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愛と狂気の青春時代 その三


 三、

 翌日の放課後、俺は朱雀アヤメが一人なのを確認して生物室に向かった。ここのところ烏丸ツツジが部活がないときにいつも会っているというから、今日は意図的に離れてもらった。
 朱雀は土の入った水槽を見ながら、何かレポートを取っていた。
「何してるんだ?」
「ミミズの観察記録」 
 こちらを向くこともなく、そっけなく返す。烏丸と相対性理論について話しているときはあんなにニコニコしているくせに。
 近くまで歩み寄る。肩に手を伸ばそうとしたが、途中で止まった。俺と朱雀の物質的距離はただの三歩だが、精神的距離はガラスを隔てたように重なることがなかった。水槽の中のミミズと同じだ。朱雀はミミズのことを懸命に見ているが、ミミズは朱雀に何の興味もない。朱雀もそのことをよく知っている。
「朱雀、こっち向け」
 案の定無視された。
 俺は目元を右手で隠し、うつむいた。
「俺、実は病気なんだ」
「…………」
「…………」
 広々とした生物室に、静寂が響く。聞こえるのは窓越しのグラウンドの喧騒だけだ。
 水槽を見ながら、ふうーん、と朱雀は返した。
 目元を押さえたまま俺は続けた。
「不治の病で、あと一ヶ月持つかどうか……」
 再び沈黙が流れた。俺はそろそろ右手が痛くなってきた。時計の長針が一周ばかりした頃だろうか、朱雀は銀色のシャープペンシルを紙面に転がした。ナイフで切り込んだがごとき横長の目をようやく俺に向けた。黒目が小さいこともあるだろうが本当に人相が悪い。人の一人殺していそうだ。
「そんなこと何であたしに言うんだよ」
 イヤミとかではなかった。本当に理由がわからないといった様子だった。
 俺の手は自然に額から離れた。口が半開きになり瞬きが止まる。
 何だこの状況は。何だこの「今度高校野球があるらしいぜ(A)」「うっし見に行こう(B)」「会場どこだっけ(C)」「え、お前も来るの?(A・B)」みたいな状況は!
 しばし呆然としていた俺だが、ふつふつと怒りが湧き上がってきた。
「俺は死ぬんだぞ、あと一ヶ月で死ぬんだぞ!」
「だったら早く入院しろ。ついでに棺おけに予約入れとけ」
 朱雀は長い髪を払うと、再び机に向かった。
 胸をかきむしりたい気分だった。怒りとも悔しさともほかの何かともつかぬ感情で心臓が爆発しそうだった。それを抑えるためか意識せずに呼吸が荒くなる。だが俺の激情が消えることはなかった。
「そっちこそ黄色い救急車とっとと手配しておけやあぁ、自分で気づいてないだけで頭のネジが五千本は抜けてるんだよ」
 俺はいつの間にやら笑っていた。
「確かに俺は馬鹿だよ。だけどなあ、お前みたいに人を傷つけたりしない。……朱雀、お前、周りの連中の自分の評価とか知らないだろ。ひどいもんだぜ? 性格はガサツで女らしさとかそれ以前の問題だし? 髪はボサボサ、肌はガサガサ、目つきは蛇みたいで隈は真っ黒。背ェ高すぎだし、胸はないし。声は嗄れてるし。オカマとか和田アキ子って呼んでる男もいるくらいだ。ま、すでに末期を迎えたお前はこんなこと言われても何にも感じないだろうけどな。他人の気持ちのわからないやつは、いくら頭がよくったって人間として最低なんだよっ!」
 すっきりした。今日まで胸に溜まっていたフラストレーションをすべて吐き出した。
 朱雀の顔を見る。微動だにせず俺を見ていた。直立不動で無表情で、しかしわずかながら瞳が揺れていた。少しは効いたか。朱雀にはこのくらい言ってやって丁度よいくらいだ。神経の図太い女だから、他人も同じくらい神経が太いと思っているのだ。しかし世の中には、俺のように繊細で傷つきやすい人種がいる。それを自覚させなければなるまい。
 俺は悦に浸っていた。だから気がつかなかったのだ。朱雀の手が水槽に伸びていたことに。
「――ぅあ」
 頭の上から土砂が降り注いだ。この世が終わったかと思った。冷たい感触と鼻を突く土の臭い。思わず目を瞑る。甲高い音が床に振動した。俺は薄目を開ける。朱雀が空になった水槽を床に投げたのだった。
 首筋でうごめくものがあった。朱雀が何をしたかを考えればその正体は容易にわかった。俺は絶叫した。首が千切れん勢いで頭を振り回した。
 正気を取り戻したときには朱雀は姿を消していた。
 ――土の詰まった水槽を持ち上げてひっくり返すとか、どんな怪力だ。
 朱雀アヤメと付き合いたいと思っている自分が極めて異常な精神状態なのだといまさらながら気づく。だがこれは、もうほとんど意地だった。執念だった。
 恋と執着心の境目はどこにあるのだろう。
 誰もいなくなった生物室で俺はうずくまり血が出るほど拳を握った。床では飛び散ったミミズが力なく身悶えていた。        
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

 馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女、馬鹿女……。
 脳内で何度も繰り返しながら、自転車を漕いだ。せっかく空の綺麗な季節と言うのに、あいにくの曇り模様だった。風が以前よりずいぶんと冷たくなっている。そろそろコートがほしい。すれ違う人の服装も日に日に厚手になっていく。隣にまだ千鳥カスミがいて、自転車を押しながら歩いていたころのことを思い出す。まだ一ヶ月も経っていないのに、はるか昔の思い出に感じられてならない。ここしばらく続く喪失感や今日受けた絶望感で視界がかすんだ。
 ただいま……とつぶやきながら、玄関扉を開ける。靴を確認する。母の靴はない。まだ仕事が終わっていないのだろう。妹の靴はあった。家の電気は消えていた。夕方を過ぎたら上がり口の明かりをともすようにと言い付かっているはずなのに、カエデはいっこうにそれをしない。
 ため息を吐きながら電気のスイッチを押した。大きな招き猫が明かりの下に現れる。母は無類の猫好きで、玄関口には猫の置物が数多く飾られていた。借家で本物を飼えないことをとても残念がっている(ハムスターなどは実質問題見逃されている)。小学校の頃はマイホームだったんだがな……なにゆえ母は離婚したんだろうな。白鷺家七不思議の一つだ。父は小四の冬に突然いなくなった。べつに悪い人間ではなかったと思う。妹は可愛がってたし。俺は空気だったけど。再婚した相手は当時の俺以上に空気だけど。
 鞄を引きずりながら自室へと階段を登った。妹の部屋を通り過ぎるとき、扉が開いた。家が静まり返っていたので、少し驚く。カエデが能天気な顔を覗かせる。
「帰ってきたならただいまくらい言いなよ。泥棒かと思った」
「ああ、ただいま」
「おかえり」
 部屋の扉が閉じられた。律儀なやつ。
 自室に入ったが電気はつけなかった。そのままベッドの上に背中から倒れこむ。止め具のきしむ音がした。所詮は安いパイプベッドだ。こんなのでは五年もしないうちに壊れてしまうだろう。
 俺はしばしうつらうつらと舟を漕いだ。
 昔の夢だった。中学入学前。身体に合わない学ランを着て、教科書の購入に学校へ来ていた。人ごみの中、俺は挙動不審だった。周囲の人間は、小学校の友達同士で集まって買出しをしていた。購入一覧を見ても、値段の計算ができない。親に来てもらえばよかったが、親は仕事だった。俺は廊下の隅によって、財布の中と一覧表を比べる。どうも、お金が少し足りない気がするのである。適当に一万円札が一枚あれば足りるだろうと、それだけしかもらってこなかったが、思いのほか品が多かった。人垣に背を向けうつむいていると、肩を引っ張られた。
 あんた、本当に帰ってきたの。
 俺と同じくらいの背丈の少女がいた。見たことがあるようで、誰か思い出せなかった。白を通り越して青い肌と狐目が二年前の記憶に重なる。
 朱雀……。
 髪、伸びたな。肩にかかるはね毛を見て思う。うなじも隠れないショートヘアは消えた。まず俺に声をかけたのがかつての男友達ではなくこいつであったのは言い表せないものがあった。目線を外すと、朱雀の母親が早足で近づくところだった。
 ミズキくん! ずいぶん男らしくなっちゃって、全然気づかなかったわ。
 朱雀の母は俺の両腕を何度も叩く。結局、この人に面倒を見てもらって品を買ったのだった。金はやはり足りなかった。帰り際、当時住んでいたアパートの階段下で、朱雀とは少し会話した。
 思春期の二年は大きいね。あんた、すごい変わった。背、越された。
 くやしい、と爪を噛む。それから、
 帰ってくるとは思わなかったわ。
 俺も。
 相変わらず馬鹿のようだけど。
 お前だって、髪伸びても相変わらず男っぽいな。
 殴られた。やはり、こいつの人格は変わっていない。駐車場に倒れこむと、落ちた桜の花びらが目に鮮やかに飛び込んだ。
 そんな、夢だった。
「ミズキくんっ!」
 突如とした声が鼓膜を震わせる。心臓麻痺を起こしそうな勢いで、俺は目を覚ました。顔を横に向ける。再び心臓麻痺が起きそうになった。
 枕元にカエデが正座している。前かがみになっており、俺の眼前に顔があった。
「なっ何やってんだお前!」
「お客さんだよ」
 俺が跳ね起きると、妹もまた顔を上げた。
「幽霊かと思ったぞ……で、俺に客?」
「ほら、あの、眼鏡で背が高くて猫背で覇気がなくて」
「烏丸?」
「そう、それ」
 それってな……。
 しかし、烏丸のやつ、なぜ急に。あいつは何度か俺のうちに来たことがあるが、おしなべて鷹野に引っ張られてだった。それが一人で、こんな時間に。疑問を禁じえなかった。
 眠気の覚めないまま、ふらふらと階段を下りていく。
 上がり口に、烏丸はうつむき加減で立っていた。前髪が青白い顔にかかり、それこそ幽霊のようだった。
「どうしたんだよいきなり」
 俺が声をかけると、ゆっくりと顔を持ち上げた。眼鏡が白く光った。背筋に悪寒が走る。一見すると普段と同じ無表情だが、何か、殺気立ったものを感じた。
「朱雀サンに聞いたよ」
 烏丸は静かに口を開いた。心臓を蹴り上げられた気分だった。
「何をだよ」
「すぐに謝りに行きたまえ」
「だから、何を」
 俺はうまいとは言えない愛想笑いを浮かべた。烏丸が言っていることは十分察しがついていた。放課後のことだろう。
 だがなぜ謝らなければならない。俺は悪いことはしていないはずだ。むしろ被害者だ。こいつは朱雀からの話しか聞いていないから、情報が偏っているのだ。それにしても、俺の陰口を叩こうとはいい度胸だ、あの女。
 烏丸は、烏丸とは思えぬほどの毅然でそして冷たい態度で言った。
「白鷺クンは人の心をわかってない」
 ムッとした。
「じゃあお前はわかるのか」
「少なくとも君よりはわかるつもりだ」
 俺の中で恐怖よりも怒りが強くなった。
 何で、こいつこんなに偉そうなんだ?
 お前には関係のない話だろ?
 敵意に満ちた表情のまま烏丸は続けた。
「とにかく、電話でも何でもいい、今日中に彼女に謝るんだ。さもないと」
「なんだよ」
「これは警告とでもとってくれたらいい」
 淡々とした口調だった。
 警告ってなんだ、わけのわからないことを抜かしやがって。
 俺は黙っていた。やがて、烏丸はため息を一つつくと、じゃあ、と言って玄関から出て行った。
 俺もまた大きなため息を吐くと、背を向けた。
 部屋に戻ると、暖房を付けて座布団に座り込んだ。机とベッドと小棚と古いテレビしかない空間の中心で、目を瞑る。
 部屋の時計はデジタルだ。俺の心音しか聞こえない。感覚としては数十分かと思えるくらいの時間が過ぎた。ガタンゴトンと汽車の音が遠くに響く。
 馬鹿女。
 何で、そんなこと烏丸に話すんだよ。
「ミズキくーん、入るよー」
 扉の向こうからカエデの声が聞こえた。ハッと目を開ける。俺が返事をする前に、カエデは侵入した。
 妹は、学校指定の青いジャージを着て、長い前髪をピンで上げている。肩口までの後ろ髪と同じくらい前髪が長い。切ればいいのに、と思う。俺も男にしては髪が長いから言えた立場ではないが。
 それよりも、今は会話したい気分ではなかった。
「どうした」
「だいぶ大きくなったんだよ、ジロちゅう」
「ジロちゅう?」
 妹は俺の前に座ると、両手を差し出した。閉じられた手の中から白いものが顔を出した。俺の与えたハツカネズミだった。夜店で買ったときより二回りほど大きくなっている。しかしジロちゅうとは変な名前だ。
「どうせならアルジャーノンとかにしろ」
「いいじゃん。清水のジロちゅう」
「……なんだそれは」
 妹は楽しげに笑いながらジロちゅうの背中を撫でた。
 俺は相手にもわかるように不機嫌な声を出した。
「鼠を見せに来ただけなら、邪魔だから部屋に戻りなさい。俺は今ちょっと疲れてる」
 先ほどまで鼠に注がれていた視線が、俺をまっすぐに捕らえる。猫の目が怖い、という連中がいるが、その気持ちが妹の目を見てわかった。
「鷹野さんじゃないほう、何の用で来たの?」
 ひどい言いざまだな、おい。
「それはプライバシーの問題だ」
「なんかミズキくん機嫌悪いー」
 わざとらしくすねた声を出す。わかっているなら早く出て行け。場合によっては可愛く見える所作でも、今はうっとうしくて仕方がない。
「久々に恋人できなくて焦ってるんだ? デートなら私がしたげるよ」
 茶化したように言う。俺は顔を上げた。
 落ち込んでいるときに冗談を言われても胸がムカつくだけだ。
「お前、彼氏作れ」
「いらなーい、ミズキくんがいれば。それで寂しくないし」
 ……いかん、こいつ。小さいときにベタベタしすぎたのがいけなかったか。
 まるで小学生のような物言いをする妹に危機感を覚えた。それに、と若干淡白な口調で妹は続けた。
「ミズキくん見てると男と付き合う気なんてなくなるって」
「何だと、どういう意味だ」
 俺は語気を強めた。ジロちゅうがベッドの下に走りこむ。妹はひるむことなく薄ら笑いを浮かべている。
「だって性格悪いもん。私なら絶対付き合いたくない」
 脳みその奥が焼かれる感覚が走った。
 さっきは烏丸で今度はカエデか。立て続けに批難を浴びせられればいかに慈悲深い俺と言えども笑ってはいられない。
 俺の手は膝の上で、握ったり閉じたりを繰り返していた。
 妹の顔は笑っているし、冗談のつもりかもしれない。もともとあまり口の綺麗なやつではないから。
 だが――。
「カエデ、お前、妹のくせに生意気だ」
 顔つきが変わった。先ほどまでの笑みは消え、目が釣りあがり眉間に皺ができる。
「何その言い方。かなりムカつくんだけど」
 冷たい声だった。妹は誰に似たのか知らないが、非常に短気だ。さっきまで上機嫌だったと思えば、次の瞬間には大魔神になっていたりする。普段なら流すことができるが、今は一言一言が癪に障った。
 妹はさらに続けた。
「何をそんなにイラついているのか知らないけど、私に八つ当たりしないでよ」
「るせーな、別にイラついてねーよ」
「イラついてるじゃんっ!」
 突如大きな声を出されて、俺はたじろいだ。妹の顔は切迫していた。何なんだこいつ。 
 妹はうつむく。横髪で顔が隠れた。「私、こういうの嫌なんだよ」小さな声で続ける。
「最近ずっとそんなんだし。周りの人まで気分悪くなるから、直したほうがいいよ」
「……ほっとけ」
 妹は、軽くため息をついて立ち上がった。するとベッドの下から鼠が這い出て足を伝い肩まで登った。いいしつけ方をされているな。
 顔は動かさなかったが、横目で歩く妹を見ていた。ドアノブを下に押すと、扉を開ける前に振り返った。
「こういうこと言ってくれるのは家族だけなんだって、理解しといたほうがいいよ」
 一言言い残すと、妹は部屋を出て行った。
 俺は振り上げなかった拳を見ながらほっとため息をついた。


 結局俺は朱雀に詫びを入れなかった。
 翌日の朝、目の奥が痛かった。十時には布団に入ったのだが、そのままかなりの時間起きていた気がする。うたたねしたせいだろうか。憂鬱な気分のまま学校の準備を整えた。朝食は目玉焼きとサンドイッチだった。向かいにカエデが座りモサモサと食べていたが、口は利かなかった。母の再婚相手――もとい父はすでに仕事に出ていた。母は俺と妹に食事を出すとせわしなく仕事の準備を始めた。
 何気なくテレビに映るニュース番組を見る。サンドイッチを喉に詰まらせた。左上のテロップがすでに八時五分だ。立ち上がると食器を流し台に運び歯を磨き速やかに家を出た。
 マッハで自転車を漕いだため、遅刻することは免れた。それよりも自分のほうけ具合にショックを受けた。……若年性痴呆だろうか。
 そんなことを思いながら廊下を歩いていると、後頭部に軽く衝撃が走った。
「よっ、今日は遅い登校じゃないの」
 鷹野は見ているこちらが憎憎しくなるような爽やかな笑顔だった。俺は疲れていたので返事はしなかった。鷹野もしつこく話しかけてはこない。ただ無言で並び教室まで向かった。
 教室に入る。目が自然と窓際の後ろに吸い寄せられた。朱雀の席だ。談笑していた朱雀と烏丸の動きが止まった。二人同時に顔を俺に向ける。俺はすぐに目をそらした。
 そのほかの学校生活はつつがなく終了した。昼飯は鷹野と二人で食べた。もう慣れてきていた。しかし昨日のことは、小骨の如く確実に喉に引っかかり、俺の心を落ち着かせなかった。
 動きがあったのは放課後だった。
 俺は図書室にいた。図書室は校舎とは離れたところに建つ小ぶりの建物の中にある。一階が文具屋、二階が図書室、三階が畳部屋(主に華道部・茶道部・百人一首部が使っているとみえる)という、特殊な施設を集めた舎だ。図書室は人気がない。三階を使う部活を除けば人が訪れることは少なかった。
 いつものように窓際の席に座る。夏目漱石の『夢十夜』を読み返していた。俺は夏目漱石の美しい文章を愛していた。
 朱雀アヤメに読ませたが、あいつの感想は辛らつというか無茶苦茶だった。フィクションというのに、現実的な観点から分析を進め、それを言ったらおしまいなツッコミを次々入れていく。主人公は軽々しくて無責任、一ヶ月ほどの出来事を百年だと勘違いしている、女は百合の花に転生したのではなく懐に種を仕込んでいただけ……第一夜だけでもこの有様だ。他も同じようなものだった。
 いわく、『それから』はニートが後先考えず行動して周囲に迷惑かけまくり、すべてを失った後にやっと就職を決意する軌跡をロマンティックな文章で濁しているだけらしい。よくまあそこまで暴言が吐けたものだ。呪われるぞ。
 理系と文系がわかりあえるほど、人の心は優しくはなれないのか……。
 そんなことを考えていると、後ろから肩を叩かれた。集中していたため、気配にはまったく気がつかなかった。
 烏丸ツツジだった。
「白鷺クン、僕の警告を聞かなかったみたいだね」
 烏丸の瞳はブラックホールより黒かった。俺が返事に臆していると、さらに続けた。
「話がある。今から生物室に来てくれないか」
「……ここで話せばいいだろ。生物室なんて行きたくねえよ」
 文字群に目線を戻した。だが烏丸は俺の読書を許さなかった。
「それじゃオーソドックスに、体育館裏にしとこうか」
「やめろよ、愛の告白みたいだろ」
「近いかもね」
 え。本から手を離した瞬間、右腕をすごい力で引っ張られた。俺はよろめきながら椅子から立った。わかったから放せ本を戻すからと言うと、烏丸は手を下ろした。俺は思い切り長いため息をついてみせると、本棚に夏目漱石集を返した。
 そして二人で黙々と第二体育館へ向かった。体育館裏は丸太が三本重ねてあるだけで、あとは木に囲まれた殺風景な場所だ。
「あ、ちょっと待ってて」
 着いたとたん烏丸はそう言い、どこかへ走っていった。何だあいつ、人を呼びつけておいて。俺は丸太に座り一分ごとにロレックスもどきを確認した。
 時計の表面に汚れを見つけ、ハンカチで必死にこすっていると、時間を計るのを忘れてしまった。舌打ちしたいところだが、汚れが落ちたのでよしとする。何と言ってもこの時計には代えがないのだ。
 その後、三回学ランの袖をめくった時、烏丸が帰ってきた。遅いぞ、と怒鳴りかけて、おそ、で喉が詰まった。
 朱雀が一緒だったのだ。
 本能が危険信号を発していた。二人は顔を見合わせると、にやりと笑った。そして一歩一歩近づいてきた。こいつら、お礼参りでもしようというのか。やばい、朱雀の戦闘力は俺をはるかに超えている。クリリンとフリーザ様くらいの差が開いている。勝ち目はない。俺の脳裏に市民の森で阿修羅のごとき戦闘を繰り広げていた朱雀の姿が蘇った。あの時、烏丸はなす術もなく怯えていた。それが今度は二人で俺を追い詰めようとしている。ドラマとは何がどう転ぶのかわからないものだ。
 俺は立ち上がると二人の動きに合わせて後ずさりしていった。
 しかし次の烏丸の言葉は予想の斜め上をいっていた。
 烏丸と朱雀はぎゅっとお互いの手を握った。烏丸がほがらかに笑った。
「僕たち、付き合うことにしたから」
 ドッキャーン、ベタフラッシュ! 
 俺の脚は地面に根を張り、動けなくなった。開いた口がふさがらない。何度も瞬きをする。眉毛が下がる。凍った空気が溶けると今度は手の震えが止まらなくなった。
 なして? どして? 愛の告白みたいだろ……って、二人の愛の告白ですか?
 とどめは朱雀の表情だった。頬をほのかに赤らめ、うっとりとした目は伏せられている。
 俺の中で何かが切れた。
「おんしゃああぁぁっ、こりゃあどういうこっちゃあぁっ、説明せえぇぇえっ!」
 俺は怒鳴った、叫んだ、喚いた。口調が変になった。気にしない。目からぼろぼろと涙がこぼれる。気にしない。
「説明って言っても、僕たち元から気が合ってたし。ねえ♪」
「ねえ♪」
 おおお音符とか付けんなぁぁ、顔見合わせて笑うなぁぁ。
 両手を振り回しながら力の限り声を張り上げた。
「どうして、どうしてこいつなんだよ。こんな不細工な男、俺のほうが絶対美形じゃねえか! 俺は認めんぞ、こんなブサメン男に劣るなんて俺は認めんぞ」
「白鷺クン、僕のことそんな風に思ってたんだね」
 朱雀は髪を払いながらフッと笑った。
「男の価値は顔じゃないんだよ」
 顔以外だってわかんねえよ、どこがいいのかさっぱりわかんねえよ。俺はお前がわかんねえよ。
 朱雀は、俺には一度たりとも見せたことのない笑みを浮かべて烏丸を仰いだ。可愛かった。
 俺の頭は未だかつてなく混乱していた。
「いつから、いつからそんな関係だったんだ?」
「まあ、正確には昨日かな。ずいぶん前からお互い意識はしていたんだけどね」
 何があった、昨日いったい何があった!
 確かに、ここしばらくずっと二人はベッタリだったが……でもそれは、俺が烏丸に頼んだからだろ?
「あのさ」
 ぼやけていた俺の焦点が定まる。烏丸が眼鏡を持ち上げた。
「白鷺クン、言っていたろ? 朱雀サンに好きな相手がいるって」
「あ、ああ」
「僕、気づいちゃったんだ」
 ――何に、だよ。
 今までにない不快感に襲われた。蛇が腹の中でうねるような。
 烏丸の笑顔が、一瞬、悪魔の笑みになった。
「朱雀サンの探していた人は、この僕だ」
 サッと、目の前から色と言う色が失われる。気を抜けばその場に倒れこんでしまいそうだ。
 少しだけ。ほんの少しだけは、予想できていた言葉だった。
 だからこそ、何度も心中で否定した。
 腹の中でまだ蛇はうごめいている。
「……説明しろ」
 アルジャーノンだよ、と言って烏丸は続けた。
 烏丸と朱雀が意気投合して急接近したのは、白鷺も知っているところだった。仲良く語らう日々が続き、ある日の放課後。生物室でのことだった。
 二人はいつもどおり、談笑していた。しかし、唐突に朱雀が黙り、烏丸の顔をじっと凝視したそうだ。
 どうかしたかな。
 ……やっぱり。
 え?
 烏丸くん、あなただわ。
 朱雀はわけのわかっていない烏丸の肩を揺らす。そして少し興奮して言った。
 あたしの捜し求めていた人は。
 ちょっと待って、と烏丸は朱雀を引き剥がす。朱雀はなおも続ける。
 小学生のとき、覚えてない? アルジャーノン。『アルジャーノンに花束を』。一緒に話したでしょ。
 烏丸は顎に手を当て少し考えた。やがて、普段は細いまなこが見開かれる。膨らんだ瞳孔で朱雀を見た。
 君か。君だったんだね。
 うなずく朱雀がその瞳に映る。烏丸は声を上げて笑った。
 そうか、君があの時の……全然気づかなかった。
 あたしも今思ったの。あれだけレベルの高い会話をできる人なんて、烏丸くんしかないって。これは、運命。
 君が運命なんて非科学的なものを持ち出すなんて。
 朱雀は首を振る。
 動物は、好きな相手と本能レベルで引き合うんだよ。あたしたちは磁石みたいに引き合っていたんだよ。だから再会した。
 赤く焼け爛れた放課後の学校で、人体模型を背景にしていつまでも二人は見つめ合っていた。
「わかった、よくわかった」
 俺は烏丸の語るラブロマンスを打ち切った。
 こんな偶然があってよいものなのか。しかも『アルジャーノンに花束を』――皮肉にも俺の好きな作品が二人の縁を取り持ったということか。なーにが科学の人道的問題だ。どうやればそんな方向に話が転ぶんだ? ええ?
 体育館に日を遮られ、俺の全身は影に包まれていた。冷たい風がまとわり付く。
 そっ、それで。俺は、自分の前髪をつかみながら言った。腰が砕け、後ろに引けた。
「お前ら、いったいどこまでいったんだ?」
「どこまでって、ねえ」
 再び顔を見合わせる二人。やめろ。
 烏丸がうっすらと笑った。
「宇宙の果てまで行って来たさ」
 ――どう解釈すればよいのですかそれは。
 俺は舌が回らなくなっていた。
「うううう宇宙の果て? 果て?」
「相対性理論もものともせず、天の川もアンドロメダ銀河も超えてビックバンの彼方までね!」
 二人はつながれた手を空高く掲げた。
 ダメだ。こいつらは俺の理解が及ばないところで深く結びついている。
 覇気がないと思っていたはずの烏丸の顔は、今は生気に満ち満ちていた。俺はじっとその顔を見ていたが、やがて出た声は、情けないくらいにうわずり、震えていた。
「お、俺、小学ン時、親戚に預けられて、こっちに戻ってきたけど、なかなか友達出来なくて……高校で、お前と鷹野に会って、仲良くなれて……お、俺は、お前のこと、……親友……だって……」
 思い出が涙となって次から次へと流れ落ちていく。雫は地面に染みると跡形もなく消えていった。
 俺が朱雀のことを好きだと知っていながら、どうしてこんな真似ができるんだ? 友達だと思っていたのは俺のほうだけだったのか? お前はもしかして俺のことをうっとうしく思っていたのか?
「僕も白鷺クンのことは親友だと思ってるよ」 
 烏丸の言葉に、俺は顔を上げた。
「でも、これとそれとは別問題だ」
「ええ、別問題ね」
 朱雀が同調した。呆気にとられて俺の涙は止まった。袖で頬をぬぐう。
「別って、何がどう別なんだよ」
 烏丸は突然真顔になった。俺の顔をじっと見る。背が高いから、見下ろされている気分だ。
「だったら聞くけど、この場合どうしていれば友達として合格だったんだ? 君こそ、友達ならば黙って僕たちを祝福するべきなんじゃないか?」
 俺は、何も答えることができなかった。烏丸の言うことが完膚なきまでに正論だったからだ。
 二人の目線が痛かった。
 形を成さない言葉を叫びながら、烏丸と朱雀を突き飛ばした。そして体育館裏を離れた。すさまじい勢いで風景が流れていく。何もかも見えなかった。途中、誰か女子生徒とぶつかったが、かまわず疾走した。
 下駄箱で止まる。すると鉛でも背負わされたかのように体が重くなった。膝をつき荒く呼吸する。そのまましゃがみこんでしまった。
「うう」
 膝に顔を埋める。今日まで一月近く、朱雀陥落のために身を削ってきた。だが朱雀は俺を見ることはなかった。ポッと出てきた烏丸とはいとも簡単に恋人になった。いいや、ポッと出てきたわけではないか。運命の赤い糸で結ばれていたんだっけか。ハハハ。
「何やってるの、白鷺くん」
 凛とした声が耳に響く。聞き覚えがあった。俺は反射的に顔を上げた。渡り廊下の先に、千鳥カスミが立っていた。
 ほの暗い廊下でも一等美しく存在感を放っていた。
 言いようのない思いが胸を締め付ける。
「カスミ……」
 つぶやいた後、失敗したと思った。
 カスミは、付き合っていたときと何ら変わりのない様子で、やや早足に歩み寄ってきた。
「どうしたの? お腹でも痛い? 保健室行こうか?」
 俺は恥ずかしさと情けなさで動きたいのに動けなくなっていた。フリーズしているうちにもカスミとの距離はどんどん狭まっていく。別れた後も彼女は優しかった。俺の前まで来るとそっと手を差し伸べてくれた。頭がしろずんで、その手を握ろうとしたがその時、
「千鳥先パーイ」
 正気に戻った。女子軍団が校舎から渡り廊下に出るところだった。女子たちは俺の顔を一瞥すると、隠す気もない耳障りな声で話し始めた。
「あ、あれ千鳥先輩の馬鹿カレじゃん(笑)」
「あー、マジだ、顔以外不良品の(笑)」
「何でまた一緒にいんの? ウザいんですけど(笑)」
「先輩、別れた相手に優しくしちゃダメですよ、付け上がられるだけですから(笑)」
 俺はカスミの後輩から馬鹿カレと呼ばれている事実を知った。それにしても何だあの、人を心の底から不愉快にするような笑い方は。いちいち語尾に(笑)を付けるな。どうすればそんなしゃべり方ができるんだ。
 カスミは柳眉をひそめ、少し困った顔をした。
 女子軍団はスイミーのごとく群れをなして近づいてきた。そしてなおも続けた。
「そうですよ、ひどいことされたんでしょ? 携帯の着信履歴とメールボックス毎日チェックされたり、会いたくない日も付け回されたり、部屋に隠しカメラ仕掛けられたり鞄に盗聴器入れられたり盗撮されたり水着と体操服盗まれたり」
「そこまでしてねえよ!」
 俺は我慢ができなくなってつい叫んだ。
 女たちの視線が一気に俺に集まった。みな一様に瞳を尖らせ、異形のものを見るかのような顔をしていた。
「はあ? それでごまかしてるつもり」
「そうよ、昨日、稽古用の先輩のスパッツがなくなってたのもあんたの仕業なんでしょ?」
 自分の名誉のために言い訳させてもらえれば、それはまったくの冤罪だ。犯人はカスミの熱狂的ファンかマドンナになりたい女の情念だ。そもそもスパッツなんてそんな  マニアックな趣味はない。
 だがそれを口に出す勇気はなかった。男にとって女の群れほど圧力を感じるものはそうそうないのである。くわえて演劇部の総部員数は五十人を超える。やつらを本気で敵に回したらウチの学校では生きていけない。
 俺はつま先に靴を引っ掛け校門のほうへ走った。後ろから引き止めるカスミの声が聞こえたが振り向くことはしなかった。もうあの頃へは戻れないのだ。

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