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愛と狂気の青春時代 その九


 九、

 翌日からはトラブルなく試験を受けることができた。二週間前は、勉強すれば魔法のように問題がスラスラ解けていくものだと思っていた。だが現実はそんなことはなくて、やっぱり解けない問題は解けなかった。難しいものは難しかった。
 それでも、後悔しないだけの結果は出せたと思う。
「答え合わせしないの?」
 机に全教科の問題用紙を並べていたら、妹が後ろから覗いてきた。人の部屋に入るときは声の一つくらいかけてほしい。気づかぬうちに背後を取られるのはいい気分がしない。
「しないよ。どうせ明日から順に返ってくるんだから」
 試験は今日の世界史A・古文で終了だ。明日は理科総合の時間がある。まずはそれから返ってくるだろう。下手したらテスト前よりも緊張していた。
「間違ってんのが怖いんでしょ。臆病だなー」
「本当にうるさいな、お前」
 問題用紙をまとめて鞄に押し込んでしまう。妹はしたり顔で笑っていた。
「だいたいな、カエデがいけないんだ。お前のせいで、初日はまともに試験が受けられなかった。現代文だって満点取れてるかわかんねえ」
「だって、仕方ないじゃん……」
 頭を下げてしゅんとする。ちょっと焦る。包丁を持った男に追い回されたのだ。妹にとってはさぞかし怖い体験だっただろう。しかも俺は途中で逃げてしまった。あの日の話題を持ち出して分が悪いのはむしろ俺のほうだ。
 ちなみに、モンスターペアレンツはあの日、警察の御用となったらしい。地方新聞の端に載っていた。その場にいたはずの老翁は姿をくらましていたという。
 俺が口を閉ざすと、先ほどとは打って変わった明るい顔をする。現金なやつ。
「ねえ、ミズキくん、前に聞いたでしょ。女が男に惚れるときはどんな瞬間かって」
「そういやな……女が襲われてるとこに助けに来たらクラッとするんだったか」
「あれ、あながち嘘でもないかもね」
 心なしか目が輝いている。ハムスターが餌をもらえるときはこんな顔になる。まるで支えきれんばかりの夢と希望が身に降りかかり、生きることを満喫しているかのような表情だ。
「お前、嘘教えたのか? いや、それ以前に」
 ――それはどういう意味かしら。
「何でもない」
 身を翻し、歩き出す。俺はドアの前に先回りした。妹はきょとんとした顔をしている。
「先に言っとくぞ。鷹野はダメだぞ。本気でダメだぞ」
「……何、言ってんの」
「あいつはな、いやらしいことしか考えてないんだよ。嘘じゃないぞ。本当だ」
 妹が鼻に皺を寄せる。
「何でミズキくんにそんなことがわかるの」
「何でって俺は鷹野の大親友だからだよ」
「だったらなおさら鷹野さんはいい人だよ」
「なぜ!」
「だっていい人に決まってるじゃん! ミズキくんと友達してくれてるんだよ?」
 言外にミズキくん「なんか」と言いたげな雰囲気がにじみ出ていた。
ひでえ。
 俺は妹の両肩に手を乗せた。
「お前、身長何センチだった?」
「百……四五だけど」
「でも十五センチのハイヒール履けば一六〇だろ?」
「そんなの履かないよ……」
「あいつチビだから並んだとき一六〇以上になる女とは付き合いたくないんだと」
「??」
 妹は意味がわからないという顔をしていた。俺も意味がわからない。
「てか、私、べつに鷹野さんが好きなんて言ってないじゃん」
 肩に乗せた手を払い落とし、妹は部屋を後にした。
 
 太陽が水平線の彼方に沈み、また地平線の彼方から顔を出した。
 朝、いつもどおりの時間に起きる。そして青ざめる。
 ぶち壊れた自転車は回収してきたが、修理して何とかなるものではない。どうやって学校に行くかを考えていなかった。
 母に頼めば送ってくれるだろうか……。そう思いながら階段を下りる。
「ミズキくん、おはよう」
「おはよ……う、ございます?」
 かけられた声が低いことに気づき段を踏み外しそうになる。義父――カツラおじさん――が見上げていた。
 仕事は? と聞きたかったが聞けなかった。
「ハハッ、驚いたかい? 今日は休みだったんだ」
 嘘をつけ。
 階段をくだることがだいぶためらわれたが、止まっているわけにもいかない。ふらつきながら一段一段踏んでいく。地上が近づくにつれ歩みが遅くなる。
 降りきると、義父に背中を軽く叩かれた。思わず前によろめく。あっ大丈夫かいなんて慌てて俺の身体を支える。そして最悪の一言を発した。
「自転車、壊れたんだろ? 父さんが送ってあげるよ」
 イイエ結構デス。
 とは言えない。俺は努力の結果、笑顔に見えるよう口の端を歪ませて、居間に入った。義父もその後に続いた。
 うどんに七味をかけまくる。舌がひりひりするだけで味はしない。
 妹は今日も亀の面倒を見るのか、いなかった。懲りない奴だ。
 食事が済む。俺が身支度を整えだすと、義父も動き出した。
「さあ行こう」
 義父が満面の笑みで玄関の扉を開ける。
 俺はほどけてもいない靴紐を結び直して、家を出た。空は明るかったが風は冷たかった。庭先では義父が軽自動車を道路に出している。俺の前に車を止めて、窓を開けて中に入るよう促した。後部座席に座ろうとすると、タクシーじゃないんだから助手席に座れと言われた。別にタクシー扱いで後ろに座ろうとしたわけではない。
 助手席に座る。車内は暖かかった。ミラーからは出雲大社のお守りが垂れている。窓辺には猫のぬいぐるみが三つ並んでいた。豹柄だった。シートベルトを締める。ギアを動かす義父の手を見る。無骨だ。
 ――何を考えている。こいつは何を考えている。
 俺は気を緩めることなく正面を見る。景色が動き出した。
 義父はやたら高いトーンで話しかけてきた。
「ミズキくん、学校は楽しいかね」
「はあ。昨日まではテストでしたから」
 その前は二週間学校休んでいましたしね。
 暖房の音がうるさい。
「ミズキくんはハンサムだからなー、女の子にモテるだろ」
「そんなことありませんよ。美人は三日で飽きると言いますしね」
 三日も待たずに飽きられて捨てられてばかりでござんすよ。
 前方に手押し車を押しながらのろのろと老婆が歩いていた。合わせて車も速度を落とす。
 少し長めの沈黙の後、義父が口を開いた。先ほどまでとは違う腹を据えた口調だ。俺は前の景色を見ながらも身体に力を入れた。
「僕はアオイさんが好きだ」
 母のことだ。
 俺は何も答えない。間を空けて、また続く。
「だからアオイさんの子どもであるカエデちゃんが好きだ。もちろんミズキくんも好きだ。若くて頼りないかもしれないが、親子になりたいと思ってる。でも君は、僕を……父さんを避けているような気がするが、どうだね?」
 どうだねって何だ? どうだねって。ほとんど確信して聞いてるんだろ?
 老婆と手押し車が脇道に入る。車のスピードが少し上がる。
「君が複雑なのはよくわかるよ。二年間もよそに預けられていて、帰ってきたら知らない男が家族に加わってた。いい気持ちはしないだろう」
 サイドミラーに移る俺の顔が苦笑いを浮かべている。
 ――そうやって人の心をわかったように語るところがダメなんですよ。青いんですよ。若いんですよ。父親になれないんですよ。
 そんなこと言ったら人としてダメだよな?
 義父が俺のほうに首を傾ける。前見てないと危ないですよ。
「ミズキくん、君は二週間も学校を休んでいただろ? 僕はその理由を知らない。僕は、君の考えていることがわからないんだ」
 そうだな。母には休みたい理由を話したがこちらには何も説明していない。まあわからないだろう。俺もこの人の考えていることはわからない。
 義父がまた口を開きかける。俺はそれを遮った。
「カツラおじさん。あなたはなぜうちの母と結婚したのですか? 歳も若くない、しかも子どもが二人もいる。生活だって苦しくなる。そんなリスクを負ってまでなぜ、母と結婚したのですか?」
「僕は君たちをリスクなんて思ったことはない」
「この際、綺麗事はなしにしましょう」
 すかさず否定する義父に俺もすかさず答える。義父は口をつぐんだ。
 俺ってこんなに目つき悪かったんだな、とサイドミラーをちらりと見ては思う。
 住宅が畑に変わってきた辺りで義父はようやく返事をした。
「アオイさんはとても聡明な女性だ。僕はあの人と知り合えて本当に良かったと思う」
「つまり好きだったんですね」
「当たり前だ。今でも愛してる」
 鼻で笑いたい気分だった。
「リスクを背負ってでも結婚したいくらい好きだったんですね」
「そうだ」
「同じですよ」
「何?」
 おじさん、余所見してたら危ないですってば。前見ましょうよ、前。
「僕が休んだのも同じ理由です。リスクを背負ってでも賭けてみたい相手がいたんです」
 ちょっと格好付けすぎたかな。ま、説明するのも面倒くさいしこんなものでいいだろう。
 カツラおじさんは、どう解釈したのかは知らないが、苦笑した。
「ありがとう。やっぱりほら、説明されないまま休まれると、親としては不安になるからね。できれば二週間前に教えて欲しかったな」
「すみません」
 それからまたしばらく沈黙が続いた。
 まだ学校に着かないのだろうか。異次元にでも落ちたかのように体感時間が長く感じる。おそらく五分も過ぎてはいないはずだが。
 交差点の信号待ちに入る。
「今年で、カエデちゃんは中学を卒業するだろ?」
 今度は何だ。
 俺は前を見たまま答える。
「そうですね」
「来年からは新しく高校に通うことになる。君も二年生に進級する」
「ええ」
「ミズキくん」
 今までになく強い口調で名を呼ばれる。義父の視線を感じる。俺は少し息を吸って彼の方に顔を向けた。目線がぶつかる。骨格のいい頬の筋肉が張っていた。
「名字を変えてくれないか?」
 ――そう来たか。
 目を閉じた。
「それは」
 義父は俺に続きを言わせなかった。
「カエデちゃんが卒業する、今が転機だと思うんだ。カエデちゃんは君がうなずけば変えてもいいと言っていた」
「僕は卒業しませんけど?」
 軽く笑いながら言った。
 義父は信号が変わったのに合わせて目をそらした。
「うん……悪いと思ってる。でも、親子で名字が違うのはやっぱり不便だと思うんだ」
「名字が変わる方が不便なんで」
「僕は君と家族になりたい」
「今でも家族じゃないですか?」
 満面の笑みを作りながら言う。我ながら白々しすぎておかしかった。だがここは俺としても譲りたくない一線だった。
 本当に家族になって欲しいならここで引くということもないだろう。反撃がないということは所詮その程度の意志だってことだ。甘いんですよ、考え方が。子どもってのはあなたが思うよりもずるがしこくて汚くてひねくれている。
 しばらく待ってみたが義父は言い返してこなかった。それを確認して、俺ははっきりと言った。
「無理です。僕のことを名字で呼ぶ友達がいますから」
 義父は奥歯にニラが引っかかっているような顔をしている。
「おじさんが嫌いなわけではないんですよ」
 それは本心だ。いい人だと思う。比べて、自分はなんて嫌な子どもなのだろうとも思う。
 義父の名字を名乗りたくないわけではない。
自分の中で父親が消失するのが怖いだけだ。たとえどんな人間だったとしても家族だったんだ。関わりを断ち切るのは悲しすぎよう。
 ま、わかんねぇだろうな。
「米粒の中に砂利が一粒混ざっているようなものです。慣れないんですよ。どうしても」
 砂利と言うのは俺のことだ。カツラおじさんがどう捉えるかは知らないが。
 産業道路に出た。学校はもうすぐだ。
「わかった。急なことを言ってすまなかったよ。もっと時間をかけて、君たち家族に同化できるようがんばるよ。名字は変えたくなければ変えなくていい。戸籍上どうなっていても家族は家族だ。ミズキくんの言うとおりだよ。僕は変なところにこだわりすぎていた」
 義父は落ち着いた声で言った。やっぱり大人だな、と思った。
 学校の前に車が止まる。
「いつかは『おじさん』をやめてくれ」
「努力してみます」
 義父は爽やかに送り出してくれた。俺も笑い返しておいた。
 校門をくぐりながら思い出す。朱雀がいつだったか、人間は変化を恐れる動物だと講釈を垂れていた。その時は聞き流していたが、今は身をもって思い知った。砂利を飯粒に変えるには魔法が必要だ。
 教室に入る。席に着くと、すでにいた鷹野が挨拶がてら近づいてきた。
「今日ははえーな」
「家の人に送ってもらったんだ。自転車壊れたから」
「そうか」
「なあ」
 俺は教科書を出す手を止める。鷹野は丸い目をさらに丸くしながら俺を見る。
「もしも彼女ができたら最初に何する?」
 鷹野の口が横に裂けた。顔を近づけてささやく。
「ドーテイ卒業」
「お前死ねよ」
「何だよ急に。ひどくね?」
 短い髪を掻き毟る。ひどいのはお前の脳みそだ。きっと煮立ってコンソメスープみたいになってるぞ。
「お前はそれ以外にないのか」
 俺はもう一声かけた。だが鷹野は空気を読まなかった。
「女と付き合うのにそれ以外の何があるってんだよー」
 フラグバキバキ折ッチャッタネ、鷹野クン。
「それがどうかしたのか」
「いいや何でも」
 こいつはもう絶対に家に上げない。

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