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夢か現か幻か


 一重の鋭い目つき。目の下のしわがきつい印象を強くする。細面の顔は典型的な日本人だ。友人いわく「男前だが、恋人にしたいタイプではない」。仕事での失敗は少ないが神経質で冗談も言えないつまらん男。
 無性に問いたい。

 俺の何に惚れた。
「ずっとあなたのことが好きでした。八神さん、私と付き合ってください」
「ごめんなさい。今は、そういう気になれないので」
 俺は即答した。相手は会社の同僚でよく知っている子だった。容姿端麗で頭脳明晰、そつのない性格に仕事における手際のよさ。そして心には傷がある。
 俺ではあまりにも釣り合わない。
「前にもそう言いました。八神さん、ずっと恋人いませんよね。私のこと嫌いなんですか」
 彼女は眉根を寄せて聞いてきた。少し不満げだ。俺は無理やり笑顔を作った。笑うのは苦手だ。ついでに、女性と話をするのも。正直早く諦めてほしい。
「あなたが悪いのではないのです。それに恋人ならいますよ」
「え、どんな人ですか。教えてください」
 驚いたような顔で言う。彼女は小鳥の囀りのような綺麗な声で有名だ。だが俺は彼女の声が大嫌いだった。
「見えませんか」
 俺は自分の背後を指差してみせる。
「ここにいますよ」

 俺には性格の悪い二人の兄と三人の姉がいた。彼らの趣味は俺をいじめることだった。少なくとも、俺はそう思っている。
 特に、長女と三女はひどいものだった。着物に墨をつけたという理由で簀巻きにされ極寒の海に投げられたこともあった。飯に虫を混ぜられむりやり食べさせられたこともあった。押し込みに三日三晩閉じ込められたこともあった。その他にも目を覆いたくなるような仕打ちを日常的に受けて育った。
 長男と次男はつるんでおり、頭脳犯の長男は自分の過失を俺に擦り付けることに命をかけていた。常に優越感に浸っている兄は、俺に必要以上の劣等感を与えた。次女だけは一人優しかったが、俺はなぜかその優しさが恐かった。
 そんな日々が何年も続き、十五歳になった春、同居人が増えた。それは俺にとって決して忘れられない思い出となる。
「遠縁の親戚です。爽夏さんといい、事故でご両親を亡くされたので我が家でともに暮らすことになりました」
 爽夏――サヤカ――がこの家に来た時、母は彼女の説明を一通りした。爽夏は一言もしゃべらなかった。いや、しゃべれなかったのだ。彼女は事故のショックで口が利けなくなっていた。俺がそのことに気づいたのは、数日過ぎてからだ。
 爽夏は十四という歳を疑ってしまうほど、大人びていた。無言だからというのもあったが、雰囲気全体が落ち着いていた。沈んでいた、のほうが近かったかもしれない。両親を失ったショックのせいか、無表情で、感情を表に出すことはないと言ってよかった。
 その容姿もまた異様な麗姿であった。背中を覆う黒一色の髪。白磁のような色素の薄い肌。細身で華奢な体の上には、作り物のような整った顔が乗っている。モノクロームの写真に閉じ込められているような彼女は、影の部分を強く思わせた。
 俺をいじめていた姉兄も、爽夏には優しかった。沈んでいる彼女を気遣い、食事のときなども積極的に声をかけていた。外出するときはエスコートまでしていた。あの姉兄たちにも、こんな一面があったのかと、少し見直した。そう言えば、彼女が来てから自分がいじめられることもなくなった。彼らも思いやりの心を学んだのか。
 だがしかし、この考えが間違っていたことを俺は思い知らされる。
 爽夏が訪れて二週間目を迎えようとした頃……。
 真夜中、俺は用を足しに部屋を出た。爽夏の寝室に差し掛かった時、ふすまの隙から明かりが漏れているのに気づく。
 こんな時間にまだ起きているとは……。
 不審に思い立ち止まると、何と部屋の中から声が聞こえる。おかしい、爽夏はしゃべれないはず……。しかも、一人ではない、複数の声だ。男の声もする。
 わずかに開いたふすまの隙間から、中を覗く。そこには、恐るべき光景が広がっていた。
 うずくまる爽夏を中心に、姉と兄が彼女を取り囲むようにして立っている。
 何なんだ。一体何をやっているんだ。
 長女がうずくまる爽夏を蹴り飛ばした。と、思ったら、今度は長男が彼女の背中を踏みつけた。それを見て三女が笑いながら言った。
「あんたみたいな居候、迷惑なのよー。偉そうにみんなと肩並べて食事してんじゃねえよ、カスが!」
「何とか言ったらどうなんよ、黙ってないでねえ」
 長女が爽夏の美しい長髪を引っ張る。
「やめなさいよ、二人とも。爽夏さん、しゃべれないんだから」
 たしなめるのは次女。しかしその顔は笑っていた。その様子を見て俺は悟った。次女は自分は直接手を出さずに、その影で嘲笑っていたのだ。
 爽夏は黙ってじっと耐えていた。こんな状況でありながら無表情のままだ。だが、唇をきつく噛んでいるのが見て取れた。
 そんな彼女を見ながら姉兄は声を上げて笑っている。三男だけは、青い顔をして口元を引きつらせていた。彼は他の姉弟と違い、気が弱かった。弱者の側に回りたくないがために強者に同調しているだけだ。無論、正当化は出来ないが。
 長男が爽夏の頭をこづいた。その拍子に彼女は畳に顎を落とす。
 一瞬、目が合った。
 俺は気のせいだと自分に言い聞かせた。そして、何も見なかったことにして自室へ帰った。
 翌日、姉弟も爽夏も普段と変わらぬ様子で食事を取っていた。もしかしたら、爽夏のおかずには虫が入れられていたのかもしれない。そんなことを思いながら、重たい朝食を済ました。
 そんなことがあってから、爽夏や姉弟たちの動向を窺っていると、今まで気づかなかったものが見えてきた。母親が外出しているときなど、やはり爽夏は嫌がらせを受けていた。姉たちは母から命じられた手伝いをすべて爽夏にやらせていた。兄たちは足を引っ掛けるなどしてそれを妨害している。その他にも、彼女に対し、口では言えないようなひどいまねを……。無表情で物言わず言いなりになる彼女はまるで人形のようだった。
 母にこのことを話すべきかどうか、俺は迷った。迫害を受けているときの爽夏と、目が合うことがある。そのたびに見なかったことにしながらも、後悔に押しつぶされそうになる。だが結局、母にそのことを話すことはなかった。
 俺が彼女にやってあげられていたことは、押し付けられた家の手伝いを一緒にしてやることくらいだ。すると彼女は申し訳なさそうな顔でいつも頭を下げるのだ。やめてほしい。これは姉兄をとめることもできないが、爽夏に恨まれたくもない。そのための防衛手段。自分の姑息さがいやになる。
 そんなことが続いて一年が過ぎた頃……。満月の綺麗な夜だった。夜中、月を見ようと外に出ることにした。その途中、どうしても爽夏の部屋の前を通る。寝室は暗かった。今日は姉たちが来ていないらしい。何となくほっとした。そのまま通り過ぎようとしたが、立ち止まった。部屋から、奇妙な音がするのである。
 ガリガリガリ……
 まるで、そう、何かを引っ掻いているかのような……。背筋が冷えるのを感じた。見たくない、見てはいけない。そう思いつつ、ふすまを開ける手を止めることが出来なかった。
 爽夏が座卓に向かい、何かしていた。
 足音を殺し、前かがみになった背中のすぐ後ろまで近づく。艶やかな黒髪の間から覗く白いうなじは、妙に色っぽかった。当の本人は、俺が背後に立っているとは気づいていないらしい。夢中で机上の右腕を上下し、先ほどの不気味な音をたてている。
 首を伸ばし、彼女が何をしていたかがわかった時、体が震えた。

八神飛鳥八神青火八神風花八神北斗八神秋翔八神斬人八神藍生八神飛鳥八神青火八神
風花八神北斗八神秋翔八神斬人八神藍生八神飛鳥八神青火八神風花八神北斗八神秋翔 八神斬人八神藍生八神飛鳥八神青火八神風花八神北斗八神秋翔八神斬人八神藍生八神

 机に広げられた紙面一杯に書かれた八神家の人間の名。爽夏はそれを剃刀で延々と切りつけていた。
 俺は思わず小さく叫んだ。その時、気づいた爽夏が振り向いた。その顔のすさまじいことと言ったら。平生の無表情が嘘のような。赤く血走った目にむき出しの歯。顔中の血管が浮き上がり鬼のような形相だ。俺は瞬時に般若の面を連想した。
「……み……た、わ……、ねえ……!」
 しゃべった。声が出せないはずの爽夏が。俺のほうこそ口が利けなくなった。言葉を忘れ、口をパクパクさせている俺に、爽夏は体の心から凍りそうな冷たい声でささやいた。
「死んでも許さないから」
 初めてはっきりと聞く彼女の肉声は、その美貌にそぐう綺麗な声だった。そう、丁度、小鳥の囀りのような。
 だが、この時の俺はそんなことに感動しているような余裕はなかった。ただただ恐怖し、彼女を残して自室へ逃げ帰った。布団にもぐり込み日が昇るまで震え続けた。
 翌朝、布団を出て太陽を仰いだ。うららかな春の日。憂鬱な気分が少しだけ晴れた。それでも朝食に向かう足取りは重かった。爽夏のささやきが一晩明けても耳を離れない。「死んでも許さないから」……自分は、見てはいけないものを見てしまったらしい。
 居間の障子の前で入ることをためらっていると、後ろから肩を叩かれた。心臓が張り裂けそうな勢いで脈打ち、おそるおそる振り返る。 
 爽夏だった。そのまま卒倒を起こしそうになったが、よくよく彼女を見てみると、昨夜の般若の顔ではなかった。逆に俺の驚きように困惑していた。きょとんとしたかわいらしい顔で俺を見ている。それで、俺の欝は静かに消えた。あれはきっと夢だったんだ。そう思い、胸を撫で下ろして障子を開けた。
 食事は何事もなく済まされ、何事もない一日が過ぎた。昼間、爽夏がいじめられているところを見かけたが、いつものように瞼を固く閉じ何も見ていないと自己暗示をかけた。
 この夜、怖い夢を見た。眠っていると、廊下のきしむ音が聞こえる。音はだんだんと近くなり、俺の部屋の前で止まる。いやだと思いながらも、顔をあげ、障子のほうを見る。月明かりを通し、障子には人影が映っていた。俺の部屋の前で、動かない。俺は恐怖に震え、布団にもぐって寝たふりをはじめた。それから何時間過ぎただろう……、実際は、数分のことだったかもしれないが、再び床のきしむ音が聞こえ、やがて遠ざかり消えていった……。
 目覚めた時には汗だくだった。
 その翌日も同じ夢を見た。いや、正確には同じではない。部屋の前でとまった影は、今回はただでは帰らなかった。障子の隙に指を入れ、一寸ほど開いた。俺は影を見まいと目をそらそうとした。だがなぜかそれができない。影が、障子の狭間から中を覗く。ぎょろりと、大きく見開かれた目が、片方だけ見える。白目は黄色くにごり、血管が走り、瞳孔は異様に小さかった。まなこの周りはねっとりとした黒の長髪に覆われている。石化している俺をじっと見ている。どのくらい経ったかわからないが、やがて障子を閉め、影は去っていった。
 次の日は、影は、片目で覗くにとどまらなかった。障子を一気に開き、影はその全貌を明らかにする。白い月光に照らされ、そこに立っていたのは女……爽夏……だった。普段の人形のような端整で無感情な顔ではなく、三日前の、鬼の形相だったが。長髪を振り乱し、目は見開き歯をむき出しにして荒い息遣いで立っている。視線をずらすと、その右手にはなんと出刃包丁が握られていた。俺は心底恐怖し、そのまま、夢でありながら、失神してしまった……。
 朝、目が覚めると、生きている喜びを味わった。それから重い足取りで朝の食事に向かう。無言で箸を運ぶ爽夏を盗み見る。何であんな夢を見たんだ。しかも毎日立て続けに。どうも自分は最近おかしい。
 所詮は夢だ。気にしたところで仕方がない。そう自分に言い聞かせ、俺は今日も眠りにつく。
 その日の夜も、爽夏は夢に現れた。今度は、廊下から敷居をまたぎ、中にまで入ってきた。布団の傍らに立ち、無言で俺を見下ろしている。ぼさぼさの髪、般若の顔、右手の出刃包丁……。必死で寝たふりを試みるが、とてもできた状況ではない。長い長い沈黙のあと、爽夏は床のきしむ音とともにゆっくりと立ち去った。
 五日目の夜、俺は寝るのが怖く、朝まで起きていようと考えた。しかし、普段一日八時間は睡眠時間をとっている者にとって、徹夜というのは酷である。いつの間にか眠ってしまったらしい……。
 気がつくと、爽夏が布団の上に立っていた。俺の体をまたぐようにして、見下ろしてくる。何度見ても慣れないおそろしい形相で、肩で荒く呼吸していた。そして、出刃包丁を両手で固く握り構えている。ここまで来て、いつもの夢だと思ったが、それでも怖いことに変わりはない。何度も目覚めるように、早く朝が来るようにと念じたが、効果はない。そんなことをしているうちに、やがて爽夏は去っていった。
 度重なる悪夢のため、俺はひどい精神衰弱に陥った。目の下には深々と隈ができ、頬も目に見えてやつれた。今が春休みでよかったと思う。こんな顔で学校に行ったら、同級生に何を言われるかわからない。もともと鋭い一重瞼のせいで悪人臭いとからかわれていたのに。きっと脱獄した死刑囚だとか言われるだろう。
 どんなにいやでも夜は来る。できるだけ気分を落ち着けて、静かに目を閉じた。あの夢は自分の精神の問題だ。平常心を保てば悪夢など見ない……はず。だんだんと意識はまどろみ、俺は闇夜の中へといざなわれた……。
 息が苦しい。何かが自分の上に乗っている……。胃がつぶれそうだ。正体を確認しようと瞼を持ち上げた時、体の血が一滴残らずどこかへ消えた。
 爽夏が腹の上に座っている。
 何でこんなことになっているんだ。俺は脳内が白ずんでいくのを感じた。爽夏は人とは到底思えないような顔つきで俺を睨みつける。両手で出刃包丁を握り締め、高く振りかざす。俺は逃げようとした。が、動けない。叫ぼうとした。が、声が出ない。彼女の激しい動悸が体に伝わる。刃先が喉元まで降下してきた――。
「うわああ!」
 叫び声で目を覚ます。数秒後、声の主が自分だということに気づく。障子の薄い紙を透かして朝の光が火照った体を照らした。すでに爽夏の影はない。俺は体の震えがとまらなかった。
 再び夜。布団を頭から被り、俺は生きた心地がしなかった。一日目から、だんだんと爽夏は近づいてきた。そして、昨夜は殺される寸前で終わっている。だったら、今日は……。
 頭を振る。バカバカしい。ただの夢ではないか。そう、ただの……
 ――夢。
 果たして、あれは本当に夢だったのだろうか。腹部の重みは、今も感覚が残っている。夢にしては、あまりにも生々しい……。もしも、もしも現実だったら、今夜自分は、殺される。そんなことは、あり得ない、あり得ない。自分に言い聞かせつつ、一抹の不安は全身へと増殖していった。
 布団に包まり、耳を塞ぐ。その状態で、震え続けた。何時間が過ぎたかわからない。すでに時間の感覚など麻痺していた。永遠にも等しい時の中、俺は決して眠らなかった。
 眼球が瞼の下から光を感知した。日が昇ったのだ。そっと、布団を持ち上げる。敷布団と掛け布団の間から見える景色は、白い光に包まれている。どこにも夜の影はない。
 助かった。何のことはない、やはりただの夢だったのだ。
 おびえあがっていた自分がバカらしく思えて、俺は苦笑した。そして、布団から這い出る。
 ――――。
 視界に広がっているものが、一瞬何かわからなかった。脳が認識をするにしたがい、じわじわと絶望感が沸きあがってきた。
 天井から垂れ下がる一本の縄。その先にぶら下がる……人、だったもの。純白の手足に、漆黒の髪。胸元から腹に流れる真紅の、血。頭からも、流れている。目は、見開かれたまま。今にも眼球が落ちてきそうなほどに。長い舌がだらりと口から垂れている。……それ以上は言うまい。起こった事態は十分に理解していた。
 首吊り自殺。
 なぜ。なぜ? なぜ! なぜ自殺する。なぜ俺の部屋で。足元には出刃包丁。なぜ俺ではなく自分を切った。その上なぜ首を吊る。
 何もかもがわからなくなり、その場に崩れ落ちた。
 そのあとは大変だった。警察が来て、死体を片付けて、葬式を挙げて……。こういうときの母は偉い。動じることなく一人ですべてこなした。
 姉弟はぎゃあぎゃあ騒ぎながら、俺をこぞって責め上げた。
「何でお前の部屋で爽夏は死んだんだ」「そうよえ、あんたが何かしたんやろう」
「信じらんない、八神家から自殺者が出るなんて」
「ああ、どうしましょう。世間体が……」
「爽夏は何で自殺したんだ……今になって……」
 よく言ったものだ。自分たちのしたことは棚に上げて。いや、俺はわかっていた。自分も彼らと同じであることを。爽夏が自分の部屋で自殺したことを考えると、彼ら以上に恨まれていたのかも知れない。彼女がいじめられていても知らぬふりをし、秘密まで垣間見てしまった。それで彼女は復讐したのだ、自殺という手段で。
 彼女の自殺騒動が落ち着いたあとすぐ、俺は実家をあとにした。県外の高校に進学し、県外の大学に進学し、県外の中小企業に就職する。そして今に至る。

 俺のせいで爽夏は死んだ。俺が、爽夏を、殺したのだ。

 どうして俺が姉弟の彼女への仕打ちを母に話さなかったか。俺は安心していたのだ、心の奥で。爽夏がいじめられている限り、俺がまたいじめられることはない。だから姉たちの行動を見て見ぬふりし続けた。爽夏に恨まれるのも当然だ。俺は最低最悪の男だ。
 そう思いながら今まで生きてきた。俺の目には彼女の恨みが見えるのだ。
 爽夏が死んだあの日から、俺の背中には彼女の亡霊が張り付いている。忘れたくても忘れられない。鏡を覗いても映っているし、風呂桶を覘けば水面に浮かんでいる。風呂で頭を洗っていたらよく首を絞められる。それから寝ている時は必ず夢枕に立つ。これまで何年も毎日悪夢ばかり見てきた。
 夢枕の彼女は血まみれで、俺を睨みながらささやき続ける。
「恨んでやる呪ってやる祟ってやる殺してやるお前のせいだ」
 それから、赤い赤い涙を流して最後に必ず言うのだ。
「どうして、助けてくれなかったの。私、あなたが好きだったのに。だからこんな姿になってもここにいるのに。どうして、助けてくれなかったの」
 俺はこの時の彼女ほど、恐ろしく、悲しく、美しいものを見たことがない。人の黒々とした感情の思いがけない甘美な色。
 俺は彼女の気持ちに気付いていた。それでいて何もしなかったのだ。俺も、彼女が好きだったのに。わが身可愛さにすべてをダメにした。非力な自分が許せないのだ。
 だから俺は、彼女が解放されるまで彼女に身も心も人生のすべてを捧げて生きていくのだ。彼女が俺を好きだったというのなら、俺は誰にも愛されないし誰のことも愛さない。彼女は俺の罪なのだ。
 これからも人を好きになることはないのだろう。これが俺の罪なのだから。

 突如、俺の体に何かがしがみついた。一瞬、ぎょっとする。
「八神さん、いい人ですね。でも、いい人過ぎる。あなたは悪くない。そろそろ自分のこと許してもいいじゃない。これはあなたの心の問題でしょ。幽霊なんて、いるわけないんだから。私はそれでも、だからこそあなたが好きです。死んだ人には負けられないわ」

 胸に顔をうずめて呟くその声が、残酷なほど爽夏に似ていた。

あとがきへ

 

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