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愛と狂気の青春時代 その四


四、
「ま、しょうがねえよ」
 肩を叩きながら鷹野は言った。俺は目前に悠然と広がる海をただ見ていた。入日を受けた水面は見事な茜色に染まっていた。海岸線のコンクリートはザラザラと固かったが、鷹野も俺も気にせずに座っていた。
「吸うか?」
 学ランの内ポケットから歪んだ白い箱を取り出す。そこからすっと顔を出した一本が夕日を遮った。俺はそれを箱ごともらうと握りつぶした。
「煙草なんて吸ってんなよ、サッカー部員」
 鷹野は顔をしかめ、頭をかいた。
「俺は吸わねえよ。ただお前が吸うんじゃないかと思って先輩からもらってきたんだよ」
「どうしてそんなこと思ったんだお前は」
「失恋の痛みを煙にして吐き出しちまえば楽じゃないかと思ったのよ」
 ――失恋。
 やはりこれはそういうことになるのか。
 俺は切り返しに窮した。はっきりと言葉にされたことで、漠然としか見ようとしなかった事実が輪郭を持ってしまった。
「そんなに落ち込むなって。またそのうち女のほうから寄ってくるだろ」
 俺が黙っているので鷹野は一人でしゃべっていた。
「それにしても、まさかツツジのやつがなあ……」
 心臓が血を吐いた。俺の表情を見て、鷹野が真顔になった。
「ショックとは思うけどよ。でもお前、ツツジをハブるとかシメるとか、絶対すんじゃねえぞ」
「誰が。俺、そういうの嫌いなんだ」
 だいいち、朱雀に殺される。俺だって月夜以外も歩きたい。
 ただ、明日から二人にどのように接したらよいのかは、皆目検討がつかなかった。
「いいじゃねえかよ、お前は家に帰ったら可愛い妹がいンだから」
「一人っ子のお前に兄弟のうっとうしさはわからん」
 鷹野は俺の呟きを無視して、一人で盛り上がり始めた。
「いいよなあ、カエデちゃん。可愛いよなあ。シャイであんまり口利いてくれないけど、可愛いよなあ。なあー、今度からお前のこと兄貴って呼んでいい?」
 俺は鷹野を海に蹴り落とした。黄金色の水しぶきがあがった。


 それからの学校生活は気持ちのよいものではなかった。
 朱雀と烏丸はそれこそ四六時中、授業時間以外は常に一緒にいた。クラス内でも、「想像を絶するカップル」と言われ、ささやかな注目を集めていたが、本人たちはまったくのマイペースで眼中にも入れていなかった。常に三人セットだった俺と鷹野と烏丸だったが、烏丸が俺たちと行動することは滅多になくなった。体育の時間くらいのものである。鷹野は烏丸をハブにするなと言っていたが、それ以前にあちらが寄ってこないのだからどうにもならない。
 だが鷹野と俺は事情が違った。交友を持続させようとした彼は、積極的に烏丸に声をかけていた。カップルがいちゃついているのに割りいっていくなんて、馬鹿なのか勇気があるのかわからない。意外にも朱雀と烏丸はそれを拒むことなく、三人はうまくやっていた。朱雀も鷹野に対して暴力を振るったりということはなかった。朱雀は怒らせなければいいやつだ、と鷹野は言い出した。では口も開けないうちから反感を買っている俺の立場はどうなるのだろうか。苛立ちと疎外感は次第に積もっていった。
「シュレディンガーの猫ね」
「ああ、シュレディンガーの猫だ」
 放課後の教室、額をつき合わして謎の言葉をささやきあう朱雀と烏丸の顔の間に、鞄を叩き置いて遮断した。怖いくらいの無表情で凝視してくる二人を見下ろす。
「お前らな、毎日毎日毎日毎日(以下百回繰り返し)教室でいちゃついてんじゃねえよ、目障りだ。恥ってもんがないのか、あぁ?」
 朱雀の眉と口元が歪み、腹から唸るような声が出された。
「うるせえよ脳みそ明治男。武田さんちの畑の肥溜めに落ちてとっとと死にな」
「貴様こそ上杉さんちの豚小屋の豚に食われて死んじまえ」
 俺は拳に爪を食い込ませた。教室に残っていた数人の生徒から視線を感じた。烏丸は口元を手で隠し窓の外を見ていた。
 朱雀はニヤリと口を吊り上げた。
「悪いけど、あんたの相手してやれるほど今のあたしは暇じゃないんだよ」
 そして烏丸のほうを見ると、声のトーンを一オクターブ高くした。冷酷だった笑みが急に華やかになる。
「さ、帰ろ、ツツジン。今夜は一緒に天体観測に行こうね」
「そうだね、アヤちゃん」
 そして二人は歩調を合わせて俺を完全に素通りして出入り口に向かった。
「ツツジン♪」
「アヤちゃん♪」
 出際に聞こえた弾んだ声に、俺は猛スピードで二人に駆け寄りかなづちで頭をかち割ってやりたい衝動に駆られた。実際、俺は走り出していたらしい。気がつけば鷹野に取り押さえられていた。
「落ち着けってミズキ」
「あーっ、ムカつくーっ、死ぬほどムカつくーっ! あんなにムカつく光景は未だかつて見たことがないぞっ!」
 床に這いつくばりながらもがいた。
 俺の体をしっかりと押さえたまま、鷹野は言った。
「まあまあ。ちょっと前まで、俺や烏丸だって、千鳥先輩と甘い日々を過ごすお前を見ておんなじくらいムカついてたんだぜ? お互い様よ」
「知るかよ。悔しかったら自分も彼女作ればいいだろ」
 勢いで放った言葉に、ハッとさせられる。
 そうだ、これは今の俺にこそ必要な言葉なのだ。いつまでもあんな性格も顔もブスな女にかかずらっている必要などない。面識の深い相手でないと嫌だとか、俺は贅沢を言いすぎていたのだ。
 俺は鷹野をはね倒すと鞄を回収し教室を飛び出した。


 初冬の風が顔面に針を刺す。ハーフコートの襟を寄せる。朝、雨が降っていたために今日は徒歩だった。現在は多少曇っているが雨は止んでいる。傘を忘れてきたが、そんなことはどうでもよかった。
 歩行者通路の水溜りをよけながら、俺は考える。
 ――学校内の女は俺のことを避けているからどうにもならん。だが、そこに限らなければいくらでもいるのだ。烏丸とまた普通に会話ができるように、誰でもいいから早く恋人を作らなければならない。手っ取り早くナンパでもしようか。隣町はけっこう街だから軽い女もいるだろう。
 だがしかし。
 行きずりの人間と付き合うというのは、どうしても抵抗があった。人が言うほどドライじゃないのだ。本当は臆病わかってほしいの。
「そうは言ってもな……」
 帰宅部である俺には、学校外の生徒との交流と言うものが皆無に等しいのである。
 通路を曲がる。こざっぱりして空き地と雑草と畑ばかりの風景に、ポツンとローソンが建っている。その隣に、ピンク色の屋根をした小さな店がある。「風月」だ。香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、無性にラーメンが食べたくなる。だが最近は鷹野たちと会合を開きすぎたがために金がない。結局はその会合もすべて無駄になってしまったわけだ。
 足元の水溜りを思い切り蹴った。水がはねてズボンの裾が濡れた。舌打ちする。地面を踏みつけるようにして歩いていると、店の引き戸が開いた。暖簾の下から背中の曲がったじいさんが現れた。グレイの帽子と茶色い上着を身に着けた落ち着いた感じのじいさんだった。だがその落ち着いた感じのじいさんは、見かけによらず素早かった。あれよあれよと言う間に店から遠ざかっていく。俺のほうに向かってきたが、華麗な動きにしばし見入ってしまっていた。
「ちょっと、ちょっと、おじいさん、ちょっと」
 可愛らしい声がじいさんの後を追って聞こえた。今度はエプロンと三角巾姿の少女が出てきた。手には杖を持っている。だがじいさんは気づかない。高速で俺の横をすり抜けようとする。俺はとっさにじいさんの腕をつかんだ。じいさんは振り返る。真っ白くて長い眉毛とひげで顔つきがわからないほどだった。
「んあ?」
「あの、呼んでます」
 店長の娘を手で示した。ちょうど追いついた娘は、杖をじいさんに差し出した。
「忘れ物です」
「おお、これはすまなかったね」
 じいさんは杖を受け取りながら親しみ深い声を出した。娘ははにかんだように笑った。俺は、あれほどまでに俊敏に動けるじいさんに、果たして杖が必要なのだろうかと素朴な疑問を浮かべた。
 じいさんは杖を両手で持ち眺めていたが、やがて左右に引っ張った。黒い表面に切れ目ができた。耳に付く鋭い音とともに、鈍色の刃が顔を見せた。
「うん、うん」
 固まっている俺と娘を視野にも入れず、ゆるやかに曲がる刃物を眺めて嬉しそうにうなずいた。そして杖の中に納めなおすと、再び歩き始めた。瞬く間に姿は見えなくなった。
 取り残された俺と娘は顔を見合わせた。言葉は要らなかった。目と目で先ほどの奇妙な光景について共有した。この町には田舎独特の変人も多いからネ。とりあえずそれで納得しておいた。
 俺が苦笑すると、彼女も笑った。頬に少し紅がさした。俺は目を見張った。この娘が俺に気があるのはだいぶん前からわかっていた。彼女となら――付き合える。店ではてきぱき働いているし顔も悪くない。少々芋くささが抜けていないがそれはそれでアリ、だ。働いていることを考えれば年上だと思われるが、それもそれでアリ、だ。何より彼女は俺の性格を知っている。いつも店に来ては大声で喚いているのも知っている。それでも俺を見れば頬を赤らめ目をそらす。毎度のごとく性格の不一致でフラれることもないだろう。
 彼女の白い手をつかんで引き寄せる。顔が先ほどよりもっと赤くなる。零れ落ちるくらい開かれた目をみつめる。絶対にいける。普段の何倍もハードボイルドな声色でささやいた。
「好きだ。僕と付き合ってほしい」
「はゃ」
 店の娘はほうけた声を出した。眉が下がり、目が潤み始める。口を半開きにしているも言葉が出ない。思考がこんがらがっているらしい。
「あっあっ、あのっあの……」
 舌足らずな口調でうわずる。いまどきこれほど純情ですれていない乙女は希少価値が高い。きっと俺は幸運だったのだろう。朱雀のような性悪女に引っかからずにすんだのだ。
「ごめんなさい、無理です」
 ――うん?
 聞き間違えたかな。
「僕と付き合ってほしい」
「ごめんなさい、無理です」
「付き合ってほしい」
「無理です」
 娘の声はもう、震えてもうわずってもいなかった。はっきりとした語調で宣言された。今度は俺が口を半開きにする番だった。何がなんだかわからない。握っていた手が緩む。娘は自分の手をさっと引くと、胸の前でさすった。俺はその様子をただ見ていた。
 ――あんた俺のこと好きなんじゃないの? どう見てもそういう態度とってたよね?
 俺の思考は顔に出たのか、娘は口を開いた。
「えと、たしかに私、白鷺さんのこと大好きです」
 それから目をそらし、細い声で続けた。
「でもそれは、目の保養的な意味で……付き合うとか、そういうのはちょっと」
 剃刀で切りつけられた気分だった。細い傷から鮮血が溢れる。物理的には何もされていないのに胸が痛む。
 なるほど。そうかそうか。俺なんて所詮檻の中のベンガルトラだというわけか。鑑賞はしても関わりたくはない、と。
「あはははははははは」
 怒りや絶望を通り越すと、最後に残るのは乾いた笑いだけだった。腹を抱えてひたすらに笑う奇怪な道化を前に風月の娘はいそいそと店に戻っていった。
 さようなら。ラーメンとってもおいしかったけれど、おっちゃんもおばちゃんも嬢ちゃんも温かかったけれど、もう行かないよ。ありがとね。
 一寸先も見えないような精神状態の中、義務感だけで帰路を歩く。何度も壁に肩をぶつけた。まっすぐ歩くことができない。
「痛い」
 電柱に額をぶつける。独り言にすら生気がなかった。腫れた部分をさする。せっかくの美貌が台無しだ。俺には顔しかないのだから。……って、なんとネガティブなことを自ら考えているのだ。顔以外不良品、な。案外間違っていないのかもな。俺は人間としてダメなのだろうかな。でもどこがダメなのかわからない。俺は俺なりに一生懸命生きているんだ。なぜ誰もそれを認めてくれないのだろう。こんなことなら美形になど生まれなければよかったのだ。人の心などわからない。むしろ羽虫にでも生まれればよかった。人間に突進しては叩き落とされ死していく、朱雀風に言えば淘汰されるためだけに存在する命。それなら、初めから嫌われているんだから諦めもつくし、寿命がないからすぐに死ぬことができる。生きていたって辛いことばかりなんだから、人生八十年は長すぎる。
 家の扉を乱暴に開けた。相変わらず玄関の電気は付いていない。
「うるさいなー」
 うつ伏せになった状態で、妹が居間から顔だけで出す。
「何してんだ」靴を脱ぎながら惰性で会話する。
「だるい。トイレで降りてきたんだけど、上に戻りたくない」
「すぐにババアになるな」
「ババアでいいよ」
「女捨ててるな」
「そんなんとっくの昔に捨てた」
 わけがわからんぞ。
 上がり口に置いてあるツリー状の服掛けには、妹のベージュ色をしたダッフルコートがかけてある。その上に脱いだコートを被せながら、逡巡する。本来ならばこのまま自室に行き、鞄を置き、制服を着替え、自由時間に入る。それが我が家のルールだった。だが、寒い。俺の部屋は北向きで、余計に寒い。居間にはこたつが出してある。妹がいるから暖房も効いている。
 多少の罪悪を胸に居間に入った。地肌にぬくたまった空気が触れる。俺はコタツに脚を入れた。正面で亀になっている妹の胴体が当たる。
「狭いから座るか寄るかしろ」
 うぅーと伸びをすると妹は体を持ち上げた。まぶたの下がった目で俺を見る。寝ていたためか前髪を留めるピンは外され、コタツの上に転がされている。寝癖の付いた髪といいジャージの上に重ねられたチャンチャンコといい、女の私生活なんて見るもんじゃないなと思う。顔立ちは整っているのに、この歳で彼氏ができないのは怠惰な性格のせいだろう。
「機嫌悪いね」
 ぼそりと言った。
 改めて自分のささくれ立った心を自覚する。とたん、暖かさに夢中でどこかに飛んでいたストレスが舞い戻ってくる。妹の顔を見ていても、少し前にした言い争いのことを思い出し、さらに芋づる式に今まで妹と関わってきた十数年の歳月であった腹の立つ記憶が溢れ出し、苛立ちが針を突き刺すように正面へ向いた。その中には朱雀のことやら烏丸のことやら風月の娘のことやら、まったくお門違いのものも含まれていた。
「お前と違って悩みが多いんだよ」
「朱雀さんと烏丸さん、付き合いはじめたんでしょ?」
「……なんでお前、そんなこと知ってるんだよ」
「朱雀さんから聞いた」
 嬉しそーうに話してた、とわざわざ付け加えた。茶化した口調もさることながら、発言の内容に激しい怒りが湧いてきた。
 ――なぜカエデにそんなことをわざわざ話す? なぜカエデはわざわざ俺にそんなことを話す? 人の神経逆撫でして何が楽しい?
 暖かい居間には冷たい空気が流れていた。
 妹の濁りのない瞳が恐ろしい。何もかも見透かされているような不安に陥る。妹は昔から勘が鋭く、読心術でも使えるのではないかと思うことすらあった。
 妹は口端を吊り上げた。
「初めから無理とは思っていたけどね。君にはもったいなさすぎる」
「俺よりも朱雀のほうが優れていると言いたいのか」
「それもあるよ。でも一番の理由は、自己満足のために無理して付き合おうとする人ではろくな結末にならないってことだよ」
「ああ?」声を荒げた。図星だった。
「ミズキくんってさあ、べつに恋人がほしいわけじゃないんでしょ」
「お前、何を知った風なことを」
 妹のくせに。
 まずは最初にそんな言葉が脳裏をよぎった。
 妹は薄ら笑いながら、やや芝居がかったしゃべりをした。
「自分に自信がないんだよ。いつも鏡を見ているようなナルシストに見せかけて、劣等感の塊じゃない。しかもそれを私のせいにしてるんだもん。タチ悪いよ」
 こいつ。
「私のほうがお父さんとお母さんに可愛がられてたのが、そんなにくやしいわけ? 小さいときに『お兄ちゃんなんだから我慢しなさい』って言われたことを、この年になって引きずっているわけ?」
 こいつ、殴りたい殺したい首絞めたい。
「夢がないね」と言われて妹をバラした兄貴の気持ちがよくわかる。
 俺の顔は、おそらく鬼か悪魔のように歪みきっていたことだろう。だが、それでも妹はひるまなかった。普段、馬鹿みたいな会話をしているときとは目つきが違う。さらに食い下がってきた。
「私だって、ミズキくんのこと嫌いだったよ。何で自分だけが被害者みたいな顔するの?」
 言い終えるまで待つ間もなかった。脳みそでぐちゃぐちゃに混ざっていたどす黒い感情が潮が引く勢いで真っ白に帰した。すさまじい破裂音が鼓膜を突き破った。気が付いたら俺はコタツの上に乗り出し、カエデが目の前でひっくり返っていた。
「――ぁ」
 言葉が出なかった。手を見ると、指の間からぽろぽろと数本の長い髪の毛が落ちた。
 どうやら俺は、妹の髪をつかみあげ頬を思い切りぶったらしい。
 やばい、と思った。
 妹は顔を手で覆い隠し、背中を丸めていた。肩が大きく上下に揺れている。
 とりあえず何か言わなければならないと思った。
 大丈夫。痛かったよね。ごめんなさい。俺が悪かった――俺が、悪かった? 激しく波打っていた思考が落ち着いてくる。俺は謝らなければならないようなことをはたしてしたのか。手を上げたのは過失だったと思うが、俺には頬をぶつくらいの権利はあったのではないか? カエデの発言はそれくらいされても仕方がない部分があったのではないか? ここで俺が謝るのはあまりにも理不尽ではないか。
 しまったとは思うが謝りたくはない。その葛藤の中で俺はこたつに片足をかけたまま固まっていた。暫時、シュールな光景が続いた。
「ナニやってるのォォッ!」
 すさまじい金切り声で、我に返った。居間の扉の先に母が立っていた。顔面蒼白だった。働きづめで顔色が悪いのとはわけが違った。我が母といえども戸惑うほどだった。
 母は何よりも先に妹に駆け寄った。「カエデ、大丈夫、大丈夫なの」とひっきりなしに妹の肩を抱いて叫んだ。母は鼻っぱしは強いものの、知的で聡明といえる。常軌を逸した取り乱しように、俺のほうが戦慄した。全身から汗が噴出す。自分のよく知る存在が、自分の知らない行動をするというのは非常に恐怖だった。
「ミズキッ! カエデにいったい何をしたのっ! 言いなさいィィッ、何を、何を」
 母は俺をにらみつけて叫んだ。壊れたスピーカーが大音量を垂れ流しているようだった。俺は、コタツから足を下ろしながら、半笑いになった。
「いや、頬を、こう、ペチンとね、撫でたら、思いのほか吹っ飛んで」
 言いわけは最後まで聞かれることはなかった。母の絶叫がそれを遮る。
「お母さん、何度も教えたじゃない、男の子は、女の子に乱暴なことしちゃ絶対にダメだってっ! なのに、何で、何で」
 ――たとえ何があろうとも男は女を叩いてはならない。
 これは白鷺家の鉄則であり、しつけにゆるい母の唯一ともいえる教育方針だった。たぶん幼いころ俺が事あるごとに妹をぶっていたのが原因だろうが(たいていは妹が悪かった。俺が机に隠していたチロルチョコを無断で食べた行為は万死に値すると今でも思っている)。生ぬるいフェミニズムに包まれた教育は俺の体に根を広げ、おかげで朱雀から殺人未遂に何度も遭わされたが反撃したことは一度もない。
「でも、母さ」
「でもはナアぁぁぁシぃぃっ!」
 もはや解読不能な叫びだった。そして理解不能だった。いったいぜんたい、母は何をそんなに怒っているのか。
 強い否定が生み出すのは、不満と不信感だ。
 俺は、怒ると笑う癖がある。
 このときも癖が出たのだろう、俺を睨む母の顔が見る見る歪み醜悪になった。
「ミズ――」
 唸り声を上げながら中腰になる母の服を妹が引いた。母が視線を向けると、うつむいたまま首を左右に振った。母は再び座り、妹の頭を抱きかかえた。
 いろいろと、癪に障った。
「お前が弟だったら、今頃三回は死んでいるだろうな」
 皮肉を込めた。
 母が口を開いたが、俺は無視して部屋を出た。家が崩れる勢いで扉を閉めた。
 ツリーに掛けたコートをはおり、俺は家を飛び出した。

 ――出てってやるぅ、こんな家、出てってやるぅ!
 などと漫画の悲劇っぽい思春期の少年を心の中で演じてみる。むなしい。
 日はすっかりと落ちて、辺りは深い蒼に染まっていた。ナイフのごとき冷たい風がコートを切りつけていく。家の前の道路に出る。立ち止まった。
 俺には行く場所がない。
 ふと、昔拾ってきた捨て猫のことを思い出した。
 アパートに引っ越したために、俺と一緒に親戚のところに預けられた猫のカムパネルラ。親戚宅で突然室内飼いに変えられて、いつまでも慣れることができずに脱走ばかりしていた。しかし、中国山地を越え、はるか瀬戸内海の向こう側まで連れて来られたカムパネルラに行く場所はない。いつも明け方には縁の下で小さな体を丸めていた。あいつは今どうしているだろうか。雑種でありながら輝く豹柄の猫だった。そのため、親戚にはコガネちゃんと呼ばれ、いつまでも本名を覚えてもらえることはなかった。きっと今では自分でもかつての名前は忘れてしまい、あの太ったおばちゃんに黄金ちゃん黄金ちゃんと呼ばれているのだろう。
 俺には運よく迎えがきたが、母が再婚しなければ今でもカムパネルラと肩を並べて親戚の家にいたはずだ。
 当時、離婚したてで金がなかったことは知っている。母子家庭になって二人も子どもを抱えるのはたしかに辛いだろう。究極の選択だったかもしれない。しかしどのように理屈をつけようともあのとき母が俺ではなく妹を選んだ事実は未来永劫消えはしない。
 少し、自嘲的になった。
 ズボンのポケットを探る。携帯電話を取り出しながら、一番近い電信柱まで歩いていく。外灯は切れかけているのか、数秒おきに点滅した。光を反射して見えにくい画面で、電話帳を開く。少し躊躇したが、ボタンを押した。
 プルルルル、プルルルル、と、夕闇の中に機械音が溶け込んでいく。 「もしもしー」 「鷹野か?」 「おー、ミズキ、どしたー」  俺は言葉が続かなかった。自分から電話をしておきながら、何と言ったらよいかわからない。いや、電話する前は考えていた。暇だしムカつくしで愚痴でも聞いてもらいたかった。もっと言えば電波越しよりも直接会って話がしたかった。だがそれを俺の口から言うにはあまりにもずうずうしい気がした。
「部活は?」
「それがよー、聞けよ。朝、雨が降って練習できなかったっつって、主将が放課後余計に練習するとか抜かして」
「今もまだ部活中なのか?」
「ああ、でも、もうすぐ――」
「いや、いいわ。すまん」
 俺は電話を切った。
 ポケットに手を入れて、ゆっくりと呼吸する。白い霧が生まれては散った。空を見上げる。黒いベールに宝石をばら撒いたようだった。月は大きな満月で、毒々しい赤色をしていた。
 そういえば、烏丸と朱雀は、今夜、天体観測に行くと話していた。なるほど、よく晴れている。
「この辺りなら、蛇ヶ丘か……」
 ここは山のない地域だ。高くて開けた場所など限られている。プライベートなら、学校の屋上で、ということもないだろう。
「どうせ行くところもないしな」
 気になる。見たくない。でも気になる。でも見たくない。
 しばらく格闘した後、好奇心が勝った。
 人通りのない道路を歩く。車がギリギリすれ違えるくらいの道を、民家が挟んでいる。途中には公民館や墓場もあった。薄暗い中だとこの静けさはなかなか不気味だ。
 幽霊でも出てきそうだな、などと思う。朱雀なら非科学的だと笑うだろうか。
 俺は科学が嫌いだ。
 自分たちこそがこの世の真理と言わんばかりに、あらゆるものを支配し、理解の及ばないものはすべて否定する。独裁者そのものだ。科学で解明できないという、何の根拠もない理由で、存在の認められないものが多く存在するのだ。俺は幽霊を信じている。妖怪も信じている。超能力だってあるかもしれない。月には兎がいるほうが楽しい。
 朱雀には、「悪魔の証明」と、一蹴された。
 断じて言おう。悪魔の証明ではない。証明することを困難とする事象を表すのが悪魔の証明ならば、存在を確かめたものは「悪魔」ではないはずだ。
 畑道に出る。遠くには、市民の森が黒く盛り上がっていた。
 ガサ。
 突然の音に、足を止める。辺りを見渡す。人影はない。俺はポケットの中で手を強く握った。ネギ畑の間で、何かが動く。後ろに飛びのいた。だが、
「ナァー」
 というやや間の抜けた声で、身体がほぐれた。三角の耳をした可愛らしい生き物が顔を覗かせている。
「ナァー」
「なぁー」
 昔の癖が出てしまった。カムパネルラと暮らしていたときは、あいつが鳴いたら、猫語で返事をしたものだ。
 一歩、俺が踏み出すと、猫は生まれ持ったしなやかな肉体美を存分に披露し、実に俊敏な動きで闇を縫いながら姿を消した。チラリと光った首輪を見ると、自分の家があるのだろう。
 胸の痛みが何かは知らない。
 歩きながら、カムパネルラのことを考えた。それは忘れることのできない、夏の日の思い出。俺はあいつとたった一度だけ、会話をしたことがあるのだ。
 あの日、カムパネルラはいつものように家出をした。四国のおばちゃんはふくよかな頬に手を宛て、力なく笑った。やっぱり、嫌いなんやろか。
 違う。違うよ、おばちゃん。
 俺は心の中で何度も思った。だが口には出さなかった。出せなかった。  おばちゃんは優しい人だったが、ここに、なくしてしまったピースはないのだ。そして、それは探しても決して見つけることのできない泥沼の底に沈んでしまったのだ。カムパネルラは探しているのだ。見つからないことは当に気づいているはずなのに。
 探してきます。
 俺はそう言って、夜闇に飛び込んだ。おばちゃんの声は引き止めるには弱かった。
 真っ黒だった。動かした手がかろうじて見えるくらいの真っ黒な世界だった。どこからか鈴の音が聞こえる。カムパネルラの首輪だ。目隠しされた鬼のようなおぼつかない足取りで、音を辿る。カムパネルラの名前を呼ぶ。
 気が付けばずいぶんな距離を歩いていた。
 ミャアア。
 鈴の音よりも可愛らしい声が聞こえる。視線を走らせると、黒いベールの隙間から、赤く光る目が現れた。猫の瞳孔はわずかな光を反射して赤くなるのだ。
 俺がしゃがむと、カムパネルラは膝の上に飛び乗った。
 壁に背を預ける。
 お前も辛いよな。
 ――べつに、辛くないけど。
 俺の身体は跳ね上がった。左右を見る。何もいない。わきの下に手を入れ、カムパネルラの顔をよく見る。
 ――あんたのほうがよほど辛そうな感じじゃない。  カムパネルラはじっと俺の顔を見ていた。声は、脳みそに直接響くような感じだった。初めて体感したテレパシーに、心臓がドクドクする。
 それから一人と一匹は、夜通し会話を続けた。気が付けば空が、地に向けて青から赤へグラデーションがかっていた。
 そう、あの時確かに、俺たちは通じ合えていた。世の中のすべての存在が幻想であったとしても、あの記憶だけは嘘じゃない。あの時間だけは、本物だった。
 俺は科学が嫌いだ。  気が付けば蛇ヶ丘に着いていた。その昔、大蛇が巣食っていたという小山が、無言で座っている。ふもとには公園があるが、今は誰もいない。
 俺は遊歩道に足を踏み出した。ゆるやかな坂道を登っていく。両脇にはだいぶ裸に近づいてきた木々が生え、影絵のように枝を黒くしていた。
 しばらく進むと、開けた場所に出る。そこにもまた無人の遊具が立ち並んでいた。
 滑り台、シーソー、パンダや馬を模した乗り物、半分埋まったタイヤ……人気がないと、あまりにも怖い。
 山型遊具へ顔を向ける。ほんの何気ない、無意味な行動だった。もしかしたら、何かを察知したのかもしれないが、どちらでも関係のないことだった。
 半円の頂上に、何かが座っていた。満天の星と月の光を浴びて、青白く陰影を作っている。思わず口走った。
「朱雀か」
 影が、震えた。
 近づこうとすると、「来るな」野犬が唸るように叫んだ。かまわず進んだ。そこにいるのは確かに朱雀なのに、触っただけで死んでしまいそうな蛍火のごとく、存在がはかなげに見えたからだ。
 拒絶と言う名の鉛の海を泳ぎ、ついに島まで辿り着く。平たい広場の中で盛り上がった遊具は、孤島を思わせた。
 球体から飛び出す突起物をつかみながら、上まで登る。朱雀は背を向けて座っていた。俺は慎重に、顔の見える位置まで動いた。
 これ以上ないほどに吊りあがった眉。殺意に満ちた鋭い目。肉食獣のように荒い呼吸を繰り返す鼻。硬く結ばれた唇。完璧だった。完璧すぎる強さだった。睫毛を濡らす夜露が不自然なほど浮き上がるくらいに。
「お前、泣いてるの?」
 とたん、俺を振り返る。押し殺したような声で一言、
「泣いてない」
「じゃあ目から落ちてるのは何だよ」
「感情が脳神経の副交感神経に伝達し、緊張状態から発生した化学物質を体外に出すために分泌される液体」
「人はそれを涙と呼ぶ」
 朱雀の横に片膝をつきながら言う。朱雀は白衣で目元をこすり(信じがたいことにこいつはデートに白衣を着ていたのだ)、空を仰いだ。
「うっせえ、消えろ」
 俺は口をつぐんだ。聞いても無駄だと理解したからだ。しばらく、星を映す朱雀の瞳を見ていた。
「なあ」
「烏丸と天体観測に来たんだろ」
 烏丸はどこだよ。そういう意味で聞いた。
「もう帰った」
「お前は一人残ったのか」
 沈黙は金……ってか。
 ザリ、という砂のこすれる音がする。朱雀が立ち上がった。肩にこぼれる髪が風に巻かれる。俺の顔を数秒見下ろし、一足飛びで遊具を降りてしまった。呼びとめる間もなく闇にまぎれて消えてしまった。
 寒々とした沈黙だけが残る。
 そして、自分の心臓が高熱を出しているのに気が付いた。冷たい汗が顔面を流れ落ちていく。
 ――泣いていた。
 そんなことは、北京原人が復活したほうがまだ現実味があった。
 人一人分、中心からずれた腰掛けている場所。隣に朱雀が座っていたなど、嘘みたいだった。思い出そうとしても朱雀の泣き顔は描けない。ただ、やけに大きな夜露だけが黒い空間に一点浮かぶだけだ。
 順風満帆に見える恋人の鎖に入った、目に見えないヒビだった。
 ザザザ、と斜面を降りる。ハッと思い立ち、携帯電話を見ると、着信があった。集中していて気づかなかったが、振動を身体が覚えていたのだろう。画面を開くと、長方形のまばゆい光が目に飛び込んだ。俺は目を細め、文字を見る。鷹野マサキ、と表示されていた。
 少し迷った後、リダイヤルをかけた。
「ミズキ、お前、何してたんだ?」
「すまん、着信に気づかんかった」
「つーか、途中で電話切ってんなよ。てめえがかけてきたんだろ」
「いや、忙しそうだったから」答えながら、俺は腕時計を覗く。九時二四分。「お前って何時に寝る?」
「日付変更線はまたぐわな」 鷹野は何も考えていないような声で言った。
「ムカつくことがあった。ロバの耳の穴になれ」
「まった愚痴かよ、しゃあねえな。電話でいいのか」
 ああ、と言いかけて、いやできれば会いたいと答えた。闇の中で夜露の幻影がちらついていた。
 少しの沈黙の後、珍しいなとつぶやく声が聞こえた。
「家、出れるのか」
「ああ」
「風月にでも行くか」
「あっ、それはダメだ」
 俺はとっさに否定した。頭には風月の娘の顔が浮かんだ。もうあそこには行かないと決めたのだった。
「あそこ、夜になると怖いの来るだろ」
 すぐに続ける。あながち、ただの言い訳でもない。ヤクザや不良や一徹親父が遅くなるに連れわらわらと集まってくるのだ。月に一度は酔っ払いの小競り合いが起こり、年に一度くらい血を見る事件に発展する。空き巣だって滅多に起こらない地域だが、治安がよいのか悪いのかわからない。
 とりあえず俺から最寄の駅で待ち合わせることにする。
 停車場は人気がなく、閑散としていた。登下校の時は所狭しと並んでいる自転車も数が少ない。バラックのように質素な待合所の引き戸を開ける。滑りが悪く、砂をこする音が不快だった。誰もいない。中は薄暗かった。窓の向こうの外灯が発する明かり以外は照らすものがない。俺は寒かったのですぐに扉を閉めた。またザリ、と砂のこすれる音がする。壁と合体している木製の腰掛けに座る。
 十五分ほどして鷹野が現れた。
「何でお前制服なの」
 派手なジャンパーのポケットに手を入れたまま、俺を見下ろす。俺は立ち上がった。
 歩きながら、家に帰ってから妹を叩いて家を出るまでのいきさつを話した。鷹野は自転車を押しながら話を聞いている。
 朱雀のことには触れなかった。人に話してはいけない気がした。忘れるために俺はカエデへの怒りをひねり出す。
 初めはだるそうな目でこちらを見ていた鷹野だが、見る見るうちに表情が崩れていった。近所中に響きそうなほど大げさに叫ぶ。
「おまっ、カエデちゃんをぶったのか! しかも顔を!」
「だって、ムカついたんだよ。殺意が湧くほど。それを俺は平手打ちで済ましたんだ」
「いつもの被害妄想じゃないのか。いったい何を言われたんだ」
「口に出したくもないことだよ」
 カエデとの会話は、伏せた。他人に話すにはあまりに残酷であり、俺のアイデンティティに食い込んでいた。
 鷹野は空を見上げる。
「でもなぁ、殴っちゃだめだろー、殴っちゃあ」
「殴ってねえよ、はたいたんだよ」
「どっちでもおんなじだ」
 大きく違うだろ。
「手を上げた時点でお前の負けだ」
 脳裏に鬼の形相をした母が浮かんだ。わからないくらい小さく舌打ちする。こいつも生ぬるい。
「まずは男が女を殴ってはいけない理由を合理的に説明してもらおうか」
 俺が固い口調でそう言うと、鷹野は首を左右にゆすった。
「お前、わかってねえよ。男はさ、本気で蹴っ飛ばしたら女を殺せるくらいの力を持ってるのよ」
 ……普通に無理じゃね?
「でも女がいくら本気出しても素手で男を殺すのは無理だろ? 強い力を持ってる分、それは制御しなきゃならねえの。それ使っちまったら、ただの脅しだろ? 要は思いやりの問題なんだよ」
「その理屈だと、朱雀になら物理的攻撃を加えていいってことになるな」
 あの女はそこらへんの喧嘩慣れした男より確実に強いし、理性が切れている。いや、理性があるのが問題なのか。普通なら躊躇するような恐ろしい真似でも、命に別状のないギリギリの線で実行に移すのだ。すべてが計算ずくだ。
「本当にわかってねえなー、それでも校内一のモテ男かよ。女ってのはよ、どんなにブスでもゴリラでも、女扱いしてほしいものなんだよ。紳士になれって」
 まるで恋愛の大ベテランか心理学者のようなことを言っている。明らかに理のない理屈なのに納得しそうになるところが怖い。
 ――甘い、甘いよ鷹野マサキ。
 なまじ恋愛経験が少ないから、こんなことが言えるのだ。俺は嫌と言うほど女の怖さを見てきたからな。連中を本気にさせたら、蹴り殺すよりもえげつないやり方で精神的に何度も殺されるんだ。過去に俺と別れた女が、仲間を引き連れて目の前に現れたときは、生きた心地がしなかった。あの後どうやって逃げ延びたのかも覚えていないくらいだ。
「これだけ素晴らしいご高説がのたまえるのなら、彼女の一人いてもいいと思うんだがな」
「そこは触れるな」
 俺が鼻で笑うと、鷹野の勢いがなくなった。
 しかし、こうやってもう一度他者に状況を説明すると、客観的に物事を見ることができる。疑問なのは、どうしてカエデがあんなことを言ったかだ。あまりにも唐突だし、何気なく語るにはヘヴィすぎる。笑顔を浮かべた五歳くらいの幼女に竹槍でえいえいと何度も腹を刺されているような不気味さがある。
 カエデは昔から少々無神経な部分のある子だった。機嫌が悪いときはけっこうひどい暴言も吐く。ではよほど今日は機嫌が悪かったのか。最近、自分のことで精一杯だったため意識していなかったが、そういえばカエデの機嫌はずっとよくなかった気がする。だが、それと俺に何の関係がある? 「何をそんなにイラついているのか知らないけど、私に八つ当たりしないでよ」なんて言ったのはどの口だ? 自分が八つ当たりしているではないか。
「カエデちゃん、いい子じゃないの」
「本当、普段は仲いいんだけどな……」
 お互いの機嫌が悪いときに衝突すると、激しい口論になることが多い。そして内容はほとんど無意味で無益だ。これは兄妹の性格だからどうにもならないかもしれない。
 そこで手を上げてしまったのなら、やはり俺が悪かったのか。悪かったのだろう。しかし、一方的に妹の味方をして俺の話を聞かない母の態度には納得がいかない。
「で? 愚痴はこれで終わりか?」
「腹の立つことは数え切れないほどあるが、言葉にできん」
 本当に、最近はどん底だ。
「優等生のお前が家出とな」
 ジャンパーの上から体をさすりながら鷹野は言った。畑の砂を巻きながら風が通り過ぎる。
「俺もしたっけな」
 小学生の時だけどな、ニヤッとしながら続ける。
「うるさいぞ」
 俺は顔をそらした。
「さて、これからどうする。俺んち泊まるか」
 かごから落ちそうになっていた鞄を詰め直して、鷹野はこちらを見た。俺は手を前に突き出した。
「他人の家に泊めてもらうわけには」
「遠慮すんなよ。中学ン時はたまり場だったんだぜ。今でも部活の仲間とかよく泊まるし」 
 そう言うが、俺は、他人の家族の世話になるということが、 「……生理的に無理だ……」  顔を手で覆う。指の合間から、鷹野が大きく肩をすくめるのが見えた。
 俺は顔から手を離した。
「明日までサバイバルごっこしようぜ」
「俺は帰るぞ」
 即答だった。ムカッとした。
「なんだと、貴様、俺を一人にしようってのか!」
「わーったよ、わーったよ」
 俺が怒鳴り終わらないうちに、鷹野は投げやりな口調で繰り返した。
 口では偉そうに言ったが、内心では震えていた。それは手がかじかんでいるからとかではなくて、拒否されたらどうしようという不安からだった。同時に、非常に申し訳ない気分になった。何で俺、こんなに我がままなんだろう。一人で行動できないのに、家出するなんてどこまで馬鹿なんだ。
 そしてこんなことをうじうじと考えている自分の性格が何よりも嫌いだった。
「さみぃな」
「寒いな」
「コンビニでも入ろうぜ」
 この時間で開いている建物など、コンビニくらいしかない。俺はうなずいた。コンビニまでもそれなりに距離があるが、止まっているよりは歩いている方が体も温まるだろう。
 目的地を定めた俺たちは、やる気のない足取りで夜道を歩いた。
 自営業の小さな店が並ぶ通りを歩いているときだった。
「お前ら、そこで何やっちょる!」
 突然の怒鳴り声に、俺たちの記憶しりとりは中断された。俺と鷹野は、反射的に後ろを向く。そして鷹野の自転車に飛び乗って走った。
 待てぃ、と叫びながら巡査は自転車の車輪をフル回転させる。
「鷹野、もっと早く走れ」
「お前が降りてくれたらな」
 俺は鷹野の肩をもげるほど強くつかんだまま、首を回す。巡査はもうすぐそこまで来ていた。相手が家の近くにある駐在所の人と気づく。咄嗟に前を向き頭を低くする。
「逃げても無駄だぞー。髪長いほうが吉鶴さんちの坊主なのはわかってるんだ」
 思ったとおり、面が割れていた。逃げるのは無理だ、と判断し、鷹野に止まるよう促す。鷹野が俺を見捨てて静止しない可能性も考えたが、そんなことは起こらなかった。
 自転車を止めると、瞬間移動よろしく駐在のおじさんが目の前に現れた。自転車を降りながら、吉鶴、と鷹野が首をかしげる。
「親の名字だよ。うち再婚だけど、義父と養子縁組してないから、親と子どもで名字が違うんだ」
 俺は小声で説明した。鷹野はまだ要領を得ていない様子だった。
「あれか、磯野家のフグ田サザエみたいなものか」
「そう思っとけ」
 サザエさんの名字って磯野じゃなかったのか。初めて知った。
「お前らぁ、今、何時だと思っちょる?」
 四十過ぎの恰幅の良い腹をさすりながら、意外なほど緊張感のない声を出す。俺は会釈するとそそと鷹野の後ろに隠れた。鷹野は「十時くらいっすかぁ〜」と、ロリータのように首をかしげながら言う。全然、可愛くない。十一時前じゃ、と毅然とした声で否定された。
 駐在さんの口調に、俺は噴出しそうになった。この人が転勤してきたのが三年前、地域になじむために方言を覚えたのだろう。言い回しはまさしく地元の方言だが、イントネーションはまるっきり標準語なのである。このアンバランスさがなんともおかしい。無論、馬鹿にしているわけではない。うちの母も故郷と地元の方言と標準語の混ざった奇妙な言語を使う。俺自身は転校先でちょっとからかわれたのが原因で方言は一切使わなくなってしまった。だから余計に、悪い意味ではなく笑いたくなった。
 鷹野は「勘弁してくださいよー」なんて言いながら苦笑いしている。
「まあ若いからなー、夜遊びするくらいが健全かもしれんが。下手したら補導されて親と学校まで連絡されとったぞ」
 はよぅ帰れ。次、見かけたら容赦せん。それだけ言うと、駐在さんは颯爽と去っていった。俺たちは呆気にとられてしばらく道の真ん中に突っ立っていた。
「……帰るか」
「そうだな」
 俺はごく自然にうなずいていた。妹に謝る気はなかったが。  家の庭先まで来て、立ち止まる。  玄関の明かりがついていた。  しかも、誰かがドアの前に立っている。背広を着た細身の男性だった。顔はぼんやりして見えなかったが、誰なのかはすぐにわかった。
 うっわ……と思わずつぶやいた。鷹野がいぶかしげに俺の顔を見る。
「カツラおじさんだ」
 鷹野は目を細めて玄関の人物を見た。
「あのおっさん、ヅラなのか?」
「名前だよ、馬鹿。母親の再婚相手」
「……お父さんって呼んでやれよ」
「無理。やっぱり野宿しようぜ」
 俺はきびすを返そうとした。だが鷹野にコートの首根っこを引っ張られた。そのまま家まで引きずろうとするので、仕方がない、放してもらう代わりに自分で歩いた。気まずいが、引きずられていくのはもっと気まずい。
 俺たちとの距離が三メートルくらいになったところで、再婚相手は顔を向けた。こちらに一歩足を踏み出したが、結局それ以上は動かなかった。
 鷹野は手を振った。こいつの物怖じしない性格はすごいと思う。正直、羨ましい。ほんの少しだけ。
「すんませーん。俺、ミズキくんの友達なんですけど。遅くまで連れまわしちゃって申し訳ありませんでした。いやー、うちは門限とかないからつい」
 じゃー。俺を相手の前に立たせると、脱兎のごとく走り去った。オレンジ色の光の下に俺と義父だけが残される。
 義父は三十代半ばの健康的な男前だった。母もよくこんな若い燕を捕まえたものだと思う。彼のことが嫌いだというわけではない。ただ、他人だという意識はどうしても消えなかった。
 遊んでもらった記憶は少ないが、それでも俺は自分の父親が好きだった。四国から帰ってきて、彼がいたことで、もう二度と父が帰ってこないのだと悟ることになる。あの時感じた狂おしいほどの絶望は誰にもわからない。
 とにかく、今の状況はいたたまれなかった。何でいるんだろう? 疑問と困惑が頭の中でブリザードだった。普通、この時間なら寝てるだろう。まさか仕事から帰ってきてからずっと玄関に立ってたということはないよな? この人とは荒波を立てずに生活したかった俺の顔は、たぶん青ざめていたんだろう。
 義父は軽く笑った。 「ん、おかえり、ミズキくん」
「遅くなりました」
 少しの沈黙の後、義父は玄関扉を開けた。俺に入るように促す。気が引けたが、入った。入り口の電気は付いていた。義父も後に続いた。俺は靴を脱がすに気をつけで立っていた。義父は少しおどおどしてから、家に上がった。
「じゃあ、父さんはもう寝るから。……おやすみ」
 そう言うと、階段の電気を付けて二階へ上っていった。はあ、おやすみなさい。おじさんと、後姿に一拍遅れて返事する。
 義父の姿が見えなくなってから、俺は上がり口に腰を下ろした。両手で顔を支え、目を瞑る。しばらくそのまま動かなかった。全身から疲れが溢れ出し、背中に石でも負っているようなだるさだった。このまま玄関マットの上で丸まって眠りたい気分だったが、そういうわけにいかないのは自分でよくわかっていた。ゆっくりと顔を持ち上げ、靴を脱ぐ。コートを服掛けに掛けながら、ふと、左を見て、驚いた。居間の電気が付いていた。
 ――まさか家族全員で眠らずに待機してたんじゃあるまいな。  嫌がらせか? 俺に罪悪感を与えるためにわざとこんな真似をするのか?  一瞬、このまま部屋に直行しようかとも思った。だが、さすがにそれはできなかった。薄情すぎる。
 俺は居間の扉を十センチくらい開けた。
 コタツの上に、だらりと頭が転がっている。髪が茶色いから母だと判断した。俺に気づいたのだろう、母が顔を上げた。
「おかえり」
 母の顔は疲れていた。俺はただいま、と言って中に入った。部屋内を一瞥する。母だけだった。
「カエデは?」 「とっくに寝たわえ、この時間なのに」
 まあ、そうだろうな。安心すると同時に、少し、胸が痛んだ。
 そのままでいるわけにもいかないので、居間に入る。さて俺は困った。一言謝るか、それともあの時の状況を説明するか、はたまた母の態度の異常性を説き逆に謝ってもらうか。どれも勇気のいることだった。こちらから謝って、一方的に悪者にされるのは腑に落ちない。だからと言って、状況説明をしても、カエデの非は伝わらないだろう。あれはそっくり俺の立場になってみなければ理解できまい。俺の過失を棚に上げて母に謝らせるのも気が引ける。
「イースター島のモアイ像」
「は?」
 唐突に発せられた単語に、俺の思考は止まった。母はまた言った。
「だから、イースター島のモアイ像」
「モアイ像?」
「見れなかったね。面白かったのに」
 ああ、と、思い出した。九時からイースター島にあるモアイ像についての特集番組があり、それを見ようと話していたのだ。今の今まで忘れていた。
「なんかね、木のそりに乗せて縄で引っ張ったんだって」
 モアイの動きを表しているのか、左から右に両手を動かす。モアイの謎について説明し続ける母を見て悟った。ああ。
 なかったことにする気なのだ。
 うちの家族(除く、義父)に共通する悪い癖。それは「ごめんなさい」のできないことだ。家庭内戦争勃発の後、自分の非を内心で認めつつも、素直に降伏することがまずないのである。母がそういう性格なのだから、子どもも謝れない人間になっても当然と言えば当然だ。そして、謝らなくても何とかなるのが家族というものなのである。
 ならば、こちらも母の思惑に合わせるまでだ。
「録画でもしてくれたらよかったじゃないか」
「やだわ、面倒くさい。あーあー、せっかく今日はナスとトマトの作ったのに」
 脈絡もなく夕飯の話になった。
「ナスとトマトの」というのは、茄子とトマトを深皿に敷き、その上にホワイトソースとチーズを載せて焼く、母の持ち料理だ。我が家ではハンバーグ、から揚げに続く人気メニューだった。家出なんてするんじゃなかった、と半分後悔した。
「もう冷えちゃったわ」
「え、あるの?」
 居間は台所と一体化している。母は奥の電子レンジを顎で指した。
 俺はレンジまで歩いていった。開けると、深皿の中に半分くらい野菜とチーズの塊が入っていた。どうやら、俺の分だけ寄せておいてくれたらしい。
 ありがたさを深くかみ締めた。  と同時に、申し訳なさが募った。母にしろ義父にしろ、明日も仕事だというのに、わざわざ起きて待っていた。晩御飯まで残しておいてくれた。
「じゃあね、ナスとトマトのはオーブンで暖めて。ご飯も釜からタッパーに移してレンジで暖めて。味噌汁も以下同文。……ちゃんと暖めなさいや? おやすみね」
「おやすみ」  今しがた母が席を空けた場所に座り、腕を組む。
 わざわざ、俺の飯を作ってあるとは思わなかった。
 風月でラーメンを食べて帰ったときは、その旨を話せば夕飯は出ないか、軽いおかずが出されるだけだった。家にいないなら、なおのこと食事なんて作らなくてもよかったはずだ。しまいには、俺に対するあてつけなのではないかとすら思えてきた。
 コタツの上に箸たてがある。その中に入れられているスプーンを取る。冷たいまま、茄子を口にかきこんだ。何度も噛んで、ゆっくりと飲み込む。息が詰まった。泣きそうだった。ご飯と味噌汁はいらなかった。
 しばらくコタツに横になった後、皿を片付け歯を磨き、部屋に戻った。くだらないことで家出はしないと誓った。

 

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