十一、狼さんに気をつけて
佐藤はアルバイトから帰ってきた。玄関に手をかけるが、扉が開かない。そのときふと、両親が出かけていることを思い出す。バッグから、合鍵を取り出して鍵穴を回す。 ここに来て、漠然とした不安が、より具体的な形を成し始めた。自分はこの家の中で、誰にも頼ることが出来ないのだ。孤独。これほど嫌なことはない。 居間の扉を開ける。普段付いている電気が消えていることが、さらに不安感を煽った。明かりを付けると、座卓の上のものが目に入る。ラップのかけられたチャーハンが二つ、並べて置いてあった。「レンジで二分」とメモが添えてある。こういうときに改めて母親のありがたみを痛感する。 指示通り、きっかり二分暖めて、皿を盆に載せる。それを持って階段を上る。足元が見えないので、バランスを崩さないように注意しなければならない。 大きく深呼吸し、自分を勇気付ける。 「お姉ちゃん、今日はお母さんがいないんだけど、夜ご飯、チャーハン用意していてくれたよ。一緒に食べない?」 部屋の中からは何の反応も見られなかった。仕方がなく、お盆を床に下ろす。 「……ここに、置いとくね」 居間のソファに寝転がり、刑事ドラマを見る。チャーハンの食べ終わった皿は、座卓の上に置きっぱなしだ。皿を水に浸しておくという発想は佐藤の頭に浮かばなかった。 ドラマでは、ちょうど犯人が殺人を行っているところだった。 「親のいない日を狙って、あいつが襲撃に来るかもしれない」 考えすぎか……そう思いつつ、狼の影が頭から離れてくれない。 自然と、携帯電話に手が伸びる。 「念のために鈴木に来てもらおっかなあ。でもあいつ、時々すっごく、ムカつくんだよね」 佐藤は、先日の出来事を思い出して顔を歪ませた。それに、どうして自分があんな男に頼らなければならないのか。そこからしてまずおかしいのだ。 携帯を遠くのカゴに放り入れる。 「いい。もしも狼が来たとしても一人で撃退するから」 そう言いつつ、心のどこかでは狼は来ないだろうと悠長に構えていた。 その時、ふとした違和感を覚えた。 「あ、カーテン閉めてなかった」 両親がいないという状況が滅多になかったため、細かい配慮を見落としてしまうところがある。佐藤は猫のような伸びをしてから、サッシに目をやる。そこで固まった。 ガラス戸に男が張り付いている。佐藤の視線に気付いたらしく、チェシャ猫のごとくにんまりと笑った。 ――バツ一狼! 思わず、ソファから転げ落ちそうになった。それから、自分の格好に目をやる。インナー用の薄手キャミソールに、太ももの半分ほどしかない折スカート。家の中と思い無防備な姿勢をしていたため、下着が見えたのではないだろうか。佐藤の顔が紅潮した。 今はそれどころではないことに思い至る。 ――でも大丈夫、家の中には入って来れない……は……ず……。 佐藤の顔が見る見る青ざめていった。 ――玄関の鍵かけてないっ! おのれの危機管理能力の甘さに愕然とする。 佐藤は部屋を見回した。とりあえず、武器が必要だ。壁に立てかけられたモップが目に入る。それを手に取ると、廊下に出た。玄関にすでに太郎が立っている。顔を隠す意味がないからか、サングラスもマフラーもしていない。 「ハロー、子猫ちゃん」 全身の毛が逆立つ思いで、階段を上る。どこでもいいから避難しなければならない。 ブーツを履いたままずかずかと家に上がってくる太郎。佐藤は、二階にたどり着くと、手当たり次第に物を投げ落とした。本や大工道具が階段に散らばる。それらをものともせず、太郎は笑いながら徐々に距離を狭めてきた。 「来るんじゃないわよ!」 モップを投げつけるが、軽くいなさせてしまう。 「そんなに逃げんなよ、つれねえなあ。弟とは仲いいんだろ? こっちおいでー。いいじゃねえかよ、額にバツ描くくらいさあ。減るもんでもあるまいに。額が嫌なら、喉裂いたっていいんだよー?」 ねっとりとした喋りに、佐藤の恐怖感が増幅する。廊下を転げながら、自室に逃げ込む。そしてしっかりと鍵をかけた。 どっと冷や汗が吹き出す。 ――バカ。私のバカ。二階とかどこにも逃げ場ないじゃん。携帯は放り投げたまんまだしい……あーっ、もう。 扉の前に座り、頭をかきむしる。 ガタッと大きな音がする。佐藤の体が跳ね上がった。 扉から遠く離れた窓下の壁に張り付く。激しい音を立ててドアノブが動く。力任せに、こじ開けるように。鍵がかけている、開かない、わかっていても安心できるはずがない。心臓が止まるかのような時間が続く。声を上げて叫びたい。だが、そんなことをすれば相手が図に乗るだけだ。佐藤は口を固く結んだ。 わざとらしい猫撫で声がする。 「出ておいでー、子猫ちゃーん。狼さんが遊んであげるよー……なかなか開かねえな」 ドアノブの動きが止まった。と、次は、何かを突き刺す音が聞こえた。何度も、何度も、何度も。ナイフで穴を開けようというのだ。気が狂いそうな音が響き続ける。佐藤は思わず耳をふさいだ。 「ちっ。いつまでもじらすんじゃねえよ。律子ちゃーん」 一段と大きな音がする。扉に穴が開き、そこから銀の刃が覗いていた。佐藤は短く叫ぶ。 ナイフの刃を上下左右に動かし始める。 「だいたいよ、何で弟にこんな可愛いガールフレンドがいるんだあ? 気にいらねえな。俺なんて初めて出来た彼女に殺人未遂で訴えられるし。周囲は白い目で見るし。こないだ見る感じ、次郎のやつ、完璧変態になってただろ」 なぜかカッとなった。 「鈴木は変人だけど変態じゃないわよ! あんたに変態呼ばわりされたらいくらあいつでも可哀想だわ!」 「ああっ?」 猫なで声が荒げられた。怯える佐藤。 「ふざけんじゃねえよ。弟の味方しやがって。悪いのは全部俺か? 俺が全部悪いのか! お前らはそうやって表面的なものしか見ないで、善悪を判断する。真に悪なのは、そうやっていわれなく俺を糾弾する、お前らだ! 俺の名前が太郎だからって馬鹿にしやがって!」 「わけわかんないわよー!」 佐藤は半ば叫ぶように言った。だんだんとドアの穴は大きくなっている。 「開けろよ、ほら、後ろめたいことが何もないなら、開けてこっちに出て来いよ!」 ナイフが引っ込められ、次は腕が穴から突き破るように出てきた。外から素早く鍵を開けてしまう。佐藤は身を縮めて震えるしかなかった。 ドアが乱暴に蹴り開けられ、太郎が姿を現す。 「手こずらせやがってえ! てめえは殺す」 ナイフを抜き、にやりと笑う。 「へいお嬢さん。俺の初めて殺す女になってくれるかな?」 唇を動かすことも出来ず、頭を左右にぶんぶん振る。 太郎は、一歩一歩ゆっくりと距離を詰めてきた。まるで佐藤の怖がる様子を楽しんでいるかのようだ。 相手が目の前まで来ても、佐藤の身体は硬直している。 狼の無骨な手に顎を引っ張られる。いやらしい笑みが視界を覆う。ナイフが振り上げられた。 事態は絶望だった。 その時、佐藤は見た。 ――扉の前に、人影が。 「うぎゃぎゃぎゃぎゃっ」 太郎が恐ろしく間抜けな声を上げる。何事かと言わんばかりに後ろを向く。 機関銃を構えた鈴木が立っていた。佐藤の目が輝く。来てくれるとは、思っていなかった。鈴木のコレクションを破壊したことを心から反省した。 一方、太郎はかなり頭に来たらしい。意識は完璧に佐藤から離れている。 「弟……エアガンでも撃たれちゃ痛いんだぞ」 「鈴木、どうして危険がわかったの?」 鈴木は冷静だった。 「佐藤さんの家に異変がないか、あれから毎日望遠鏡で覗いていたんだよ」 「やめれ覗き魔!」 佐藤と鈴木の住居は、実はかなり近くなのだった。 鈴木は、手提げから雑誌や新聞を取り出し、太郎に投げつけた。それらは佐藤が鈴帰宅に持ち込んだバツ一狼の記事だった。 太郎が何か言う前に、鈴木が一喝する。 「兄さん、世間で自分がどう報道されているのか知っているか? 『バツ一狼』、『自分よりか弱い相手の心と身体に永遠に消えない傷を残す卑劣漢』『愛しているの一言で済ませるエゴイズムの塊』『人気のない路地裏での犯行』……フレーズだけ聞いたらただの変態じゃないか! 痴漢のほうがまだマシだ!」 太郎は、相当なショックを受けたようだ。見苦しいほどに取り乱す。佐藤はその隙に壁を伝って入り口付近まで移動した。これでひとまず安心だ。 「ええ? バツ一? それってちょっとひどいだろ。俺まだ独身だよ? 切り裂きジャックとか一匹狼とか、もっといい肩書きいろいろあるじゃん、何でそんな格好悪い肩書きなわけ?」 鈴木の顔は大真面目だ。 「兄さんの呼び名がダサいのは、何をやっても変わらないってことだよ。これは前世から約束されたことなんだ!」 「ええッ? 前世からッ? 前世から俺は『太郎』で『バツ一』なわけ? それひどいよ! お兄ちゃん悲しくなっちゃうよ!」 佐藤はどういうリアクションが適当なのかわからず、ただただぽかんと口を開けていた。 太郎は髪をかきあげ、態勢をつくろった。 「まあいいさ。こうなりゃあ堕ちるところまで堕ちてやる」 眼光鋭く鈴木を見据える。 「弟よ、俺はお前が気にいらねえ、骨の髄まで気にいらねえ」 憎しみを搾りつくしたような声。とても兄が弟に向けているものとは思えない。 鈴木は黙っていた。 「俺が刑務所生活している間に何でお前はのんきに都会で生活しているんだよ。おかしいじゃねえか。俺とお前は兄弟なのに、何でお前のほうがいい境遇にいるんだ?」 「罪を犯した者の報いだ」 「しかも、俺を警察に通報したのは、他でもない、お前じゃねえか。実の兄貴を警察に引き渡すとは何事だ。俺ならお前がたとえっ、人を殺してもっ、絶対に警察に売り渡すようなマネはしなかった! お前と一緒に死体をばらして東京湾まで捨てに行った! それが兄弟の仁義ってもんだ!」 兄弟愛のあり方が何か間違っている……。他人の仲にどうこう言う権利はないが、佐藤にはどうしても太郎の理屈が納得できなかった。鈴木の行動は、兄のことを思っての判断だったはずだ。 鈴木のほうを見る。くっと小さく唸ったのがわかった。 電動ガンを廊下に捨て、また別の銃を構えた。銃身が長く、巨大で攻撃的なショットガンだ。こんなものをいくつも持っているのは、男の子なら普通の範疇なのだろうか。なんにしろ、佐藤の常識では測れないものだ。 ナイフを光らせ、太郎が襲い来る。もはや佐藤が介入できる状況ではなくなっていた。 鈴木は、エアガンを発砲しながら廊下に出た。 撃った弾が、太郎の顔に当たる。手で顔を覆い、呻く太郎。顔を上げると、大声でどなった。その様子は常軌を逸している。 「何をするかああっ! スパスは三発同時に弾が発射されるんだぞおおっ! 少しは他人の痛みを考えろおおおっ」 構わず、何度も発砲する。それを今度は腕で受けながら、間合いを詰める太郎。ナイフを振り上げ、切りかかった。佐藤が短く叫ぶ。鈴木は銃身で刃を受けながら後ろに下がる。 至近距離で発砲する。太郎が一瞬ひるむ。その隙に腰からサバイバルナイフを抜き、横腹を突いた。模造であるのは刃の輝きで一目でわかる。 これは痛い。 太郎は背を丸め、その場にうずくまった。だが、それもつかの間のことだ。 「このやろおおっ」 鈴木の顔面に、左ストレートが見事に決まった。鈴木の体が宙に浮き、二メートルは吹っ飛んだ。 「うらあ」 威圧的なオーラを身に纏い、鈴木に近づく。 「ちょ、ちょい、たんま」 引きつった笑いを浮かべながら、後退する鈴木。この時の誰もが気付かなかっただろう。鈴木の横切った階段側の扉が、わずかに開いていたことに。 |