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愛と狂気の青春時代 その七


 七、

 卓上カレンダーに目をやる。期末試験は二週間後だ。鞄から筆箱とノート、それから教科書を取り出した。教科書には、見るだけで拒絶反応の出る、数字を組み合わせた幾何学的なロゴが描かれていた。ため息を吐く。目を瞑り、一呼吸置いた後、ページをめくった。
 と、背後で物音がし、背筋がピンと張る。
「ミーズーキぃーくーんっ」
 妹が怖いくらいに満面の笑みで、部屋の中に入ってきた。俺のすぐ横まで来て、何も言わないままニコニコしている。両手は後ろに組んでいた。面倒くさい予感しかしなかった。拒絶の意味を込めて不機嫌な声を出す。
「何だよ。俺は今、期末テストの勉強で忙しいんだ」
「いっつも勉強なんかしてないじゃん。文系はどうせ満点だし、理数系は零点でしょ?」
 妹は小ばかにした口調で笑った。
「ほっとけ。それで何の用だ?」
 ますます笑顔がわざとらしくなった。背中から原稿用紙と文庫本が現れる。それを俺の前に置きながら、甘えた声を出す。
「感想文、代わりに書いて」
 ほらこれだ。
 俺はカバーの先が欠けた本と真新しい原稿用紙を端にどけた。『檸檬』か、確かにカエデには難解かもな。だからと言って俺が手伝う義理もないが。
「んなもん、自分で書け。人に頼らない」
「えー、冷たーい。いいじゃん、いつも書いてくれるじゃん」
「忙しいんだよ……」
 口を尖らせる妹を無視して試験範囲の解説を見る。……駄目だ。さっぱりわからん。
 学校で烏丸に大口を利いたはいいが、現実は果てしなく厳しかった。
「え、何。まさか数学やってんの?」
 教科書を覗き込んだカエデが大きな声を出す。なんて癪に障る態度だ。いちいち怒っていては体力が持たないので、無視を決め込む。教科書の文字を穴が開くくらいねめつける。と、教科書が目の前から逃げた。横を見ると、妹が逃げたそれを手に持って高く掲げている。
「カエデ、いい加減に」
「交換条件」
「は?」
 何と何を交換するんだ。
「私が数学教えてあげる。代わりに読書感想文書いて」
 教科書を頭の上でヒラヒラさせながら不敵に笑う。
「調子のんなよ女子中生」
「男子高生よ、平方根の意味がわかるかね?」
 ヘイホウコン……?
 俺は身震いした。響きからして拒絶反応が出る。それが何かは思い出せない。だが、絶対にやばい何かだ。
「aイコールb二乗とかールートとかー」
「やめろ、吐き気がする!」
 追い討ちをかけるように妹は意味不明の言葉を発する。俺はすぐ横のベッドから毛布を引っ張り頭から被った。それをはがしながら妹は続ける。
「掛け算のできない人には二等辺三角形の面積は求められないでしょ」
「やめろ、そんな専門用語を使うな」
「中学校の知識を飛ばして高校の勉強したって時間の無駄だよ」
 そう言われたら、そのような気がする。悔しいが、俺には教科書に書かれていることが一寸たりとも理解できていない。因数分解? たすきがけって駅伝じゃないの? 集合ってどこに集合するんですか? 三角比? 命題の真偽って哲学? 自然数って何だよ、不自然な数とかあるのかよ、そんなの不自然とみなされた数に失礼だろ……頭の中がだんだんカオスになってきだ。
 カエデは、文系も理系も適度にできる。五段階評価で五は取れなくても四はたいてい取れる人間だ。それは俺と朱雀からよい部分ばかり刺激を受けたからだろう。悔しいが俺の計算力は妹よりもはるかに劣る。
「決まりね。ね? 決まりでしょ? 数学の教科書持ってくるね」
 言うなり、妹は部屋を小走りで出て行った。
 急に静まり返った部屋で、一つため息をつく。人が一人増えただけでどうしてこんなにも騒がしくなるのか。不思議なものだ。
 妹の残していった文庫本に目をやる。表紙は黄ばみ、檸檬の「檬」の字の辺りに茶色い染みがある。中の紙も、黄ばみを通り越して薄黒く変色していた。俺が納戸から引っ張り出して読んだときもすでに同じような状態だった。母が高校生のときに新品だったらしい。俺たちよりも長生きして、波乱万丈だった母や我が家の人生を傍観してきたわけだ。
「――あ」
 文庫本の向こうには置時計があった。青いスケルトンボディで球体をしたデジタル時計が、六時を知らせている。これはちょっと問題だった。
 ガチャっと扉の開く音がする。妹が何やらたくさん書物を抱えて戻ってきた。部屋の空気が動き、すうっと冷たい感覚が後ろへ流れた。
「カエデ、それがちょっと」
 ピーンポーン。
 甲高い機械音が響く。妹の顔がコインを返したように変化する。怪訝な目で俺に問いかける。
 椅子から腰を上げたとき、天井を突く怒声がした。
「戦争だ!」
 俺と妹が固まっているうちに、ドタドタと乱暴な階段を踏みしめる音が続く。部屋の扉が勢いよく開かれた。妹が落とした書物が床に散らばる。
「ミズキ、話は聞いたぞ。戦争するんだってな」
 飛び込んできた鷹野が再び叫ぶ。俺は返事をせずに、慌てた面を睨んだ。鷹野は横を見た。そして体をのけぞらせる。
「カエデちゃん!」
「あ……どうも……」
 妹は一歩下がりながら細い声を出す。それから批難がましい目で俺を見る。
「えっとな、今日は鷹野が来るんだ。忘れてたわ」
 まあ、もう来てるんだけど。
「こんにちはー、カエデちゃん。俺、鷹野マサキだけど覚えてる? 前にも何回か会ったよね。何やってたの? 兄タンに用事?」
「少し黙れ。そして道を開けろ」
 するする続く鷹野の言葉を遮る。鷹野は俺に視線を移し、すぐにドアの前をどきながら妹に笑いかける。妹はうつむき加減でそそくさと部屋を出て行った。
「人の家に勝手に上がるな」
 妹が消えてから低い声を出す。まったく、こいつは下品でならん。
 鷹野は閉まった扉を見ていたが、こちらに顔を向けた。
「電話で言っていたの、本当か?」
「ああ」
「お前もよくやるよなあ。俺より絶望的な点数なのに」
 全教科赤点ギリギリの男にこんなことを言われるのは限りなく屈辱だったが、今は甘んじて受け止めよう。
「鷹野、お前にも協力してもらうからな」
 鷹野は首を振った。
「俺にどう協力しろっつーんだよ。サッカーと喧嘩ならいくらでも教えてやるけどな」
 俺は一呼吸置いた。
 かすかな揺れと汽車の走る音が聞こえる。
「明日から俺は、テスト当日まで学校を休む」
「んなことしてどうすんだよ」
「家で勉強する」
「授業は」
「ここでお前の出番だ」
 俺がそういうと、鷹野は口を閉じた。何かを問うような顔をしている。
「学校で習った授業を、お前がノートにまとめて俺に教えにくるんだ。朝と昼は家で理数系の勉強をする。そうすりゃお互いにプラスじゃないか」
 今回は他の科目はどうでもいい。国語や英語なら授業を聞いていなくてもわかるしな。体育や書道だって、今まで皆勤しているから単位不足にはならないだろう。となれば、その分の時間を数学や理科総合の時間に当てたほうがよい。
「めんどくせー」
 天井を見ながらぼやく鷹野を説得する。
「とりあえず、中学三年くらいから復習したいと思うんだ」
 正面にいる鷹野を通り越し、視線は入り口付近を見ていた。そこには散らばった教科書がある。鷹野も気づいたらしく、立ち上がって教科書の方に行った。拾い上げて大げさに顔を崩す。
「何だよお前。もしかしてカエデちゃんに勉強教えてもらうつもりだったとか? どんだけー」
 うざい。
 しかし、俺はあえてクールに前髪をかきあげ目をそらすだけにしておいた。
 小机を出して、二人で向き合うように座る。
「とりあえず予定を立てようぜ」
「二週間、どういう配分でやればテスト範囲まで理解しきれるだろうか。理科は暗記系の範囲だからともかく、問題は数学だ」
「じゃあよ、中学の部分でも、今回の範囲に直結するやつだけこなして……」
 白い紙を広げ、二人でいろいろと話し合った。だが、どうしてもうまくペース配分をすることができなかった。考えてみれば当然だった。俺も鷹野も、これまでテスト勉強などやったことがないのだ。今回の範囲に直結する箇所といっても、そこがいったいどの部分なのかすらわからない。
 中学の教科書をだらだらとめくっていた鷹野が、パッと顔を上げる。
「カエデちゃんに頼んだらいいんじゃね? 几帳面そうだし」
「実際、全然几帳面ではないけどな」
 そう答えながら、考える。俺たち二人が額をつき合わせていても、恐らくらちが開かないだろう。問題はカエデが几帳面ではないことではない。カエデと鷹野を同じ空間に置くことが問題なのだ。妹は人見知りが激しいし、何より、目の前の男は年がら年中飢えた狼だ。絶対に嫌がるだろう。俺も不安だ。
 ガチャリとノブの下がる音で我に返る。気づいたときには鷹野は部屋から出ていた。数秒後、あいつの考えていることを悟り、後を追う。
 廊下で鷹野と妹に鉢合う。意外なことに、妹は嫌がることもなく鷹野に先導されていた。
「おい」
「計画立てるんでしょ? いいよ。手伝う」
 振り返ると、そう笑った。
 俺はしばし立ち尽くし、顎に手を当てていた。
 鷹野と妹の間に、充分な距離を置いて座らせた。
 それから、俺たちは十四日間の勉強プランを立てた。妹が予定を組んでいき、俺はそれにうなずいた。飯の時間だって余裕で勉強するつもりだったが、いわく、あまり詰め込みすぎると逆効果なのだそうだ。人間の集中力は云々と語っていたが、よくわからないので全部任せた。鷹野は「ドラえもんズ面白れー」と漫画を読んでいた。
「お前、鷹野平気なの」
 母の帰宅時間が近づき、鷹野が引き上げた後、俺は聞いた。妹は猫のように伸びながら笑った。
「うん。話しやすい」
 まあ、奴が気さくであることは認めてやろう。

 食事を済ませて、自室に戻ってきた。
 妹の教科書を机に並べる。数学のT、数学のU、数学のV。俺が使っていた教科書とはデザインが違う。時代は少しずつ移ろっているのだと実感した。
 それらの上に高校の教科書も載せる。何で高校は同じ教科が二つも三つもあるんだ? 数学をAとTに分ける意味はいったい何だ? 国語や英語は好きだから苦にならないが、数学は納得がいかん。
 理科総合の教科書も重ねる。今回の範囲はマシなほうだ。何と言っても「生物」、難しい公式が出てこない。朱雀の守備範囲でもあるから、俺としても他より明るい分野だ。
 意味もわからないまま事務的に板書を写したノートを取り出す。筆箱も取り出す。下敷きも取り出す。これでよいだろう。
 勉強道具一式を並べて悦に浸っていると、ノックとともに妹が入ってきた。
「何で急に理数系?」
「黙秘権を施行する」
「それじゃあ勉強教えないよ」
 悪魔の子め。
 状況を手短に話すと、妹は手を叩いて笑い始めた。うわー、殴りてー。
「そりゃずいぶんと無茶打ちにでたね。神風特攻隊より無謀なんじゃないの。でもまーやることに意義があるていうか? いいんじゃない?」
 モラルハラスメント! この妹はモラルハラスメントだよ! 悪魔の子だネ!
「だいたいさ、ミズキくんが満点取ろうが取るまいが結果は変わらないと思うけどな」
「どういう意味だ」
 妹はベッドに腰を下ろす。涼しい顔だ。
「そんなことで自分の価値観ひっくり返す人じゃないもん」
 俺には妹の言っていることがよくわからない。あいつは理科系人間至上主義者だ。その価値観に準じれば、俺が理数系に目覚めればあいつの見る目は変わるはずだ。
 それとも。妹の顔を見る。深い瞳は何を考えているのかわからない部分も猫にそっくりだ。
 朱雀は妹とは仲がよい。烏丸とも普通に友達になった。だが俺だけには冷たい。……最悪の可能性が脳裏をよぎる。
「俺、朱雀に嫌われてるのかな」
 妹が首を曲げる。表情が変わった。目を見開いた後、不敵な笑みを浮かべた。
「それこそあり得ないよ」
「また言い切るか」
 こいつは断定系が多い。
 笑いながら続ける。
「朱雀さんとミズキくんって似てるんだよ。どっちも不器用で寂しがりや」
「あいつが寂しがりや?」
「うん。だから、自分と関係を持とうとする人を嫌うなんて絶対にない」
 よくわからんな。寄らば切るではないか。朱雀のスタンスは。
「じゃあ何であいつ、俺への当たりが厳しいんだ」
「楽だからじゃない?」
「はあ?」
「気を遣わなくていいってこと」
 ――いや、遣ってれよ。
 朱雀アヤメは他人を慮るとか、そういうことのできない人間だと思っていた。だから俺は、あいつの仕打ちをとがめるのは、半ば諦めていたのだ。だが考えてみれば、高校に入学してからはだいぶ大人しくなった。中学時代はクラスを別にしても誰それを地獄流しにしたとか噂が飛び交っていたものだ。それを考えると、今のあいつは気を遣っているのかもしれない。朱雀にとっては腹が立ったらぶん殴るのは、腹が減ったらパンを食べるのと同じくらい自然なことなのだろう。それが許されない生活は、窮屈なものなのかもしれない。しかし何でも暴力で解決しようと言うのは、きわめて野蛮で原始的な手段だ。インテリなのか原始的なのかわからないやつだ。
 跳ねるように妹が立ち上がった。
「とにかくさー、感想文のほう、頼んだよ? ちゃんと書いてよ」
「ああ、わかってるよ」
『檸檬』は俺も中学のときに読んで感想文を書いた。俺に書かせることを前提としていたのなら、カエデはわざと同じ作品を選んだのかもしれない。しかし、あの時の作文はコンクールで賞を取っている。職員室の前にも貼られた。同じ内容ではさすがにまずいだろう。妹の基本能力を考慮しても、あまり完璧なものだといぶかしがられる。前回とは違う観点で、ほどよく手を抜いた出来にしなければならない。
「明日にも仕上げるから勉強教えろ」
「はいよー」
 妹は一度部屋から出ると、自分の椅子を抱えて戻ってきた。
 得意げに教科書を開く。
「一足す一は?」
「二だろ。馬鹿にしてるのか」
「マイナス一足す一は?」
「マイナス? マイナスなのに足す? 何かおかしくね?」
「…………」
 顎が落ちそうな顔をしていた。
「じゃあマイナス一引くマイナス一は?」
「あ、ちょっと待って、引くとかマイナスとかたくさん出てきてややこしい」
「……三つじゃん」
「……(指を折っています。少々お待ちください)……マイナス、二?」
「ぶっぶー、答えはゼロです」
「ゼロ? はあ? はああ? 何でだよ、マイナスからマイナス引いたらマイナスだろ?」
「マイナスが二つ並ぶとプラスになるんだよ」
「何でだよ、マイナスはマイナスでプラスになるとかあり得ねー」
「知らないよ。なるんだからなるんだよ。ドクターマリオだって同じ色の薬を並べたら消滅するじゃん。それと一緒で同じ記号を重ねたら消滅するんだよ。たぶん」
「消滅したらマイナス一だけになるんじゃないのか」
「いや、マイナスの記号は消えるけど、後ろの一だけは残るんだよ。それが手前のマイナス一にプラスされてゼロになるんだって」
「ちょい待て、プラスはどこから出てくるんだ?」
「……こんな人間がこの世にいるなんて」
 妹は、何か奇異なものを見る目をしていた。たとえば宇宙人、たとえば爬虫類、たとえば地球の裏側から来た異邦人。少なくとも血を分けた兄貴を見る目ではなかった。
 どうやら俺の数学力は想像以上にひどいものらしい。


 それから俺は死に物狂いで勉強した。
 母は学校を休むのにいい顔はしなかったが、登校の強制はしなかった。期末テストまでだと期間をはっきりさせておいたからだろう。学校にはヘルニアと言うことにしておいた。
 鷹野は律儀に毎日来た。ふたりで必死に公式を何度も紙に書き写した。いわゆる「あんちょこ」も作った。そのうち、数学は、いくらかの公式さえ覚えれば、応用でいくらでも問題が解けるのだということに気がついた。
 俺は少しずつ進歩した。鷹野には俺が英語を教えてやった。鷹野は役に立たなかったが、いるだけで場の空気が和んだ。
 生物はひたすらに暗記した。問題を繰り返し解いた。そのうち、手元の問題集が尽きた。
 疲れたら妹も合わせて三人でダイヤモンドゲームをしたりした。
 鷹野はテスト前だというのに、毎朝自主的にトレーニングをしていると言っていた。部活はとっくに停止期間に入っている。そんなことをしているからいつも赤点ギリギリなのだと思ったが、自主トレをするほどサッカーが好きならば、それはそれでいいのかと納得した。
 毎朝と言えば、いつごろからか、毎朝妹が早く家を出るようになった。理由を聞いたが、「へへ」と笑いごまかされた。
 やがて二週間が夢のように過ぎた。

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