目の前の扉を、不信感たっぷりに見つめる。
――エリア五×一号室。
こんな落書きをして、管理人からクレームが来ないのかと、疑問を抱く。まあ、ここの管理人は適当だから、いちいち気にとめないのだろうが。
前髪を指で透かし、額が見えないように改めて整える。格好は緑の寝巻きだが、隣なんだから服装に気を使う必要もない。
吉村は、極めて平然を装いながら、扉を開ける。
「こんにちはー……うっ」
部屋の中を見て、思わず喉が詰まる。何だここは。
吉村に言わせれば、そこは人間の住む場所ではない。ゴミ溜めである。ほのかに漂う異臭、入り口にまとめられたゴミ袋、散乱する意味不明の物体。壁一面のポスター、角に置かれた銃器類、プラスチックの棒、ヒーローものの仮面、ビデオ、望遠鏡、衣類、木刀、書籍、巨大な恐竜の骨。ここまで物を溜め込んでいることにある種の感銘すら受ける。
「何すかこの汚い部屋。あー、やだやだ」
ゴミ袋をまたぎながら、図々しく中に入り込む。椅子に座る鈴木は少しこちらを見ただけで、とがめる様子はなかった。
冷蔵庫を開けて、目当てのものを確認する。
「コンビニ行くの、めんどいから牛乳分けてください」
「二百円ね」
やっと鈴木が口を開いた。吉村はいかにも不満げなため息をついた。
「ケチだなあ、そんなんだから友達できないんですよ」
だいいち、低脂肪乳で二百円はぼったくり過ぎだ。
不満はあったが、ポケットから硬貨を出して流し台に置く。
「最近、佐藤さんお見舞いに来てくれないんですよね」
「俺のところにも来てないよ」
「だからこんなに部屋が汚いんだ。……忙しいんですかね、佐藤さん」
「単に来たくないだけだと思うな」
吉村の動きが止まった。冷蔵庫を閉めてから、鈴木の顔を見る。いつもながら厭世的だ。
「もしかして、喧嘩でもしたんですか」
「べつに……あっちが勝手に怒ってんだけど」
見る見るうちに、吉村の顔がにやけていった。なんていい気味だ。そして好機だ。
「ふうーん、喧嘩したんすか。そうかそうかあ」
扉を後ろ手に開けながら、わざとらしく言う。
「佐藤さん来ないし、学校行こうかな」
「…………」
呆れたような鈴木を残して、吉村は自室へ帰っていった。
○
柳瀬ファッション専門学校。
佐藤は教室への階段を上っていた。どうも、あまりやる気が出ない。だからといって学校を休むわけにもいかない。沈んだ面持ちのまま一段一段踏みしめていく。
教室のドアを開けた。いつもと同じ風景のはずだ。
しかし、そこにはちょっとしたサプライズがあった。
「おはよう佐藤さん」
「吉村じゃん!」
懐かしい、爽やかな笑顔を浮かべている。机に腰掛け、たくさんの生徒に囲まれていた。佐藤もすぐにその輪に入る。
「何、もう元気になったの?」
「はい、傷も大分わからなくなりましたし」
前髪をあげて、額を指差す。傷跡は薄っすらとなり、それと知らなければわからないほどだった。 「よかったあ」
佐藤は心から言った。女友達が背中を叩く。
「何や、律子のテンション低かったのってもしかして吉村いなかったから?」
「まー、それもちょっとあったかなあ」
周囲から冷やかしの声があがる。そんなものは今の佐藤にはどうでもよかった。だた、吉村が立ち直ってくれたことが嬉しかったのだ。
「はいはい静かにー」
教師が出席簿を叩きながら現れる、いつもの光景。
――吉村も戻ってきたし、狼も出ない。こうやって少しずつ平穏な毎日が再び始まる。それでいい。
学校が終わり、帰宅する佐藤。部屋へ行くために階段を上る。
自室に行くには、どうしても通り過ぎなければならないものがある。
佐藤は、手前の扉を見て、眉をひそめた。学校であった楽しいことが、すべて抜け落ちていく。それを意図的に無視し、部屋に入った。扉を閉める時、わざと大きな音を立てる。
青い縞の入ったワンピースを脱ぎ捨て、上下スウェットになる。椅子に座ると音楽を流した。ロック系の激しい曲だ。これで飴を口に放り込めば環境整備は完璧だ。
しかし心は落ち着かない。
課題を進めようにも、いらないものが瞼の裏をちらちらする。
――それってさ、本当に佐藤さんの夢なの?
描いたばかりのスケッチを破り捨てる。
「余計なお世話なのよ!」
机に突っ伏し、目を閉じる。
佐藤にはわかっていた。鈴木の言うことには一理あるのを。だからこそ腹立たしく感じるのだ。
睫の間から部屋を見る。
壁に貼られた激励の言葉。それからアイドルのポスター。本棚にはファッション雑誌が数多く並べられている。
佐藤は考える。
自分は本当にファッション業界のことが好きなのだろうか。人生をかけて取り組みたいと思っているのだろうか。もしかしたら、自分の夢が見つからないから、姉に理由を押し付けていたのかもしれない。それに、自分が姉を救いたいなどと、優越感もはだはだしい。何様のつもりでいたのだろう。姉の気持ちを考えたことはあったのか。自分はいつもそうだ。他人の気持ちを推し量らず、良いように勝手に決め込んでしまう。
服やアクセサリーのデザインをすることは確かに楽しいが、それは口先だけとも思えた。実際、学校での課題も提出間際にならないと手をつけないし、授業も遅刻する。好き、なんて、言葉だけなら無責任に豪語できる。だが、中身を伴うのは難しい。本当に、金をもらって出来るほどの情熱が自分にあるのだろうか。
わからない。
「あーあ、なんかテンション下がるなあ」
「りっちゃーん」
ぼやいた時、母の呼ぶ声がかすかに聞こえた。音楽を消す。今度ははっきりと「夕飯よー」と聞こえる。佐藤は思考を中断し、一階に降りた。
居間の座卓に並んで座る。佐藤家では夕飯時はテレビを見ながらあれこれと話すのが定石だった。小学校の時の家庭科で、「食事中は家族団欒のためにテレビは消すべき」と習ったが、それには未だに納得が出来ない。いいじゃん、テレビを見ながら団欒したって。
今日はクイズ番組をやっている。適当な答えを言い合いながら、おしらえをつまむ。本日のメニューは山菜の天ぷらとたまごスープ、それから箸休めのおしらえだ。母は料理がうまい。特にハンバーグは絶品で、どんな高級料理店のそれよりも佐藤は母の作るハンバーグを愛していた。
「えー、お父さんたち、家空けるの?」
青じその天ぷらを奥歯でかみながら、不満の声を出す。母は困ったような顔をしていた。
「そうなの。お父さんの古い友人で、とても大事な人が亡くなられてね。ほら、ベビーカステラのおじさん」
「あ、覚えてる。お祭りでいつもおまけしてくれた人でしょ。亡くなったんだ」
「それで、お葬式に行くのに、都外だから二日ぐらい空けると思うから、留守をよろしくね。……お姉ちゃんの面倒、見てあげて」
佐藤の頭を、二つの不穏な影が通り過ぎる。一つは、母の付け足した、姉の存在。彼女にうまく接することができるかどうか、とても不安だった。もう一つは、鈴木の兄――バツ一狼だ。両親がいないという情報を入手すれば、家まで襲撃に来るかもしれない。
だからといって、葬式に出るなとは言えなかった。
「わかった。心配しないで」
佐藤は笑って見せた。
○
ゴミの臭いは、日に日に強くなる。ラーメンや焼きそば、うどんなどの臭いが混ざり、もはや何かわからないほどだ。窓を開けて換気はするが、それも最近では効果が薄い。
今日は朝から雨なので換気すらもできずにいた。限界に近い。
そろそろゴミ捨て場に行かなければならないだろう。
しかし、やる気が出ない。
鈴木次郎は、ベッドに寝転がっていた。ゴッドジュニアの腹を枕にして、焦点の定まらない目を天井に向けている。
前触れもなくコンセントを抜かれたことで、動画のダウンロードを一からやり直さなければならなくなった。
ノートパソコンだけではない。蹴り飛ばされた怪獣たちには、手足の角度が歪んだ者もいる。痛々しくて見ていられなかった。あの時の佐藤の行動に対して、一瞬間、鈴木は殺意すら覚えた。だが、それはすぐに萎縮していった。
――パソコンやフィギュアもショックだけど、佐藤さんに泣かれたこともショックだ。
佐藤は泣かない女だった。
確率として、一年に一回あるかないかの希少イベント。それをあんな形で引き起こしてしまうとは。
佐藤は、不満なとき、頭にきたとき、全身でそれをアピールする。その場で怒って、どなって、相手に訴える。それが終わると、後腐れなく水に流す。実にわかりやすい。
それに比べて、自分のやり方は陰険だと思う。
ムッと来ることがあっても、それを相手に直接言及することはない。ものすごく遠回りな言い方で、相手に精神的負荷を与える。相手にしてみればどうしてこちらが不機嫌なのかわからないだろう。いや、不機嫌なことすらも伝わっていないと思う。だから余計に傷つくのだ。
だがたとえそうだとしても、佐藤の取った行動はあんまりだった。鈴木が命の次に大切にしているパソコンとフィギュアを……。それが何を意味しているのかは彼女もよくわかっているはずだった。
それでも鈴木は怒れなかった。女に泣かれると、どうしても自分が悪いような気分になってしまう。
昔、くだらないことでもすぐに泣く女の子がいた。佐藤が感情が高ぶると怒り出すのに対し、彼女はぼろぼろといつも涙をこぼした。鈴木は彼女の泣き顔が好きだった。しかし、彼女に泣かれるのは嫌だった。
いつまでも色褪せない中学時代最後の記憶が蘇る。
畑道を息を切らして自転車で走った毎日が、今は懐かしい。この校門を突破して、夜な夜な校舎に忍び込むこともなくなるのだろう。
そんな感慨に浸る時間すら悪友は与えてくれなかった。むやみやたらと怒声を放つ。
「ふざけんなよ次郎、聞いてねえぞ! 東京の学校行くだなんて」
次郎はあくまでクールな態度を通す。
「うん、まあ、言ってなかったからね」
一政の手が胸倉を乱暴に掴む。顔がかなり怒っていた。
「お前、兄貴のやったこと気にしてんのか? 俺たちがそのことでお前に何か言ったことあったかよ!」
「べつに、兄さんは関係ないよ。若者なら誰だってあるだろ? 都会の生活に憧れること」
軽く笑ってみせる。今度は突き飛ばされた。体重の軽い次郎は三、四歩後ろによろける。
美樹の姿が目に入った。一政の横で小さくなり、顔を手で覆っている。おかっぱ頭の、垢抜けない少女。しゃくりあげながら搾り出すように訴える。
「高校くらい、地元の学校でいいじゃない……だって、私、私、次郎ちゃんのこと好きだったんだよ?」
「そうだぞ、次郎。美樹ちゃん泣かせるなよ!」
一政が美樹の片棒を担ぐ。
次郎の口元が歪んだ。うまく笑うことが出来ない。
「知ってたよ。でも」
――どうしようもないときだってあるさ。
一政の肩を引っ張って美樹に押し付ける。
「一政は美樹ちゃんのことが好きなんだよな」
「ええ?」
顔から手を離し、心底驚いた顔をする。こういうときの顔が可愛らしい。
「ちょっ……お前、何勝手なこと言ってんだよ」
真っ赤になる一政。こいつはこいつで可愛いのだ。
次郎は二人があたふたしている間に止めてある自転車にまたがった。一政の叫びを無視し、全力で走り去る。
あれからすでに七年が経つ。鈴木の心にはまだ美樹と一政がいた。
――過去の中で生きるのは、そんなにいけないことか?
変わることのない記憶の中に身をおいて、気がついたら浦島太郎のように年を取っていて、そして、死にたい。
鈴木は現在にいながら現在を生きてはいなかった。七年前のあの日、鈴木次郎の人生は終わった。東京の自分は死んでいる。だから、いつ死んでもいい。そんな自棄的な気分のままだらだらと今日まで生きてきた。
しかし、この竜宮城から、地上へ自分を呼び戻そうとするものがある。水面から、おいでおいでと響く声。海亀を一政、乙姫を美樹とするならば、佐藤はどこにいるのだろう。浦島が地上に残した未練だろうか。
――もうそろそろ、潮時だろうか。
鈴木の脳内では中学生姿の幼馴染も、今は立派な大人になっている。いつまでも、過去の記憶にどっぷりと浸かっているわけにはいかないのだろう。
それがどれほど残酷でも、現在を生きなければならない。わかっていた。そんなことはずいぶん前から。
鈴木は、むくりと起き上がった。窓辺に近づき、外を見る。 目に痛いほどに美しい夕日が摩天楼の合間へと沈んでいく。
雨は止んでいた。
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