位置を直しながら尋ねる。首の骨の音が止まる。鷹野は顔を烏丸に近づけ、声を潜めた。  店の娘はさりげなく席に近づき聞き耳を立てる。
「今度、会う約束取り付けたぜ」
「へえ」
「長かったよ、ずっとメールのやりとりだったからな」
「あの厳しいお兄さんに見つからないようにね」
「大丈夫、あいつは今、自分のことで精一杯だから」
「がっつくなよ。彼女、繊細そうだから」
「わかってら。手だってつながねえよ、たぶん」
 二人は顔を見合わせて笑う。  

 この時、風月の娘は、
 ――どうかみんなが幸せになれますように。

 と心から祈ったが、口には出さなかった。

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