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エピローグ 終わりではなく始まり


 佐藤の人生で、これほどの修羅場は初めての経験だった。元彼がガラス窓を破って侵入してきたことがあったが、それ以上だ。
 侵入者は、現在、リビングのソファに寝かされている。それを熱心に介抱する姉の姿を見て、複雑な心境になった。
 姉が部屋を出たことは驚きだ。自分の危機に際して止めに入ってくれたのはとても嬉しい。しかし、あの太郎への入れ込みようは解せない。まあ、そのまま放っておいて死なれても困るので、姉が世話してくれるのはありがたいのだが。
 佐藤は、絨毯の上に四肢を投げ出し、仰向けになっていた。すべきことは山ほどあるが、今は身体を休めたい。せめて太郎が意識を取り戻すまでは、インターバルを置いてもよいはずだ。
「佐藤さん、おせっかいと思うけど、下着の紐が見えてるよ」
「おのれ、いったいどこを見ている!」
「見てるって言うか目に入るんだけど」
 鈴木は卓を挟んで座っている。まったく、なんて白々しい男だ。座布団をつかみ、投げつけようとした時、「ひっ」と小さな叫びが聞こえた。花子のほうを見る。
 太郎が目を開けていた。どうやら、休憩時間は終了らしい。
「気がついた?」
 やれやれと思いつつ、声をかける。太郎は上半身を持ち上げた。額に乗せられていたタオルが落ちる。
 暴れていた時とは別人のような、澄んだ瞳をしていた。
「ああ……生まれ変わった気分だぜ」
 真摯な顔つきで、鈴木に向き直る。
「弟よ、悪かった。俺はどうかしていたんだ。一時の激情に駆られて、とんでもないことを……」
 とんでもなさすぎるよあんた、と突っ込みを入れたくなったが、改心しているのだからこれ以上刺激してはいけない。
 鈴木もまた真剣に返した。
「兄さんが過ちに気付くことができたのならそれでいいよ」
 それから、怖いくらい爽やかに笑って続ける。
「まあ、兄さんの事件で俺、地元離れることになったし、高卒フリーターで定職にもついていないし、オタクで友達ほとんどいないけどね。全然気にしてないからさ」
 ――絶対、怒ってるよ。こいつ。
 佐藤は、鈴木のやり口を何となく理解した。
 さすがは兄というのか、太郎は鈴木の嫌味を軽く流して、腰を上げた。
「――さあ、俺も、今度は潔く自首しないとな」
 鈴木がすかさず答える。
「警察呼んどいたから」
「ちょっと待ってよ、お前手際が良すぎだよ!」
 家の前に止まるパトカー。周囲の住人が何事かと集まっている。太郎は手錠をはめられ、連行されるところだった。パトカーに乗る前、見送りの花子と言葉を交わす。
 佐藤と鈴木はまったくの蚊帳の外だった。
「俺、次こそはちゃんと更生して、真人間になって出所してやるよ。刑務所の環境のせいじゃない、名前のせいでもない、俺の精神的もろさが、罪を犯していたんだ」
「あなたは、とても強い人だと思います。少なくとも、私なんかよりはずっと……」
「だから、俺がまた天道さんの下に出る時は、もう一度、あんたに会いに来ていいかい?」
 花子の顔がさあっと赤くなった。うつむき、消え入りそうな声を出す。
「でも、私なんて、引き篭もりだし、ブスで眼鏡だし、ニキビだらけだし……」
 慌てたように太郎が否定する。
「そんなことねえよ。ニキビなんてどこにあるんだ。顔だってけっこう可愛いし、その半分ずれた眼鏡とか、栗色の巻き毛とか、潤んだ上目遣いの瞳とか、……夢見がちな乙女色をしたパジャマとか……なんつうか、萌え、というか……」
 姉たちのやり取りを見ていた佐藤が無感動に言う。
「このお兄さんを見ているとあんたがまともに思えてくるのはどうしてかしら」
「バカだな、俺はいつだってまともだったさ」
 引き気味の二人を残して、太郎と花子はいよいよメロドラマの世界へ突入した。盛大なクラシックでも流れてきそうだ。
「私、待ってますから。太郎さんが罪を償いきるその日まで、ずっと、待ってますから! そしたら、私は引き篭もりをやめて、あなたを一番初めに迎えに行きます」
 野次馬の間から拍手が湧いた。
 警官が、太郎を促す。パトカーに乗る太郎。車は出され、どんどん小さくなっていく。その姿を、花子はいつまでも見つめていた。
 見物人も引き、姉も部屋に帰った。警察官の詳しい事情聴取は、後日改めてということだ。やっと一段落ついたところで、佐藤は気になっていたことを口にした。
「ねえ、本当なの? 犬が真っ白になったって話……」
 鈴木は平然と言った。
「嘘だよ」
「エグイわ……」
 持って来た荷物を背中に負い、さてと、と息をつく。
「じゃあ俺は家に帰るから」
 歩き出した鈴木を佐藤は呼び止めた。このまま帰らせる前に、言っておかなければならないことがある。
 鈴木が顔だけこちらに向ける。いつもの陰気な無表情だ。
 どう、説明するか。頭の中で言葉を整理する。
「私、私は、お姉ちゃんのためにファッションデザイナーになりたいわけではないの。もちろんそれもあるけれど、この業界が好きなの。だから、誰かのためにじゃなくて、私自身がなりたいから、ファッションデザイナーになりたいの」
 鈴木は止まったまま動かない。佐藤の動悸が早くなる。静けさを取り戻した住宅街には、風の音しかしない。
 鈴木の視線が動いた。何か発する時に、目を逸らすのはこの男の癖だ。
「俺、何か言ったっけ?」
 まるでこの間の喧嘩など記憶にないような物言い。自分があんなに悩んだ命題が、鈴木にとっては三秒で忘れてしまうようなどうでもよいことだったのだ。
 佐藤は開いた口がふさがらなかった。
 でも仕方がない。
 鈴木次郎とは、そういう男なのだ。
 梅雨入り前の六月。彼らの時は、まだ動き始めたばかりだった。

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