小説 

前へ 次へ

愛と狂気の青春時代 その二


 二、

 風月での会合から一週間後。俺は町のペットショップを訪ね回り、最後は秋祭りの夜店でハツカネズミを見つけてオス一匹を入手した。
 そして放課後、再び朱雀アヤメの前に立ちふさがる。前回の失敗を考慮して、生物室ではない。朱雀家の手前の角の電信柱の陰で待ち伏せていた。
 夕刻に入り、空は薄い赤紫色をしていた。サッと一筆走らせたような細長い雲が三つほど流れていく。風は冷たかった。小さな紙箱の中で鼠は暴れている。ふと、朱雀はこいつを可愛がってくれるだろうかと不安がよぎった。あいつのことだ、水を一週間も換えずにほったらかしたりするかもしれない。鼠の安否を確かめるため、定期的に訪問したらどうか。そうだ、それがいい。
 一人合点していると、背の高い女が歩いてきた。紺色のセーラー服に赤いリボン、ウチの学校の制服――。
 来た。
 俺は細い道に大の字で飛び出した。朱雀は足を止める。数秒の睨み合いが続く。
「どけ」
 俺はどかなかった。このまま朱雀が懐から拳銃を取り出してロシアンルーレットを始めようとどかないだけの決意があった。
「すっすっ朱雀、お前に渡したいものがある」
 二回も噛んだ。死にたい。
 朱雀は、不機嫌な表情のまま、微動だにしない。
「どけ」
「あわてんぼうのサンタさんからプレゼントだっ」
 朱雀の手を取り、無理やり箱を握らせる。朱雀は箱を見たあと、一度俺の顔を見て、再び箱を見た。
 そのまま隣の塀の向こうへ投げ捨てようとしたので、全力で止めた。
「捨てないで、俺の大事な気持ちを捨てないで。お願いだから中を見るくらいはして!」
 朱雀の腕にしがみつきながら叫んだ。
 心底うっとうしそうな顔をしながら朱雀は箱を開けた。その瞬間、小さな白い頭が飛び出した。首には、瞳の色と同じ赤いリボンが巻いてある。この愛くるしい顔を見たとき、こいつを朱雀に渡したくないと思ってしまったが、我慢した。
 朱雀は、わずかだが目を見開いていた。普段が普段なものだから、不覚にも、こいつ意外に可愛いんじゃね? と思ってしまった。
 手のひらに鼠を乗せて、頭を軽く撫でながら朱雀は笑った。不敵な顔だった。
「ありがとう。これで実験ができるわ」
 ――今、何と?
「やぁぁめぇぇてぇぇ、殺さないでえぇぇ!」
 その言葉の持つ意味に気づいたとき、俺は人間の限界を凌駕する勢いで朱雀の腕からハツカネズミを奪還した。
「この鬼が、悪魔が! 貴様は畜生道にすら劣る」
 朱雀は本気で理解不能だという顔をしていた。可愛くないハスキーボイスで言う。
「は? 何をわけのわからんこと言うとるんじゃ。鼠は被食対象としてこの世に存在するんだよ、他者の糧になるための命なんだ。あたしが糧にして何が悪い」
 ハーメルンの笛吹きを連想した。自ら川に飛び込んでいく無数の鼠たち……死ぬために存在する小動物……。
 そんなのはあまりにも哀れだろう。
 朱雀の言うことは正論だったが、それでも俺には納得がいかなかった。
「もうお前にはやらん、妹にやる!」
 朱雀は目を細めて笑った。
「シスコン」
 脇をすり抜け家に入る朱雀を見送り、哀れなる被食者を腕に抱えて俺もまた帰路についた。
 惨敗だ。 


「カエデ、ちょっと来い」
 俺は家に帰ると妹を呼んだ。なぁーにーぃと間延びした返事をしながら、妹は二階から降りてくる。
 カエデは、俺の妹だから当然だが、平均以上の容姿をしていた。目が大きくて鼻が小さくて猫のような顔をしている。俺も猫に似ていると言われたことがある。ただし、寝起きで目の細い猫らしい。
家の中では常にジャージで、前髪をピンで上げていた。中三にしては体つきが幼く、ロリコン受けしそうだと勝手に思っている。
 眠たそうな顔の妹に鼠の箱を押し付ける。
「これやるから、お前が責任もって面倒見ろ」
 箱を開けると、あっと声を上げた。
「可愛いけど……どうしたの?」
「飼い主に捨てられて哀れだったから拾ってきたんだ」
「捨て鼠ねえ」
 妹は動物が好きで、部屋でカナリアも飼っている。ハムスターもいる。俺には動物の世話をできる自信がないゆえ、妹に任せたほうがよいだろう。
 首をかしげ、すでにいるハムスターの名前をあげた。
「ジロ吉もいるのに」
「鼠が一匹だろうが二匹だろうが変わらないだろ。いいか、お前が面倒見なかったらこいつは保健所のガス室送りだからな。ナチスのホロコーストより怖い末路が待っている」
「わかったよ……金輪際無責任なことしないでね」
 脅しをかけると、たちまちのうちに涙目になった。不服そうに頬を膨らましながらも、了承する。ちょろいものよ。
「ときにカエデ、誰か好きな男はいるか?」
 妹は大きな目をいっそう大きくし、しばし固まった。
「何で急にそんなこと聞くのさ。おかしいよミズキくん」
 俺は「お兄ちゃんと」と呼ばれたことがない。年子なのに兄貴ヅラされることが気に食わないということだった。俺は兄の特権を使わせないまま妹の特権だけ利用するお前のほうが気に食わないよ。
「黙って答える」
「……いないけど」
「女はどういうときに男に惚れるものなんだ?」
 妹はきょとんとした顔をしたが、すぐに指を立ててにっこり笑った。
「やっぱ顔でしょ」
「それ以外で」
 さらに詰め寄った。きっと狂ったと思われただろう。でもあえて苦言を呈さない気配りカエデちゃん。君のそういうところすごく好きだしありがたい。
 ハツカネズミを肩に乗せて風の谷のナウシカみたいにしながら答えた。
「私は、誰か好きになったことってないから、わかんないけど……少女マンガだと、女の子が悪いやつらに襲われてるところをヒーローが助けに来たりするよね。あれ、実際にあったらクラッとくるかもね」
 そうか、それか。
 俺は妹の頭をくしゃくしゃにすると自室へ引き上げた。


 このとき白鷺カエデは、
 ――まさかミズキくん、さっきのたとえを誰かに実行するつもりじゃないだろうね。
 と密かな不安を覚えつつ、面倒なので口にはしなかった。


 週末、俺と鷹野マサキと烏丸ツツジは、「市民の森」という森と呼ぶにはあまりにも規模の小さな森に来た。ちなみに、市民の森と言う名前だが、市民の影はほとんどない。ときおり近所の幼稚園児が散歩に来るのを除いて、人がかろうじて訪れるのは桜の時期だけだ。
 俺たち三人は緑の絨毯にしゃがみこみ、額をつき合わせた。
「本日、朱雀アヤメがミミズの採集をしにここを訪れるという情報を手に入れた」
「それを俺とツツジが襲うわけだな」
 うなずく。「本気で殴るなよ」
 二人は完全武装をしていた。
 鷹野はスキー用のゴーグルをはめ、口をマスクで隠していた。服装はだぼだぼのズボンと派手な色のトレーナーだ。手には金属バットを持っている。烏丸は頭にニット帽を被り、ガスマスクをしていた。マトリックスのようなコートを着ている。こちらの武器はゴルフクラブだ。
「あのさあ、こういうのはちょっと」
「うるさい。お前はいつも水を差したがる。いちいち理詰めで考えすぎなんだよ」
「まだ何も言っていないのに……」
 マスクの向こうからくぐもった声で烏丸が愚痴る。睨みつけると、ポケットからハンカチを取り出してゴルフクラブを拭き始めた。
 どう見ても不審者である二人が、嬉々とミミズをつまみあげる朱雀に襲い掛かる。そこに俺が現れ、悪役をちぎっては投げちぎっては投げの大立ち回りだ。そして朱雀をお姫様抱っこし爽やかに笑いながら畑道をどこまでも突き抜けて走るのだ。
 これ以上ない完璧な作戦だ。
 俺はロレックスもどきの腕時計を見た。現在、午前九時だ。さすがの俺も朱雀がいつごろ市民の森を訪れるのかまでは知らなかった。つまり今にも朱雀が姿を見せるかもしれなかった。身を隠す必要がある。
 鷹野と烏丸は少し高いところにある東屋に座った。俺は森の裏にある神社で待機し、朱雀が来たら連絡を受ける手はずを整えた。そういえば、ハツカネズミを手に入れた祭りの会場はこの神社だった。
 そして息を潜めて待った。
 ……朱雀が現れたのは午後の三時で、実に六時間も我々は息を潜めていた。サバンナの肉食獣たちは何日も飲まず食わずで獲物を待ち伏せたりするのだから、それを思えば俺の苦労などたいしたことはない。
「朱雀が来た。広場で地面を掘っている。これより出撃」
「了解。任せたぞ。あ、本気で殴るなよ」
 携帯電話を切り、俺は立ち上がった。
 天にそびえる松の間を縫いながら、現場へ急ぐ。広場の周りは丘に囲まれている。俺は丸太の階段を登った。丘から広場を見下ろす。遠くでもみ合う三人が見えた。俺は颯爽と坂を滑り降りようとした。が、やめた。
 様子がおかしい。
 朱雀は右手に金属バット、左手にゴルフクラブを持ち、振り回していた。その姿はさながら不動明王の乗り移った宮本武蔵。鷹野と烏丸はひたすら逃げ回っていた。
 舐めていた。俺は、俺たちは、朱雀の戦闘力を舐めていた。敵の能力の過小評価は……死に繋がる。
 俺は黙って後退しようとした。だがその時、鷹野がこちらを見た。目が合った、らしかった。
「助けて、ミズキ、助けてくれええっ」
「白鷺クぅぅン!」
 鷹野の叫びで、俺の存在に烏丸も気づく。朱雀の猛撃をよけながら、必死で手を振っていた。
 朱雀が振り向く。長い髪を振り乱し、遠くからでもはっきりとわかった、あれは、山姥だ。
 ――僕は、助けに行くことができませんでした。ただ、その場から逃げました。
 星になった友人のことを思いながら、俺は畑道をどこまでも突き抜けて走った。遠くへ。もっと遠くへ。そう、海の向こうまで。


「バッカだねえ」
 鼠のゲージを掃除しながら妹が笑った。妹は休日でもジャージである。
俺は椅子に座ったまま舌打ちした。妹の勉強机は小さいから、身体が窮屈だ。
 市民の森から逃げ帰った俺は妹と階段で鉢合わせた。よほど青ざめていたらしい俺に驚いた妹は事情を聞いてきた。妹に言われた手段で失敗したこともあり、文句ついでにカスミのことから朱雀のことまでベラベラとまくしたててしまったのである。我ながら、不覚だ。
「朱雀さんにそんな作戦が通じるわけないじゃん」
 おー、よちよちジロ吉ーいい子だねー。声質を高く切り替えてハムスターに話しかける。俺とハムスターを同時に相手するという態度に屈辱感を味わいながら、声を荒げた。
「お前がやれって言ったんだろが、それを馬鹿とは何だ、馬鹿とは! 俺は天才なんだよ」
「やれとは言ってないじゃん」
 それに、と、こちらを振り返る。ピンから前髪がこぼれて目元に落ちている。見ているだけで鬱陶しい。
「朱雀さん、他に好きな人いるってさ」
 空気が凝結しヘドロとして俺の身体にまとわりついた。ずしりと肩が重くなる。数秒置いて、俺は何とか首を持ち上げた。妹はアーモンド形の目をまっすぐに俺に向けていた。顔は余裕に満ちている。
「カエデ……どこでそんな情報を?」
 にこりと笑う。「本人から聞いた」
 ――想定外だ。
 胸元を握りしめる。カッターシャツに皺ができる。
 ――あいつに人を好きになる心があるとはとても思えん。
 だからこそ、俺は朱雀だけは視野に入れずに今まで……いや、よそう。
 混乱の後に訪れたのは、寄せ打つ波のような、静かな怒りだった。
「……れだ、そりゃあ」
 それは大きな津波に変わった。
 椅子が勢い良く後ろに倒れる。乱暴な音が家を揺るがす。妹との距離をつかみかかる勢いで縮める。身構えたらしいが関係ない。両肩をつかんで上下左右に揺らしまくる。そうすれば情報が零れ落ちるんじゃないかと思った。つまり俺は動揺していた。
「誰だ、いったい誰だ! 教えろ、お前、知ってんだろ? 違うか。ええ――」
「やめて、怖いっ!」
 妹が大蛇に呑み込まれる寸前の鶉に見えた。黙って手を離す。
操り糸が切れたように膝を落とした。しばらくうつむいて肩を上下させる。少し大げさすぎないか、と静観する。やがて妹は口を開いた。
「と言っても、思い出話みたいなものだったけど。小学校のときに、海辺で語り合ったらしいよ。朱雀さんは堤防にある穴の中にいて、相手は外にいたから、顔はわからなかったって。珍しく褒めてたよ。頭のよい人だと。科学の人道問題について語り合ったって」
 怖い小学生だ。
「聞いたこともない話だ」
「だって、ミズキくんが四国にいたときだから」
 俺が転校していた小学五年か六年のときの話か。
「くだらぬ、少女期の美化された記憶だ」
「でも、朱雀さん、付き合うならその人だって決めてるらしいよ。もう一度会いたいって」
「…………」
 俺は沈黙した。妹の後ろではゲージに戻されたジロ吉が滑車を回している。隣のゲージには俺が与えたハツカネズミが入っていた。柵をガジガジとかじっている。軽く獣の匂いがした。集中すると普段目の前を流れるだけの景色がよくわかる。
 しかしいくら考え込んでも、朱雀の思惑が俺の脳内にあるわけではない。答えなど存在しないのだ。
 ――確かめなければならない。
 カナリアが、断末魔のような鳴き声を上げた。


「いいか、俺はよう、本当は強いんだからな。いくら朱雀相手でも負けるわけねえだろ。ただよ、なりはあれでも、一応女だろ? 蹴り飛ばすわけにいかねえじゃん? だからこうなっちまったんだ。俺は本当は強いんだ。お前、信じてないな? 俺はな」
「もういい、いい」
 口からパンの粉を落としながらわめく鷹野マサキを制した。
 体育の時間に確認したことだが、鷹野と烏丸は全身あざだらけになっていた。顔にも絆創膏が貼られている。教室に入るなりほかの生徒から問いただされていたが、男の名誉にかけて二人は口を割らなかった。割っていたら朱雀は退学になっていたかもしれない。
 ――命を取ることだけは勘弁してやる。
 そう言って朱雀は立ち去ったらしい。
 中庭の噴水前で昼食をとりながら、俺たちは反省会をしていた。
 炭酸飲料でパンを流し込むと、鷹野は俺を見た。
「お前さ、まだあの山姥と付き合いたいの?」
 烏丸ツツジも俺の顔を見ていた。二人に挟まれ、俺は沈黙した。深呼吸を一つし、うなずく。二人の表情が一気に崩れた。
「朱雀の心は冬場のカキ氷よりも冷たいが、でも本当は、どこかに優しさを隠してるんだ」
「お前、何言ってるんだ?」
 静かに目を閉じた。昔のことを思い出す。
「俺は幼稚園のときに周囲から筆舌に尽くしがたいイジメを受けてだな……」
「それで性格が歪んじまったというわけか」
「いやこの性格だからイジメられたんでしょ」
「クーピーを全部折られていたり、折り紙の金と銀だけ抜き取られていたり」
 ダルマさんが転んだで振り返ったら誰もいなかったことは今もトラウマだ。
 中でも一番ショックだったのは、桃の節句のお昼に出た菱餅を、ちょっと目を離した隙に隣の男子に食べられてしまったことだ。一生呪い続けるからな、足立秀信。
 その時、朱雀が、俺に自分の菱餅を譲ってくれたのだ。倉庫の裏で一人泣いていた俺の頭に、ぶっきらぼうに菱餅を重ねて、走り去っていった。
「それってよ、菱餅嫌いだって言うオチじゃねえの?」
「うん、そうだったみたいだ」
 烏丸が隣でイチゴミルクを噴き出した。
「それでも俺は、あの時のあいつの優しさを信じている、信じたいんだっ」
 立ち上がり、拳を握った。
 そうだ、あの朱雀が、たとえ嫌いだったとしても、わざわざ俺に渡したのだ。ゴミ箱に捨ててもよかったはずの菱餅を、俺にくれたんだ。これは少なからず意味のあることだ。
 だが――。
「ま、お前があくまでこだわるなら俺は何も言わないけどよ」
 鷹野は頭をかいた。「で、今度はどんな作戦でいく?」
「……実は昨日、不穏な噂を聞いたんだ」
 両隣に座る鷹野と烏丸を順番に見る。先を促すように鷹野が顎を動かした。
 朱雀に好きな人がいるらしい、というと、二人とも目を剥いた。
「小学生のときの話らしい。科学の人道問題について語り合ったそうだ。今でも忘れられないとかよ。詳しいことは知らないが」
「朱雀にそんな乙女チックな一面があるとは……女ってわかんねー」
 そう言って鷹野は空を仰いだ。
「そこで、理科系の男代表の烏丸くんっ!」
 こぼれたイチゴミルクを拭き取っている烏丸を勢いよく指差す。烏丸の細い身体が痙攣した。眼鏡を持ち上げながら、何だよ……とつぶやくように言う。
「お前なら理数の話で朱雀と気が合うだろ? あいつに接触して真相を確かめてくるのだ」
 朱雀ほどではないが、烏丸もまた理系教科を得意としていた。定期試験では常に朱雀が学年一位、烏丸が二位だ。この二人がうちのクラスの理系教科の平均点を底上げしていた。……俺が底下げするので意味はないが。烏丸は普段は無口だが宇宙の話をするときだけはやたら饒舌になり俺や鷹野がついていけないスピードで銀河の彼方まで飛んでいってしまう。
 不自然な間を空けてから烏丸は言った。
「僕、女子と口利いたことなんてないし」
「朱雀を女と意識することがそもそもの間違いだ」
「白鷺クンにそれ言われても説得力ないよね……だいたい、こんな姿にしたのを誰だと思ってるの」
 烏丸はセーターの袖をまくった。青あざが痛々しい。昨日、細長い体を抱えて団子虫のようになって怯えていた姿を思い出す。
 だからと言って引き返すわけにはいかない。俺は烏丸の両肩をがっしりつかんだ。
「なあ、烏丸。お前、学校以外に出かけない引きこもり予備軍だろ? 学校でだって、俺と鷹野としかしゃべらないじゃねえか。それ、よくないと思うよ?」
 烏丸を無理やり立たせると、身体を捻りながら前方へ突き飛ばした。烏丸は二、三歩よろめいた。
「目指せ! 対人恐怖症克服! 気合入れてアヤメちゃんに突撃だっ」
 烏丸は後ろを振り返り、何事かブツブツと言いながら猫背を丸めて教室に戻っていった。
 これでよし。後は時が満ちるのを待つだけだ。
 なぜだか鷹野は不穏そうな顔つきをしていた。


 あんなに渋っていた烏丸ツツジだが、三日もせぬうちに朱雀アヤメとすっかり打ち解けていた。昼休憩も一緒に生物室に出向いていき、俺と鷹野マサキは二人で寂しく飯をとる羽目になった。
「いやあ、朱雀サンって話してみるとさ、案外気のいい人だったりするんだよね」
「烏丸」
「まさか桃太郎の桃について科学的見地から語り合える相手ができるとは思わなかったよ」
「烏丸」
「この前は宇宙が丸型かドーナツ型かってことで議論して」
 俺は烏丸の頭を叩いた。文明開化の音がした。機械のように言葉を垂れ流していた口が閉じられ、いつもの覇気に欠ける表情になる。よかった。先ほどまでは目がイッていた。
「自分の使命は忘れていまいな?」
 ああ、と、低い声を出しながら餃子をつまむ。俺と烏丸と鷹野は風月にいた。
「残念だけど」
「どうせ桃太郎の話ばかりして確認なんて忘れてたんだろ。目に見えるようだ」
 俺がそう言うと、烏丸は心外そうな顔つきをしたが、反論はしなかった。代わりに、何やら関係のないことを言い出した。
「彼女ね、意外と本も読むみたいだよ」
 俺は箸を取り落とした。
 ――あの女が? 本を? 
 にわかには信じがたいところがある。あれだけいつもいつもいつもいつもテストで救いようのない点数を取っている女が、読書などと文明人の嗜みを知っているとはとてもではないが思えない。以前、俺が無理やり本を薦めたときも、芳しい返事はしなかった。
「『宇宙戦争』とか面白かったって」
「ああ、そっち系ね」
 サイエンスフィクションなら、あいつも読むかもしれないな。俺は正直、宇宙人とか地底世界とか、そういう話は好みではなかったが。
「『アルジャーノンに花束を』を読んでハツカネズミが欲しくなったらしいよ」
「あいつ、アルジャーノン好きなのか」
『アルジャーノンに花束を』――ダニエル・キイス著作の一九六〇年代に、書かれた小説だ。元々、中篇だったのものを長編として改作したものである。SF小説かそうでないか微妙なところだが、この作品は好きだった。これを読んだのは小学五年のときだった。白痴から天才になったチャールズが、今までわからなかった現実を知り、傷つく姿に俺は何度も本を投げた。当時、親戚の家に一人で預けられていた俺は、チャールズの孤独さや愛を渇望する姿に共感を覚えたのだ。そして天才から徐々に知能を失っていく過程に三日三晩泣いた。アリス先生は僕の初恋です。
「どうしようもない理由で恋人と離れていくのは辛いよな」
「同じ理由で病気系とかも流行るんだろうね。で、このアルジャーノンがさ」
 そうだっ。と、黙っていた鷹野がおもむろに口を開いた。言葉を遮られた烏丸は不満げな顔をしていた。
「お前、不治の病にならねえ?」
「ならねえ、って言われてもな」
「失うと思ったとき、人間は初めて本当の気持ちがわかるんだ。もしも朱雀がお前に少しでも好意を抱いているのなら、取り乱すぜ、きっと」
 楽しげに笑う鷹野を見ながら、俺は考える。彼の言うことには一理あると思った。いっそのこと葬式でも挙げて棺おけの中から手を合わせる朱雀を見てやろうか。親に迷惑がかかるから止めておくが。不治の病くらいなら反応を見るのに適している。なんだかんだ言って付き合いは長いのだ。きっと動揺はするだろう。
「よしっ、じゃあ明日さっそく余命一ヶ月もありません宣言をしよう」
 俺たちは席を立ち会計に向かった。最近はよく会合するので出費がかさんでいけない。ラーメン三つと餃子一皿を割り勘で払い(いつも同じメニューなので値段を覚えてしまった)店を後にする。


 このとき、風月の娘は、
 ――いやいやアホ過ぎるだろ。
 と突っ込みたかったが、白鷺のことが好きだったので口には出さなかった。

 

前へ 次へ

 

ホームへ戻るホーム

 小説