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五、路地裏ダークサイド

 迷彩ブルゾンと黒いストレートパンツを着込み、ハンドバッグを片手に足子町を徘徊する女がいる。靴は足に負担をかけないようにスニーカーだ。佐藤は、バツ一狼の出現を狙ってあえて人の見当たらない道を歩いていた。
「なかなか出てこないわね、狼のやつ」
 佐藤は壁に寄りかかり、少し休憩する。晩から夜更けまで歩き回るとさすがに辛い。
 アップに結ぶ髪を解く。乱れてきたのでそろそろ整えないといけない。垂らしているとうっとうしいので、きつく結ぶのが常だった。そうするとうなじに当たるか当たらないかの長さになる。
 麦穂色の髪をまとめながら考える。
 ――外浜町のほうは昨日行ったし……正道町のほう、行ったほうがいいのかな……まだ新しい事件は起こってないから、三分の一の確率で遭遇するはずだけど。
 一町といっても広い。佐藤が西に行っている間に、狼が東に行っている――そういう可能性は佐藤の頭から抜けていた。
「場所変えるか……」
 髪を整えたところで、再び歩き出す佐藤。しかし、直感的に足が止まった。
 背後に、息遣いが。
「お嬢さん、名前は」
 ――来た。
 佐藤、心を落ち着ける。冷や汗を流しながらも、口元には挑戦的な笑みを浮かべて振り返る。
 すぐ目の前に、大柄な人間がヌリカベのごとく立ちふさがる。全身、鴉のように黒ずくめだった。
 ――本当に頭に狼耳つけてるよ、信じられない。
「夜道で背後から近づく無礼者に、教える名前なんてないわ」
 答えながら、佐藤は手を後に回す。相手から死角になる角度で、ハンドバッグの中を探る。こんな暗がりでサングラスをかけていては、視界はかなり悪いはずだ。気付かれはしない。
 男が横に垂らしていた左腕を、軽く振る。すると、袖から滑り落ちるものがあった。左手にそれを握り、持ち上げる。風の切れる音と共に、チラリと光った。折りたたみナイフだ。一連の動作をしながら、繰り返す。
「名前は?」
「……佐藤律子よ」
 ハンドバッグの中で、手が止まる。
 男の反応は妙だった。顎に手を当て、考え込む。
「律子……微妙なラインだな」
「何かすごく失礼なんですけどその反応」
「まあいい、あんたは見逃してやるぜ」
 せっかく出したナイフの刃をしまい、男は身を翻す。後ろから見ると耳のシルエットが強調されて滑稽だ。
 そうはさせまいと佐藤が呼び止める。
「ちょっと、待ちなさいよ! あんた、私の名前が律子だからって見下したわね?」
 眉間にしわを寄せて、これ以上ないくらい口を大振りに動かす。
「私の名前は、『自分を律することの出来る人』という立派な意味が込められているのよ。親から貰った名前、馬鹿にしたら許さないんだから!」
 狼が、振り返る。サングラスが、はるか遠くのネオンを反射した。マフラーを手でずらした。初めて男の口元が見える。不適に笑っていた。
「……マジでいい名前だな。ついでに度胸も」
 広い歩幅で、悠然とこちらに近づいてくる。ナイフの刃が再び出されていた。目と鼻の先まで近づいたとき。佐藤は、ハンドバッグから手を出した。
「くらえ!」
 スプレー缶から、ガスが噴射される。それを顔に受け、相手の動作が止まる。と思った。だが次の瞬間、煙の中から腕が伸びてきた。胸倉をつかまれ、思わず声を漏らす。目を上げると、鼻先でザンバラ髪の男が笑っていた。首巻に添えられた手には、しっかりとナイフが握られていた。
 ――サングラスとマフラー……!
 自分の愚かさをこれほど痛感したことはない。サングラスがあれば目のダメージは知れたものだし、口と鼻はマフラーで覆うことは可能だ。喧嘩ド素人の佐藤はそこまで思い至らなかったのだ。
 顔は笑っているが、かなり頭にきているのが伝わってくる。
「反撃されたのはこれが初めてだぜ。しかもこれキンチョールじゃねえか、俺はゴキブリ同等だってか?」
「そうよ! あんたなんてゴキブリ以下よ! 他人を傷つけて喜ぶ変態、蛆虫、下等生物!」
 佐藤はやけになっていた。後先のことなど考えていない。相手が自分より優位に立っている。この屈辱に耐えられず、せめて口だけでもと反撃する。
 男の顔の筋肉が小刻みに動くのがわかった。唇がめくれ上がり、犬歯を覗かせる。
「×一つじゃ済まねえぞ嬢ちゃん」
 ナイフの腹で頬を撫でられた時、初めて恐怖を感じた。
 思わず目を瞑る。敵前で視界を封じる行為は敗北を意味していた。
 肺の圧迫感が消える。急に開放された身体は、バランスを保つことが出来ず、危うく転びそうになる。何が起こったのかわからない。
 佐藤は愕然とする。目の前には非現実的な光景が広がっていた。
 立っているのが黒ずくめであることは変わりない。しかし、それは狼ではなかった。妖しげに光る赤い棒を両手で構え、くぐもった呼吸音を出している。頭部は、獣耳の代わりに、ある特定の場所でのみ頻繁に見かけるヘルメットを装着していた。映画の中に迷い込んだかのような錯覚に襲われる。
 マスクの男が見る先には、バツ一狼がいた。半分座った姿勢で、相手を睨み返している。
「……ベイダー?」
 そう呟いたのが聞こえた。立ち上がりながら、首筋を手で揉んでいる。どうやら後頭部を殴られたらしい。フードが取れて、若干人間らしい容姿になった。
 ベイダーっぽいものは、佐藤をかばうように前に立つ。
 何だかよくわからないが、ピンチを脱したらしい。
 その伝説のマスクに手がかけられ、ゆっくりと持ち上げられていく。現れた後頭に、佐藤は目をひん剥く。
 鈴木ではないか。
「この人は駄目だ。知り合いなんだ」
 微塵の動揺も感じさせない、静かな声で喋る。この角度では斜め後の顔しかわからないが、いつになく真剣なオーラが伝わってきた。
 続けて発せられた言葉に、耳を疑う。
「――兄さん」
 兄さん? 兄? それはいったいどういう意味なのか。次々と起こる不測の事態に、佐藤の脳みそはスパーク寸前だった。
「……次郎か? こいつあ驚いた。まさかお前とこんな形で再会するとはな」
 一瞬、虚を突かれた顔をしたが、次には笑い顔になっていた。さっきまでより興奮気味だ。マフラーを捨て、サングラスを外した。存外に男前だが、凶悪な目付きだ。
「よく、通り魔の犯人が俺だとわかったな」
「兄さんが出所したのが一年前、通り魔が出るようになったのもその時期。そして初めの被害は中国地方……そこから徐々に北上。そして『名前』というキーワード。もしかしたらって誰でも思うよ」
 自分のついていけないところで、話が展開している。佐藤を取り残し、鈴木と狼のやりとりは続く。
「刑務所を出たまま行方不明になって、現れたと思ったらこんなマネをして。兄さん、いったい何を考えているんだ」
「何を? 決まっているさ。自分の名前が優れていると思って他人を見下しているバカどもに制裁を加えているんだよ」
 狼は、両手を広げて、気取るように笑った。何とも芝居がかった所作だ。
 鈴木は、相変わらずの無表情だ。
「変わったな、兄さん」
「変わったさ。そりゃあ七年もシャバから離れていればなあ。刑務所内での生活は最高だったぜ。毎日毎日、意地の悪い看守と極悪囚人どもにしごかれてよお。あんなところにいればどんな善人だって悪人になるさ」
「他の人ならどうなろうがべつに知ったことではないけど、佐藤さんに手を出すことはやめてもらおう」
「お前それけっこう最低だぞ。そんなにその女が大事か」
「ああ。彼女は四年前、コンビニで限定フィギュアつき大盛りタンタン麺を取り合って以来の親友だ」
「劇的なシチュエーションだな」
 意味不明な緊迫感に耐えられず、佐藤は眩暈に襲われる。そのまま倒れないように、壁に手をついた。
 通り魔はナイフを舌で舐め上げる。
「まあ、どんな関係でもどうでもいい。狼は、狙った獲物は逃がさない」
 二人の男たちの、にらみ合いが続く。音も立てず、微動だにしない。まるで、二メートルもない彼らの間に亜空間でも広がっているかのようだ。
 静止した世界に、時間の感覚が薄れていく。と、その時、鈴木の手が素早く動いた。突然のことに、あっと叫ぶ。
 ヘルメットが狼へ一直線に飛んでいく。相手は反射的に両腕で顔をガードした。
 佐藤は我に返る。今だ、今しかない。男との距離を詰め、今度こそスプレーを浴びせかける。今なら効くはずだ。
 案の定、両目に手を押し付け、苦しそうな声を上げる。腰を落として、二、三歩後退する。そんな状態でも、ナイフはしっかりと指に挟んであった。
 鈴木が佐藤の手を引いて走り出す。皮手袋を挟んで体温が伝わってきた。
 ふと、振り返る。鈴木のヘルメットが地面に取り残されたままだ。彼があのおもちゃをとても気に入っていたのを、佐藤は知っていた。
「ねえ、お面は?」
「いいから逃げるんだ」
 にべもなく返される。
 ――あの鈴木が、ダースベイダーのヘルメットを捨てて……。
 ここ数日で起こった出来事の中で、一番の驚きだったかもしれない。

「佐藤律子おおお! お前は絶対に逃がさんからなああ」
 地獄の亡者のような叫びが聞こえ、佐藤の全身に悪寒が走りぬけた。

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