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愛と狂気の青春時代 その八


 八、
「ついに明日だね」
「ああ」
 横で教科書を広げる妹に短く答える。
 手を動かしながら、缶詰の日々を思い出す。
 二週間での進歩はすさまじかった。今回の試験範囲に直結する、中学時代の知識は八割がた理解した。高校の問題集も、暗記するほどやったからついに満点が取れるようになった。この中から問題が出たら間違いなく解けるだろう。
 理科の方も拒絶反応を出しながらかなり覚えた。とりあえず母方の爺さんが禿の男は将来四分の一の可能性で禿げるということはわかった。ウチの爺さんは剛毛だったので安心した。
 俺は、赤ペンを動かす手を止めた。口の筋肉が吊りあがるのが自分でもわかる。
「カエデ、これ見ろ」
 妹が教科書から視線を上げる。無造作に差し出したコピー用紙を受け取った。そして、顔を俺の三倍はわかりやすくほころばせた。
「すっごいじゃん、全問正解じゃん!」
 顔面崩壊を必死で抑えて、俺はうなずく。明日ある数学の試験に備え、教科書や参考書から問題を拾い、自家製模試を制作したのだ。結果、見事に満点。勉強の成果は確実に出た。もう出来ることも、思い残すこともない。
「今日はもういいから、早めに寝たら」
 妹は自分の教科書をまとめ始める。時計を見ると九時過ぎだった。俺はうなずいて明日の用意をした。「がんばってね」妹は扉の前で笑うと、出て行った。
 明日の時間割は、現代文・数学T・英語Rの順だ。数学Tが太い赤丸で囲ってある。心音が少し早くなる。百点は無理かもしれない。しかし平均点くらいは欲しい。いや、平均点ではダメだ。百点以外は、すべて負け――零点と同じなのだ。この勝負に勝ちたい。絶対に勝ちたい。こんなことを願ったのは、初めてだった。そもそもテストに、不安や緊張、期待を抱いたことなどなかった。いつぞや妹も言っていたが、文系は満点、理系は零点。これは決まりきった運命だと信じて疑わなかったのだ。
 ――俺は明日からの五日間、運命に抗う。
 時計と携帯電話、両方の目覚ましを五分離してセットする。部屋の電気を消し、明日へ備えた。
 ピピピピピピと電子音が響く。薄目を開く。カーテンからの漏れ日で室内が青みを帯びている。夜と朝の隙間の光景だった。上半身と腕を伸ばし、机にある時計のボタンを押す。弾みに丸い時計は落ちてベッドの下にゴロゴロと転がっていった。手を伸ばした姿勢のまま、布団に倒れる。静けさが戻る。
 しばらくして、どこからともなくゴッドファーザーのテーマが流れてきた。誰がこんな地獄の底から響くような曲を着メロにしたのかと思ったが、しばらくしてそれは自分なのだと気づく。
 起き上がり、部屋を見回す。ドア付近の棚上で携帯電話は光っていた。あくびをかみ殺す。アラームを止めるとカーテンを開ける。一瞬にして部屋に色がついた。外からはかすかに自衛隊基地の起床ラッパが響いてくる。午前六時に間違いない。普段より一時間早く起きたのだから上出来だ。
 鞄の中身をチェックする。忘れ物はない。それを持って一階に降りた。義父と洗面所で鉢合わせたので頭を下げる。寝起きではあまり会いたくなかった。
 俺が膳に着く頃には義父は立ち上がり行ってきまーすをしてしまった。さすがは企業戦士。尊いね敬うね尊敬するね。
「今日はちゃんと学校行きなさいや」
 母がめまぐるしく動きながら言う。わかってるよとうなずきながらピザ風パンを食べた。
 それから少し勉強をして、七時半に家を出た。いつもより早いが、万が一遅刻しても困るし、学校で勉強しようと思ったのだ。
 今日は風が強い。自転車を一漕ぎするたびにコートが三回はためく。弾丸がかすっていくような痛みが絶えず頬を襲っていた。煽られながら畑道を過ぎると、「風月」とそのバックの防風林が見えた。年々減っていく松ノ木と、反して強い潮風に危機感を覚えた。
 産業道路沿いを走る。このままのペースで行けば五分後には学校に到着するはずだった。
 だが、俺の目の前に、巨大な敵が現れた。
 そこは道路に横断歩道がまたがる地点だった。
「止まって!」
 横断歩道から自転車が突っ切ってくる。耳障りな音とともに歩道を占領しながら止まる。乗っていたのはベージュの見覚えあるダッフルコートを着た少女だった。というか妹だった。
 妹のほっぺたは寒さと息切れでリンゴになっている。
「ミズキくん、助けてっ」
「ええ?」
 困惑する俺に対し、さらに声を張り上げる。
「サミディーとジョーズが」
 ――なんだそれ。ジェームス・ボンドの敵か?
「サミディーとジョーズがっ!」
 じれったそうに目を吊り上げる。ごめん動詞が欲しい。
 俺は自転車のスタンドを立てて妹に歩み寄った。
「サミディーとジョーズってのは誰だ? お前は何でこんな時間にここにいるんだ? 俺はキリスト様じゃないから説明してくれないとわからない」
 妹は少し落ち着いた。そして、いまさら通行止めに気づいたのか、自転車を道路の脇に寄せた。後ろで手をこまねいていたジョギングのおっちゃんが無事、通り過ぎた。
 妹の説明はこうだった。
 私さ、実はちょい前に浜辺で二匹の亀を見つけて。うん、こんくらいの、石鹸箱より大きいね。で、最近は早く家を出てそいつらの世話をしていたわけよ。餌あげたりとか。浜が途中で堤防に遮られてるじゃない? あの壁、穴が開いてて。そこにいるのよ。
 つまり、サミディーとジョーズというのは亀二匹の名前なんだな。
 そう、そう。今日も様子を見に行ったら――
「クソガキ三人がいじめてんだよっ!」
 なるほどよくわかった。
 妹は憤怒しながらさらに続けた。
「でもガキとは言え男の子三人に私じゃかなわない。お願い、ミズキくん。亀たちを助けてっ」
 ――なんと言うご都合主義なピンチ展開。
 俺は腕時計を確認する。今、八時前だ。
「お前も知ってんだろ、今日はテストなんだ。無駄な時間は食っていられない」
 妹の目じりが見る見るうちに釣りあがった。
「ミズキくんの人非人! チュパカブラに脳みそすすられて死んじゃえ!」
「チュパカブラって何だよ、どこでそんな単語覚えたんだよ」
 人非人のほうが問題発言な気もするが、先に気になったのはチュパカブラだった。
 妹はその後も、顔から湯気を出しながら思いつく限りの言語を尽くし罵詈雑言を浴びせかけてきた。地上波に乗せられない単語が満載で、詳しく述べるのは永久追放されそうなのでやめておく。
 俺は、妹と海と学校と時計をぐるぐる見回し、思考までももつれて絡まっていった。
「わかったから黙れ!」
 やけになって叫ぶと、妹の顔が華やいだ。服の袖を引っ張り横断歩道に向かわせる。俺は妹の手を慎重に離し、自転車にまたがった。信号が青に変わる。浜へ漕ぎ出した。妹も後に続いた。時間がないから本気でペダルを漕ぐ。
 勢いよく浜に飛び出した。砂にタイヤを取られて転倒する。咄嗟に柔道で習った受身を取り、妹を振り返る。俺の醜態をよそに自転車を止め、歩き出していた。学ランの砂を払う。面倒くさいので自転車を横倒しにしたまま後に続く。
 白砂に足をうずめながら歩く。空ではトンビが気持ちよさそうに滑空していた。こちらの気分も知らないで。
 堤防が近づいてくる。ほら、あれ。と妹が指を差す。俺は目を細める。小学生くらいの子どもが三人、波打ち際でやんややんやしていた。朝からご苦労な少年たちだ。
「頼んだよ」
 俺の後ろに回りこみ、背中を押す。二、三歩前によろめく。妹を軽く睨むと、ゆっくりと小学生たちに近づいた。
 三人の真ん中には二匹の亀がいた。一匹は甲羅に篭り、一匹はひっくり返ってがむしゃらに手足を動かしている。首で寝返りをうとうとするがうまくいかない。ガキどもは砂をかけたり棒で叩いたりして喜んでいる。この世の終わりを思わせる光景だった。
 俺は一番手前のクソガキの肩を押した。わりと本気で突き飛ばしたから、ガキは濡れた砂に転がった。他の子どもが動きを止める。不満を爆発させた顔を俺に向ける。
「お前ら亀相手に何やってんの?」
 ガキが口を利く前に言い放った。自分でも驚くぐらい冷めた口調だった。ガキども、少し後ずさる。   
 見た感じ、連中は小学三年生前後だろう。自分がそのくらいの年齢だった頃を思い出す。制服を着ているだけで、中学生だって怖かった。高校生ともなればまったく別次元の人間だ。自分がなってみれば、何の実力も権力もない弱い存在だとわかるのだが、子どもにとっては畏怖の存在なのだ。
 並んで立つ二人を見比べる。右はチビでしまりのない顔をしている。左はがっちりしていて目つきが悪い。力関係は明白だろう。
 左側のやつの足に砂を蹴りかけた。一気に表情がこわばる。
「な、ムカつくだろ? もうすんな」
 ガキはしばし歯をむき出しにして俺を睨んでいたが、大きな舌打ちを残して走り去った。チビもこけていたやつも慌てて続く。妹とすれ違うときに指を立てて、松林の向こうに消えていった。キエーッと叫びながら妹が砂山を蹴り飛ばした。
 俺は亀を一匹ずつ持ち上げて、壁の穴に戻してやった。ふと、朱雀が烏丸と出会った「運命」の堤防はここのことか、と考える。
 任務完了だ。
 時計を見る。八時十分だった。始業が八時半、テスト開始が八時五十分だ。まだ余裕はある。ホッとため息をつき歩き出す。
「これでいいか?」
「ホントにムカつく。砂にもまれて死ねばいいのに」
 妹の顔は憎しみに歪みきっていた。動物好きもここまでくれば狂気の沙汰だ。ガキどもがムカつくことには同意だが。
 俺は横倒しになった自転車を持ち上げた。妹もこのまま学校に行くという。同じ方向だから一緒に行くかなどと話しながら信号待ちをした。
 通り過ぎる車をぼんやりと眺める。大型トラックが爆音とともに視界を数秒遮る。走り去った後には、歩道の向こう岸に人影が湧いていた。と、妹が腕を揺する。
「ね、あれ、さっきのガキじゃない?」
 そう言われて、目を凝らす。俺にはよく見えない。だが、いるのは大人一人と子ども一人だ。逃げた子どもの一人となるのか。雰囲気としては、リーダー格の少年に似ている。
「一緒にいるの親父とか? ……ちょっと、あの人、変!」
 妹がさらに腕を引っ張る。俺はさらに目を凝らす。大人は、がたいがよく貫禄がある。一般的なサラリーマンとは一線を画して見えた。格闘家だろうか、漁師だろうか、自衛官だろうか、暴力団だろうか。四車線道路を挟んでも身の縮こまるオーラを放っていた。自転車にまたがっている。そして、手には何か持っていた。幼児の身長の半分くらいありそうで、布に包まれている。
 信号が青に変わる。親父と少年が歩き出す。親父は自転車を押している。本能的に危険を感じた。こいつらと、すれ違ってはいけない。歩道を渡ってはいけない。
 白線をまたぎながら、親父が器用に布を解いていく。中の物が朝日をはじき白く光る。目を疑った。大きな布を受け取りながら少年が笑う。布の下から現れたのは白銀の刃だった。形としては四角いタイプの包丁だが、異様にでかい。
 近づいてわかった。親父は肌が潮に焼かれて赤黒くなっている。あれは海の男だ。とすればあの包丁は魚類解体用のものか……? 確かホラー映画で見たことがある。保険金詐欺の話で、女がでっかい刃物持って主人公を追い回すやつだ。原作も読んだ。原作にも出てきた。そう、そう。あれはまさしく、
 ――は・も・切・り・包・丁☆
 はも切りと言えば骨切りで、魚の骨を切り刻むための包丁だ。そんなものを持ってどちらへ向かわれるおつもりですか?
 あまりの事態に現実感が薄れる。だんだんと迫る攻撃的な物体を見つめたまま身体は動かなかった。
 親子は横断歩道を渡りきった。親父は紺色の褪せたジャンパーをはおり、長靴を履いていた。首にはタオルがかけられている。庶民なら絶対にアンバランスな巨大包丁が実にしっくり手に納まっていた。それを掲げながらきつい訛りで言う。
「たかが亀ごときで怒りよって。おみゃあ浦島太郎きどりかや?」
 いえいえ浦島太郎なんて滅相もない! 自分はただの通りすがりのしがない高校生でごぜえます。へへへ……。
「へへへ」の部分だけ口に出してしまった。親父の赤い顔がさらに赤くなる。包丁を剣道の中段のごとく構える。そんなもん人に向けるんじゃねえっ!
 信号は点滅を始めていた。
 俺が声をかけるより早く妹はペダルを漕ぎ出していた。車道を横断せず、林に沿って走り出す。なぜ信号を渡らない。と叫びたかったが、妹は点滅が始まると足を止める臆病者だった。逡巡した後俺も光の速さで妹に従う。
「待ぁてえぇやああっ」
 そんな叫びが後ろから聞こえる。振り返ると、自転車にまたがった親父が、ジェット噴射でも付いている勢いで追いかけてきている。俺はさらに早く漕いだ。だが前には妹がいる。どうしてもスピードを出し切れない。妹を抜いて置いていくわけにもいかない。包丁を片手に親父はずんずん近づいてくる。
 これが噂に聞くモンスターペアレンツか? モンスターだってもっと道理があるだろうよ。無駄にアグレッシブな親父め。そう思いながら、俺だって人に自慢できる親父から生まれたわけじゃなかったんだと思い至る。結論、世の中まともな人間なんて一人だっていないわけだ。それでいて二言目には常識非常識ってんだから笑わせる。ああ、笑えるよ。本当に。
 歩道と車道の間には街路樹が植えられ、俺たちの異変は外界からはわからない。
 車は滞りなく走りすぎる。人は誰も通りがからない。妹は遅々としている。そして怪物親父は隣まで追いついた。
 併走しながら親父は、にやっと笑った。そして、はも切り包丁を振り上げた。
 ――死ぬ、普通に死ぬ。
 咄嗟に自転車を横倒しにする。そのまま松に激突して倒れた。自転車が身体にのしかかる。背骨が軋んだ。親父は自転車を止めた。妹も止まり振り返る。俺は妹に「馬鹿」と怒鳴りたかったが痛みで声が出なかった。親父は包丁を前に構えながら目前に立つ。妹はおろおろしていた。
 自転車に刃物が下ろされる。派手な音とともに見事車輪がへし曲がった。学校行けないじゃん、とか、どこか冷静に考えた。
「助けてぇーっ、正義のヒーローっ!」
 妹がついに壊れた。
 と、その時、親父が視界から消えた。
 正確に言えば、横に吹っ飛んでいった。
 もっと具体的に言えば、突っ込んできた自転車に跳ね飛ばされた。
 俺は状況をよく飲み込めなかった。確かなのは、やってきたのは正義のヒーローには見えない、ママチャリに乗りだらしない制服の着こなしをした男だということだった。
「鷹野……」
 ペダルに片足を引っ掛け、すかした表情で俺を見る。
「カエデちゃんの叫びを聞きつけとんで来たわけだ」
「どこから」
「自主トレに浜辺でジョギングしてたんだよ」
 何をどう突っ込んでいいのかわからない。
 妹がひっと叫ぶ。むくりと親父が起き上がった。赤鬼のような顔で、金棒代わりにはも切り包丁を持ち上げる。そして近距離にいた妹につかみかかる。腕を引っ張られて顔から色と表情が失せる。
 筋肉が引きつれを起こしたようにこわばり俺は動けなかった。朱雀の暴力にさらされているとは言え、防御力が上がるわけではないらしい。俺も亀みたいに甲羅が欲しい。
 鷹野が左足を軸に、華麗な回し蹴りを繰り出した。現役サッカー部の黄金の右足に腰を蹴られた親父は、サッカーボールのように松林の中に吹っ飛んでいった。
 ひゅーと息を吐きながら足を下ろし、地面に膝を落としすすり泣くカエデに歩み寄る。だが、親父はタフだった。立ち上がり、包丁をひきずる。鷹野はカエデをかばうように立ちながら俺に言った。
「早く行け! 試験に遅刻すっぞ」
 なんか俺すごく格好悪い。
 鷹野はさらに怒鳴った。
「ここは任せろ。この変なおっさんは俺が食い止める!」
「いやしかし」
 妹、戦闘力・防御力ゼロ。鷹野、未知数、素手。親父、戦闘力・防御力そこそこ、はも切り包丁装備。果たしてこの場を鷹野一人で切り抜けられるのか? カエデがいなければ悩まなくていいが、俺にも兄妹の仁義というものがある。この状況で妹を見捨てて兄貴一人逃げていいものだろうか? 人としてそれはどうなんだ? それに主人公俺じゃね? なんかおかしくね?
 俺の苦悩は鷹野の追撃に打ち消された。
「お前は俺が信用できねえのか!」
「信頼関係の問題か。てか、お前は学校は」
「俺はいンだよ。ミズキは人生かかってんだろ」
 人生……というほどではないが、逃したくない試験だ。
「このままぐたぐたして二時限目まで逃したらどうすんだ? それに、お前がいても役に立たないだろーが」
 最後の一言はきつかった。だが真実だった。俺はお上品に育ったから喧嘩なんてしたことないし果し合いだってしたことがない。カエデと同じくらい足手まといになるかもしれない。場慣れしていそうな鷹野のほうが使える。
「すまん!」
 俺は身体を持ち上げる。節々が痛いが我慢した。自転車にまたがった。だがペダルは動かない。そして怪物親父に車輪を壊されたことを思い出した。担いでいくには重たすぎる荷物だ。林の中に倒し、歩き出す。走るのは疲弊した身体には余りに酷だったのだ。
 時計をちらりと見る。なんともう八時半を過ぎていた。遅刻は確定だ。親父に追われてかなり遠くに来てしまった。しかも徒歩。しかも足をひきずる歩みで速度三分の一。これは一時限目開始には間に合いそうもない。遅刻する科目が現代文でよかったなどと思ったのは初めてだった。
 横断歩道まで辿り着く。信号はなかなか止まらない。待つ間、しゃがみこんで膝を抱えた。ぼうっと座っていたところ、三回も信号を逃して泣きたくなった。 
 

 その後は運よく何のトラブルにも見舞われることはなく、学校まで辿り着いた。当たり前だが校庭に人影はない。静かだから自分の足音もよく響く。
 下駄箱で靴を脱ぐ。スニーカーをひっくり返すと砂が多量に零れ落ちた。ふと、亀二匹を思い出し、今後の安否を気にかけた。またいじめられなければいい。早く海原に旅立てればいい。どんな種類の亀かは知らないけれど。
 一歩一歩が重たい。あと少し……あと少し……と思いながら教室へ向かう。静まり返った廊下に足音が反響する。どうもバツが悪かった。自分の教室の前で立ち止まる。数十秒悩んだが、扉を開けた。同時にしゃべる。
「すみません、遅刻しました」あまり大きな声は出せなかった。喉も枯れていた。
 カリカリという音が一斉に鳴り止み、教室内すべての視線が自分に集まる。恥ずかしかったが、恥ずかしがる気力すらなかった。
 試験官の先生は、一目見るたび間の抜けた表情に変わった。こちらを見たまま読んでいた本を教壇にしまう。
「お前、大丈夫か? 今にも死にそうだぞ。無理せずに保健室に言ったらどうだ」
 このとき、試験官は、
 ――死なれたら俺が困るし。
 と憂慮していたが、人としてアレなので口には出さなかった。 
 
 だが、空気の読めない白鷺ミズキは、
「いえ、平気です……」
 と言って用紙を受け取り自分の席へと向かった。
 試験中は出席番号順に並ばされる。教室内を見回す。空いている席は二つあった。一つは鷹野だろう。もう一つの席の後ろには朱雀が座っている。生徒はほとんど顔を下げていたが、朱雀は冷ややかな目で俺を見ていた。俺はそれに気づかないふりをして席に座った。
 いざ、と問題用紙を広げる。解答用紙も広げる。朦朧とした意識に冷水が注がれた。
「あ……」
 静寂の中に俺のつぶやきだけが響く。試験官が軽くセキをする。そんなのは瑣末なことだった。血液が耳元で脈打っている。震える右手を左手で押さえても止まらない。
 ――筆記用具がない。
 コートのポケットをまさぐる。コートを脱いで学ランも探る。ない。あるわけがない。ないとわかっていても調べずにはいられない。そもそも鞄がない。筆箱は鞄だ。鞄がないなら筆箱もない。
 さまざまな思考が渦になって頭の中を回っていく。視界は砂嵐に包まれ、俺一人だけガラスの箱に入れられている感覚だった。教室内の全存在が異質なものに見える。俺は記憶の渦の中で、なぜここに筆記用具がないのかを分析する。
 ――浜辺だ。
 妹に連れられて浜辺に行った。あの帰り、自転車を持ち上げて進んだが、自転車のかごに鞄は入っていたか? いなかった。倒れた時、投げ出されたのだ。なぜそんなことをしたのかわからないが、鞄の存在を忘れ、自転車だけを押していったのだ。違和感はあったのだ。歩いているとき、やけに手が寂しいと。なぜ気づかなかったんだ。親父の襲撃で俺はパニックを起こしていたらしい。今も十分にパニックになっている気がするが、それはいい。
 重要なのは、今、書くものがないということだ。
 ああ、この世には神も仏もないのだな。そんな台詞が頭に浮かぶ。自分が馬鹿なだけなのはよくわかっていたが。何かのせいにしなければ生きていられなかった。
 ――この時間が終わったら、即行で購買に行ってシャーペンと消しゴムを買ってこよう。
 現代文は諦めるしかない。やっぱりだるくて試験が受けられない、とでも言って保健室にばっくれれば言い訳も立つだろう。俺は顔を上げた。
 と、目の前に何か降ってきた。試験用紙の上に転がるそれを見て目を疑った。
 シャープペンシルと消しゴムだ。
 これはまさしく神の恵み。きっと、俺が必死で今日まで勉強してきた姿を天で見ておられたのだ。
 銀色に輝くシャーペンに接吻したい気分になりながら、手にとって問題用紙に向かう。カチカチと押す。芯もきちんと入っている。よし。
 黒板の上の時計を見る。……あと二十分少ししかなかった。試験時間の半分以上を逃してしまったことになる。
 ――現代文ならそれでも何とかなる。
 そう思ったが、身も心も疲れ果て、脳みそがまともに回転しない。未だかつてない危機に陥っていた。
 息を整えて問題用紙を見る。
 全問解くのは難しい。簡単な問題からだ。まずは漢字の読み書きだ。問題の箇所だけ見ればよいから本文を全部読まなくて済む。次は指示語の問題だ。これは「それ」の指す付近を読めばたいてい答えが書いてある。こうやって部分的な問題から始末していく。全体を読まないとわからないものは後回しだ。それから記号問題。本文からの抜き出し問題。文章で回答するものは短い順に。この頃になれば問題を解きながら自然に本文も大方読めている。すると残りの問題もわかる。何だ、余裕じゃないか。ハハハ――。
 そして一時限目は終わった。俺は天から恵まれたシャープペンシルを机に転がした。大きく伸びをする。体が痛い。
 今朝は一生分の厄を味わった気分だ。そういえば、鷹野はまだ来ない。大丈夫だったのだろうか。多少気になったが、次は数学。あいつのためにも、俺は試験に集中しなければならない。その前にトイレだ。  席を立とうとすると、後ろから襟をつかまれた。椅子に腰を打ちつける。勢いよく振り返る。しかめていた顔から筋肉が抜ける。朱雀が無表情のまま手を鼻先に突き出した。
「返しな」
「は?」
「シャーペンと消しゴム。二時間も使わせないよ」
 えっと思わず零す。椅子ごと身体を朱雀の方に向ける。
「お前か? お前が、俺にシャーペン恵んでくれたのか?」
「恵んだんじゃない貸したんだよ」
「何で……」
 朱雀は肩にかかる髪を払い、目を細めた。
「こじきに食べ物よこすのに、深い理由があると思う?」
 ――まさかこいつに、性善説を説かれる日が来るとは……。
 下まぶたに涙が滲んだ。
「そこにあるのは、単純な優越感だけだよ」
 ――と思ったら性悪説だった。
 それでも、助かったのは本当だ。シャープペンシルと消しゴムを朱雀の手のひらに載せる。
「すまん、助かった。いや、ありがとう」
 朱雀が目を大きくした。手を引っ込めながら笑う。
「やけに素直じゃないか、気味の悪い」
 そう言われて、逆に意識してしまう。先ほどは何も考えなかったが、自分の発言が猛烈に恥ずかしく思える。俺は立ち上がると教室を走り出た。
 ポケットに予備の財布を入れていて本当に良かった。新品の筆記類を見ながら思う。
 購買のある建物を出る前に、トイレに寄る。個室に入って携帯の電源を入れる。周囲に人の気配がないのを確認して、電話をかけた。呼び出し音が壁に反響する。慌ててマイクをふさぐ。何度目かの呼び出しの後、電話が繋がった。
「ミズキくーん?」
 テンションの高い声が電話口から溢れる。胸に安堵感が広がる。
「カエデ、大丈夫か」
「大丈夫、大丈夫。鷹野さん、すっげー、すっげーよ鷹野さん!」
「鷹野はどうした」
「さっき別れて。これから学校行くってさ。私はもう疲れちゃったから家に帰った」
「家まで送ってもらったのか?」
「うん」
「わかった。じゃ」
 電話を切る。今度は鷹野にかける。いらいらしながら出るのを待つ。電子音が切れる。鞄を回収してきてくれるよう頼む。電話口からは文句が飛んできたが無視して切る。校内は携帯電話原則使用禁止だから電源も切る。
 それから急いで教室に戻った。チャイムには間に合ったものの、復習する時間はまったくなかった。まあ教科書がないので復習する方法はどのみちなかったのだが。
 用紙が配られる。百円のプラスチックシャーペンを握りしめる。忘れないように名前を書く。数字を見た瞬間、頭が真っ白に飛びかけた。それをこらえるように目を瞑る。もう一度、落ち着いて問題を見る。薄っぺらな一枚の紙から、目に見えぬ、しかし圧倒的なプレッシャーが放たれていた。
 シャープペンを振りかざす。先端を紙面へと勢いよく下ろした。が、直前、まるでバリアに弾かれたように手が止まる。力を込め、芯を着地させた。紙と接触する瞬間、強い火花が散った気がした。それを俺は鉛の線で切り裂く。
 呪縛は解けた。
 大丈夫だ。理解できる。今までやってきたことをやればいい。解けるはずだ。集中すると周りの風景の一切が灰色に化した。
 気が付けばチャイムが鳴っていた。試験官の「鉛筆置いて」の一言で我に返る。
 最後尾の生徒が解答用紙を集めていく。俺は名残惜しく思いながらも用紙を差し出した。軽くため息をつく。と、机にドサッと鞄が置かれた。黒い地が砂に汚れて白ずんでいる。鷹野が軽く手をあげる。俺も手を上げて挨拶する。 「お前、いつ来た?」
「さっきの時間の途中だよ。気づかなかったのか」
「気づかなかった」
「で、どうよ。自信のほどは」
 正直、なかった。だが、やるだけのことをやったという達成感はあった。何より、解答欄をすべて埋めることができたのは、俺にとって歴史に刻まれる偉業だった。 「上々だよ。何てったって俺は天才だからな」
 そう答えると、呆れ混じりに鷹野は笑った。
 鞄の中身を確認する。財布を始め、減ったものは何もなかった。運がいい。それからやっと落ち着いて、鷹野に向かう。
「あのとち狂ったおっさんはどうなった?」
「苦戦だったぜ」
 机に寄りかかる。
「でも生き残ったんだろ? お前が本当は強いってのは嘘じゃなかったんだな」
「朱雀相手じゃ勝てないだろうがな。睨まれただけで戦意喪失する」
 言ってから、俺の後ろ、つまり朱雀を見て慌てて声のトーンを落とす。
「それに、今日だって一人では命を落としていたかもしれない」
「何?」
「松林ン中でしばらくはバトルしていたわけだが、相手は刃物持ってるし、俺もけっこうきつかった。そして、あわやっ! と言うときに、浜の方から杖が飛んできたんだ」
「杖?」
「そう、杖。それが見事モンスター親父の手に命中。親父たまらず包丁を手放す。呆気に取られている俺の前に、じいさんが現れた。どこにでもいそうな上品なじいさんだったよ。じいさんは投げた杖を拾い上げ、俺を見て微笑んだ。で、なんと、杖の柄をひっぱったら、中から刃物が出るじゃないのよ」
「刃物!」
 なんかいたぞ、そんなじいさん。
「おうよ、刀だ、刀。じいさん、それ振りかぶって親父とチャンバラ始めやがった。その隙に俺はカエデちゃん連れて逃げたわけだ」
「超展開だな」
「じいさん、俺たちンこと知ってるっぽかったぜ。お前によろしくって」
 鷹野は不思議そうな顔をしながら言った。
 ああ、やっぱりあのじいさんなのか。俺は風月の娘にフラれた日のことを思い出した。あの時、杖を忘れたじいさんがいた。風月の客だということは、俺たちは気づかなくてもあちらは俺たちの存在を知っていてもおかしくはない。
 この町には俺が想像するよりも人間離れした存在がたくさんいるのだとわかった。
「カエデを家まで送ったって?」
「ああ。断られたんだけどほっとけないだろ、あの可愛らしい顔で泣かれたら」
 話をしているうちに時間は過ぎ、休憩は終わった。
 英語は大分落ち着いて受けることができた。楽勝だった。この時間に数学があれば、もう少し実力が出せたのではないかと、してもしょうがない妄想をする。
 こうして一日目が終了した。
 荷物をまとめる。今日も早く帰って明日に備えなければならない。
「ねぇ、白鷺くん。大丈夫?」
 前の席の娘が声をかけてきた。一瞬、返事が言えない。すると、近くで駄弁っていた男子も近づいてきた。
「死にそうな顔で遅刻してきたよな。どうしたん?」
「かなり長く休んでたし」
「いや、ま、いろいろ」
 それを皮切りに、教室に残っていた大半の生徒が俺にお見舞いの言葉を述べにきた。口も利いたこのない相手がわらわら集まった。何をどう言ったらよいのかわからない。適当にはぐらかしてニコニコしていると顔が引きつってしまった。
 しかし、自分のことをただ純粋に気にかけてくれる人がいるということは、感慨深い何かがあった。朱雀の言うとおりだ。人が人に優しくするのに、理由なんてないのだ。それが優越感からだとしても俺は嬉しい。

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