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野良猫根性

 ――かれこれ五分は経過しただろうか。もう体力的にも限界に近いはずだ。
 それでもこいつは諦めない。
 ゴールデンアイの瞳を鋭く光らせ、俺を睨むヤツ。
 道路に立つ信号の色が変わるのが合図だ。
 俺たちが地を蹴り宙に跳んだのはほぼ同時だった。
 爪をできうる限りに伸ばし、俺はヤツに掴みかかった。ヤツは逃げなかった。俺の爪を正面から受け、俺の首筋に牙を立てたのだ。
 ――肉を切らせて骨を断つ。
 俺はいったん身を引きアスファルトの上に降り立ち、喉を震わせた。
「おのれ、マリー……!」


 俺は猫だ。雑種だ。そして飼い猫だ。雑種の飼い猫というのは楽な立場ではない。野良猫からは人間の従者に成り下がり猫の誇りを捨てたやつと罵られ、純潔種からは野蛮猫の血が流れていると陰口を叩かれる。
 ようするに「負け猫」なのだ。
 だが俺は負けたとは思っていない。扱い方を覚えれば人間というのも悪くない。適当に愛想していれば飯もよこすし寝床も渡す。人生で勝つには賢くならなければならないのだ。
 それにものは考えようだ。俺は人間にすがっているのではない。人間が貢物を用意して俺に一緒に暮らしてくださいと言っているのだ。
 俺は雑種飼い猫という、生まれながらに不利な条件を背負っていたが、実力で地域のボスにまで成り上がった。飼い猫のボスは前例がなく、俺は連中の期待の星だ。要するにすごい男なのだ。
 俺は緑眼の黒猫で、自慢ではないが近所でも男前で通っている。体も大きく、ケンカで負けたことはほとんどない。
 強くて格好いい。こんな順風満帆に見える俺にも、悩みの種があった。
 近所のある野良猫だ。マリーと名乗っているらしい。その名のとおり、女だ。人間で言うなら三十代後半といったところだろうか。女にしては大きいが太ってはいない。白猫のゴールデンアイで、野良猫の割には小奇麗だ。
 こいつの何が困るかと言えば、俺の飯を横取りするほど困ることはない。
 俺の家はなかなかでかい。食事は毎日魚がもらえる。ヤツはそれを狙って現れるのだ。俺の出入りができるように窓が開けてあるため、入ろうと思えば誰でも屋内に入れる。最初に昼飯を持っていかれた時は、しまったと思った。
 それから俺は飯時になると庭で目を光らせヤツの侵入を防止するようになった。
 だから今日もこうして庭先で張り込んでいるわけだ。
 しかしあのおばさん猫、強い。やけに強い。
 地域のボスである俺に、強いと言わせるほどに強い。そんなに俺の魚が欲しいか、貪欲なやつだ。
 と、庭の植え込みの辺りが、がさりと動いた。
 ――来た。マリーが来た。
 白い毛を震わせ、体の砂を払うマリー。そして俺に視線を向けた。
「また来たな、いい加減にしやがれ」
 俺は地面に腹を近づけ、唸り声を上げる。
 マリーもどこからそんな声が出るのかというくらいどすの利いた唸り声を上げる。こいつ、本当に女かよ。
 お互い唸りながら少しずつ距離を縮めていく。目前まで迫ってきたところで、前触れもなくヤツは俺の鼻面をひっぱたいた。
「うわっ」
 俺は不覚にも目を細めた。その隙にヤツは……! 
 俺を飛び越え、家の中に走っていきやがった。俺の家に、さも当然のごとく。俺は慌てて後を追うが、時すでに遅し。マリーは俺の煮干を口に挟んでいた。
 疾風のごとく俺の横を走り去るマリー。この時のヤツの顔ったら! あの勝ち誇った表情!
 許せねえ。だが、どうにもできねえ。
 こうして俺はまたも罪もなく昼飯を奪われた。


 マリーはかつて人に飼われていたらしい。飼われていて、捨てられたのだと近所の猫が言っていた。なるほどな、だからあいつ、人間になついているのか。以前、俺の飼い主にすりついていたのを見たことがある。それに、野良にしては洒落た名前だと思ったんだ。
 それは、哀れだと思うぜ? だがそのことは俺の飯を盗むことの理由にはならない。ヤツが飯を盗みに来たら、俺は全力で阻止するまでだ。
 マリーの過去を教えてくれたのは、月というお嬢さんだ。
 月のお嬢さんは本当に美人だ。白地に黒いベールを被ったような、下手をすれば地味で馬鹿にされそうな柄でありながら、発色のいい金色の目がうまくアクセントを与えている。すこし神経質なのが玉に瑕だが、あんな美人はそうそういない。
 そのお嬢さんは、今は精神を病んでいる。狂ったように毎日毎日大声で悲痛な叫びを上げているのだ。
「私の赤ちゃんはどこ」と。
 月のお嬢さんは、半年ほど前に初めての子供を授かった。赤ん坊が生まれることを、本当に楽しみにしていた。
 だが、腹部が目立つようになった頃、彼女の飼い主は彼女を病院に連れて行った。
 そして帰ってきた彼女は、お腹の命をごっそりと失い、二度と子供を生めない体にされていたのだ。
 こんな道徳に反することを平気でするとは、人間というのはどこまでも残酷だ。
 俺の飼い主はそういうまねをするタイプではないので、俺は運がいい。

 マリーが今日も来た。
「あんた、いつまでこんなことを続けるつもりだ」
 俺は塀の上の彼女を見上げながら言った。
 マリーは俺の顔をまじまじと見る。そして、にやりと笑った。
「愚問だね」
 塀の上から俺に飛び掛る。俺は身をそらしそれをよけた。そのまま屋内に直行しようとするマリーの前に俺は回りこむ。
 今度は俺が先手を取った。彼女の顔に平手打ちをかます。一瞬ひるむマリー。だがすぐに体勢を立て直し、上体を低くし俺に突進した。そのまま揉み合いになる。
 そのまま庭から道路に転げ出た。
 車のクラクションの音に反応し、俺たちは急いで道路わきによける。俺とマリーは横たわる道路を挟んだ形になった。
 車が走り去った後、俺はヤツに怒鳴った。
「なぜだ、なぜお前はそこまでするんだ!」
 ヤツは何も言わない。ただ、俺を冷たい目で見据えていた。俺は舌打ちする。
「聞いても無駄か」
 道路に立つ信号の色が変わるのが合図だ。
 俺たちが地を蹴り宙に跳んだのはほぼ同時だった。
 爪をできうる限りに伸ばし、俺はヤツに掴みかかった。ヤツは逃げなかった。俺の爪を正面から受け、俺の首筋に牙を立てたのだ。
 ――肉を切らせて骨を断つ。
 俺はいったん身を引きアスファルトの上に降り立ち、喉を震わせた。
「おのれ、マリー……!」
 この瞬間、俺の中で何かが弾けた。女相手だから今まで手加減してきたが、もう容赦しねえ。
「シャアアア!」
 俺は声を荒げ、マリーの顔面に切りかかった。爪に確かな感触を覚える。
 まず、やったと思った。そして冷静になるにつれ、後悔が膨れてきた。
 俺は、勢い余って彼女の目に爪を立てた。
 野良猫の彼女にとって目の傷は致命傷だ。俺なら飼い主に頼って生きられるし、病院にも連れて行ってもらえるが、彼女は……。
 俺たちはたとえ本気の闘いであっても相手を死に至らしめるような怪我は負わせない。それが猫の暗黙のルールだ。相手を殺す気で戦闘をする動物は、俺の知る限り人間だけだ。
 俺はマリーが憎くて闘っているのではない、俺の飯を盗む行為が許せなくて闘っているのだ。
 ――俺の前の野良ボスとやりあった時、手加減する余裕のなかった俺は彼にひどい傷を与えてしまった。それが原因で弱った彼は、人間に捕まり、保健所で殺されたと聞く。
 そんな胸糞の悪い経験は、もうたくさんだ。
 俺は自分のしたことが怖くて振り返ることができなかった。
 だが、そんな俺の首を、後ろからマリーは噛んできた。
「あたしはまだくたばっちゃいないよ」
 そう言った彼女の目は、両方きちんと開いていた。右目のほうを少し閉じているが、大丈夫らしい。俺は安心する。そしてマリーをアスファルトに叩きおろした。彼女がうめき声を上げる。俺はそんなマリーを睨みつける。
 勝負あった。
「野良猫なら野良猫らしく、ゴミ箱でも漁ってろやあ!」
 そう叫んでとどめに腕を振り上げる。
 だが、俺の動きは途中で止まった。
 ――子猫が。
 真っ白い白玉団子のような子猫が二匹、俺の前に立ちはだかったのだ。
「やめて、これ以上お母さんをいじめないで!」
「あんたたち、出てきちゃだめだと言ったじゃないか……」
 泣きすがる子供に、マリーは体を起こしながら言った。
 その時俺は唐突に理解した。マリーは子供に与えるための食料を求めて闘っていたのだ。
 女は男より弱いが、母になると男より強くなるというが、これがマリーの強さの秘密か。
 俺は黙って彼女たちの前を離れた。そして家に戻り、台所に行った。
 飼い主の今夜の食事がさんまの塩焼きであることを、俺は知っていた。
 知っていて、ラップを破りトレーからさんまを引っ張り出したのだ。
 それをマリーの前に投げてよこす。
「……もらってけ」
 マリーの子供たちが目を輝かせてさんまにかぶりつこうとした。だが、マリーはそれをしっぽで払う。
「あんたたち、絶対に口をつけたらいけないよ」
 そして俺に険しい顔を向け、精一杯に叫んだ。
「なんだい、同情なんてまっぴらなんだよ! あたしは飼い猫から食い物を分けてもらうほど落ちぶれてはいないんだ」
 奪い取るのは良くて、分けてもらうのはいけないらしい。どういう理屈かはわからないが、それなりにプライドはあるようだ。
 憮然とした態度の彼女に、俺は静かに言った。
「あんたのそのプライドは立派だ。だがそれは、飢えて泣いている子供を犠牲にしてまで貫くほどのものか? プライドを捨てるプライド。それが本当の強さじゃないのか。それが、母親なんじゃないのか」
 マリーは、黙っていたが、声を押し殺して、静かに泣いた。そして大きなさんまをくわえて去っていった。二匹の子猫を連れて。黄昏の中に消えていった。
 やばい、格好いい。母親ってすげえと、俺は柄にもなく感慨にふける。そして、未だ失った子供を求めて鳴き続ける月のお嬢さんのことを思い、胸を悼めた。


 その夜、俺が飼い主に叱られたことは、言うまでもない。

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