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馬鹿野郎!

「それでね、少しいやになっちゃったのよ。私。小中学はそこそこ悪さをしながらも元気に登校し、そこそこいいレベルの高校に入って、そこそこいいレベルの大学に行って、卒業して、あらかじめ決められていた男と結婚して、子供生んで、仕事やめて、昼ドラなんて見ながら年をとっていく人生が」
 夜風に巻かれる髪に指をすかしながらあいつが口開く。大学卒業以来ろくに会いもしなくて、突然呼び出したかと思えばこれだ。わけわかんねえよ、そんなこと急に言われても。ったく、この気まぐれな性格だけはガキのころからちっとも進歩しちゃいねえ。容貌だけは、えらく大人っぽくなっちまったが。
 俺は煙草を口にくわえながら、とりあえず返事する。
「いいじゃねえか、人生安泰でよ。少なくとも三十路過ぎても嫁き遅れ、なんてことにはならなくて済むわけで」
 あいつは橋の欄干から身を乗り出し、遠くを見やりながら続けた。目前にはネオンに彩られた摩天楼の数々が広がる。その下には底なし沼のような黒い川。
「なんというのかしら、刺激がほしいのよね、そんな予定調和的な未来ではなく。そうね、たとえば、私を結婚式場からさらってくれる……白馬の王子様でなくてもいいの。海賊とか、マフィアとかが現れて、そういうドキドキするような出来事がほしいの」
「二十五歳にしてはあまりにガキじみた発想だな」
「女はいくつになっても儚い期待と一緒に生きているのよ」
 儚い期待なあ、そりゃあ、男も同じだろうな。だが口に出すのと出さないのとは別だ。だいいち、疎遠になっていた幼馴染を呼び出す動機にしては弱すぎねえか?
「で、何でまた急にそんな話をしだしたんだ?」
「結婚するのよ。来月」
 物憂げな瞳で俺のほうを一瞥する。
 俺は天に昇っていく紫煙を眺める。冬の夜空はなぜこうも美しいんだが。空の星も、その下の人工灯も、ああ、ムカつくくらい綺麗だ。
 こいつが結婚ねえ。まあ、小さな会社の一応、社長令嬢で? 婚約者は親父さんの腹心の息子で? まあまあ、そんなこたあ、ずいぶん昔から知っていたわけで? いまさらどうってこともないんだが。
 しかしこいつが結婚か。ガキのころから男子とつるんでばかりいて、女らしいところなんて存在しなかったくせに。俺たちはくだらねえことで喧嘩をよくして。中学も高校もそれぞれ違う相手と付き合ったりしながら、それでも相変わらずな腐れ縁のダチを続けてよ。二人して同じ大学に上がって、授業サボってバイクであっちこっち走り回ったりと馬鹿しかやってこなかったが、おそらく家族以上に家族的な他人だった。で、そんな関係で今まで来られたの、恋人には絶対にならなかったからだと俺は思う。
 艶っぽい関係になんてなりたかねえんだよ。俺には男のように付き合える女が性に合ってる。
 なんて気取って見せても世話ないが。
「……そ、そうか。もうそんな時期か。時期だよな! 俺たち、もう四捨五入すれば三十だからな! 年取ったな!」
 口を開いたらいやにハイテンションになってしまった俺の顔をあいつがジト目で見る。何でそんな顔するんだよ、いったい。
「とめてくれないの?」
 ――そんなこと、できるわけねえだろ? ねえよ。俺みたいな甲斐性なしに。不況の煽りで就職逃して三年もフリーターやっているような男が。だいたい、とめてどうするんだ? 今時の日本に、海賊もマフィアもありやしねえんだ。
 相手の男はそれがもう完璧なやつだった。俺もよく知っている。そりゃもう頭いいし性格いいし金持ってるし将来有望だし、何よりこいつのことを愛してる。たぶん、世界中の誰よりも。俺なんかよりずっとずっと。自分を愛してくれる男と一緒になれる。これ以上の幸せがあるのか? ねえだろ? ねえよ。
「と、とめるわけねえだろ? な、何で俺がそんなまねを、なあ。ハハ……」
 だから、その目をやめてくれ。
 水を含んだあいつの唇が静かに動く。
「じゃあ、祝ってよ」
 ああ、ああ、そうだな、それはそうだな。結婚だもんな、めでたいもんな。寿退社なんて現代は死語だが、おめでたいことに変わりはないな。黙ってちゃ駄目だな。
 俺はあいつの肩をたたいた。それから声を喉からしぼりだす。
「よかったな。おめでとう、……幸せになれよ」
「ありがとう。それからさようなら」
 あいつは一言そう言うと、身を翻して橋の向こうに消え去っていった。「ああ、じゃあな」その背中に短く告げる別れの言葉。
「馬鹿野郎っ!」
 長い髪の背中が突如、振り返り、熱のこもった声で叫ぶ。それから完璧に闇へと消えた。
 ああ、俺は馬鹿だよ。
 煙草を口から離し、ふうっと一息する。白い煙が黒々とした空に昇っていった。まだ半分以上残っているその一服の清涼剤を、俺は川の中へ投げ捨てた。ジュウという音を立てて小さな火が消える。不釣合いなほど白い物体が水の中をゆらゆら漂っていく。水に濡れたそれはだんだんと形を崩していき、ふやけてついには跡形も見えなくなった。
 見上げると、夜空の星まで水彩画のように滲んでいた。

 

 さてと。俺もそろそろ、身を固めねえとなあ……。

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