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インテリジェント・ラヴァーズ

 何よりも研究を愛して、隈が出来ることもいとわず実験をして、出来た薬は自分の体で試さないと気が済まなく、腕には注射針の跡が山ほど残り、母親になることよりも科学者であることを選んで、体を壊しながらそれでも研究が好きで実験が好きで、削った寿命を引き延ばすためにまた薬を打って、僕はいいと言うのに人体実験のあるときは必ず被験者になりたがり、力になりたいと言っては側を離れず研究を手伝い、夜中でもクラインの壷の話が聞きたいと言っては僕に電話をかけてくる、何よりも実験を愛して科学を愛して研究を愛したそんな助手が僕にはいた。

 ――手記。
 十一月二日 

 今日は記念すべき日だ。僕が今まで何年も研究し続け、夢を見続けたものがついに完成したのだ。細胞分裂の最大回数を増加させ、人間の寿命を約三倍にまで延ばす薬品だ。動物実験のほうは何度か繰り返し、後は人間で試すだけである。そのためには被験者の調達が重要だ。こういう場合は浮浪者などに募集をかけるのがセオリーだが、助手が僕にこんなことを言った。
「先生、私を実験台にしてください」
 彼女はいつもこんなことを言う。出来た薬は自分の体で試さなければ気が済まない、本当に研究が好きなのだ。
「しかし君、一応動物実験はしているものの、人間では一度も試していない。おそろしい副作用などが出るかもしれないじゃあないか。あんまり危険なことだよ」
 すると彼女はまた言った。
「良いんです。先生の役に立ちたいんです。これは先生と私が二人で作った薬剤です。私の体を使ってください、お願いします」
 僕は「はあ」と答えて彼女の言葉を承諾した。言葉こそ少なかったが僕は彼女の科学への愛に感動していた。僕は自己表現が苦手だから、本当に嬉しいことや本当に悲しいことがあってもこんな反応しか取れない。これで気持ちが通じたかどうかは大した問題ではないが、彼女は跳んではねて踊って歌って喜んでいた。つまり、彼女は実験が大好きなのだ。


 十一月三日 

 今日、アルジャーノンが助手の指に噛み付いた。アルジャーノンは実験用の白鼠の一匹を、僕が飼いならした僕のペットだ。この名前は僕の好きな小説から拝借した。助手はかごの中に腕を入れたまま「痛い、痛い」と子供のように騒いでいた。
 僕がアルジャーノンを引っ張りはがすと、彼女の指には小さな赤い点が二つできていた。一体どうしてこんな状態になったんだいとアルジャーノンに話しかけると、「私が悪いんです、私がアルジャーノンの尻尾を引っ張ったんです」と返事が聞こえた。答えたのはアルジャーノンではなく助手の彼女であった。僕はアルジャーノンの頭を一撫でしてからかごに戻した。
「だめじゃないか、君。アルジャーノンは僕らの大切な友達なのだからいたずらしたりしては。自分と違うものと仲良く出来ないのは悲しいことだよ」
 そう言ってたしなめると、彼女は体を縮めてごめんなさいとただひたすらに繰り返していた。彼女は研究熱心だけど、その他のところでデリカシーに欠けているのが悪いところだ。


 十一月四日 

 今日は助手と二人で天体観測に行った。夜になって望遠鏡を担いで丘を登ると、星がキラキラキラキラと落ちてきそうなほど輝いていた。そう思った後、星が落ちてきたら隕石になってしまうと思考を直した。ふと後ろを見ると助手が非常に小さくなっていた。望遠鏡を担いでいる僕よりも彼女のほうが歩くのが遅いのはどういうわけか。彼女は実験のせいで体が弱り、いつものらりくらりと歩いているが、今夜はいつも以上に歩くのが遅い。
「今日は空気が澄んでいて空を見るには丁度良い」
 そう言いながら湿り気のある地面に三脚を立て、望遠鏡を上に乗せた。
 彼女がうっとりと恍惚の顔で空を見上げる。研究室以外で彼女がこんなに幸せそうな様子をするのは、天体観測のときだけだ。僕も彼女も天文学者ではないけれど、僕は星を観測するのが趣味で、彼女も夜空を眺めるのが好きなのだから不思議なものだ。彼女は望遠鏡はのぞかず、望遠鏡をのぞく僕の横で星を眺めている。肉眼では綺麗に見えないだろうと僕が言うと、肉眼のほうが星は綺麗だと彼女は言う。僕には及びもつかぬ境地が彼女の頭の中にはあるのだろうと僕は思った。
「今こうしている間にも、この壮大な宇宙は少しずつ少しずつ膨張していっているんですね」
「アインシュタインの相対性理論では、宇宙は有限で膨張はしないことになるから、その解釈は疑問だな」
 彼女の言葉に僕は僕の見解を述べた。宇宙は膨張し続けていると言う考えが現在は主流だが、それは僕の考えとは異なった。彼女の声色が曇った。
「しかし、相対性理論は間違っていたとの意見も見受けますが……」
「確かに。だが」
 僕は望遠鏡のレンズから顔を離した。
「相対性理論は、虚偽で終わらせるにはあまりに美しい」
 アインシュタインの残した名言を引用したわけだが(正確には一般相対性理論だ)、彼女は目を丸くしてわなわなと震えだした。それから僕に向き合ってやけに明るい声でこんなことを言い出した。
「先生、私と相対性理論、どちらが美しいですか」
「相対性理論だよ」
 僕は不思議に切羽詰っている表情をしている彼女に、顔を向けて即座に答えた。
 彼女に何が起こったのか僕は知らないが、彼女は一瞬呆けた顔をして、でもすぐに笑ってはしゃいだ。
「私、先生のその遠慮のないところ、尊敬します」
 遠慮と言うか何と言うか僕は単に心に偽りなくしゃべっただけなのだが、彼女には遠慮なく聞こえたらしい。


 十一月五日 

 

「先生、先生って何型ですか」
 僕が机上でレポートを整理していると、助手が背後から言ってきた。だから僕は「BO型だよ」と答えた。
「そうなんですか、私はAB型なんです」
 何が楽しいのかわからないが彼女の楽しそうな声が耳に聞こえる。彼女は時々突拍子がなくわけのわからないことを口にするので僕にはわけがわからない。僕は今目前の作業が重要で彼女の話を聞くことは二の次であった。
「えっとですね、AB型の配偶子とBO型の配偶子が接合した場合、接合子の遺伝型の割合はAB:BB:AO:BO=二:一:一:二になるんです」
「そうだね」
 そんなことはいちいち説明されなくても知っていたが、無視をするのも忍びないので返事だけする。
「じ、実験しませんか」
「しないよ」
 僕はそう言ってさりげなく彼女に視線を移した。彼女はやけにハイテンションに笑って騒いで明るい声を出した。
「そ、そうですよね。私じゃ無理だわ。……子供、産めないし」
 その通りである。彼女は大量の薬の投与が原因でホルモンバランスが崩れ、生殖機能を失った。生物学的に見れば女であって女ではない。したがって彼女の言うことは無茶苦茶である。わかっていて何故こんなことを言うのか僕は非常に理解に苦しむ。本当に、彼女の大脳は神秘の渦だ。


 十二月十八日 

 しばらく日記を付けていなかった。この一ヶ月、いろいろなことがありすぎて何から書けばよいのか正直なところわからない。とりあえず、これだけは書いておかなければならない。
 僕の助手が死亡した。
 死因ははっきりしているようではっきりしていない。病死、だった。おそらく、一番の原因は僕の開発した延命薬だろう。副作用だ。だが一番の原因はこれだとしても他にもいくらも原因はあるようだ。今まで服用し続けた多くの薬品で彼女の体は多かれ少なかれ長生きできる状況ではなかったらしい。そんなことは僕も勘付いてはいた。しかし研究の続行、薬剤服用は彼女自ら望んでいたことである。大好きな研究に生きて大好きな研究に死ぬことが出来たのだから、きっと彼女も幸せだろう。
 彼女が死んで、その後の対応などでいろいろとここ一ヶ月は忙しかった。彼女の実家に一応連絡はしたが、遺体のほうは引き取らないのでこちらで処理してほしいとのことだった。不仲なうえ十年近く会っていない親子の関係などそんなものかなと勝手な憶測が脳裏をよぎる。
 諸々の処理が終わり、あとは彼女の荷物の処分だけとなった。それで彼女の机の引き出しを開いてみると、実にさまざまなものが飛び出してきた。その中に、彼女の日記帳を見つける。僕が言うのもなんだが、文才のない彼女が日記帳に何を記しているのか純粋な好奇心が湧いてきた。この探究心は科学者の性かと、そうだとすればいかがなものかと思いつつ、その内容をここに記しておく。


――日記。


 はしがき

 エネルギー不滅の法則というものがある。何もないところから新しいものが生まれることはなく、また、存在するものが消えてなくなることはないというものだ。草食動物に食べられた草木は彼らの栄養素となり、彼らが死ねばまた肥料として土に帰る。そこから草木が芽吹く。すべては循環している。輪廻転生がこの世の理念。
 ならば、と思う。人間の感情は何が変換され何に転換されていくのだろう。誰に見られるともない私の思いはどこからどこへと流れていくのか。


 十一月二日 

 今日、先生が夢に夢見た延命薬がついに完成した。感情を表に出さない先生が口元をほころばせている。先生は何よりもご自分の信念を大切にし、何よりも実験を愛して科学を愛して研究を愛している。その姿が私は好きなのだ。でも私は先生には私のことも見てほしいと思ってしまう。でも私が好きなのは研究を愛する先生だ。でも私は。でも私は。でも私は。こうして私はいつも「でも」の無限ループに落ちていく。なんて駄目なやつなんだろう。だから私はせめてもの思いをぶつけて先生の役に立ちたくて先生に言うのだ。
「先生、私を実験台にしてください」
 すると先生はいつも必ずこう返す。
「しかし君、一応動物実験はしているものの、人間では一度も試していない。おそろしい副作用などが出るかもしれないじゃあないか。あんまり危険なことだよ」
 仮にも私を心配してくれているのだと感じられるだけでも嬉しい。でも私は先生の役に立ちたいのだ。どのような形でも良いから先生の特別になりたいのだ。もしも実験のやりすぎか何かでこの体がこの世からなくなったとしても、先生の脳内に少しでもこの残像を焼き付けておきたいのだ。
「いいんです。先生の役に立ちたいんです。これは先生と私が二人で作った薬剤です。私の体を使ってください、お願いします」
 そう言うと先生は「はあ」と言って首をかしげた。先生の「はあ」はイエスを意味する。私は体全部を使って喜びを表現した。先生への思いが伝えられないけど伝えたくて伝えるために伝わらないように私は跳んではねて踊って歌って喜んでいた。


 十一月三日 

 先生はアルジャーノンという鼠を飼っている。白くて小さいくせに異常なくらいに大きな目をしていて、食べるか寝るか走るかしかしない。アルジャーノンは実験鼠ではない。何もしていないのに餌を与えられ、何もしていないのに先生の手のひらの上で撫でてもらっている。私は科学という一つの共通点を持つことでぎりぎり先生との関係を保っているが、アルジャーノンは何の接点も持たないくせに先生の愛情を受けている。つまり私はこの白鼠にすら劣るのだ。
 ちょろちょろとかごの中を走る鼠を見ていると、心の底に怒りが生まれてきた。
「この」
 かごに手を突っ込み、アルジャーノンの尻尾を掴んだ。そしてそのまま宙吊りにする。鼠ごときにこんなことしている自分が情けないが、私は宙を踊るアルジャーノンを見ながら微笑んでいた。
「この、生意気なんだよ鼠のくせに。この、この」
 もう片方の手の指で腹をつついてやる。これは動物虐待なのだろうか。でも人間だって気に入らないやつがいれば絞めたりするのだ、私は鼠と人間を差別しない。
 調子に乗ってつついていると、アルジャーノンに指を噛まれてしまった。先生がやってきてアルジャーノンを取り上げた。
「だめじゃないか、君。アルジャーノンは僕らの大切な友達なのだからいたずらしたりしては。自分と違うものと仲良く出来ないのは悲しいことだよ」
 先生に叱られた。私は悲しくなって体を丸めて「ごめんなさい」と繰り返した。先生、これは信じてください。私はアルジャーノンが鼠だからいたずらしたんじゃないんです。人間だとしてもきっと同じことをしました。
 最近、以前にも増して体がだるい。新薬の服用や注射の影響で、二十四時間だるいはだるいのだが、今日なんて骨が軋む音が聞こえそうなくらいだ。ベッドに入って早く寝よう。


 十一月四日 

 今日は先生と二人で天体観測に行った。先生が夜の丘を望遠鏡を担いで登る。私がその後を追いかける。いけない。肺が酸素を供給する速度に私の耐久能力が追いついていない。先生がどんどん離れていく。足腰が痛い。前はこんなことはなかったのに。延命薬を飲んだけれど、私は日に日に衰えている気がしてならない。でもそんなことはないはず。先生の理論は完璧だった。
 空では星々が白い光を放っている。白い光。星は人の命によくたとえられる。確かに、この悲しく光る淡い白は綺麗だけど魂のようにどこか空虚だ。こんなにすぐ近くに光が見えるのに、私たちは同じ次元にすら存在できない。
 先生は望遠鏡を使うけれど、私は肉眼で星を見る。星は、一つ一つを分析するより、全体像を眺めたほうが美しいのだ。こんなときくらいは、科学からは離れたかった。
「今こうしている間にも、この壮大な宇宙は少しずつ少しずつ膨張していっているんですね」
「アインシュタインの相対性理論では、宇宙は有限で膨張はしないことになるから、その解釈は疑問だな」
 アインシュタインは確かに最初の頃、宇宙は有限だと主張していたが、途中でその考えを改めたはずだ。しかし、相対性理論ではやはり宇宙が膨張することはないらしい。
「しかし、相対性理論は間違っていたとの意見も見受けますが……」
「確かに。だが」
 先生は望遠鏡のレンズから顔を離した。
「相対性理論は、虚偽で終わらせるにはあまりに美しい」
 なるほど、相対性理論は美しい。先生は本当に科学のことが好きなのだ。答えを予想しつつ、それでも先生の口から言葉が聞きたくて、私は聞いた。
「先生、私と相対性理論、どちらが美しいですか」
「相対性理論だよ」
 即答。わき目も振らず即答。さすがは先生。先生ならそう答えると思っていました。私は泣きそうになりながらそれでも笑った。
「私、先生のその遠慮のないところ、尊敬します」
 ああ、しかし先生。少しだけわがままを聞いてくれれば、もう一つの選択肢を選んでくれれば私はとても嬉しいです。


 十一月五日 

「先生、先生って何型ですか」
 私は今日、この一言にすべてをかけた。
 机でレポートを整理している先生は振り向きもしないまま「BO型だよ」と答えた。ここで「O」もつけるところが先生らしい。
「そうなんですか、私はAB型なんです」
 うわずる声をごまかすために大げさにはしゃぎながら私は続けた。やっぱり先生は振り向かない。私のことなど眼中にもないかのようだった。
「えっとですね、AB型の配偶子とBO型の配偶子が接合した場合、接合子の遺伝型の割合はAB:BB:AO:BO=二:一:一:二になるんです」
「そうだね」
 背を向ける先生に背を向けて私はどもりながら、言った。
「じ、実験しませんか」
「しないよ」
 即答。わき目も振らず即答。さすがは先生。私の言った言葉の意味をわかっていたのかすらわからない。でも先生はそういう人だ。そういう人だから私は先生が好きなのだ。
「そ、そうですよね。私じゃ無理だわ。……子供、産めないし」
 言ってから俯くとあやうく涙腺から涙がこぼれそうになる。でも私は泣かない。泣く女は嫌いだ。脳の構造として男性より女性のほうが泣きやすいから女は泣いても良いと言う奴もいる。だが私は、脳の構造を言い訳に涙をこらえない女が嫌いなのだ。同じ理由ですぐに怒鳴る男も嫌いだ。私は理性的な人間でいたいのだ。だから人前では絶対に泣かない。
 泣かない。
 体が鉛のように重い。今こうしてペンを動かしているのも辛い。おそらく、私はもう長くは生きられないだろう。
 ごめんなさい、先生。先生の理論は完璧でした。私が死ぬのは先生の薬に問題があったからではありません。私が不甲斐なかったからです。先生の研究に最後までご一緒できなかったことがただひたすらに残念です。ごめんなさい。
 今日はこの辺でペンを置いて、痛み止めの薬を打ってすぐに寝よう。いつものように。


 この次はない。彼女は十一月六日に死亡したのだ。
 僕は彼女は何よりも実験を愛して科学を愛して研究を愛していたのだと思っていたのに、彼女が何よりも愛していたのは実験でも科学でも研究でもなかったらしい。
「馬鹿だなあ、馬鹿だなあ」
 誰のことを言っているのか自分でも理解しないまま僕は呟いていた。日記帳を机に置くと、何枚かのレポート用紙が宙を舞い、そしてまた引力に引かれ落ちていく。
 どうしてこんなにも世の中は不条理で非合理で理不尽でうまくいかないものなのだろうと木切れをかじるアルジャーノンを見ながら僕は思った。 

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