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愛と狂気の青春時代 その六


六、

 俺は生物室に続く廊下を歩いていた。昨日は妹のことでうやむやになり、謝ることができなかった。だから今日こそはきっちり落とし前を付けたいと思う。また一発、二発殴られるかもしれない。かまわない。何度殴られても、蹴られても、俺は二人に許してもらうまで頭を下げよう。
 下顎を触ると、まだかすかに粘着質なものが残っていた。昼休憩、朱雀にやられた傷があんまり痛むから保健室に行った。おばさんと言うよりはお姉さんな先生は、単刀直入に「イジメか虐待か」と聞いてきた。朱雀、と一言その名を出すと、納得したようにうなずき、引き出しから出したやたら豪勢な絆創膏を青あざに貼り付けたのだ。俺は保健室を出てすぐにそれをはがした。そんなものを貼るより痛み止めをくれ。
 放課後の特別教室棟に人影は少ない。壁を隔てて聞こえる運動部の声を背景に、長い廊下を進み行く。二階の突き当たりが、生物室だった。
 生物室の扉は、重く閉じられている。ノックしようと手を挙げ、ためらい、拳を開いた。引き戸に手をかけ、そっと五センチほど開く。
 朱雀は机に向かっていた。妹の部屋にあるのと同じようなゲージが置かれている。そこから何かをつまみ出した。俺は目を凝らす。逆さづりの鼠が、宙で泳いでいる。
 ほっそりとした指先が、鼠の白い腹をつついている。朱雀は笑っているようにも見えたが、引きつっているようにも見えた。鳥肌の立つ光景だった。
 扉を思い切り開ける。ガッシャンとものすごい音がした。朱雀が振り返る。一瞬にして張り巡らされた拒絶の蜘蛛糸を引きちぎり、その腕をつかむ。朱雀がよろける。振り落とされた鼠は木切れの下にもぐりこむ。朱雀は地面に膝をついていた。目はしっかりと俺を睨んでいた。頬には二筋涙が流れていた。口元には笑みが浮かんでいる。割れた仮面のようだった。
「俺を殴るのはかまわない。だが、その鼠がお前に何をした
 らしくない。そう思った。
 朱雀は、顔を手で覆い隠した。十年以上の付き合いで一度とて見たことのない動作だった。
「……ツツジンが……」
「ツツジンやめろ。雰囲気が壊れるだろ」
「烏丸、くんが」
 俺は鼠に目をやる。確かこの鼠は烏丸がどこかで手に入れて、二人で世話をしているはずだった。
「あたしより鼠を可愛がるの」
 はぁ? と声に出しかけた。やめたのは、朱雀の声があまりにも弱弱しかったからだ。
「烏丸くんが好きなの」
「知ってるよ」
「でも、あたし、わからない。わからないの」
 何がだよ。
 パラドックスね、ポツリとつぶやく。俺は苛立ちを覚えた。こいつはいつも、俺には理解できない言葉を使う。
「でもあの人は科学が好きなの。あたしよりも望遠鏡を覗いたり、論文を読むほうが好きなの。あたしはもっと見て欲しい」
「だったら、そう言えばいいだろ」
 顔を覆っていた手が離れる。とんでもないという風に目を見開いていた。
「あたしが好きなのは、望遠鏡を覗いたり論文を読んでいる彼なの。あたしが愛するのは、宇宙を愛する彼の姿なの」
「…………」
「あたしが好きなのは『何』なんだろう」
 黒く縁取られた瞳が沈んでいる。俺の頭に浮かんだのは何か呪術の書で見た黒水晶だった。
 狂っている。
 朱雀の両肩をゆする。
「お前はおかしい。普通はそんなことで悩んだりしない」
「あんたにおかしいなんて言われたくない。別れては付き合ってを繰り返すあんたに」
 手を払いながら皮肉らしい声を出す。俺は言い返さなかった。
 わかるわけがないのだ。朱雀の気持ちが俺にわからないように。
 狂っている。だが、俺はこの狂った女が好きなのだ。
 好きなのに、わからない。理解できない。でも好きだ。理解したい。でも、できない。
 その気持ちだけは、俺にもわかる。
「烏丸は、お前を好きなんだろう?」
 朱雀はややあって首を振った。
「あたしと宇宙なら宇宙が好き。それだけはわかる。もしかしたら、そういうことを話せる相手が欲しいだけかもしれない。あたしじゃなくても、天体の話できる人なら、それでいいんじゃないかって。でもそれは、あたしも同じだから……」
 俺は朱雀を引っ張り上げた。何する、と朱雀の口が動いたが、かまわないで生物室を出た。
「烏丸は?」廊下を大股で歩く。「どこにいるかって聞いてるんだ。知らないのか」腕をつかまれ強制的に歩かされている朱雀が、不信感に満ちた目で俺を見た。
「天体観測の部活……」
「視聴覚室だったか」
「どうする気だよ」
「ケリ着けるんだよ」
 このままではいけないと思った。二人をこのままにしておくのは、絶対にいけないと思った。菱餅をもらったときなのか、中学入学前に再会したときなのか、同じ高校に入ったときなのか、妹のために怒る姿を見たときなのか、そんなことはもう思い出せない、ただ、俺にとってこの女は特別で、泣くほど悩んでいることを放っておくわけにはいかない、それだけは確かな感情なのだ。たとえ相手が親友でも。たとえ勝てない勝負でも。
 視聴覚室は三階の、屋上に続く階段のすぐ隣だ。滅多に授業で使われることもないため、天体観測部の部室に使われている。
 防音の施された、他とは違う重たい扉を睨む。朱雀の腕を離す。よれた白衣を調えながら、俺を見る視線を感じる。
 扉を開けた。
 木製の長机が半円状に広がっている。その中心に見事なまでに大きな天体望遠鏡が置かれていた。詳しくない俺でもこれは高価だと人目でわかる。そして隣には烏丸が立っていた。口元は無表情、光の反射で目つきのほどはわからない。
「部活中だよ?」
 烏丸は長椅子のほうに顎を向ける。俺も同じ方を見る。気の弱そうな先輩たちが三人ほどばらばらに腰掛けていた。
「話がしたい」
 暫時、にらみ合いが続く。僕たち、場違いみたいだから帰りますね、ハハハ……と言いながら次々と先輩たちは出て行った。最後の一人が出るのを見送り、烏丸は口を開く。
「で?」
 とげとげしい口調だった。ここは天体観測部の聖域だ、そこにズカズカと侵入してくるくらいだから、よほどの用事なんだろうな? 言外にそこまで言われた気がする。
 俺は不安げな顔の朱雀を見て、それから眼鏡を反射させる烏丸を射抜く。
「お前、本当に朱雀のこと好きなのかよ」
 烏丸は肩をすぼめてクックと笑った。何を。
「何を言い出すかと思ったら。好きじゃないならどうして付き合っているんだよ」
「朱雀とその望遠鏡とどちらが大事だ」
 笑いが消えた。眼鏡の位置を直す。ゆらりと冷め切った瞳がこちらを見る。俺は続けた。
「朱雀はよぉ、お前の恋人が宇宙なのか自分なのか不安らしいぞ」
「おい、あたしがいつそんな『仕事と私、どっちが大事なの!?』みたいなことを言った」
「俺はな、お前らのこと、認めてやろうと思ってたんだぜ。だが、女にそんな愚問を考えさせる野郎にこいつは任せられねえな」
「お前いい加減に……」
 振り上げた朱雀の腕をつかむ。驚いた顔が俺の目に飛び込んでくる。俺は思い切り怒鳴った。
「好きかどうかもわかんねえ、そんな状態で付き合っててお前本当にいいのかよ!」
 風を切る勢いだった腕をつかんだものだから、俺の手のひらはしびれていた。朱雀の肩から力が抜けるのを確認して、手を離した。朱雀は、どうして……とつぶやいた。
「好きだからだよ」
 ヒュウ、という口笛が聞こえた。烏丸が口笛吹けるなんて思わなかった。
 暗幕が垂れほの暗い視聴覚室の中で、俺の顔は熟れすぎたトマトになっていた。
 朱雀の細い目がめい一杯開かれる。口もしまりがなくなった。小さな変化ではある。だが確実に驚いていた。
 俺は今にも顔を手で覆って廊下に走り逃げたい気分だったが、かろうじて男のプライドが抑止していた。
 一生分の沈黙の後、朱雀は短く返した。
「嘘をつけ」
 ――うっ、
「嘘じゃねえよっ」
「ここ最近、あたしに嫌がらせばかりしていたくせに」
「何の話だ」
「十月六日から嫌がらせしてただろ。とぼけんなよ」
「してねえよ、そんな」
「しただろ。十月六日午後四時二十三分十一秒、生物室にて。あたしが国語ができないの知っててノートを持ってきた。十月十三日午後五時三十四分三秒、下校時。くれる気もないのにハツカネズミをつれてきた。十月十八日午後三時一分十四秒、男二人を使いミミズの採集を邪魔した。十月二十日午後四時十九分五十二秒、不治の病だとかわけのわからないことをわめきにきた。これを嫌がらせといわずして何と言う?」
 朱雀は指を折りながら話す。前では烏丸が声を殺して笑っている。何、笑ってんだ、お前。
 と、とにかく。だ。
「俺はお前に恋愛感情を持っているんだよ、アンダースタンド!?」
「アンダースタンド。……へえ、なるほどねえ。考えたこともなかったわ」
 顔を伏せ顎に手を当てる。べつに傷つかない。考えたことがあったほうが怖い。俺は烏丸に視線を移した。
「だから、好きな女が泣いてるところなんて見たかねえんだよ」
 烏丸の瞼が、少し動いた気がした。
 朱雀に勢い良く向き合う。よほど威圧的な表情だったのか、朱雀が身を引いた。
 親指を立てて自分に向ける。できるだけ低い声を出す。
「俺の女になれ」
 時計の針の音がうるさい。そして膝頭が震えていた。表情だけは崩さなかったつもりだ。
 朱雀は顔の前で手を振った。
「ごめん無理」
 ――この展開でそれはないだろぉ? お前恋愛小説のセオリーわかってんのか。
 崩れ落ちそうな身体を何とか支える。
「何でだよ!」
「面倒くさい」
 完膚なきまでの即答だった。俺はもう泣きそうだった。
「面倒くさいって……」
「電話とかデートとかそういうの」
 あんた、しつこそうだし。と付け加えられる。足元から順番に不満が蓄積されていく。身振り手振りをつけつつ熱く説明する。
「でも、女って電話とかメールとかもらうと嬉しいもんじゃないのか? 一日でも会えないと不安になるもんじゃないのか? 俺は相手のメールが五分以内に返ってこないと不安だし、毎日でも長電話したいぞ」
「ウザいわ、ボケ」
 剃刀で心を削がれた。血が噴出す。
 だが諦めない。俺はまだ諦めない。烏丸が笑いをかみ殺しながら見ている前で惨めな黒歴史を作ってなるものか。
 四十五度の最敬礼をして叫ぶ。
「精一杯面倒くさくないようにさせていただきますから! メールもしないし電話もしないしデートも誘わないし学校の登下校も別々だし手もつないだりしませんから!」
 お願いだからうんと言ってくれ。頭を下げたまま必死に祈った。
「そうは言っても、あんた馬鹿じゃん」
「馬鹿ではない、俺は馬鹿ではないっ」
「あんた、ポアンカレ一緒に解いてくれるの」
 ――ポア……何だって? 
 俺は髪をブンブン振る。ええい、この際関係ない。
「解く。解いてみせる。俺は天才なんだ。やろうと思えば理数系だってできるようになる。その代わり、俺と付き合うと約束しろ」
 朱雀の顔が見る見るうちにほころんでいった。真一文字だった口が三日月のようにつりあがる。目じりが垂れる。鼻先が触れそうなくらい顔を近づけてくる。俺のほうがたじろいだ。
「本当? 本当なの? あんた、ポアンカレ予想の話聞いてくれるの?」
 え? まじ? いいのか? お前の愛はそれでいいのか?
 ちょっと待った、と横槍を入れたのは烏丸だった。ごめん、存在吹っ飛んでたわ。
「勝手に話を進められたら困るよ。朱雀サンには彼氏がいるのだからね」
 そう言いながら、俺と朱雀の間に割って入った。朱雀の目はすでに烏丸の方を向いていた。自分を恥じているような顔だ。俺には永久に向けられることのない感情。
「僕だってずっと彼女のことが好きだったんだ。そう簡単に渡せない」
 烏丸の言葉がひっかかった。――ずっと?
「高校に入学した当初から、僕は朱雀サンが好きだった。入学してすぐの学力テストで、理数系科目すべて満点の天才がいると噂になっていたからね。それに反して文系教科が零点ばかりというのも面白い。大学教授やってる親に聞いてみたら、中学時代から天才少女ってわりと有名だったそうじゃないか。そして興味が執着に変わった」
「ちょ、ちょ、お前が何言ってるのかよくわからん」
 読解力低いね、と言いながら、烏丸が近づいてきた。目の前まで来て俺を見下ろす。
「朱雀アヤメという少女と付き合いたかったのは君だけじゃなかったんだよ」
 腐りかけの魚みたいな瞳をじっと見返す。俺は血が熱くなるのを感じた。
「お前、それってルール違反だろ。だったら、何で初めに言わなかったんだ」
 そう、千鳥カスミにフラれたすぐ後、風月で相談したときに。フェアじゃない。これではまるで裏切りだ。
 烏丸は冷めた口調で言った。
「君が人の話を聞かなかっただけだろう。あの時、僕は君に言おうと思った。でも君は無視した」
 ――なに?
「いつもそうさ。僕や鷹野クンの言うことを無視して、一人で暴走する。その結果失敗しては文句を垂れる。そして尻拭いをするのは僕たちだ」
 俺は絶句した。こんな、こんなことを、烏丸に、友達に言われるとは思わなかった。誰に言われるよりきつかった。
 だが――。自分の言動を思い出す。たしかにあの時、烏丸は何か言おうとしていた気がする。その次のときも、何か言おうとした気がする。そのすべてを俺は無視した。聞こうともしなかった。聞く必要がないと、そう判断したのは俺だった。
「だいたい、君と友達になったのだって、朱雀サンと唯一まともに会話している人間だったからだよ。そうでなければ、誰が好き好んで君みたいな性格の悪いやつと友達を続けているんだ。いい加減、嫌気が差していたよ」
 烏丸の口調は淡々としており、それゆえ本気とわかるものだった。恐ろしかった。普段とまったく変わらぬ顔を下げて、普段とまったく同じ調子で、積み上げてきた信頼関係を容赦なく崩していく烏丸の言葉が。
 オセロゲームだ。白と黒が、一瞬で反転する。
「でもお前、俺のこと親友だと思ってるって」
 すがるようにそれだけ言った。
 烏丸は人差し指で眼鏡を持ち上げた。それから、ふっと微笑んだ。白鷺クン。
「今時、ウブだね」
 襟首を両手でつかむ。喧嘩など一度もしたことのない俺の腕は酷寒の大地にいるように震えていた。その状況で烏丸は愉悦の笑みを浮かべていた。
 何秒が過ぎただろうか。よっぽど手を振り上げたくて仕方がなかったが、俺にはできなかった。すぐ隣で殺気を飛ばす人間がいた。朱雀の敵意は俺へと向いていた。
 俺は手を離した。
「それより、お前、朱雀が天才だから好きなのか」
「日本に一人の天才と付き合ってみたい。誰だって思うことだろう」
 当然のごとく答えた。に、とどまらず、さらに続ける。
「それに、言っちゃ悪いけど。朱雀サン、理科数学しか知能がないだろう。下手に我がまま言わない分、都合がよいし」
 ――こ、い、つ。
「聞いたかよ朱雀。お前、こんなこと言う男が好きなのか。俺のほうがよっぽどいいだろ」
「うんでも烏丸くん頭いいしあんた頭悪いし」 
 真顔でそんなことを言う朱雀の肩をゆする。
「てめぇは頭がよければザトウクジラとも付き合うのかよ!」
「知能の高いザトウクジラ……興味あるかも」
 ダメだこいつ。完璧に狂っている。俺はその場にへたり込みかけたが、何とか体勢を立て直した。
「そんじゃあ俺が烏丸くらい理科に強くなったら文句ねえんだな。そうだな」
「なれればね」
「なってやるよ、そのうえ俺ならあいつの百万倍愛してやるよっ!」
「あんた、百万倍が一の何倍かわかっているわけ」
「わかってるよ、広場が薔薇で埋め尽くされるくらいだろ」
「……ダメだわ、こいつ。いろいろと」
 朱雀は小声でそう言って目をそらす。何だその期待感ゼロの反応は。
 しかし、口で何と言おうと、俺の左脳的思考能力が涙さえ出ないほど貧弱なのは覆しようのない事実だった。中間テストの結果も、理数科目はそろいもそろって零点だ。
 ならば、と俺は考える。現在、暦が変わったばかりの十二月。
「勝負だ烏丸。次の期末テストの理数系科目、俺がすべて満点だったら朱雀と別れろ」
 まず初めに、朱雀がはぁ? と言いながら額に手を当てた。烏丸はその場でなぁにいいぃぃぃっ!? と叫びながら身をのけぞらせた。俺がビビッた。
「君ね、そんな出来もしないことを約束するものじゃないよ」
「出来る。なぜなら俺は天才だからだ」
「君は天才なんかじゃない」
 氷点下よりも冷たい口調だった。茶化してくれればまだありがたいのに。
「俺はな、天才なんだ、天才なんだよ!」
「そういうのを馬鹿の一つ覚えと言うんだ」
 こいつ、俺のことを馬鹿と言いやがった……っ。
 もう怒る気すら失せる。
「不満と言うなら、覚悟を見せよう」
 俺は、左手の袖をまくった。光沢すら失った十年以上昔の型をした腕時計があらわとなる。烏丸は眉を少し動かした。
「勝負に負けたら、この時計を壊す」
 烏丸の目に、疑問の色が浮かんだ。それが口にされる前に、俺は横っ飛びに倒れた。頬が痛む。まったく、こいつは手が早過ぎる。
 尋常ではない声で朱雀が怒鳴った。
「お前、その時計、時計は……ッ。生半可に賭けてはいけないものがあるんだよ」
「生半可じゃねーよっ!」
 朱雀よりもさらに大きな声を出す。俺は立ち上がり、困惑する朱雀を見つめる。
「いくらしたんだ?」
 状況を飲み込んでいない烏丸が尋ねる。
「ロレックスのパチモンだ。三千円のな」
「ずいぶん安い宝物だね」
「親父の時計」
 前の、な。
 烏丸の顔から険が抜けた気がした。
「うちにはもう親父の物はこの時計しか残っていない」
 前髪をかきあげ、少し愁いを演出してみる。
 父親と最後に会った日。父親は自分の腕からこの時計を外し、俺に渡した。
 父さんは許されない過ちを犯した。もう二度とミズキとは会えないだろう。だから、せめてもの思い出に、この時計を持っていてくれないか。
 これは、俺が父親からもらった唯一のプレゼントだった。素直に、嬉しかった。
烏丸はどう捉えるだろうな。普通に考えれば「亡き父の形見」とでも思うのだろうな。それならどれほどよかっただろうな。
「……わかった。君だけが賭けるのもフェアではないな」
 烏丸は眼鏡を持ち上げる。
「では僕は、これを賭けよう」
 真っ白なボディと複雑な機器を輝かせる大きな天体望遠鏡を、手で撫でた。
「期末テスト、僕は君より必ず高い点数を取る。出来なければこれを壊して見せよう。その代わり、僕が勝ったら、朱雀クンのことは諦めたまえ」
「ほほう、その望遠鏡、お前のなのか」
 いくらしたんだ、と多少自分でも嫌味に思える笑い方をした。
 気分を害した様子もなく、烏丸は答えた。
「三十万」
 驚愕で叫びそうになったがこらえる。三十万円? うちの親父の時計の百倍ですかそうですか。
「いいだろう」
「両方満点だった場合はどうするかね」
 そんなことはあり得ないけどね♪ という口調が非常にムカつくがそこは我慢する。
「そんときゃ朱雀が選べばいい。最終的決定権は俺たちにはない」
 確認の意味を込めて朱雀を見やる。こいつが拒否したらそれで終わりだ。
 朱雀は唇に指を当て目を瞬いた。
「あたしはまあ、理数系できるならどちらでも」
 こいつが一番、罪深い。

 こうして俺は、烏丸との友情を失い、朱雀の愛を得るため、父親を賭け、大嫌いな理数科目と向き合う決心をした。
 どう転んでも、昔に帰ることはできない。

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