十ニ、花子さんが出た
開かずの扉のその向こう。佐藤の姉は息を殺して事の成り行きを見ていた。これだけ派手な騒ぎが起きれば、いくら引き篭もっていても気になるものだ。 「鈴木」と妹が呼ぶ男が、コートの男にどんどん追い詰められていく。背後に階段が差し迫った時、何を思ったのか手すりのうえによじ登った。そんな彼の前に立ちはだかり、優越感たっぷりに口を開いた。 「そこから飛び降りろ」 鈴木の顔が、驚愕の色を映した。 「お前小さい時、言っていただろお? ギドラみたいに空飛びたいって。飛んでみろよー、んん?」 ギドラがいったい何なのか、姉には想像がつかなかったが、コートの男が意地悪をしているのは見て取れた。 「……飛べないギドラは、ただのギドラだ」 「ただじゃねえよ、ただ以下だよ。ほらほら飛べって!」 少しの間、沈黙が生まれた。そして、鈴木の態度はあくまで冷徹だった。 「兄さん、何言ってるの? 俺は人間だよ。人間が空を飛べるわけないだろ」 「お前、そうやって急にまともになるところがめちゃくちゃムカつくんだよ!」 手すりを乱暴に蹴り飛ばす。鈴木が若干バランスを崩した。それを見てコートの男は調子に乗る。 「どうしたどうした? 飛び降りろよ、早く。兄貴の言うことが聞けないのかあ? 次郎ちゃあん?」 反対側の廊下で、妹は青くなっていた。 「こいつ、絶対にイカれてる。鈴木には悪いけど、とても正気とは思えないよ」 ――そうかな。 姉の手に知らず知らずのうちに力がこもった。服の布をきゅっと握る。 ――でも私には、あの人の気持ちがわかるの。痛いくらいにわかるの。 脳裏には、十年前のことが鮮明に浮かび上がる。 「りっちゃんはいいよね、いいよね! りっちゃんはいいよねっ! 私は何よ、何よ!」 自分は妹を傷つけた。傷つけるつもりで叫んだ。我慢が出来なかった。自分がこれだけ傷ついているのだから、相手も同じだけ傷つけたいと思った。それは自分自身がとても辛かったが、それでも、妹が許せなかった。 この場においてどう考えても悪人でしかないコートの男の言動が、姉の心と共鳴していた。 ○ 太郎は今、心底弟のことを憎いと思っていた。小さい時から遊び相手をし、大きくなっても仲がよく、誰よりも可愛がっていた弟のことを。ふとしたことで、正は負に、負は正に変わる。感情が逆転した時、親密であればあるだけ憎しみは増す。家族間での絆は何よりも強く、家族間での殺し合いは何よりも無残だ。 狂ったような笑いを浮かべ、次郎の前でナイフをちらつかせる。ひるむ様子が微塵もないところが余計に苛立たしい。 次郎は決然と言った。 「飛び降りて欲しいなら飛び降りるし、やりたいなら俺を刺し殺したってかまわない。でもその後に佐藤さんに手を出すことは認めない。約束できるなら俺は今死んだって後悔しないよ」 ――格好つけやがって。弟のくせに。 沈黙と睨み合いの冷戦が続く。 太郎は不適に笑った。 「そうかそうか、あの女がそんなに気になるわけか。じゃいいや、あいつから先に始末しておこうかな。そうすればお前も心配なくなるだろ?」 次郎の表情に変化が現れる。太郎はいい気になった。首を佐藤のほうへ向ける。そして歩き出した。ナイフで手のひらを軽く叩きながら、佐藤に迫る。縮こまる姿はまさに子猫ちゃん。 ――それにしても、最近の娘ときたら、まるで娼婦だ。ちょっと恥じらいってものが足りないんじゃないか? そんなに肩だ足だをさらけ出して。太いベルトが扇情的だね。これは襲われたって文句言えないよなあ。 危ない想像をしながら、距離を狭めていく。この、獲物を追い詰めるまでの時間が、たまらない。 「待って!」 目の前に飛び出すものがあった。今の今までまったく意識していなかったが、佐藤の部屋の前に、もうひとつ部屋があったようだ。そこの扉が、開かれた。太郎の頭が混乱に陥る。 呆然とした様子で佐藤が呟いた。 「……お姉、ちゃんが、部屋から、出た……」 この言葉で、飛び出したのが佐藤の姉だと理解する。そして、改めて視線を送った時、太郎の背景にベタフラッシュが走る。 ――ピ、ピンクのパジャマ……! 動揺を隠せない太郎。よれた上下桃色の麻のパジャマに、半分ずり落ちた眼鏡。そこから覗くつぶらな瞳に、長い睫。栗色の巻き毛に至るまで、見事に彼のストライクゾーンど真ん中だったのだ。思わぬところでフェティシズムが浮き彫りとなる。ちなみに、弟が好きなのは喉元から鎖骨のラインらしい。 「あ、あ、あの、私。太郎って、すごくいい名前だと思うんです」 この言葉は、太郎の胸の高鳴りを最高潮にした。困惑する太郎。生まれてこの方、名前を誉められたことなど一度もなかった。どうしたらよいのかわからない。 佐藤の姉はなおも続ける。震えながら一生懸命声を絞り出すその姿が、またも太郎の心を揺さぶる。 「下手にこてこてした名前よりも、シンプルで、力強くって、素敵だと思います!」 そのまま昇天しそうになる太郎だが、何とか気を取り直す。 「お、お前に何がわかる。ダサい名前の気持ちは、ダサい名前のやつじゃないとわからないんだよ」 「わかりますっ」 姉は叫んだ。そして、悲しげな瞳をする。 「私の名前、『かこ』って言います。どういう字空だと思います? 花の子で『花子』です!」 「は、花子――!」 「『かこ』だって言ってるでしょ!」 またもベタフラッシュを背負う太郎に、花子がとがった声を出す。やばい、可愛い。 「小さい時から、誰も私のこと『かこ』って言ってくれなくて……みんな、『はなこちゃん』『はなちゃん』って……。トイレの花子さんって、学校の怪談ブームの時には散々言われるし! だから、名前で馬鹿にされる気持ちは、私も本当にわかるんです」 涙ながらに語る佐藤の姉。太郎は、吐き捨てるように笑った。 「花子と書いて『かこ』と読む、いかすじゃねえのよおっ!」 弟の投げ捨てた電動ガンを手に取る。天井に向かい乱射し、派手な音を奏でた。姉妹は身をかがめる。 銃を、足元に落とす。そして肩で息をしながら、大声で叫んだ。 「俺は何だ、俺は、何のひねりもないただの『太郎』だ。弟は『次郎』、飼い犬の名前は何だったと思う? 『三郎』だぜ、三郎! ふざけるんじゃねえよっ。俺の親は、俺たち兄弟のことをイヌコロと同列に並べていたんだぜ? 俺は、俺は人間だ! シベリアンハスキーじゃねええ!」 彼の頭の死ぬほどダサい獣耳は、父母への当て付けだったのだ。 「兄さんだって、サブちゃんのこと好きだったじゃないか」 弟の言葉が、胸に刺さる。確かに、太郎は自分の名前を疎んじてはいたが、三郎のこと自体はとても愛していたのだ。いつも無垢な瞳を自分に向け、プロペラのごとく尻尾を振る姿が目の前に浮かぶ。そういえば、彼は今どうしているのだろう。 「サブちゃんは……」 「死んだよ。兄さんが警察に捕まった後、悲しみのあまり全身真っ白の毛になってね」 弟の残酷な言葉に、愕然とする。 ――サブちゃんが……死んだ……。 それはわかりきった事実でもあった。サブちゃんを家に迎えたのは太郎が十一歳の時、現在太郎は二十八歳。年齢的に生きている方が珍しい。 だが、しかし。 漠然と「もう生きてはいない」と思うのと、明確に「死」を告げられるのでは重みが違う。サブちゃんは、もう、この世にはいないのだ。 しかもそれは自分のせいかも知れないのだ。 かのマリーアントワネットはギロチンの恐怖から総白髪になってしまったという。サブちゃんもまた、全身が白毛に……。それはつまり、ギロチンに値するほどの過大なストレスを受けたということになる。自分が逮捕されたことによって。そのことがなければ、サブちゃんはもっと長生き出来たかもしれない。ストレスで寿命が縮むことは大いにあり得る。 ――俺が、サブちゃんを、殺した。 一枚一枚、うろこが剥がれ落ちるように、太郎の精神が崩壊していった。 太郎は絶叫した。止め処もなく、涙が溢れる。頭の中をサブちゃんとの大切な思い出が駆け巡っていく。 サブちゃんが家に来た日。まだ片手で持てるような子犬で、落ち着きもなくクンクン鳴き続けていた。雪の中、次郎と二人でサブちゃん専用鎌倉を作った。散歩が大好きで、雨の日でもお構いなしにせがんできた。胸をさすると気持ちよさそうに目を閉じた。少年院から帰ってきた時も、優しいまなざしで自分を受け入れてくれた――。 それらが目まぐるしい勢いで回転し、しまいには脳みそのブラックホールの中に吸い込まれて消えた。電気を落としたように、突然の暗闇に襲われる。 頭部に強い衝撃が走った。 ハッとして、背後に視線を走らせる。弟がスパス12をちょうど振り下ろした状態だった。銃底で、後頭部を殴られたことに気がつく。 倒れながら視線を戻した際、急速な勢いで佐藤が走ってくるのが見えた。身構える暇もないまま、顎に膝蹴りが炸裂する。 「最後の言葉は?」 白ばむ意識の中で、声が聞こえる。 太郎はニヒルな笑みを浮かべる。 「愛して……る……ぜ」 |