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愛と狂気の青春時代 その五

 
 五、

「朝から寝るなって」
 机に突っ伏していると、頭をはたかれた。顔を上げる。鷹野が軽く手を上げて挨拶した。俺はそのまま机に頭を戻した。
「眠い」
「だらしがないぞ。俺なんて今日も朝練してきたんだからな」
「さすがは体育会系。筋肉馬鹿には俺の華奢な肉体が理解できんのだ」
「だーれのせいで昨日遅くなったと思ってんだか」
「昨日、何かあったの?」
 鷹野の後ろからぬっと背の高い男が出てくる。烏丸だった。青白い顔で俺たちを見ている。同時に、昨夜の朱雀がフラッシュのようにパッと両目を支配した。
 鷹野は品のない笑い方をしながら烏丸の肩に腕を回した。
「俺たちのこたぁどうでもいいって。ツツジー、お前のほうこそ、昨日はお楽しみだったんじゃねえのー?」
「何が……」
「『何が……』じゃねえよ、朱雀と二人で天体観測行ったんだろ? まさかその後何もしないで帰ったなんてこたぁないよなぁ。なーなーなー?」
「残念ながら鷹野クンの期待するようなことは何もなかったよ」
「本当かなぁー?」
「……しつこいな……」
 そんなやりとりをしながら、二人はフェードアウトしていった。
 鷹野はいいやつだが、デリカシーがまったくないのが欠点だ。烏丸のほうがまだ可愛いというものだ。
 授業中も昼休憩も、インテリバカップルを観察したが、特におかしなところはなかった。いつものように、目を覆いたくなるようなのろけっぷりだ。放課後には、蛇ヶ丘で見たものは幻だったのかと半分くらい思うようになった。
 二人はアルジャーノンがどうのと話していた。どうやら、ハツカネズミを生物室で飼い、世話をしているらしい。アルジャーノンという名前を付けて。
 気の狂いそうな怒りとともに一日を過ごした。
 鷹野といても気がまぎれることはなかった。
「やっぱし、恋人がいないとダメだ」
 うさぎは寂しいと死ぬらしい。俺も寂しいと死ぬ。
「はああ?」投げるように鞄へとノートを詰めながら、鷹野が呆れた声を出す。教室の時計は四時前だった。
「もう諦めろって。千鳥先輩と別れた時点で、お前に付き合える女はいなかったんだ」
「カスミか……」
 千鳥カスミから告白されたときは嬉しかったものだ。女に告白されるのには慣れていたが、相手が学校一の美女となるとまた違う。いや、学校一の美女だとか演劇部のマドンナだとか、そんな肩書きはどうだってよかったんだ。彼女には人を惹き付けるオーラがあった。それは生まれながらに身に付いているものではない、歩んできた生き様で形なされる、すなわち人格なのだ。役者に最も必要なものを彼女は備えていた。それに比べたら美の究極なんて藻屑みたいなものだ。
 九月の文化祭、舞台で初めて見た千鳥カスミは、人々の嘲笑を受ける哀れなピエロだった。馬鹿にされてでも人に愛されたいと、白塗りの顔に涙の粒を浮かべて笑う姿は忘れられない。凄惨なまでに醜く美しく人の感情を抉り出す演技。他の観客と同じく、あの一瞬、彼女に心を奪われた。だから俺は、付き合うからには絶対に手放さないと決めたんだ。決めたのに。相手から離れてしまったらどうしようもなかった。そうならないように、俺は俺なりの努力をしたはずだった。
 白鷺ミズキ、くん、だよね。
 えっはい、そうですけど。
 私は二年四組の千鳥カスミというのだけれど。
 あっ知ってます。
 あなたに少し興味があるの。よければ恋人になって下さらない。
 今、思えば意味深長な告白だったな。興味があるというのも変な表現だ。そもそも、演劇一筋と言われる彼女が、俺と付き合いたいとなぜ思ったのかも不思議だ。何か、特別な理由でもあったのか。彼女に興味を持ってもらえる何かがあの時の俺にはあったのか。
「より、戻せないかな」
 思わずつぶやいていた。
 下駄箱前で会った日のことを思い出す。嫌いな男がうずくまっていてもわざわざ声なんてかけない。カスミは、俺を嫌いになったわけではないはずだ。
「無理だ」
 鷹野は即答した。確かに普通は無理だろう。
 だが、
「フラれた理由くらいは聞けるだろ。それで、改善さえすればまたうまくやれるかもしれない」
「そういう問題じゃ……って、おい!」

 荷物をまとめると、鷹野の制止を振り切って教室を走り出た。

 このとき鷹野マサキは、
 ――困ったやつだ。
 と後を追いかけようとした。律儀に閉められた教室の扉を開ける。と、
「待ちなよ」
 鷹野の前に烏丸ツツジが現れた!
 出入り口を挟んで鉢合わせた形だ。
「おまっ、脅かすんじゃねえよ」
 烏丸は聞いていなかった。白鷺の走り去った方角を見ている。
「おせっかいもやりすぎはよくない。放っておくのがいいんだよ」
「つってもなぁ」
 鷹野は鼻の頭をかいた。
「一度、痛い目を見てみないとわからないんだよ。白鷺クンみたいなタイプは」
 烏丸にそう言われて、「それもそうか」と納得する。俺はミズキを甘やかしすぎていたのかもしれない。
「そう言えば、お前、朱雀といなくていいのか?」
 烏丸が一人であることに疑問をぶつける。
 ああ、と少し眉を寄せる。
「彼女は、今日は用事があるらしい」


 俺の通う高校には、体育館が三つある。市から金が出るのか知らんが、体育館に限らず、敷地内にはこれでもかというくらいごちゃごちゃと建物が建てられていた。
 三つのうち、一つはすでに公的には使われていない。この旧体育館を、演劇部は練習に利用していた。
 新しい体育館二つを通り過ぎる。
 他二つの体育館が淡いピンクやベージュで綺麗に塗られているのに対し、旧体育館は質素だった。灰色の壁には風雨で出来た浅黒いしみがいくつも残っている。
 体育館の扉は閉められており、中で何をしているのかはわからない。ただ、演劇の台詞であろう声がかすかに聞こえてくるだけだ。
 演劇部は現在、来年ある全国大会の練習をしているらしい。演目はシェイクスピアの傑作『ハムレット』……の喜劇版だとカスミが話していた。
 カスミはハムレットの恋人、オフィーリア役をするという。
 そのことでも口論になった。今、思えば俺が一方的に怒っていただけだった気もするが。
 ハムレット役は演劇部でも実力派の二年男子だった。舞台の後なんかはカメラ付ケータイと色紙を持った女が群がるような男だった。そいつと恋人役を演じるということが、俺はどうしても許せなかった。だからと言って花形女優に役を降りろということも出来ず、ハムレットを女役者に変えてくれとも言えず、かなり悶々としていた。帰りが七時を過ぎることもざらな部活だが、無理に六時半には帰らしたりもした(それでも俺は、六時半までわざわざ図書館で待っていたんだ)。付き合うからには、恋人らしくしてほしかった。それだけだったのに。
 再び付き合えるのなら、その辺りは妥協しよう。
 そう自分に言い聞かせながら、体育館の重たい扉を押し開けた。
 扉の向こうには、俺の知らない世界が広がっていた。
 白い照明に照らされながら、蟻のごとくせわしなく動く大勢の人間。ある者は喉が枯れるほど大声で叫び、ある者は剣を片手に舞うように動く。壁際に整列して黙々と腹筋や腕立て伏せをこなす一群もいる。誰一人として俺を見る者はいなかった。暖房など備えられていないのに、真夏のような暑さだった。
 ――これが、実力、県内随一の熱気……っ。
 意味もなく土下座して泣き叫びたくなる迫力だった。
 とてもではないが、部外者が足を踏み入れてよい雰囲気ではない。
 半開きの扉から頭だけを異次元に浸らせ、どうしようかと逡巡する。
 と、その時。つむじ風を切り裂くように、おぞましい叫びが耳に届いた。とっさに声のほうを見る。壇上からだった。
 オフィーリアだ。
 恋人の変貌と父の死に嘆き憂い悲しみ狂うオフィーリアがそこにいた。
 長い髪をかきむしり、体を前に折って、ドレスのスカートをぐしゃぐしゃにしながら、絶望に満ちた声を出している。俺には細かい表情は見えない。だがそれでも、舞台に立つ女性が目に涙を溜め幽霊よりも顔を青くしている様がありありと浮かんだ。
 俺は扉を押し開けた。ふらふらと異次元に引きずり込まれる。俺の目にはオフィーリアしか映っていなかった。周りの連中はすべてモブと化した。走っていた。
 正気を取り戻したのは、突然舞台上に乱入した俺を見たオフィーリアが「白鷺くん?」と半ば唖然としながらつぶやいたときだった。
 そこにはオフィーリアはおらず、銀色のドレスに包まれた千鳥カスミがいるだけだった。
 同じく舞台上や、舞台袖にいるほかの部員が、唖然とした顔で俺を見ている。下を見ても、みんな練習の手を止めていた。
 俺はその場に立ち尽くしたまま、動けなくなった。このまま石ころにでもなってしまいたい。
 後ろから肩を叩かれる。体がビクリと跳ねた。少し迷ったが、振り返る。
 肌が浅黒く、前髪の一部が白い、貴族姿の男が怪訝な顔で俺を見ていた。一発で理解する。こいつがハムレットだ。
「あの、君は?」
「…………あ」
 俺は返事に窮した。いっそ気狂いの真似事でもすれば楽ではないかと思ったが、本物の役者を前にその勇気はなかった。
 男に気をとられているうちに、すぐ隣にカスミが移動していた。
「外に行こう」
 そう言うとカスミは俺の手を引き舞台を降りた。
 旧体育館の裏も、新体育館と同じく、丸太が数本重ねてある以外は何もなかった。ぐるりと囲む松を背景に、カスミが俺に対面する。
「びっくりしたよ。いきなり舞台に突っ込んでくるんだもん」
 カスミは首をかしげながら苦笑した。決して嫌な笑い方ではなかった。
 俺はうつむく。いざ本人を前にして、どう切り出せばよいのかわからなくなる。
「すごいな、練習のときから、こんな格好してるのか」
 上目遣いにカスミを見る。高校演劇の衣装とは思えない、見栄えよく仕立てられた銀色のドレス。レースの施されたスカートは、腰からアンブレラのように広がり、その下からほっそりとした足首が覗く。
 付け毛でもしているのだろう、長い髪はいつもよりさらに長く、巻き毛も強くなっている。顔は白いドーランに覆われ、薔薇のような真っ赤な口紅を引いていた。
 カスミは口元に手をやりながら笑った。なにやら動作まで貴族めいている……まだ役が抜け切っていないのか。
「今日は特別。衣装係の子が、仕立てが済んだって言うから。着てみたらちょっと盛り上がっちゃって。本格的に決めてみただけ」
 俺は顔を上げ、まじまじとドレスを見た。これを生徒が手縫いで作ったということか。下手なコスプレ用品より出来がいい。演劇部の輩は、あらゆる面において俺とは住む世界が別に感じられた。そういえば、役者志望ではなく衣装作りを目的にして入部する人もいるのだと、以前にカスミから聞いた気がする。
「さっきの、次の劇の、だよな。オフィーリアが気を病んだ後……」
「覚えていてくれたんだね。次の台本が『ハムレット』だって」
 嬉しいな、そう言ってカスミは笑った。カスミの微笑には浄化作用がある。心が落ち着くのだ。
 忘れるわけがない。二人で帰路を歩いたのは、俺にとってはまだついこのあいだの話だ。カスミにとってはもう過去の出来事になっているのだろうか。
「オフィーリアの狂気はもっと静かなものだと思っていた」
「コメディだもの。思いっきり叫んだほうがテンションが高くていいじゃない」
 ……あの気の違いようがコメディというのなら、僕はもう何も言うまい。
 ふっと、彼女の顔が目の前に近づいた。前かがみになって、俺の顔を覗いている。思わず後ずさった。
「いったいどうしたの? なんだかおかしいよ?」
 笑いながら言った。
 そうだ。言わなければならない。俺も彼女も、これ以上時間を無下に使うわけにはいかないのだ。背筋を伸ばした。カスミも、何かを感じたのか、体を起こし、真剣な顔で向き合った。
 ためらっていてはいつまでも言えない。
「カスミ」一息に言った。
「いろいろ悪かった。もう我がまま言わないから俺とまた付き合ってくれっ」
 カスミは黙して俺を見ていた。その顔に微笑みはたたえられていなかった。目を見開いている。瞬きしない。俺も瞬きしない。自分の鼓動を聞きながら返答を待った。
 唐突にカスミの手が動いた。パァンッと風船の割れる音がする。目に火花が散った。頬に痺れを感じ始めて、やっと自分が何をされたのか気が付いた。
 カスミは今までに見せたことのない厳しい目つきをしていた。
 頬に手を持っていく。指先で撫でても、痛みは消えなかった。何か言いたいのに、何を言いたいのかわからなかった。喉より向こうに言葉が出ない。
 叩かれた衝撃で、思考まで白く飛んだ気分だ。
「それが我がままだとわからない?」
 静かで、しかし胸に切り込む口調だった。
 俺は動揺していた。カスミに平手打ちされるのも、睨まれるのも、責められるのも、まったく想定の範囲外だった。
「どうして別れることになったかも考えず、自分の都合でまた付き合ってほしいだなんて、馬鹿にされた気分だよ」
「俺、そんなつもりは」
「あなたがどんなつもりかは関係ないの。相手がどう受け取るかが問題なの」
 語調を緩めることなく畳み掛けた。カスミに言葉を遮られたのは初めてだった。俺の知っている彼女は、どんなときでも俺がしゃべり終わるのを待ってから、自分の主張をした。
 自分よりずっと年上の、どこか高貴な身分の女性にたしなめられている気分だ。まさか彼女の格好のせいばかりではあるまい。
 俺が目を泳がせていると、カスミは軽いため息とともに表情を和らげた。
「言葉って難しいよね。ちょっとしたニュアンスの齟齬で、相手と自分の認識に埋められない溝が出来たりするんだから。劇の脚本でも、読む人によって台詞の解釈とかが違って、役者と演出家の間で大喧嘩になったりとかあるんだよ。だから、相手に誤解を与えないように、精一杯努力して、言葉も態度も気をつけるの。白鷺くんは努力した? しゃべる前に、相手の気持ちを考えている?」
 そう言われると、何も答えることが出来ない。
 俺は、いつでも、相手の気持ちを自分に都合がよいように解釈していた。それは相手の気持ちを考えているのとは違う。そんなことにすら今まで気が付かなかった。自分が今までどれほど甘い認識で世を渡り歩いてきたかを自覚した。
「カスミは……何で、何で俺と付き合おうなんて思ったんだよ」
 寄りを戻そうとは言わないけれど。これはやはり聞いておきたかった。
 カスミは目を伏せ、唇に指を当てた。
「噂になってたのよ。化け物みたいに綺麗な顔した一年生がいるって」
 化け物みたいはひどいだろ……。
「でも付き合う相手を次々に捨てるから、部内ではすでに評判悪かったのよね」
「違う! 俺は自分から相手を捨てたことなんて」
「わかってる。私、本当かしらって白鷺くんのこと見てたから。言われているような悪い男の子には見えなかった。あなたとても優しいし、相手のこと大事にしてるのすごくわかった。でも少し頑固なところがあって、優しさが空回りしてるのよね。心がすごく繊細でちょっとしたことで自信喪失して、落ち込んで、ついつい相手のせいにしたくなっちゃうんだよね。そういうところが何だかハムレットみたいで」
「ハムレット?」
「うん。だからあなたと付き合ってみたくなったの」
 何だよそれ……。めちゃくちゃじゃないか……。役作りのために俺と付き合ったって言いたいのか? 俺を落ち込ませてそんなに楽しいのか?
「じゃあ、お前は、べつに俺のこと好きだったわけじゃないんだな」
「そうね。正直に言えば、恋愛感情はなかったわ。でも何だかあなたが可哀想で放っておけなくて……」
 同情か。俺は傍から見てそんなに惨めだったのか? それなら役作りに利用してくれたほうがまだましだった。
 俺は唇を噛んだ。カスミは俺の心中がわかったのだろう。落ち着いた声で続けた。
「私、あなたに失礼なことしたと思ってる。叩いてくれていいよ」
 頬の痛みはまだ引かない。俺は自分の手をぐっと握った。
「そういう言い方は卑怯だ」
 そう答えるのが精一杯だった。
「卑怯でごめんね」
 カスミは悲しそうだった。
「俺と別れたのは、やっぱり噂どおりのつまらねえ男だったからか」
「あなたが嫌いになったとか、失望したとかじゃないの」
 首を振る。
「私にとって何よりも大切なものは演劇なのに、あなたはそれをわかってくれなかったじゃない。自分のことをわかってくれない相手といるのは、お互い辛いでしょ」
 わからなかったわけじゃない。許せなかっただけだ。カスミが舞台に立つことを何よりも愛し、心の拠り所にしていることはよく知っていた。だったら俺は何なのか。恋人こそが心の拠り所にするべきものではないのか。俺はただ、優先順位が、冷たくて何も言いやしないひのき舞台よりも低かったことに耐えられなかったんだ。
 カスミはゆっくりと話していく。あの日「疲れちゃった」の一言で片付けられた顛末を。
「部活で遅くなるのをあなたが許してくれないから、私、聞いたでしょ。『私のオフィーリアが見たくないの』って。そしたらあなた、『俺がハムレットじゃなければいやだ』って。それ聞いて、やっぱりダメだって思ったの」
 ハムレットに似ていると言われてしまえばそれまでだ。
 馬鹿王子ハムレットは、オフィーリアを幸せにできないどころか、死なせてしまうのだ。
 俺は喉から絞り出すように言った。
「……たとえ劇中でも、好きな女が他の男に恋焦がれる姿なんて見たくないだろ」
 相手役の男は、「アドリブの銀河皇帝」の異名を持っている。決して悪乗りにならない程度に、即興で観客の笑いを取るのがうまいのだ。世辞でも男前とは言えない。だが、雰囲気がある。それは認める。大半の男が、こいつにはかなわないと、本能で悟るような、カリスマ性というのか、そういうものがあった。だからこそ、許せなかったのだ。役者であるあいつとでは、俺は同じ土俵に上がることすらできない。
「そうだね。こういうこと、付き合っているときにちゃんと話し合えばよかったのにね。言葉にしなくてはわからないことって、やっぱり、あるよね」
 カスミはそう言うと寂しげに笑った。
 俺はカスミの言うことに聞く耳を持たなかったし、カスミも俺に何も言わなかった。それがいけなかったのだろう。思えば、いつも別れるときには遅すぎて、相手と理解し合えるほど話し合ったことはなかった気がする。
「私はね、演劇のこと白鷺くんに理解してもらおうなんて思ってないのよ。ただ、演劇を好きな私を理解して欲しかったの。そういうのって、大事なことだと思うのよ」
 女が一番輝ける場所を優先してやれるのが男の甲斐性だと思うわ、と付け加えた。 彼女の言葉は柔らかく、自然と懐に入ってくる。決して責め立てるようなものではない。相手におのずから反省を促す力があった。熱くなっていた頭を鎮め、客観的に自分を省みる余裕が生まれる。
 カスミが舞台に立つことで蔑ろにされているように感じていた。
 滑稽だ。彼女の舞台姿に心を奪われたはずなのに。
 カスミは一歩前に出た。俺の両腕にそっと触れる。近い。距離をとるべきと思ったが身体が動かなかった。物質的なものではなく精神的な領域で俺のごく近くまで踏み入ってこられた気がした。戸惑った。けれど嫌ではなかった。風は冷たい。けれど寒くはなかった。
「私はあなたとは再び付き合うことはできません。残念だけど、仕方がないの。私自身が未熟で、お芝居と恋愛を両立できるほど器用ではないから。だからあなたは、今度、好きになる人のことを考えて。相手に合わせることはしなくていいから。相手の価値観を否定しないで。自分の価値観も認めてもらって。自分のためじゃなくて相手のために付き合えるようになって。あなたは優しくてすごくいい人だから、きっと出来るから」
 殺風景な体育館裏で、目前の笑顔だけが輝いていた。
 ああ。
 千鳥カスミは、俺ごときが付き合ってよい女ではなかったのだ。
 こんな迷惑極まりない男にすら、濁りない慈悲の心をかけてくれるとは。あなたは本当に人の子なのか。実は女神なのではないか。
 こんないい女と、一ヶ月も付き合うことが出来た奇跡を、天に感謝せねばなるまい。
「じゃあ、さよならしてもいいかな」
 何か言いかけたが、そのまま口を閉じた。これ以上、話すことはない。
 少し寂しかった。だが、引き止めることは出来ない。彼女の人生と俺の人生は轍を重ねることはもうないのだ。それはすべて俺が愚かだったからだ。
 俺は無言のままうなずいた。カスミは俺から手を離した。
 カスミが、俺の横をすり抜ける。漆黒の髪が風に巻かれる。スカートの裾をはためかせながら、視界から消えていく彼女の姿をじっと見ていた。一人になって暫時過ぎた後、俺はその場にしゃがみこんだ。顔を手で押さえる。
 このまま泣いちゃおっかなあ、と思い始めたとき、木の揺れる音がした。風はない。俺はすぐに立ち上がり、背景の松を見る。
「よっ、潔くフラれたか」
 木の間から鷹野がひょっこり現れた。いや、こいつにはひょっこりなどという可愛らしい効果音は似合わない。俺は怒鳴った。
「何でお前がそんなところにいンだよ!」
「心配だから来てやったんだろ。外から回れるしな、ここ」
「出歯亀め。いつからそこにいたんだ」
「『もう我がまま言わないから俺ともう一度付き合ってくれっ』のあたり?」
 うああああ、やめろおおお、口真似をするな頭が割れる。
 頭をかきむしりながら身悶える俺の肩を、鷹野が叩く。
「おうおう、顔がえらく腫れてるな。気持ちいいくらいの勢いだったもんな。千鳥先輩のビンタ」
 そう言われて、自分の頬を触る。すでに痛みは引いていたが、感触と衝撃は残っていた。いつまでも消えないかもしれない。
「どうだ? 突拍子もなくぶたれた気分は」
「痛かった。心が」
「だろ?」
 鷹野は苦笑いした。
 ケリを付ける。そう誓った。


 朱雀の家まで自転車でザッと向かう。朱雀はどうせ自然観察の部活で遅い。烏丸は朱雀を家まで送ってから帰路に着くと言っていた。だから、朱雀家の前で待ち伏せしていたら二人が来るはずだった。
 小路には家が軒を連ねている。その中の一つが朱雀家だ。ひび割れたブロック塀に囲まれた平屋を見る。大きくも小さくもない、和風のよくある家だった。俺は門のわきにしゃがんだ。
 時どき人が通り過ぎる。俺をちらりと振り返るが、気にしていられない。 コートの襟を立てて、頬まですっぽりと隠す。風が冷たい。日も暮れてきた。先ほどから時計を何度も確認しているが、二分ずつくらいしか進んでいない。ふと、角を曲がり、人が歩いてくるのが見えた。さらに首を縮めて顔を沈める。
「ミズキくん。そんなところでどうしたの」
 思いがけず話しかけられ、顔を上げた。黒いセーターを着、ジーパンをはいた足の長い女性が立っていた。朱雀の母親だった。買い物袋を提げて不思議そうな目で俺を見下ろしている。俺はコートの襟を折って立ち上がった。暑くもないのに首が湿ってくる。
「えっ、いや、僕、その、アヤメちゃん待ってて」
 うわ、「ちゃん」とか言ってしまった。
 夕方でよかった。顔がほてったのがわからない。
 おばさんは豪快に笑った。それから門を開けて手招きする。
「だったらほら、寒いでしょ。中に入って」
「いえ、外で待ちます」
「ほらほら早く」
 聞こえていない様子だった。こうなるともう駄目だ。断れない。俺は仕方なく敷居をまたいだ。おばさんは門を閉めて、俺を先導しながら歩く。
 おばさんは俺より少し背が高くて、すらりとしたモデル体型をしていた。綺麗というよりは格好いい人だ。顔の造作は朱雀とよく似ているのだが、何かが違う。目の下の隈はないし、肌は綺麗だし、いつもはつらつと笑っている。どことなく陰険な朱雀の表情とは大違いだ。髪は枝毛一つない完璧なストレートで、うなじの少し上でまとめている。そして四十前とは思えないくらい若いのである。
 母親がこれだけ美人なのだから、朱雀もそのうち化けるんじゃないか……そんな風に思っていた時期が、僕にもありました。幻想でした。
 お邪魔します、と中に入る。少し狭い上がり口。廊下の向かいにあるすりガラスの扉。右手にふすま、左手は長い廊下。懐かしい光景だった。
 居間に通される。外装とは裏腹に、室内は洋風だった。部屋の真ん中に小さめのテーブルがあり、それを挟むように一人がけのソファが向かい合う。おばさんは俺を座らせると、隣の台所へ入った。しばらくして、お盆にコーヒーの入ったカップを二人分載せて帰ってくる。それをテーブルの上に並べる。これは何度も見た光景だった。
「久しぶりねえ。何年ぶりかしら。ミズキくんがうちに来たの」
「まだ一年も経ってませんよ」
 俺は笑った。
 小学校、中学校と、俺は朱雀が欠席のときプリントを届ける任に就いていた。俺よりも朱雀家に近いクラスメイトもいたが、誰も行きたがらないのだ。中学までの朱雀は現在よりも凶暴で、気に入らない相手は容赦なく制裁していたので、みんな怖がっていたのだ。小学一年生の俺はまだ幼かった。たらい回しにされていくプリントが何やらいたたまれなくて、つい、引き受けてしまったのが悪かった。それから転校するまで、俺は配達係にされていた。中学校で舞い戻ってきた後も、小学校の連中は俺のことを忘れていなかった。そしてまた配達係にされた。クラスが変わってもわざわざ俺に依頼しに来た。ふざけるなと。本当に。
 ちなみに、欠席の理由はほとんどズルである。朱雀は学校が嫌いなのだ。高校に上がってからはきちんと出席するようになったが、おそらく単位を気にしているのだろう。義務教育のようにプリントの配達もない。
 そして、朱雀家に来るたびに、こうやって居間へ通された。初めは緊張したが、すぐに慣れた。いつの間にかプリントを届けるときの密かな楽しみにすらなっていた。
 コーヒーにミルクを入れてかき混ぜる。初めて出されたときはあまりの苦さに、砂糖を十本も注いでおばさんに馬鹿にされた。今も本当は苦いのは苦手だが、馬鹿にされるのが嫌だからミルク一つで我慢する。
 向かいに座ったおばさんは、ブラックのまま悠々と口に流し込んだ。コップを下ろすと、唇を少し舐めた。
「どう? 学校でのアヤメ。クラスに適応できてる?」
 娘の性格に問題があるのは理解しているらしい。
 俺は大げさに手を広げた。
「そりゃあもう、ウハウハですよ。イケイケですよ。最近は彼氏もできたみたいですし」
「えっ、それってまさかミズキくん?」
 おばさんは身を乗り出す。 コーヒーを噴きかけた。どうしてそこで俺の名前が出てくるのだろうか。
「違いますよ」
「意外だなぁ。昔からあの子はミズキくんに気があるものとばかり思ってたけど」
 そう言うと、快活に笑う。爽やかだった。同じハスキーボイスでも、相手によってこうも印象が違うのか。朱雀と比べながらそう思う。
「おばさんともあろうものが、とんだ見込み違いです」
「いやぁ、でも、絶対、ミズキくんのこと気にしてたと思うよ。あの子の口から、学校での登場人物、ミズキくんしか出てこないし」
「殴ったとか蹴ったとか突き落としたとかそんな話でしょ?」
 俺は苦笑いしてみせた。
「好きな相手には冷たくしちゃうものなんだよ。おばさんもそうだったからよくわかる」
 娘と母の間には深くて黒い河が流れているらしい。
 おばさんがイメージしているものと実際の朱雀の行動にはきっと大きなズレが生じているのだろう。おばさんは一見してわかる姉御肌だから、いざと言うときに女らしくできないのだろう。逆に、こういう人にしおらしくされると男はコロリといってしまうものだ。朱雀の場合は、照れ隠しとかそういうレベルではなく、とにかく狂っているのだ。
 身の回りにもう女がいないから朱雀と付き合おうと思った。なんて言っても、学校中の女と付き合ったわけじゃない。探せば本当は他にもいた。それでも朱雀を選んだのは、朱雀がおばさんの娘だったからかもしれない。
「それにあの子、小学校の夏休みに」
 おばさんは言いかけた言葉を呑み込んだ。俺は思考を中断しておばさんの顔を見る。子供のように舌をペロリと出して、何でもないと笑った。何を言いかけたのか気にならなくはなかったが、その動作があまりにもチャーミングだったので聞かずにおいた。
 ――本当に、母親はこんなに素敵なのに、どうして娘は……。
「こんなこと聞いちゃアレですが、何でアヤメさんはあんなに凶暴なんですか」
 素直に疑問だった。失礼な質問に違いないが、おばさんはこのくらいでは動じない。案の定、コーヒーをグイッと飲むと、口端を吊り上げた。
「そりゃまあ、遺伝だろうね。後は家庭環境」
「……というと」
 俺もコーヒーを口に含む。少しの甘みと大量の苦味が口内に広がった。
 おばさんはカップをテーブルに戻し、足を組んだままシャドウボクシングを始めた。
「あたしも主人も血の気が多くてね、すぐに手が出る足が出る。喧嘩になったら食器や家電製品の半分買い換えなくちゃならないくらいで。仲が悪いわけじゃないんだよ。お互い、武道の稽古で知り合った仲だから丈夫だしね。そういう状況で育ったから、それが普通だと思ってるんじゃないかな」
 家庭の事情が少しおかしいのはどこの家でも同じらしい。
 おばさんは俺の抱いていた幻想を見事に打ち砕いてくれた。やはり、血は争えないのだ。トンビの子はタカにはならず、ウグイスにもならず、スズメにもならない。朱雀が朱雀ならば、朱雀の母も朱雀なのだ。
「うちの旦那の教育も悪いんだよね。旦那、学校に嫌な思い出があるらしくてさ。娘に対して事あるごとに『学校は戦場だ。立ちはだかる敵は全力で潰せ』って」
 なるほど。全力で潰しているわけだな。あいつは。
 と、カップをテーブルに戻した俺の体がこわばった。玄関扉を開ける音が聞こえたのである。静かな足音が、だんだんと大きくなっていく。
 右側を見る。居間の扉が開く。朱雀アヤメは「ただいま」と一言、ぼそりと言った。それから俺に視線を走らせる。無表情に俺を見たまま動かない。おばさんが組んでいた足をほどきながら笑った。
「アヤメ、ミズキくんが遊びに来てくれたよー」
 朱雀は、目線を動かすこともせず、直立不動だった。
「母、出てって」
「はいはい」
 おばさんは笑いながらソファを立った。朱雀がきっかり人一人通れる幅、ドアから動くと、そこからするりと出て行った。扉の閉まる音が響く。俺はとたんに不安になった。
 朱雀が動いた。手提げ鞄を足元に落とすように置く。それから俺の座っているソファの背もたれに肘を乗せ寄りかかる。
 首を捻って朱雀を見る。心なしかいつもより眼光が鋭く思えた。朱雀の黒目が動く。俺の飲みかけのコーヒーカップに手を伸ばす。器用なもので、上半身だけを動かしてコップをつかみ、再び背もたれに寄りかかる。その体勢のまま中の液体を一口飲んだ。他人の口をつけたもの、とか、そういうのに無頓着な人間らしい。
 俺は顔をそらした。膝に乗せた手に力がこもる。ズボンに引きつった皺ができ、両腕には感覚すらなくなってきた。呼吸が浅くなる。
 首をひねろうとした。だが無理だった。朱雀の顔が自分の肩のすぐ隣にあるという状況を、急に意識してしまう。俺はテーブルに残されたソーサーをひびが入るくらい睨んだ。そして言った。
「朱雀、ごめ……」
 物を落とした鈍い音がした。俺はゆっくりと視線だけを動かす。複雑な模様を織り込んだ絨毯に、黒いしみが出来ていた。その上にコーヒーカップが転がっている。さらに視線を上げた。朱雀の顔が目に映った瞬間、
 ゴッ――。
 鈍い音とともに、目の前の景色がハンカチの真ん中を引っ張るように収縮しながら離れていった。先ほどの音が自分の顎の骨が軋んだものだと気が付いたのはフローリングに頭をぶつけて天井が左右に激しく揺れだしてからだった。
 俺は本能的に危険を察知した。脳みその振動は治まっていない。それでも俺は寝返りを打ち、上半身を持ち上げる。努力が報われることはなかった。俺の頭は再び床に叩きつけられる。今度は顔から。咄嗟に首を傾け、鼻が潰れることだけは避けたが、頬骨が未だかつてない痛みを訴えている。視線だけ上げると、顔の横に朱雀の左足が立っている。右足は俺の頭の上だろう。
「待て、いきなり何を――うぇっ」
 今度は腹だ。内臓がすべてひっくり返ったと思った。
 雷のような朱雀の怒声が降ってくる。
「てめぇはっ、このクソ野郎がっ!」
 いや、まったく意味がわからない。俺は、ひぃひぃ言いながら壁際まで這って行った。水色無地のカーテンをつかんで立ち上がろうとする。
 朱雀が左足を軸とし、回転した。髪とスカートが大きく開き、人間駒に見えた。そんな思考は一瞬で中断される。的確に腰へと回し蹴りが炸裂したのだ。声にならない声を上げる。倒れる暇も与えられず、またも蹴りが飛んできた。カンガルーに蹴られたらきっとこんな感じだ。こいつすげぇ。これだけ連撃を放ちながら、スカートの中がまったく見えない。頭蓋骨の向こう側でそこまで計算しているのか。そんなことを考えたのは、痛みが限界を越えて意識をそらさなければ死ぬと思ったからだ。
 地獄のキックは収まり、俺はその場にうずくまった。朱雀の荒い息が聞こえる。
 うわあぁん、ママぁ、今、ボク同級生の家でイジメに遭ってるよぉぉ……。
「カエデちゃんに会ったんだ」
 言葉がただの音にしか聞こえない。意味を解読するまで数秒を要した。
 その間にも朱雀は続ける。
「あの子はな、あの子は……お前にすまなかったって言ったんだ」
 怒りを押し殺し、搾り出すような声だった。耳はまだ回復していなかったが、すまなかった、その言葉だけはしっかりと聞こえた。謝罪の言葉のはずなのに、胸に爪を深く立てられたようだった。
「お前のような人間は大嫌いだっ!」
 それは咆哮と呼ぶにふさわしかった。朱雀の蹴りが再開された。先ほどまでより力がこもっている。
「いつも被害者ヅラで他人を責め立てる! 相手の痛みは考えないで! お前にカエデちゃんの痛みがわかるのか! あんなちっぽけな身体の子が、どのくらい傷ついて生きてきたか想像が付くか! 文学的思考とやらで組み立ててみろ!」
 感嘆符のたびに衝撃波が全身をしびれさせる。訴えたら慰謝料取れるよな、これ。
「お前は何も知らないんだろう! お前の親父が出て行った理由を一度でも考えたことがあったか!」
 閉じていた瞼が痙攣する。俺は目を開いた。かすむ視界に、髪を振り乱した朱雀が映る。攻撃の手は緩められている。両足を地面にしっかりと着け、大切なものを傷つけられたような、そんな憤怒と悲しみに満ちた目で俺を見下ろしていた。
 かすれた声で朱雀は、言った。いいか、 「父親が街から出てった理由は、――――っ!」  言葉以外が、消滅した。一句一句が、耳を通って胸の中に降り積もる。俺の中のちっぽけな宇宙が、弾け飛んだ。俺は自分の腕にはめられたガラクタ同然の時計を想った。
「嘘、だろ」
 乾いた唇から言葉が漏れる。朱雀の言った言葉が、頭の中でぐるぐるぐると乳児のあやし道具のように回転していた。
 朱雀は何も答えない。
 しまいに俺は声を出さずに笑っていた。朱雀と烏丸と和解しに来たら、とんでもない展開になっちゃったよ、フヒヒ。
 親父が何で家売り払ってまで姿を消したとか、慰謝料も養育費ももらってないのに母親が請求しないのかとかさあ、今まで深く考えたこともなかったよ。いや、おかしいとは思ってたんだよね、浮気にしてはさ。
 心底愛おしそうにカエデを抱きかかえる親父の後姿。いつもジャージで色気もクソもない妹。そのひっぱたかれたときの異常な怯えよう。母親の慌てぶり。ミズキ、あんた、カエデに何をしたの。何を――。
 ああ。残酷すぎる。
「一番の加害者はお前だ」
 朱雀の静かな怒りが聞こえる。
 その通りでございます。朱雀さま。無知と言う大罪に身を溺れさせた、俺が一番の悪人です。

 あまり、俺のことはかまってくれない父親だった。でも、やっぱり自分の親だし、俺は好きだったんだ。仕事も頑張ってるって尊敬してたし、出て行った後も、嫌いに思ったことは一度もなくて。
 そんな感情すらも許されないものだと言われたら、俺はどうしたらよいんだよ。
 朱雀家の外に出ると、日没の空は目に痛いほどの鮮やかな赤だった。それをみていると、ふわっと涙がこぼれた。


 俺は家に帰るなり、鞄とコートを玄関に放り出し、二階へと駆け上がった。納戸を通り過ぎ、妹の部屋の前に立つ。深呼吸する。扉を三回ノックした。
「はーい?」
 しばらくして、返事が聞こえる。明るい声だった。俺の胸がちくりと痛んだ。
「カエデ。すまなかった」
 搾り出すように、それだけ言った。気をつけたのに声が震えた。
 その場を離れようと背を向けた時、ガチャリとノブの下がる音が聞こえた。ゆっくりと振り返る。
「テンション低いぞ?」
 妹の顔はすっとぼけていた。俺は謝る代わりに、笑うことにした。
「ていうかその顎どうしたん?」
「天罰だよ」

 

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